カラオケには、うちのクラスの、真紀と同じグループの子たちの他に、森川瞳さんも来た。自称「杉崎くんの彼女」の子。
 定食屋と洋品店に挟まれた、小さなカラオケボックスの小さな部屋、くたびれた黒いソファに、私は真紀と森川さんにサンドイッチされる感じで座った。
 真紀にいつもくっついて回ってる、篠原さんという子が、さっそく数曲入れて、てきぱきと飲み物やポテトなんかを注文している。
 ノリのいいポップなメロディが流れ出す。
「沢口果歩さんでしょ? よろしく。いつも二宮さんと一緒だよね? 今日は、いいの?」
 森川さんが私の顔をのぞき込んだ。くるっと大きな目をしていて、かわいい顔だな、と思う。
「今日は、委員会の仕事があるんだって」
 本当だ。放課後、真紀たちと遊ぶから、と告げると、苑子は、自分も、所属している美化委員で清掃活動しなきゃいけないんだと、私に言った。
 私に気を遣って、咄嗟についた嘘だったのかもしれない。学校を出るとき、校舎の中にも外にも、掃除をしている生徒なんてひとりもいなかった。
 店員さんが入ってきて、飲み物のグラスを置いた。私は自分のウーロン茶を手に取る。
「果歩ー。一緒に歌おうよ」
 真紀にマイクを渡される。
「この曲知ってる?」
「知ってる」
 マイクを握って、喉を開いて、思いっきり歌う。すかっとした。声を出すうちに気持ちがどんどん晴れていく気がした。何曲も、何曲も。みんなと一緒に歌って、気づいたら、ソファで飛び跳ねて、踊っていた。
 カラオケボックスを出たあとも、誘われて、駅前のハンバーガーショップでおしゃべりした。みんなとは、もうすっかり打ち解けていた。
「ねえねえ果歩ちゃん。二宮さんって、リョウくんに告られたってほんと?」
 ゆうべのドラマの話で盛り上がっていたのに、ちょうど会話が途切れたタイミングで、森川さんが聞いてきた。黙秘、すべきか。私はシェイクをずずっと吸い込んだ。
「告られたんだよね? 何人も、見たひといるもん」
「……ごめん。知らないんだ。私たち、そういう話、あんまりしないから」
 それが聞きたくて、真紀は私を誘って、森川さんも一緒についてきた。どうせそんなところだろうと、妙に腑に落ちてしまう。
 真紀が自分のナゲットにバーベキューソースをつけながら、
「そんな大事な話、親友の果歩にしてくれないの?」
 と、言った。風向きが変わった。私は黙ってポテトをかじる。
「二宮さんと果歩って、腐れ縁っていうか、家が近所ってだけでずっと一緒にいるんでしょ? ぶっちゃけ疲れない?」
「べつに……。疲れないよ……?」
 真紀は片ひじをついて、私の目をじっと見た。
「じゃあさ、イラってくることは? ない? なんかさ、あの子、言っちゃ悪いけど、いつも果歩の後ろにくっついておどおどしてるし、なのに男子にはもてるし」
「そうそう。ていうか結局さー、男子が一番好きなのって、ああいう子だよね。守ってあげたくなる系? っていうの? あれって狙ってやってんのかなー」
 篠原さんがここぞとばかりに身を乗り出した。
「男子って単純だからすぐ騙されるんだよねー。あーあ。リョウくんは違うと思ってたのにー」
「元気出して瞳ー。もっとイケメンつかまえて見返してやりなよー」
 火がついたみたいに、あっという間に盛り上がってしまった。
 私は何も言えずに、ただ、小さく丸くなるだけ。だんご虫みたいに。固く。自分の身を守るので精一杯。
 私以外のみんなが、苑子の悪口を燃料にして、燃え上がって、ひとつにまとまっていく。固く結束していく。そこに反論して水を掛けて、「何なのこいつ」と思われることが、怖かった。

 バーガーショップを出ると、空は明るい蜜柑色に染まり始めていた。
 みんなと別れて、ひとりで団地へ続く坂道を上りながら。息苦しくて、何度も座り込みそうになる。
 真紀たちの本当の狙いは、杉崎くんについて聞き出すことじゃなくて。私を苑子から引きはがして、自分たちに引き入れること。苑子を、孤立させること。
 まるで予想できなかったわけじゃないのに。なのに私は、苑子を置いて、誘いに乗った。
 いったい、何をしているんだろう、私は。
 団地の敷地の、けやきの梢が揺れている。夕暮れの空の中で、揺れている。
「……あ」
 E棟の集合ポストのそばに、ハルがいた。まだ制服姿で、ポスト横の掲示板を、ぼんやり眺めている。と、ハルは、私に気づいて片手を上げた。
「果歩、今帰り? 珍しく遅いじゃん」
「ちょっとね。ていうか、自分こそ」
 ハルのとなりに立つ。ハルは私より、ほんの少しだけ、背が高い。
「久々に部活行っててさ」
「そっか。生物部だったね。謎の」
「謎って言うなよ」
「だって何やってんのか全然わかんないもん」
「理科準備室でいろいろ飼って観察してんだよ、蛙とか」
「蛙? ヤダ」
 顔をしかめてみせたら、ハルは、「かわいいんだからな、アマガエルは」と言って、私を軽く小突いた。
「……早く帰ろっと。おなか空いた」
 本当は、全然空いてなかった。だけど。何となく息苦しくて、だけどそれは、さっきまでの、真紀たちと一緒にいたときのいたたまれなさとは違って。
 私は階段を上る。すぐにハルの足音が追いかけてきて、私と並んだ。
「ちょっと。一緒にいたら、また誤解されるじゃん」
「は? 誤解ってなんだよ」
「忘れてんの? ……あーもう、説明したくない」
 駆け足になる。五階まで、一気に。コンクリを踏みながら、駆け上がる。
「待てってば。果歩」
「何」
 階段を上りきる。振り返らない私の腕を、ハルが、つかんで、引いた。
「何っ……」
「すげー綺麗だよ」
 言われて、外を見る。
 降り注ぐ夕陽が街を照らしていた。空も、雲も、山も、すべてが、透明なオレンジに包まれている。
 団地の敷地は傾斜になっているから、五棟立ち並ぶ建物の、端っこのE棟は一番高いところにあって、階段の踊り場や通路からの眺めが、他の棟にさえぎられることはない。
 街の中心部に立ち並ぶビル群、ぎっしりと密集した家並み、新幹線も、ところどころこんもりと茂る木々の緑も、蛇行する河も。すべてがはるか小さく、一日の終わりの光を浴びて光っている。
「俺、ここから夕焼け見るの、すげー好き」
「うん」
 私も、だ。
「なんか小っちゃく感じる。自分の悩みとか」
「悩みあるんだ、ハルも」
「果歩も、だろ。何かあったろ?」
「何もないってば」
「そう言うと思ったけど。いっつもそうだもんな、果歩って。何でも自分ひとりで抱えてひとに頼ろうとしないだろ?」
「……ばか」
 小さく、つぶやいた。どうしてそんなこと言うの? 図星突かないでよ。調子、狂っちゃうじゃん。
 私はハルから目をそらした。
「自分こそ。悩みって何よ」
 苑子のこと、とか?
「……ん。親父、が」
 想像もしていないところから球が飛んできた。別れて暮らしている、ハルのお父さん。どういう取り決めなのかは知らないけど、定期的に、ハルはお父さんと会っているようだった。
「連休に会ってさ。面会、それで最後にしてくれって頼んだ。親父のことに関しては、俺の気持ちを尊重してくれるって話だったし」
 ハルは淡々と言葉を紡ぐ。
「何で……?」
「親父のとこ。子どもが生まれたって」
 離婚の原因になった女のひとと再婚して暮らしているらしい、というのは、うちの親が噂していたから知っていた。けど、ハル本人に聞くことはしなかった。多分、苑子もそうだと思う。
「ちょうどいいきっかけになったっていうか。親父と会っても、共通の話題、ないし。映画観てメシ食って小遣いもらって、ってパターン。何か、そういうの、しんどくなってたし。正直」
 夕焼けの空を、細長い雲が流れていく。光を浴びながら。私たちの街を包み込むオレンジが、なんだか、酸っぱい。きゅっと、胸の奥がすぼまるような。
 お父さんの、新しい奥さんに、子どもが生まれた。
 血がつながっているのに遠いお父さん。血がつながっているのに、お互いこれから会うこともないだろう、きょうだい。
 ハルの横顔には、寂しさの色は浮かんでいない。ただ、すべてをあきらめて、受け入れている、そんなふうに見えた。
 子どもの力ではどうにもできないことがある。ハルはそれを知っているから、足掻くことは最初からしない。私より、ずっとずっと大人だったのだ。
 苑子の、生まれてこなかった弟。ハルの、遠く離れてしまったお父さん。ふたりとも、最初から大切なものを失っていて、失ったものを抱えながら生きていて、だから大人で、だから、惹かれ合うのも自然なこと。
 今日。苑子の味方になってあげられなかった自分が、ますます、ちっぽけで弱くて、情けない人間に思えた。
「ごめんな、こんな話。重いだろ?」
 自嘲めいた笑みを浮かべる、ハル。
「重くないし!」
 思わず、ハルのわき腹を、軽くパンチした。なんだか、無性に悔しくて。ハルの笑顔が、私との間に壁を作っているように、そんなふうに思えたから。だから私は。
「そういうの、どんどん話しなよ。あんただってひとのこと言えないじゃん。何でも抱え込んじゃってさ」
 じれったくてたまらない。何もできない自分が。
「……果歩」
「私には、聞くことしかできないけど。でも、ほら、小っちゃいころから一緒にいる、腐れ縁じゃん? 愚痴とか……。何でも、言いなよ」
「ありがと」
 ハルは小さくつぶやくと、私の頭に手のひらをやって、ぐしゃぐしゃっと掻きまぜた。
「ちょっ、やめ」
「お礼に、今度アマガエル触らせてやるよ」
 顔を上げると、ハルがにいっと笑っている。いつもの、無邪気な笑顔。瞬間、心臓がことりと音を立てて揺れる。
 だめ。どうして。胸が。
「冗談じゃないしっ!」
 私はハルに、自分のスクバをぶつけた。ハルは、「じゃーな」と片手をひらひら振って、逃げていく。
「まったくもう……」
 踵を返す。
 ハルの横顔が、笑顔が、頭に焼きついていた。ばか。出てって、と。何度も何度も言い聞かせるのに。胸が。ずっと、酸っぱくて、苦しい。