また、あの夢を見た。
頭が鈍く痛む。ゆらりと洗面所へ向かい、蛇口をひねる。勢いよく流れる水は、冷たい。昨日の朝より、冷たい気がする。空気も。薄い肌掛けだけだと、寒いぐらいだ。
顔を洗う。何度も。洗って、ふかふかのタオルで包み込むようにして水を拭き取る。柔軟剤の香りを吸い込んで、顔を上げると。十七歳の私が、鏡に映った。
大きくもなく小さくもない、奥二重の目。太すぎず細すぎず、なだらかなアーチを描く眉。平凡で、ありふれた顔。
お、は、よ、う。
ゆっくりと、大きく、口を動かす。おはよう、私。
また、朝が来た。私にはきちんと朝が来る。陽は昇り、私の時は進む。
目の奥で、まだ、夢の残像――鮮やかな青が、チカチカまたたいている。
歯を磨き、髪をとかす。ようやく肩に届くぐらいの、ストレートのセミロング。一度だって染めたことはないのに、色素がうすいのか、陽に透かすと茶色っぽく見える。
いったん自室に戻って制服を着て、ダイニングでトーストとインスタントのスープだけの朝食をとっていると、皿の横に、サラダの小鉢とカフェオレのマグが、とん、と置かれた。
「誕生日おめでと」
母が、にっと笑った。ん、と私が短く答えるのを確認すると、母は自分のバッグをつかんで慌ただしく出ていった。父はとっくに出勤している。県外の大学に進学した姉は、卒業と同時に家を出てひとり暮らしをしている。
冷凍食品のミニカップをレンジに放り込む。弁当箱にごはんを適当に詰め、空いたスペースに母が用意してくれていた卵焼きとウインナー、レンジから取り出した冷食を詰めた。
さっと食器をすすいで水に漬け、包んだ弁当箱をスクバに入れる。身支度をして、家を出る。空気はさらりと澄んで、ハッカ飴のようにすうっと涼しい。
今日から、十月だ。
団地の駐輪場に行くと、ハルがいた。自分の自転車のそばにかがみ込んでいる。何か落としたのだろうか。
「……おはよ」
丸まったハルの背中の後ろから、ぼそりとつぶやくと、ハルはゆっくりと立ち上がって私を見下ろした。スポーツもしないくせに無駄に背が高い。昔は私より少し高いぐらいだったのに、あっという間にぐんぐん伸びて、今では、となりで見上げていると首が痛くなってしまうほどだ。
ハルにも、時は流れている。細胞は日々分裂して、骨も伸びていく。
高校のブレザーに身を包んだ、すらりとした後ろ姿を見るたびに、私は、少し寂しいような、心もとない気持ちになる。小さいころから知っているハルが消えて、かわりに誰か知らない男のひとが現れたような、そんな錯覚を覚えて。
だけどハルは、振り返って私に気づくと、いつだって、昔と同じ、いたずらっぽい笑顔で、「何だよ、果歩」と言うのだ。
今だって。ハルは、ふわりとやわらかい笑みを浮かべた。
「おはよ、果歩」
私に挨拶を返すと、ハルは、ブレザーのポケットから伸びたイヤホンを耳に挿した。ポケットに手をつっ込んだときに小銭の擦れる音がした。さっき拾っていたのはこれだろう。
ハルはもともとすっきりした顔立ちで、ひそかに人気があったのだけど、背が伸びて幼さが消えたことでますます女子の目を引くようになった。だけど、小銭をポケットに入れっぱなしにする子どもみたいな癖は相変わらずだ。
私はハルのイヤホンを引っ張った。
「チャリ運転しながら聴くのやめなよ。危ないから。もし……」
もし、の続きを。私は飲み込んだ。
ハルは一瞬息を飲んで、そして、黙って、もう片方のイヤホンも耳から抜いた。
私たち。きっと、同じことを連想していた。
私は黙って自分の自転車に荷物を載せた。かたん、と、スタンドを跳ね起こす。
市の中心部にある高校へは、自転車で通っている。そこそこの進学校だ。できるだけ団地から近い、普通科のある公立高校を選んで受験した。私大へ行った姉の学費と仕送りで両親はいっぱいいっぱいだから、授業料も交通費も安く抑えたかった。
ハルも似たような理由でうちの高校を受け、入学し、クラスまで同じだ。二年になって文理別になったから、同じ理系で成績も近い私とハルが同じクラスになるのは、自然なことではある。
私はハルを置いて、先に自転車を漕ぎ出した。のに、
「果歩」
後ろからハルの声が追いかけてくる。私はキュッとブレーキを掛けた。ハルはすぐに追いついて私のとなりに並んだ。
「何?」
「いや。その……、今日から十月だろ?」
「うん。そうだけど」
「果歩、誕生日だったなって」
……覚えて、いたんだ。
「おめでと」
どういう顔をしていいのかわからなくて、私は固まった。
ちゃんと喜んでいいんだよと、三年前の秋に、千尋さん――ハルのお母さんに、言われた。苑子ちゃんが亡くなってしまったのは悲しいことだし、どうしようもないことだけど、晴海や果歩ちゃんは、これからも、楽しいことは楽しむべきだし、おめでたいことは祝うべきなんだ、と。それとこれとは別なんだよ、と。
「果歩」
ハルがハンドルから手を放して、私の腕をぽんと叩く。とたんに、催眠術が解けるみたいに、すっと、私のからだの強張りが消えた。
「……ん。ありがとう」
素直にそう答えると、ハルはほっとしたように笑って、
「じゃ、また。教室でな」
と、ふたたび自転車を漕ぎ出した。その姿が見えなくなってから、ようやっと、私も自転車のペダルを踏む。
団地の敷地を出て、ブレーキレバーを握りしめながら、細い坂道を下っていく。
すこんと青い空に、うすくひつじ雲が広がっている。流れゆく景色の中、ほのかに、金木犀の甘い香りが混じっていた。
頭が鈍く痛む。ゆらりと洗面所へ向かい、蛇口をひねる。勢いよく流れる水は、冷たい。昨日の朝より、冷たい気がする。空気も。薄い肌掛けだけだと、寒いぐらいだ。
顔を洗う。何度も。洗って、ふかふかのタオルで包み込むようにして水を拭き取る。柔軟剤の香りを吸い込んで、顔を上げると。十七歳の私が、鏡に映った。
大きくもなく小さくもない、奥二重の目。太すぎず細すぎず、なだらかなアーチを描く眉。平凡で、ありふれた顔。
お、は、よ、う。
ゆっくりと、大きく、口を動かす。おはよう、私。
また、朝が来た。私にはきちんと朝が来る。陽は昇り、私の時は進む。
目の奥で、まだ、夢の残像――鮮やかな青が、チカチカまたたいている。
歯を磨き、髪をとかす。ようやく肩に届くぐらいの、ストレートのセミロング。一度だって染めたことはないのに、色素がうすいのか、陽に透かすと茶色っぽく見える。
いったん自室に戻って制服を着て、ダイニングでトーストとインスタントのスープだけの朝食をとっていると、皿の横に、サラダの小鉢とカフェオレのマグが、とん、と置かれた。
「誕生日おめでと」
母が、にっと笑った。ん、と私が短く答えるのを確認すると、母は自分のバッグをつかんで慌ただしく出ていった。父はとっくに出勤している。県外の大学に進学した姉は、卒業と同時に家を出てひとり暮らしをしている。
冷凍食品のミニカップをレンジに放り込む。弁当箱にごはんを適当に詰め、空いたスペースに母が用意してくれていた卵焼きとウインナー、レンジから取り出した冷食を詰めた。
さっと食器をすすいで水に漬け、包んだ弁当箱をスクバに入れる。身支度をして、家を出る。空気はさらりと澄んで、ハッカ飴のようにすうっと涼しい。
今日から、十月だ。
団地の駐輪場に行くと、ハルがいた。自分の自転車のそばにかがみ込んでいる。何か落としたのだろうか。
「……おはよ」
丸まったハルの背中の後ろから、ぼそりとつぶやくと、ハルはゆっくりと立ち上がって私を見下ろした。スポーツもしないくせに無駄に背が高い。昔は私より少し高いぐらいだったのに、あっという間にぐんぐん伸びて、今では、となりで見上げていると首が痛くなってしまうほどだ。
ハルにも、時は流れている。細胞は日々分裂して、骨も伸びていく。
高校のブレザーに身を包んだ、すらりとした後ろ姿を見るたびに、私は、少し寂しいような、心もとない気持ちになる。小さいころから知っているハルが消えて、かわりに誰か知らない男のひとが現れたような、そんな錯覚を覚えて。
だけどハルは、振り返って私に気づくと、いつだって、昔と同じ、いたずらっぽい笑顔で、「何だよ、果歩」と言うのだ。
今だって。ハルは、ふわりとやわらかい笑みを浮かべた。
「おはよ、果歩」
私に挨拶を返すと、ハルは、ブレザーのポケットから伸びたイヤホンを耳に挿した。ポケットに手をつっ込んだときに小銭の擦れる音がした。さっき拾っていたのはこれだろう。
ハルはもともとすっきりした顔立ちで、ひそかに人気があったのだけど、背が伸びて幼さが消えたことでますます女子の目を引くようになった。だけど、小銭をポケットに入れっぱなしにする子どもみたいな癖は相変わらずだ。
私はハルのイヤホンを引っ張った。
「チャリ運転しながら聴くのやめなよ。危ないから。もし……」
もし、の続きを。私は飲み込んだ。
ハルは一瞬息を飲んで、そして、黙って、もう片方のイヤホンも耳から抜いた。
私たち。きっと、同じことを連想していた。
私は黙って自分の自転車に荷物を載せた。かたん、と、スタンドを跳ね起こす。
市の中心部にある高校へは、自転車で通っている。そこそこの進学校だ。できるだけ団地から近い、普通科のある公立高校を選んで受験した。私大へ行った姉の学費と仕送りで両親はいっぱいいっぱいだから、授業料も交通費も安く抑えたかった。
ハルも似たような理由でうちの高校を受け、入学し、クラスまで同じだ。二年になって文理別になったから、同じ理系で成績も近い私とハルが同じクラスになるのは、自然なことではある。
私はハルを置いて、先に自転車を漕ぎ出した。のに、
「果歩」
後ろからハルの声が追いかけてくる。私はキュッとブレーキを掛けた。ハルはすぐに追いついて私のとなりに並んだ。
「何?」
「いや。その……、今日から十月だろ?」
「うん。そうだけど」
「果歩、誕生日だったなって」
……覚えて、いたんだ。
「おめでと」
どういう顔をしていいのかわからなくて、私は固まった。
ちゃんと喜んでいいんだよと、三年前の秋に、千尋さん――ハルのお母さんに、言われた。苑子ちゃんが亡くなってしまったのは悲しいことだし、どうしようもないことだけど、晴海や果歩ちゃんは、これからも、楽しいことは楽しむべきだし、おめでたいことは祝うべきなんだ、と。それとこれとは別なんだよ、と。
「果歩」
ハルがハンドルから手を放して、私の腕をぽんと叩く。とたんに、催眠術が解けるみたいに、すっと、私のからだの強張りが消えた。
「……ん。ありがとう」
素直にそう答えると、ハルはほっとしたように笑って、
「じゃ、また。教室でな」
と、ふたたび自転車を漕ぎ出した。その姿が見えなくなってから、ようやっと、私も自転車のペダルを踏む。
団地の敷地を出て、ブレーキレバーを握りしめながら、細い坂道を下っていく。
すこんと青い空に、うすくひつじ雲が広がっている。流れゆく景色の中、ほのかに、金木犀の甘い香りが混じっていた。