君が残した青をあつめて

 先週、席替えがあって、ハルと苑子はとなり同士じゃなくなった。
 ハルの新しい席は窓側から二列目、前から二番目。窓側、後ろから二番目にいる私の視界に、ちょうど入ってくる。
 数学の先生がグラフだか関数だかの説明をしているのが、耳の中を素通りしていく。数学が得意なハルは、頬杖をついて、ノートもとらずに、じっと先生の話を聞いている。
 苑子は……。廊下側の一番前の席だから、からだをひねらないと、ハルの様子を見ることはできない。私と逆だったらよかったのにね、席。
 まさか、苑子が、自分から告白するタイプだなんて思わなかった。
 シャープペンシルを、くるくる回す。
直接言うのは勇気がいるから、手紙を書く、らしい。今どきラブレターだなんて、いかにも苑子という感じだけど。
 苑子はちんまり小さい文字を書く。細くて白い手で丁寧に文字を綴って、封をして。手紙を胸に抱いて、吐息を漏らして。その様子が、ありありと目に浮かぶ。
 ハルは頬杖をついたまま、ノートを広げてさらさらと問題を解き始めた。
 その後ろ姿を、私は、ぼうっと見つめていた。
 背中、大きくなった。昔より。
「……口。沢口」
 後ろの席の子に、肩をつつかれる。それでやっと、自分が先生に指名されていることに気づいた。先生はあきれ顔だ。
「大丈夫か? 沢口、問三だぞ。いいな。続き。問四、鶴岡。問五、井上。以上、式と答えを板書すること」
 何ページの問三だろう。となりの子に聞いて、そそくさと黒板へ向かう。途中、ハルが、すれ違いざま、私に、こっそりと小さな紙片を渡した。
 式と解が、書いてある。
 どーせわかんないんだろ、と。余計なひと言も付け足されていた。
 どーせわかんないとは何よ。得意だからって、えらそうに。むかつきながらも、自分のノートに紙片を挟んで、ハルの解いた答えを、そのまま黒板に書いた。
 自分の席へ戻るとき。ハルがにやっと笑ったのがわかったから、ふいっと横を向いた。
 わからなかったんじゃありません。先生の話を聞いていなかっただけです。
 先生の話も聞かずに、ずっと私は。私は……。
 私は、それ以上考えるのをやめた。
 放課後、苑子と連れ立って校舎を出たときには、空は厚い雲で覆われていた。
「やばい。雨降るかなあ。私、今日、傘忘れたんだよね」
「私は持ってるよ」
 苑子が自分の傘を得意げに掲げた。真っ青な、傘。
「それ、はじめて見る」
「下ろしたてなんだ。はっとするほど青いでしょ? ひと目見て、気に入っちゃって」
 わりと大きいから、相合傘も余裕だよ、と、苑子は笑う。
 今日は遠回りして帰る。苑子の、レターセットを買いに行くのだ。
 空気はぬるく湿っていて、歩いているからだにまとわりついてきて不快だ。
 郵便局の裏手にある小さな文具店は、店自体は古いけど、今の若い店主に代替わりしてから、品揃えがおしゃれになった。だけど、紙やインクのにおいが満ちているところは昔と同じで、なんだかほっとしてしまう。
 苑子が手に取るのは、やっぱり、青系統の色ばかり。
「ねえねえ。これかわいくない? 水玉模様だけど、よーく見たら、しずくのかたちが混じってるんだよ」
 苑子は目をきらきらさせて、私の袖を引く。
「かわいいけどさー。どうせハルに渡すんでしょ? あいつ、レターセットのデザインなんて見ないって、絶対」
 それに、わざわざ新しく買わなくたって、手紙好きの苑子はかわいい便箋も封筒もたくさん持っているのだ。私にちょっとしたことを書いて渡してくれるメモ用紙すら、愛らしい。
「そうかもしれないけど」
 苑子はほっぺたをふくらませた。
「だってラブレターだもん。勇気振り絞るんだもん。一生一度の大告白だもん。気合入っちゃうよ」
「一生一度って、そんな大袈裟な。これからずーっと、大人になっても、ハルとしかつき合わないつもり?」
「そうだけど?」
 苑子は首をかしげた。
「もし、ハルくんがオッケーしてくれたら、だけど。できれば、一生、ハルくんのそばにいたいなって」
「わわっ。結婚する気なの? もう、そんなこと考えてんの?」
「へん? ……ていうか、重い、かな」
 それは……。そんなのわかんないけど、と、私はもごもごと口ごもった。
「あっ。これ、素敵」
 いきなり苑子のテンションが跳ね上がった。手にしているのは、淡いブルーの、シンプルなレターセット。
「普通じゃん」
「よく見て。ところどころ、銀色で、三日月や星たちが型押しされてるでしょ。きらきらしてるけど、さりげなくって。こういうの、好きだなあ」
「私はしずく水玉の方が好きだけど」
 一応、そう言ってみたけど、苑子は、もう迷わなかった。ひと目ぼれしたレターセットを手にレジへ向かう。これと決めたらその意志は揺るがないのだ。見た目も雰囲気も儚げで、話し方もおっとりしてるけど、中身は違う。一本芯が通ってるというより、固い固い石が詰まってるんじゃないかとさえ思う。こんなふうに、苑子の買い物に付き添ってアドバイスしても、結局私の意見が通ったことはない。
 お店を出たとたん、ぽつぽつと、雨が降り出した。苑子は傘を開いた。ぱんっ、と、気持ちのいい音が響く。
「どうぞ」
「ありがとう」
 苑子が差しかけてくれた傘に入る。青。鮮やかな。目の覚めるような。まじりけのない青の中に、苑子とふたり。
 まばらな雨が傘を叩く音が響く。
 私は苑子に、前から不思議に思っていたことを、聞いた。
「どうして急に、ハルに告白しようだなんて思ったの?」
 苑子の、透き通るようなきめ細かい肌が、青を反射している。美しく、反射している。
 焦っちゃったんだ、と、苑子は言った。
「このままじゃ、誰かに取られるかもって思ったら、いても立ってもいられなくなった」
「誰も取らないってば。そんな物好き、苑子ぐらいじゃない?」
 冗談めかして、あははと笑ってみせる。だけど苑子は笑わない。
「……そうかな。ほんとにそう思う?」
 苑子の声はかぼそくて、消え入りそうだった。
 粒の大きな雨は次第に勢いを増してきて、これ以上ひどくならないうちにと、ふたりで身を寄せ合って家路を急ぐ。苑子の華奢なからだが触れる。熱を持っていた。苑子の中にある、固い固い石のようなもの。芯、が。燃えている。
 団地のあじさいが咲き始めている。青みがかった紫のグラデーションが、雨のしずくをまとって艶めいている。
 苑子は、E棟までついてきてくれた。雨のせいで空気が冷えて、制服も濡れたせいか、なんだか肌寒い。
 互いに「ばいばい」を交わしたあと。去ろうとしていた苑子が、ふいに、振り返った。
「あのね果歩ちゃん。私、本気だから。本当に、手紙、ハルくんに渡すから。止めるなら今だからね?」
「何言って……」
 戸惑う私に、苑子は、ふふっ、とほほ笑んだ。艶やかな黒髪は雨でしっとり濡れて、白い頬には赤みが差していて。あまりにも完璧に美しくて、まるで天使か、妖精か、あるいは女神か。大袈裟じゃなく、私はその一瞬、本気でそう感じていた。
 苑子は、どんどん綺麗になっていく。

 ずっと雨は降り続いている。降っては止み、止んでは降り。明るい陽の射さない、見ているだけでため息が漏れるような、淀んだ空。
 苑子は、ハルに手紙を渡した。……らしい。私はその場に居合わせたわけじゃない。それどころか、苑子本人から報告されてもいない。
 ハルに聞いたのだ。
 夕方だった。うちのドアの前で、ハルは私を待っていた。ジーンズのポケットに両手をつっ込んで、背中を丸めて、そわそわと落ち着きがない。私に気づくと、ほっとしたように表情をゆるめた。
 私は近所のスーパーから帰ってきたところだった。お母さんから、帰りが遅くなると連絡がきて、私が夕ご飯を作る羽目になったからだ。お父さんも仕事だし、お姉ちゃんも部活で遅い。帰宅部で塾にも行っていない私だけがヒマ人だから、こうしてちょくちょく家事を手伝わされている。
「何してんの、ハル」
「ちょっと、相談っていうか……。でも、いいや。今からメシ作るんだろ?」
 私が手にしているエコバッグを見て、ハルが申しわけなさそうに眉を下げた。
「べつにいいよ、すぐできるし」
 バッグの中身は、ひき肉と豆腐と、麻婆豆腐の素。残念なことに、私は料理が絶望的に下手で、冷蔵庫にあるものを適当に組み合わせて、ちゃんと食べられるものに仕上げられるスキルがない。だけど、さすがに「素」を使えば、失敗はない。あとはインスタントのたまごスープでも添えればいいだろう。
「とりあえず、中、入れば?」
 ハルはこくりとうなずいた。
 ハルをリビングに通す。冷蔵庫に食材をしまい、お湯を沸かす。雨のせいで冷えるから、冷たい麦茶より、きっと、あたたかい飲み物の方がいい。
 ひさしぶりだな、と思う。となり同士だし、鍵っ子同士だし、互いの家を行き来するのはしょっちゅうだったけど、中学に上がってからは、そんなことはめっきりなくなっていた。
 苑子は女子だからいいけど。ハルは、さすがに。
 ソファに座ったハルの顔は硬い。テーブルに、コーヒーのマグと砂糖のポットを置いた。
「どうぞ」
「ありがと」
「インスタントで悪いけど」
 私が作るものは、大抵インスタントだ。便利な世の中でよかった。
 私もソファに座る。端っこに。できるだけ、ハルとの間に距離が欲しい。昔は、何も考えず、となりに座ったのに。
 沈黙の中、コーヒーの湯気が漂って部屋を満たす。自分のマグに手を伸ばしたところで、ハルが、「あのさ」と切り出した。
「苑子に、その」
 苑子。
「もう? もう、もらったの?」
「……。何で、知ってんの」
 そりゃ、話は聞いてたわけだし。だけどまさか、こんなにすみやかに行動を起こすなんて思わなかった。
「どうしよ、俺。こういうの、はじめてだし」
 心臓がどくどく音を立てていた。ゆっくりと息を吸って、マグを両手で包み込む。
「つき合えばいいじゃん」
 冷静に。冷静に。
「ハルだって、好きなんでしょ? 苑子のこと」
 ハルは、ゆっくりとうなずいた。ばかみたいに赤くなっている。首筋も、耳たぶにいたるまで。ばかみたいに、赤く。
「でも俺、彼氏とか彼女とか、そういうの、わかんねーし。何すればいいわけ、つき合うって」
 ほんとにばかだ。
「私だってわかんないけど。……一緒に帰るとか。一緒にどこか出かけるとか。とにかく一緒にいればいいんじゃない?」
 お互い、好きなんだし。両想いなんだし。
 手の中のマグカップの、茶色い液体が、揺らめいている。
「自信ないんだ。何で俺、って。亮司みたいにイケメンでもないし、取り柄があるわけでもないし」
「ばかじゃないの、あんた」
 ぴしゃりと。殴りつけるように、言い捨てた。
「堂々としてなよ。苑子はハルがいいの。ハルじゃなきゃだめなの」
 ハルが顔を上げて私を見た。はっとしたような、まるで、大事な何かを見つけたような……光のともった目。
「わかったならさっさと帰って。私、今から麻婆豆腐作るんだから」
「あ。ご、ごめん」
 ハルは律儀に、コーヒーを一気に飲み干して、流しに運ぼうとしたから、「いいから」とマグを奪った。
「ごめん。果歩」
「ん」
「ありがとな。なんか、ふっきれた」
「いいから。ほら、早く帰りなさい」
 私は笑って、しっしっ、と、野良猫を追い払うようなしぐさをしてみせた。ひでーな、と、ハルも笑う。
 もう一度私に「ありがと」と言い残すと、ハルは出ていった。ドアの閉まる音が響く。
 麻婆豆腐を作らなきゃ。早く。……早く。
 ひとり残されたキッチンに、静かに降り注ぐ雨の音。
 夜の気配が迫ってきて、私はその場にうずくまった。

 ハルと苑子のことは、三日もしないうちにクラスメイトたちの噂に上った。
 いつも男友達に囲まれているハルと、おとなしくて目立たないけど〝実は〟かわいい苑子。バスケ部エースの杉崎くんを振って、その親友のハルとつき合うだなんて。どういう経緯でそうなったのか、みんな、本人たちじゃなくて、ふたりの幼馴染の私に聞いてくる。
 普段から、みんなにいい顔をして、嫌われないように愛想笑いを振りまいてきたから。だから、そういう役目が回ってくるのは仕方ない。
「小さいころから一緒にいるから、そういう気持ちになるのも自然なんじゃない? 知らないけど」とか、「ハルはああ見えて優しいとこあるから。苑子には、とくに」とか。「どっちが告ったかなんて知らないよ。ただ、時間の問題だとは思ってたけど」とか。適当なことをその場しのぎで答えるたびに、鋭い棘が自分に刺さって。自分で自分にナイフを突き立てているみたいで。痛かったけど私は笑っていた。
「あーあ。ひそかに島本くん、狙ってたのになー」と愚痴ってくる女子もいた。「こんなことなら、さっさと告ればよかった。果歩に協力頼めばよかったー」とも言われた。それでも私は、ずっと笑顔を貼りつけたまま、「残念。ちょっと遅かったよね」と肩をすくめてみせるだけ。
 苑子は、もう、私とは一緒に帰らない。登校するときだって。苑子と待ち合わせるのは、私じゃなくてハル。ハルは、苑子のために、苦手な朝を克(こく)服(ふく)している。親や近所の大人たちに知られたくないからって、わざわざ団地の外で待ち合わせをしているらしい。
 今朝。ふたりが、並んで、お互い目も合わせずに、ぎこちなく坂道を下っていく姿を見た。お互い、会話したくて、でもきっかけがつかめなくて。ハルはちらちらと苑子の顔を見やるけど、苑子は恥ずかしがってうつむいたまま。告白する勇気はあるのに、いざつき合ったら、ドキドキに飲まれそうになっているのがわかる。
 ハルも。あんなに戸惑っている姿、はじめて見る。どこか照れくさそうで、くすぐったそうで。でも……、嬉しそうだ。すごく。
 小さいころから一緒にいるふたりなのに、今までとは全然違う。両想いになるって、こういうことなんだ。
 ハルに苑子を取られた。恋愛なんて興味ない、わからないって、ふたりして言い合ってたのに、いつの間にか、遠くに行ってしまった。苑子も。ハルも。
 私ひとり、取り残されてしまった。だからこんなに胸が軋むんだ。
 私は、そう、自分に言い聞かせていた。
 ガラス窓を雨のしずくが伝っている。帰りのホームルーム。期末考査一週間前、部活も休みになるから、まじめに勉強するようにと、先生が言っている。
 さよならの挨拶をして、一日のカリキュラムが終わる。とたんにざわめく教室、苑子がまっすぐに私の席へ来た。
「果歩ちゃん。帰りに図書館に行って、一緒に勉強しない?」
「ハルは?」
「ハルくんも。三人で」
 はにかむような笑顔。恋をして、ますます苑子は綺麗になった。
「じゃ、いい。おじゃま虫だもん」
「果歩ちゃ……」
 ごめん、と、慌ててフォローする。無意識に、きつい言い方になってしまった。
「果歩っ!」
 明るい大きな声が私を呼ぶ。教室後方のドアに寄りかかるようにして真紀が立っていて、目が合うと、笑顔で、私に手招きした。
「真紀ちゃんたちと約束してたんだ。ごめんね。苑子はハルとふたりで勉強でも何でもして。私に気を遣わなくて全然いいから」
 咄嗟に、早口でそう言った。嫌味っぽく響かなかっただろうか。
 私は自分のスクバをつかむと、真紀のもとへと駆けた。
 つき合うと言っても、苑子とハルは、ただ登下校をともにするだけで、教室で話したりはしないし、放課後も、休日も、どこかへ出かけたりする様子はなかった。だけど。一卵性の姉妹みたいだった私と苑子の関係は、あきらかに、変わり始めていた。
 期末考査が始まり、放課後、私は学校のすぐそばにある真紀の家へ行って勉強していた。新築の一軒家で、真紀は、私が憧れている、自分だけの部屋とベッドを持っていた。
 ガラスのローテーブルにお菓子を広げて、ジュースを飲みながらのおしゃべり。一応、教科書もノートも広げているけど、勉強になんて集中できるはずもない。
「夏休みまでに告白したいなー」
 真紀が頬杖をついてぼやく。やっぱりみんな恋の話が好きだ。
「塩田先輩、だっけ? テニス部の副部長?」
「うん。めちゃくちゃかっこいいんだから。果歩も練習見においでよ」
「いいのー真紀、そんな気軽に誘ってー。果歩ちんが塩田先輩のこと好きになっちゃったらどうするの?」
 森川さんが横やりを入れて、えーどうしよ、と真紀が本気で困った顔をするから、私は笑ってしまった。
「ないない。私、男子に興味ないし。恋愛にも興味ないし」
「だよねー。果歩ってさばさば系だし、そういうの、縁なさそうっていうか」
「ひどくない?」
 森川さんを小突きながら、ふくれてみせる。そうか。私、さばさば系なんだ。いつの間にかできあがっていた自分のキャラを、そっと心に留め置く。
「二宮さんと正反対っていうか。どうして仲いいのか、不思議だよね」
「男子受けするもん、二宮さんって。毎朝、島本の後ろにちょこちょこくっついてくるじゃん? 男子たちがね、最近、二宮ってあんなにかわいかったっけ、とか、噂しててー。あんなあざといしぐさに騙されるんだね」
 また、苑子の話。杉崎くんの一件以来、苑子は真紀たちグループに敵認定されてしまっていた。というかむしろ、絆を深めるための生贄だった。
 真紀たちと一緒にいれば、必ず誰かが苑子の悪口を言い出すことを、私だってわかっていた。
「果歩もほんとは、嫌いなんでしょ?」
 ズバッと、直球が飛んでくる。
 ハルとふたりで坂道を歩く、苑子の後ろ姿。好きなんでしょ、と聞いたときに、ぎこちなくうなずいたハルの、赤い首筋。ふいに蘇って、息が、止まりそうになって。
「我慢して、二宮さんと一緒にいたんでしょ?」
 たたみかけられて。気づいたら、私は。こくりと、うなずいていた。
「だよねーっ。そうだと思ってたー」
 真紀たちのはしゃぎ声が、どんどん遠くなっていく。
 見えない水の粒子が空気中に充満していて。じっとりと蒸し暑くて、息がしづらくて、苦しかった。
 十三歳の、六月。

「今日、新月だね」
 苑子がつぶやいて、我に返る。お昼休みの教室、私たちは、五時間目の社会のテストに備えるべく、教科書やノートをひたすら読み返していた。
「そうなの?」
 ノートを見つめたまま、気のない返事をする。新月だろうが満月だろうが関係ない。毎日空は厚い雲に覆われているから、どうせ月など見えない。
「また、弟に会いたいの?」
「そういうわけじゃないけど」
 ハルと三人でほたる池へ行った夜。考えてみれば、不思議な夜だった。まだ四月だったのに、ほたるが無数に飛び交っていた。
 結局あのとき、苑子は、何かを見たのだろうか。苑子の様子に、ちょっと引っ掛かるものを感じていたのを思い出した。確か、「ほたるの声が聞こえた……」とか何とか言っていたような。
 ほたるの声……?
「どうしたの? 果歩ちゃん」
「え、あ。うん。何でもない」
 今日の苑子は長い髪を耳の下でふたつにくくっている。思わず触れてしまいたくなるほど艶やかで、梅雨時の湿気にもかかわらず、さらりとまとまっている。
 誘導尋問だったとはいえ、苑子のことを嫌いだと認めてしまったというのに。私は、何食わぬ顔をして、「親友」を続けている。
「また、ああいう冒険、したいなって。深夜にこっそり抜け出して。楽しかったよね」
 苑子はどこか夢見心地だ。
「私はもう勘弁。あのあと、千尋さんに見つかって、大変だったんだから」
 つき合ってるって誤解されて。
 飲み込んだ言葉が、自分の中に重く沈んでいく。
 もしも。もしも、あじさい団地に、苑子がいなかったら。ハルの幼馴染が、私だけだったら。
 一瞬よぎった考えを、私は、全力で振り払った。ありえない。
 もし苑子がいなくても、きっとハルは、私には目もくれない。
「ハルくんね」
 苑子のつぶやきで、顔を上げる。苑子が口にする「ハルくん」は、昔より、甘さを含んでいる。
「今日、一緒に帰れないみたい。生物部の友達に、一緒に勉強しようって誘われたって」
「苑子も仲間に入れてもらえば?」
 苑子は、とんでもない、と、首を横に振った。
「ハルくんもそう言ってくれたんだけど。男子ばっかりだし、私、打ち解ける自信ないから断ったの」
 ――だったら、一緒に帰る? ひさしぶりに。
 私がそう言うのを、苑子はきっと、待ってる。だけど私は。
「そっか。でも私、今日も真紀ちゃんたちと約束しちゃって」
 ふたたびノートに目を落とした。
「ふうん……。最近、仲、いいんだね」
「ん。そうでもないけど? でも、期末終わったらテニス部入らないかって、誘われてはいる」
「入るの?」
「わかんない。運動嫌いだし。でも、放課後、何もやることないよりマシかも」
 苑子をちらりと見やると、キュッと口を引き結んで、硬い顔をしていた。あてつけみたいな言い方になってしまったかもしれない。だけど、そんなことをいちいち気にしていたら、何も話せなくなってしまう気もした。
 苦しかった。
 毎日、毎日。ハルの背中が視界に入る。どうしてこんな席になってしまったんだろう。
 テストにも、まったく集中できなかった。とにかく、ひたすらに空欄を埋めていくのみで。
何とかテストをやり過ごし、ホームルームも終わり、帰り支度をしていると、私の席へ苑子が来た。一緒に帰れないって言ったのに。先約があるって言ったのに。なのに苑子は、何か言いたげにしている。遠慮がちに。今まで私には見せたことのない、どこかおびえた目をして。
「何?」
 いつまでも切り出そうとしない苑子に、つい、苛立った声が出てしまう。言いたいことがあるならはっきり口に出せばいいのに。
「果歩ちゃん。もしかして、私のこと……。嫌いに、なった?」
「……どうして」
「私といるより、真紀ちゃんたちといる方が楽しいのかな、って」
 私は荷物を詰め込んだスクバをつかむと、立ち上がった。
「苑子以外の友達と仲よくしちゃいけないの?」
「そうじゃない。そうじゃない、けど」
 ぶんぶんと首を横に振る苑子は、今にも泣き出しそうで。ああ、これじゃ。まるで私がいじめてるみたいだ。
 ――ねえ、苑子。私はそんなに悪いことをしているの?
「はっきり言うけど」
 苑子の目を。綺麗なアーモンド形の、澄んだ、だけど今は不安の色に染まっている、その目を、私はまっすぐに見つめ返した。
「そういうの、もう嫌なんだ。いつまでも、苑子に縛られていたくない」
 言い捨てる。
呆然とした苑子の顔は血の気を失って、雪のように白い。
 逃げるように、教室を出る。階段を駆け下りて下駄箱へ行くと、真紀たちが待っていた。
 私に突き放された苑子の、白い、顔。私が傷つけた。
 嫌いになったわけじゃない。嫉妬していただけだ。
 そんなシンプルなことを、どうして認められなかったんだろう。ハルに苑子を取られて拗ねていたわけじゃない。――逆だ。
 夕暮れ近く。真紀の家を出て、傘を広げる。細い雨が降っていた。針のような雨。
 みんなと別れて、団地まで続く細い坂道を上る。オガワのベンチが雨に濡れていた。
 どこかで、救急車のサイレンの音が鳴っている。

 団地のあじさいが細い雨を浴びて艶めいていた。まっすぐ家に帰らず、私は、しゃがみ込んで、ずっとずっと見ていた。
はじめての恋は苦くて、親友に嫉妬する自分のことが許せなくて、だけど前みたいに、苑子のとなりで無邪気に笑うことなんてできそうになくて。紫がかった青の、可憐な花たちを、ただ、見ていた。
苑子が好きな青。鮮やかな傘が開いて、そして。
 弾き飛ばされて、濡れた路面を、転がっていく。
 一瞬。脳裏に広がったイメージ。ぶるりと、寒気がした。雨のせいでからだが冷えたんだろう。風邪を引きかけているのかもしれない。
 家に帰って着がえて、ホットミルクを飲んで、タオルケットを引っ張り出してくるまり、ソファで丸くなった。家の中は暗かったけど、雨のせいで時間の感覚がない。私はいつの間にか、うとうとと、眠りかけていた。
 玄関のドアが開く音で目が覚めた。明かりがともされる。近づく足音。
「果歩。果歩、いるの?」
 帰ってきたお母さんは、どこかふらふらしていて、零れ落ちた後れ毛のせいか、疲れているように見えた。寝ている私を叱ることもせず、そばにしゃがんだ。
「落ち着いて聞いて」
 ぎゅっ、と。私の手を握る。
「苑子ちゃんが事故に遭った。学校帰りに、車に……。病院に運ばれた、って」
 がつんと、頭を殴られたような衝撃。事故……。
 跳ね上がる傘、跳ね上がる苑子の、細いからだ。がちがちと歯が鳴る。お母さんは私を抱きしめた。
「苑子、大丈夫なの……?」
 ようやっと、そう聞いたけど。お母さんは何も答えなかった。
 苑子の容態は何もわからないまま、一睡もできず、長い長い夜が明けて、家の電話が、鳴った。
 苑子が息を引き取ったと。電話を切ったお母さんが、静かに告げた。お通夜もお葬式も、行けるね? 一緒に、ちゃんとお別れをしようね、と。話すお母さんの顔は血の気がなくて。声も、震えていた。
 ――お通夜。お別れ。亡くなった。苑子、が? 本当に、苑子が?
 ふらふらと、外へ出る。
 雨はもう上がっていた。花開いたあじさいも。けやきの梢も。たくさんのしずくをまとって、日差しを跳ね返してきらめいていた。
 まったく現実感がなかった。
 学校で。担任の先生が苑子の死を告げて。緊急全校集会が開かれて、命の大切さを説かれた。事故現場は私たちがいつも通学に使うルートではない、団地とは違う方向へ上ったところにある、お寺の近くの交差点で。青信号で横断歩道を渡っていた苑子に、ハンドル操作を誤った乗用車がつっ込んだのだと。知らされた。
 どうしてそんな場所に。
 私のせいだ。私があんなことを言ったから。だから、ひとりで。まっすぐ帰らずに、ふらふらと歩き回っていたのだ。
 もしも私が一緒にいたら。一緒に帰ってさえいれば。苑子の運命は、違っていた。こんなことにはならなかった。なのに。
 私が最後に、苑子に放った言葉。
――そういうの、もう嫌なんだ。いつまでも、苑子に縛られていたくない。
 消したい。消したい消したい消したい。
 だけど。
 どんなに悔やんでも、時は巻き戻らない。苑子はもう、二度と、帰ってこない。

 また、あの夢を見た。
 頭が鈍く痛む。ゆらりと洗面所へ向かい、蛇口をひねる。勢いよく流れる水は、冷たい。昨日の朝より、冷たい気がする。空気も。薄い肌掛けだけだと、寒いぐらいだ。
 顔を洗う。何度も。洗って、ふかふかのタオルで包み込むようにして水を拭き取る。柔軟剤の香りを吸い込んで、顔を上げると。十七歳の私が、鏡に映った。
 大きくもなく小さくもない、奥二重の目。太すぎず細すぎず、なだらかなアーチを描く眉。平凡で、ありふれた顔。
 お、は、よ、う。
 ゆっくりと、大きく、口を動かす。おはよう、私。
 また、朝が来た。私にはきちんと朝が来る。陽は昇り、私の時は進む。
 目の奥で、まだ、夢の残像――鮮やかな青が、チカチカまたたいている。
 歯を磨き、髪をとかす。ようやく肩に届くぐらいの、ストレートのセミロング。一度だって染めたことはないのに、色素がうすいのか、陽に透かすと茶色っぽく見える。
 いったん自室に戻って制服を着て、ダイニングでトーストとインスタントのスープだけの朝食をとっていると、皿の横に、サラダの小鉢とカフェオレのマグが、とん、と置かれた。
「誕生日おめでと」
 母が、にっと笑った。ん、と私が短く答えるのを確認すると、母は自分のバッグをつかんで慌ただしく出ていった。父はとっくに出勤している。県外の大学に進学した姉は、卒業と同時に家を出てひとり暮らしをしている。
 冷凍食品のミニカップをレンジに放り込む。弁当箱にごはんを適当に詰め、空いたスペースに母が用意してくれていた卵焼きとウインナー、レンジから取り出した冷食を詰めた。
 さっと食器をすすいで水に漬け、包んだ弁当箱をスクバに入れる。身支度をして、家を出る。空気はさらりと澄んで、ハッカ飴のようにすうっと涼しい。
 今日から、十月だ。
 団地の駐輪場に行くと、ハルがいた。自分の自転車のそばにかがみ込んでいる。何か落としたのだろうか。
「……おはよ」
 丸まったハルの背中の後ろから、ぼそりとつぶやくと、ハルはゆっくりと立ち上がって私を見下ろした。スポーツもしないくせに無駄に背が高い。昔は私より少し高いぐらいだったのに、あっという間にぐんぐん伸びて、今では、となりで見上げていると首が痛くなってしまうほどだ。
 ハルにも、時は流れている。細胞は日々分裂して、骨も伸びていく。
 高校のブレザーに身を包んだ、すらりとした後ろ姿を見るたびに、私は、少し寂しいような、心もとない気持ちになる。小さいころから知っているハルが消えて、かわりに誰か知らない男のひとが現れたような、そんな錯覚を覚えて。
 だけどハルは、振り返って私に気づくと、いつだって、昔と同じ、いたずらっぽい笑顔で、「何だよ、果歩」と言うのだ。
 今だって。ハルは、ふわりとやわらかい笑みを浮かべた。
「おはよ、果歩」
 私に挨拶を返すと、ハルは、ブレザーのポケットから伸びたイヤホンを耳に挿した。ポケットに手をつっ込んだときに小銭の擦れる音がした。さっき拾っていたのはこれだろう。
 ハルはもともとすっきりした顔立ちで、ひそかに人気があったのだけど、背が伸びて幼さが消えたことでますます女子の目を引くようになった。だけど、小銭をポケットに入れっぱなしにする子どもみたいな癖は相変わらずだ。
 私はハルのイヤホンを引っ張った。
「チャリ運転しながら聴くのやめなよ。危ないから。もし……」
 もし、の続きを。私は飲み込んだ。
 ハルは一瞬息を飲んで、そして、黙って、もう片方のイヤホンも耳から抜いた。
 私たち。きっと、同じことを連想していた。
 私は黙って自分の自転車に荷物を載せた。かたん、と、スタンドを跳ね起こす。
 市の中心部にある高校へは、自転車で通っている。そこそこの進学校だ。できるだけ団地から近い、普通科のある公立高校を選んで受験した。私大へ行った姉の学費と仕送りで両親はいっぱいいっぱいだから、授業料も交通費も安く抑えたかった。
 ハルも似たような理由でうちの高校を受け、入学し、クラスまで同じだ。二年になって文理別になったから、同じ理系で成績も近い私とハルが同じクラスになるのは、自然なことではある。
 私はハルを置いて、先に自転車を漕ぎ出した。のに、
「果歩」
 後ろからハルの声が追いかけてくる。私はキュッとブレーキを掛けた。ハルはすぐに追いついて私のとなりに並んだ。
「何?」
「いや。その……、今日から十月だろ?」
「うん。そうだけど」
「果歩、誕生日だったなって」
 ……覚えて、いたんだ。
「おめでと」
 どういう顔をしていいのかわからなくて、私は固まった。
 ちゃんと喜んでいいんだよと、三年前の秋に、千尋さん――ハルのお母さんに、言われた。苑子ちゃんが亡くなってしまったのは悲しいことだし、どうしようもないことだけど、晴海や果歩ちゃんは、これからも、楽しいことは楽しむべきだし、おめでたいことは祝うべきなんだ、と。それとこれとは別なんだよ、と。
「果歩」
 ハルがハンドルから手を放して、私の腕をぽんと叩く。とたんに、催眠術が解けるみたいに、すっと、私のからだの強張りが消えた。
「……ん。ありがとう」
 素直にそう答えると、ハルはほっとしたように笑って、
「じゃ、また。教室でな」
 と、ふたたび自転車を漕ぎ出した。その姿が見えなくなってから、ようやっと、私も自転車のペダルを踏む。
 団地の敷地を出て、ブレーキレバーを握りしめながら、細い坂道を下っていく。
 すこんと青い空に、うすくひつじ雲が広がっている。流れゆく景色の中、ほのかに、金木犀の甘い香りが混じっていた。
 二年七組の教室は喧噪を極めていた。ドアを開けて足を踏み入れた瞬間、男子たちのわけのわからない雄たけびと、食べ物のにおいと(朝から放課後まで、とにかく誰かが何かを食べているのだ)、狭山亜美の、キーの高い「おはよーっ!」の声が一緒くたになって私を飲み込んだ。
 からだは小さいのに声だけは大きい亜美は、満面の笑みを浮かべて駆け寄ってくると、私の頭を、ぐしゃぐしゃと撫で回した。飼い犬にするみたいな。ずいぶん雑なかわいがり方ではあるけど。
「おはよ亜美」
 乱れてしまった髪を撫でつけながら告げると、亜美は、小鼻をふくらませて「むふふっ」と笑って、
「ハッピーバースデー果歩、これあげるっ!」
 と、小さな紙袋を私に押しつけた。
「えっ……。これ、私に?」
「あたり前じゃん」
 亜美は「何言ってんの?」と言いたげに、小首をかしげて、くすりと笑った。
「ありがとう」
 まさかプレゼントをもらえるなんて思わなかった。
「ねえ開けて? 開けてみてよ」
「うん。でも、その前に、自分の席に行ってもいい? カバンを置いてこなきゃ」
 そう言うと、亜美は「いっけね」と舌を出した。
「待ちきれなくてさ。一分一秒でも早く渡したくて」
「亜美って、行列のできる店に並ぶとか無理なタイプだよね、どんなに美味しくても」
「うんうん」
「あと、隠し事もできない」
「うん。もー耐えられなくなっちゃう。しんどくって」
「じゃ、亜美には絶対秘密は打ち明けないことにする」
「えーっ」
 リアクションが大きくて、くるくると表情が変わる。小型犬みたいに屈託がなくて人懐こい。栗色がかったショートカット、華奢で小柄で、制服はゆるく着崩し、スカートは短くてひざ小僧がまるまる出ている。高校に入学してできた、最初の友達だ。私なんかのどこがいいのかわからないけど、何かと構ってくれる。明るくて裏表のない子。
 自分の席で、ドキドキしながら、亜美にもらった包みを開く。
 リップ。グロス。マスカラに、ビューラー。
「十七なんだし、果歩もちょっとはこういうのに目覚めてもいーんじゃないって思って。プチプラブランドばっかで申しわけないけど」
 亜美は私の机の真横にしゃがんで、私の顔をのぞき込んだ。
「ありがとう。でも、私」
「やったげよっか。メイク」
「えっ……」
 にいっと笑うと、亜美は立ち上がり、私の腕を引いた。私は引きずられるようにして女子トイレに連行されてしまった。