見えない水の粒子が空気中に充満していて。じっとりと蒸し暑くて、息がしづらくて、苦しかった。
 十三歳の、六月。

「今日、新月だね」
 苑子がつぶやいて、我に返る。お昼休みの教室、私たちは、五時間目の社会のテストに備えるべく、教科書やノートをひたすら読み返していた。
「そうなの?」
 ノートを見つめたまま、気のない返事をする。新月だろうが満月だろうが関係ない。毎日空は厚い雲に覆われているから、どうせ月など見えない。
「また、弟に会いたいの?」
「そういうわけじゃないけど」
 ハルと三人でほたる池へ行った夜。考えてみれば、不思議な夜だった。まだ四月だったのに、ほたるが無数に飛び交っていた。
 結局あのとき、苑子は、何かを見たのだろうか。苑子の様子に、ちょっと引っ掛かるものを感じていたのを思い出した。確か、「ほたるの声が聞こえた……」とか何とか言っていたような。
 ほたるの声……?
「どうしたの? 果歩ちゃん」
「え、あ。うん。何でもない」
 今日の苑子は長い髪を耳の下でふたつにくくっている。思わず触れてしまいたくなるほど艶やかで、梅雨時の湿気にもかかわらず、さらりとまとまっている。
 誘導尋問だったとはいえ、苑子のことを嫌いだと認めてしまったというのに。私は、何食わぬ顔をして、「親友」を続けている。
「また、ああいう冒険、したいなって。深夜にこっそり抜け出して。楽しかったよね」
 苑子はどこか夢見心地だ。
「私はもう勘弁。あのあと、千尋さんに見つかって、大変だったんだから」
 つき合ってるって誤解されて。
 飲み込んだ言葉が、自分の中に重く沈んでいく。
 もしも。もしも、あじさい団地に、苑子がいなかったら。ハルの幼馴染が、私だけだったら。
 一瞬よぎった考えを、私は、全力で振り払った。ありえない。
 もし苑子がいなくても、きっとハルは、私には目もくれない。
「ハルくんね」
 苑子のつぶやきで、顔を上げる。苑子が口にする「ハルくん」は、昔より、甘さを含んでいる。
「今日、一緒に帰れないみたい。生物部の友達に、一緒に勉強しようって誘われたって」
「苑子も仲間に入れてもらえば?」
 苑子は、とんでもない、と、首を横に振った。
「ハルくんもそう言ってくれたんだけど。男子ばっかりだし、私、打ち解ける自信ないから断ったの」
 ――だったら、一緒に帰る? ひさしぶりに。
 私がそう言うのを、苑子はきっと、待ってる。だけど私は。
「そっか。でも私、今日も真紀ちゃんたちと約束しちゃって」
 ふたたびノートに目を落とした。
「ふうん……。最近、仲、いいんだね」
「ん。そうでもないけど? でも、期末終わったらテニス部入らないかって、誘われてはいる」
「入るの?」
「わかんない。運動嫌いだし。でも、放課後、何もやることないよりマシかも」
 苑子をちらりと見やると、キュッと口を引き結んで、硬い顔をしていた。あてつけみたいな言い方になってしまったかもしれない。だけど、そんなことをいちいち気にしていたら、何も話せなくなってしまう気もした。
 苦しかった。
 毎日、毎日。ハルの背中が視界に入る。どうしてこんな席になってしまったんだろう。
 テストにも、まったく集中できなかった。とにかく、ひたすらに空欄を埋めていくのみで。
何とかテストをやり過ごし、ホームルームも終わり、帰り支度をしていると、私の席へ苑子が来た。一緒に帰れないって言ったのに。先約があるって言ったのに。なのに苑子は、何か言いたげにしている。遠慮がちに。今まで私には見せたことのない、どこかおびえた目をして。
「何?」
 いつまでも切り出そうとしない苑子に、つい、苛立った声が出てしまう。言いたいことがあるならはっきり口に出せばいいのに。
「果歩ちゃん。もしかして、私のこと……。嫌いに、なった?」
「……どうして」
「私といるより、真紀ちゃんたちといる方が楽しいのかな、って」
 私は荷物を詰め込んだスクバをつかむと、立ち上がった。
「苑子以外の友達と仲よくしちゃいけないの?」
「そうじゃない。そうじゃない、けど」
 ぶんぶんと首を横に振る苑子は、今にも泣き出しそうで。ああ、これじゃ。まるで私がいじめてるみたいだ。
 ――ねえ、苑子。私はそんなに悪いことをしているの?
「はっきり言うけど」
 苑子の目を。綺麗なアーモンド形の、澄んだ、だけど今は不安の色に染まっている、その目を、私はまっすぐに見つめ返した。
「そういうの、もう嫌なんだ。いつまでも、苑子に縛られていたくない」
 言い捨てる。
呆然とした苑子の顔は血の気を失って、雪のように白い。
 逃げるように、教室を出る。階段を駆け下りて下駄箱へ行くと、真紀たちが待っていた。