始業式から一週間が過ぎた。
部活に入っていない私と苑子は、放課後はだらだらとつるんで、持て余した時間を無為に過ごしていた。
新しいクラスメイト、新しい担任、新しい教室に、まだなじめずに足もとがふわふわ落ち着かなくて、ふたりして、ぬるい春の空気の中を漂っている。
オガワのベンチにも、団地の敷地内のベンチにも先客がいたから、私の家でまったり過ごすことになった。
うちは両親共働きで私は鍵っ子だから、早く帰宅したところで誰もいない。いっぽう苑子のお母さんは専業主婦。当然ながら、大人のいないフリーダムな我が家に集うことになる。
ごちゃごちゃとモノが多くてあか抜けない家で恥ずかしいけど。
同じ間取り、同じ広さなのに、苑子の家もハルの家もまったく雰囲気が違うから不思議な気持ちになる。
苑子の家は、お母さんのセンスがよくておしゃれ。ハルの家はモノが少なくてさっぱりしているけど、ベランダには花や緑があふれていて落ち着く。どちらも、うちとは大違い。
狭いリビングの、合皮のソファに座って、買い込んできたお菓子とジュースをローテーブルにどさどさと置いた。
早速、ソーダをグラスに注いで、ポテトチップの袋を開ける。テレビをつけると、二年ぐらい前にそこそこヒットしたドラマの再放送が流れていた。
「ていうかさ。お金のないフリーターが、こんなに広くておしゃれな部屋に住んでるのって、おかしくない?」
私が文句を言うと、苑子は、こくこくとうなずいた。
「私も思った。絶対家賃高いよね、東京だし。服も、かわいいの着てるしね」
自分だっていつもかわいいの着てるじゃん、と思ったけど、言わなかった。そもそも苑子自身がかわいいから、何だって素敵に着こなせるのだ。私と違って。
思わず、ため息をついてしまいそうになったけど、ぐっと押し込めて、
「いいなーいいなー。こんなベッドほしいなー」
と、私は、ことさら明るい声を上げた。
ドラマの主人公が、帰宅するなり、ベッドにぼふんと倒れ込んだのだ。バイト先の気になる彼にいきなり抱きしめられて、反発しながらもキュンとしていて、振り切って家に帰って、戸惑いながらシーツをぎゅっと握りしめる、みたいなシーン。
イケメンな彼より、ときめきより、何より私は、あのベッドが羨ましい。真っ白い清潔そうなシーツに、はずむスプリングに、ふかふかの肌掛け。
私はふたつ上のお姉ちゃんと、六畳の和室を一緒に使っている。ベッドを置くスペースなんてあるはずもなく、押し入れからしなびた布団を出して敷いて寝ている。
自分だけの部屋、欲しい。自分のベッド、欲しい。
苑子はぼうっとテレビ画面を見つめている。場面はとうに変わっている。主人公がイケメンに迫られて、ふたりの顔がだんだん近づいて、そして……。
となりに座っている苑子の喉が、こくりと音を立てた。
「わー……。はげしー……」
濃厚なキスシーンを、どうにも直視できない。こういうとき、どんなリアクションをとればいいんだろう。茶化すこともできずに、私は、うわー、と顔をわざとらしくしかめてみせたけど、苑子はずっと画面に見入ったままだ。
何だか、気まずい。
CMになった。苑子はグラスのサイダーをひと口、飲んだ。
「苑子、熱でもあるの? なんか、顔、赤いよ」
私が苑子の顔をのぞき込むと、ううん全然平気、と彼女は少し困ったような顔をして笑う。そして、その笑みもすぐに消えた。立ち昇るサイダーの泡を見つめる苑子の、長い髪がはらりと揺れる。苑子は、白くて細い指で、その髪をすくって、耳にかける。
どうしたんだろう、苑子、何だか、とても……。
「ねえ。果歩ちゃん」
ふいに苑子がつぶやいた。
「何?」
「果歩ちゃんは、好きなひとって、いないの?」
「え?」
いきなりの問いに、私は固まった。
考えたこともない。ドラマや漫画の中の「恋愛」は、私にとって、別の世界の出来事。苑子だって、そうだと思っていた。クラスの女子たちは恋の話でキャーキャー盛り上がっているけど、私と苑子は一度だってその輪の中に加わったことはない。
「果歩ちゃん、へんだよ。好きなひといないなんて」
よく言われるけど、そうかなー、なんて言ってへらりと笑って調子を合わせながら、内心では、「ほっといてよ、余計なお世話だし」と毒づいていた。
苑子だって。
決して目立つ方じゃないけれど、苑子はかわいい顔をしている。華奢で色白で、道ばたでけなげに咲いているすみれの花みたいだ。苑子の可憐さに気づいている男子はけっこういるってこと、私は知ってる。親友の私に探りを入れてくるやつ、多いから。
だけど苑子は男子が苦手。小さいころ、団地の男の子にいじわるをされていたから。好きな子をわざといじめる、っていうやつ。私とハルがいつも追い払ってた。
くだらない、あいつら苑子ちゃんのこと好きなんだよ、って言って、泣いている苑子を慰めていたけど、苑子本人にはそんなこと関係ない。そりゃそうだ、ことあるごとにからかわれたり、髪を引っ張られたり、それがたとえ「好き」の裏返しだとしても、ひどいことをされれば単純に傷つく。そしてその傷は、ずっと残っている。
だから、まさか、苑子の口から「好きなひと」なんて単語が飛び出してくるなんて想定外すぎて。
CMが終わった。テレビから、甘い、切ないメロディが流れ出す。ドラマの主題歌だ。もうエンディングなんだろう。
苑子の横顔を、そっと盗み見た。
苑子には、いるんだ。私は、そう、確信した。
すみれの花が、におうように、綺麗だったから。とても。
部活に入っていない私と苑子は、放課後はだらだらとつるんで、持て余した時間を無為に過ごしていた。
新しいクラスメイト、新しい担任、新しい教室に、まだなじめずに足もとがふわふわ落ち着かなくて、ふたりして、ぬるい春の空気の中を漂っている。
オガワのベンチにも、団地の敷地内のベンチにも先客がいたから、私の家でまったり過ごすことになった。
うちは両親共働きで私は鍵っ子だから、早く帰宅したところで誰もいない。いっぽう苑子のお母さんは専業主婦。当然ながら、大人のいないフリーダムな我が家に集うことになる。
ごちゃごちゃとモノが多くてあか抜けない家で恥ずかしいけど。
同じ間取り、同じ広さなのに、苑子の家もハルの家もまったく雰囲気が違うから不思議な気持ちになる。
苑子の家は、お母さんのセンスがよくておしゃれ。ハルの家はモノが少なくてさっぱりしているけど、ベランダには花や緑があふれていて落ち着く。どちらも、うちとは大違い。
狭いリビングの、合皮のソファに座って、買い込んできたお菓子とジュースをローテーブルにどさどさと置いた。
早速、ソーダをグラスに注いで、ポテトチップの袋を開ける。テレビをつけると、二年ぐらい前にそこそこヒットしたドラマの再放送が流れていた。
「ていうかさ。お金のないフリーターが、こんなに広くておしゃれな部屋に住んでるのって、おかしくない?」
私が文句を言うと、苑子は、こくこくとうなずいた。
「私も思った。絶対家賃高いよね、東京だし。服も、かわいいの着てるしね」
自分だっていつもかわいいの着てるじゃん、と思ったけど、言わなかった。そもそも苑子自身がかわいいから、何だって素敵に着こなせるのだ。私と違って。
思わず、ため息をついてしまいそうになったけど、ぐっと押し込めて、
「いいなーいいなー。こんなベッドほしいなー」
と、私は、ことさら明るい声を上げた。
ドラマの主人公が、帰宅するなり、ベッドにぼふんと倒れ込んだのだ。バイト先の気になる彼にいきなり抱きしめられて、反発しながらもキュンとしていて、振り切って家に帰って、戸惑いながらシーツをぎゅっと握りしめる、みたいなシーン。
イケメンな彼より、ときめきより、何より私は、あのベッドが羨ましい。真っ白い清潔そうなシーツに、はずむスプリングに、ふかふかの肌掛け。
私はふたつ上のお姉ちゃんと、六畳の和室を一緒に使っている。ベッドを置くスペースなんてあるはずもなく、押し入れからしなびた布団を出して敷いて寝ている。
自分だけの部屋、欲しい。自分のベッド、欲しい。
苑子はぼうっとテレビ画面を見つめている。場面はとうに変わっている。主人公がイケメンに迫られて、ふたりの顔がだんだん近づいて、そして……。
となりに座っている苑子の喉が、こくりと音を立てた。
「わー……。はげしー……」
濃厚なキスシーンを、どうにも直視できない。こういうとき、どんなリアクションをとればいいんだろう。茶化すこともできずに、私は、うわー、と顔をわざとらしくしかめてみせたけど、苑子はずっと画面に見入ったままだ。
何だか、気まずい。
CMになった。苑子はグラスのサイダーをひと口、飲んだ。
「苑子、熱でもあるの? なんか、顔、赤いよ」
私が苑子の顔をのぞき込むと、ううん全然平気、と彼女は少し困ったような顔をして笑う。そして、その笑みもすぐに消えた。立ち昇るサイダーの泡を見つめる苑子の、長い髪がはらりと揺れる。苑子は、白くて細い指で、その髪をすくって、耳にかける。
どうしたんだろう、苑子、何だか、とても……。
「ねえ。果歩ちゃん」
ふいに苑子がつぶやいた。
「何?」
「果歩ちゃんは、好きなひとって、いないの?」
「え?」
いきなりの問いに、私は固まった。
考えたこともない。ドラマや漫画の中の「恋愛」は、私にとって、別の世界の出来事。苑子だって、そうだと思っていた。クラスの女子たちは恋の話でキャーキャー盛り上がっているけど、私と苑子は一度だってその輪の中に加わったことはない。
「果歩ちゃん、へんだよ。好きなひといないなんて」
よく言われるけど、そうかなー、なんて言ってへらりと笑って調子を合わせながら、内心では、「ほっといてよ、余計なお世話だし」と毒づいていた。
苑子だって。
決して目立つ方じゃないけれど、苑子はかわいい顔をしている。華奢で色白で、道ばたでけなげに咲いているすみれの花みたいだ。苑子の可憐さに気づいている男子はけっこういるってこと、私は知ってる。親友の私に探りを入れてくるやつ、多いから。
だけど苑子は男子が苦手。小さいころ、団地の男の子にいじわるをされていたから。好きな子をわざといじめる、っていうやつ。私とハルがいつも追い払ってた。
くだらない、あいつら苑子ちゃんのこと好きなんだよ、って言って、泣いている苑子を慰めていたけど、苑子本人にはそんなこと関係ない。そりゃそうだ、ことあるごとにからかわれたり、髪を引っ張られたり、それがたとえ「好き」の裏返しだとしても、ひどいことをされれば単純に傷つく。そしてその傷は、ずっと残っている。
だから、まさか、苑子の口から「好きなひと」なんて単語が飛び出してくるなんて想定外すぎて。
CMが終わった。テレビから、甘い、切ないメロディが流れ出す。ドラマの主題歌だ。もうエンディングなんだろう。
苑子の横顔を、そっと盗み見た。
苑子には、いるんだ。私は、そう、確信した。
すみれの花が、におうように、綺麗だったから。とても。