こぢんまりした社殿をすり抜けて奥へ進むと、大きな大きな楠がある。この先には石段はなく、長年、ひとに踏み固められてできた、細い道があるだけ。ところどころ張り出した木の根っこにつまずかないように、ゆっくり下っていくと、ふいに木々が途切れて水の音が近づく。
小さな池だ。
かすかな星明かりの下でも、池の水が澄んでいることはわかる。湧き出した水が土をけずって細い川になり、ちょろちょろと流れ出している。そのそばには、水神さまを祀る小さな社。
三人並んで、柏手を打ってお参りすると、することがなくなってしまった。午前零時を待つだけ、だ。
ポシェットからスマホを出して時間を確認する。二十三時五十七分。
液晶画面の放つ青白い光が、なんだかこの雰囲気に似つかわしくないような気がして、すぐにしまった。
私のとなりには苑子。そのとなりには、ハル。苑子をサンドイッチするようなかたちで、身を寄せ合ってそのときを待っている。
誰も、何もしゃべらない。もう、薄闇にも目が慣れている。清水の流れる音、泉を抱くような森、かみさまの社。噂なんか信じてなかったはずなのに、いつの間にか、本当に「あっちの世界」から何かがやってきても不思議じゃないような気がしていた。
雰囲気に、飲まれていたのだ。
ハルも、苑子も、そうなんだろう。つないだままの苑子の手は、汗でしっとりと湿っている。互いの息遣いだけが、この、かみさまの泉のほとりで、響いている。
ぬるい風が吹く ざあっと、神社の森の木々が、一斉に梢を揺らした。
静寂が、破られた。
きっと、もう、三分経ったのだ。いま、ちょうど、午前零時なのだ。確認したくても、スマホをもう一度取り出す気にはならなかった。ただ、かたずを飲んで、さざなみの立つ水面を見つめている。
あの波紋(はもん)の真ん中から、きっと。会いたいひとが、現れる。私たち三人は、確信していた。もうすっかり、信じ切っていた。
だけど。すぐに波は消え、もとの、鏡のようなつるりとした水面に戻ってしまった。
「もう一度願ったら、風が吹くかもしれない」
ハルがつぶやいた。三人、目を閉じて祈る。
単なる好奇心でここまで来た。弟に会いたいという、苑子自身の思いさえも、きっと、もっと、雲のようにふんわりしたものでしかなかったと思う。
なのに、気づいたら、必死で願っていた。ドキドキしていた。
そっと目を開ける。どれくらい時間が過ぎたのだろう。
感覚がない。わからない。だけど、何も現れないし、何も聞こえないし、何の気配も感じない。
となりにいる苑子は、まっすぐに水面を見つめ続けている。ハルに視線をやれば、あきらめたように、首を横に振った。
目が覚めた。どうかしていた。いくら何でも、死者を呼び出せるわけがない。
すうっと、熱が引いていく。
「苑子。苑子、帰ろう」
ささやくと、苑子は、我に返ったように、びくっとからだを震わせた。
「帰ろう。悪いけど、うちの母さん、相当怒ってる」
ハルがスマホを掲げてみせた。
「めっちゃメッセージ来てる。近くにいるから大丈夫だって返信したんだけどさ」
「電話しなよ」
「ん。おまえらも早く帰らないとやばいな」
「うちはみんな爆睡してるからばれてないと思うけど」
私とハルがぶつぶつ言い合っているそばで、苑子は、ひと言も発せず、惚けたような顔をしている。
「苑子ー。苑子、帰るよ」
残念だったけど、と、いたわるように彼女の肩を叩いたら、苑子はゆっくりと首を横に振って、つぶやくように、言った。
「ほたるが、飛んでた」
「え?」
まさか。いくら初夏のような陽気が続いていたとはいえ、まだ四月だ。いくらなんでも、ほたるがいるわけがない。
「本当だよ。ほら」
苑子が指差す方、池の脇の茂みに目を凝らす。
「あっ」
ハルが声を上げた。あっ、と、私の口からも、まぬけな声が漏れ出る。
光がある。青白い、かぼそい光が、ゆっくりと瞬いている。
ほたるの光は、点滅しながらふわりと飛び上がった。ゆらゆらと水面の方へ。
「一匹だけ……?」
苑子のつぶやきに反応したかのように、池のほとりに、光の粒が現れた。
ふたつ、みっつ……、たくさん、いる。無数のほたるが、ふわふわと飛び交いながら水面を照らす。苑子の瞳にもその光は映って、ふっと消えて、またともる。
星のように。ゆっくりと瞬く青白い光。
信じられない。
言葉も忘れて見入っていた。美しかった。ほたるたちも、……苑子も。
やがて苑子が、「帰ろう」と静かに言って。私とハルは、うなずいた。
結局。苑子の弟の魂が戻ってきたのかどうかは、あやふやなままだ。
ただ、飛び交うほたるの光の残像がいつまでも消えない。
木々に囲まれた、道なき道を上っていく。ハルが先頭に立って、懐中電灯で帰り道を照らす。ハルの背中が目の前にある。私は、真ん中。苑子の手を引きながら進む。
「会いたかったっていうか。知りたかったの。教えてほしかったんだ」
苑子がおもむろにつぶやく。
「私の弟、今、どこにいるのって。そもそも、どこから来たの、って。ふたごだったってことは、同じ場所からやってきたんだと思うの、私たちは」
「俺も考えるよ、そういうこと。死んだらどうなるんだろうって考えたら怖くなって。絶対終わるし、俺って存在。俺が消えたら世界も消えるのかな、とか。だけど俺が生まれる前にも世界はあって。宇宙はあって。でも、そもそも宇宙の始まる前は無だって言うじゃん。それって何なんだ、って。どんどん、わかんねーことが、広がってくの」
ハルはいつもより妙におしゃべりだ。後ろを振り返らず、ずんずんと進みながら、うまく言えねー、わかる? この感じ、と、じれったそうに言う。
わかるよと苑子が答えた。
考えても考えても、答えの出ないこと。なのに、とらわれてしまう。
神社まで戻ってきた。大きな楠の梢が揺れる。ちっぽけな私たちのことを笑っているみたいだ。三人、立ち止まって、夜風に吹かれる。
「ハルくんも、果歩ちゃんも。何も感じなかった?」
ふいに、苑子がつぶやく。
「何、を?」
「ほたるの声。聞こえなかった?」
私とハルは顔を見合わせた。
急に不安になって。心もとなくなって、苑子の腕をつかむ。苑子は笑った。
「ごめん。何でもない。私も、何も聞こえなかったよ」
急ごう。明日も学校だしね。と、苑子はことさらに明るい声を出す。それがやけに引っ掛かった。
だけど、私もハルも、それ以上追及することはしなかった。