鍵を回してドアを開けると、おかえりー、という声に出迎えられた。お母さんだ。
 リビングで、ソファに座って、たまったドラマの録画を見ている。
「ただいま。どうしたの?」
 仕事は? と、聞こうとして、そういえば今日は有給を取ると言っていたのを思い出した。お母さんは市内にある小さな会社でずっと事務の仕事をしていたんだけど、私が中学生になったタイミングでパートから正社員になった。
 あのあと、私は、ひとりで帰ってきた。ちょっと用事があると嘘をついて苑子と別れ、団地とは逆方向にある商店街に寄ってみたりして、でも本当にすることがなく、結局本屋で立ち読みをして時間をつぶした。
 何となくひとりになりたかった。たまにはこんな日があったっていいと思う。
 着がえもせず、キッチンに向かう。冷蔵庫から牛乳を取り出し、グラスに注いで一気飲みした。
「ぷはーっ」
「果歩ー。お母さんも何か飲みたいー」
 キッチンとリビングはカウンターを挟んでとなり合っている。お母さんは、ソファにもたれかかったまま、私に命令した。めんどくさいから、お母さんにも牛乳を注いで渡した。
「コーヒーとかがよかったのに」
「だったらコーヒーって言ってよ」
「コーヒーがいい」
「自分で淹れて」
「うわ。果歩、機嫌わるっ」
 お母さんは、わざとらしく顔をしかめた。
 相手してらんない。むっとふくれてキッチンに戻る。お母さんはテレビを消して立ち上がり、カウンターから身を乗り出した。
 着がえたらどこかに時間をつぶしに行こうか。ため息をついて、空になったグラスを流しに置こうとした瞬間。
「あんた、晴海くんとつき合ってんだってー?」
 不意打ちをくらって、手からグラスが滑り落ちそうになってしまった。
「ちょ、何それ」
「千尋さんが言ってた。うちの息子がごめんね、って。夜中に逢引きしてたらしいじゃん」
「違うから、違うからっ」
「まーまーまー。そんなにムキになりなさんな。あんた顔真っ赤だよ?」
「ちがっ……。千尋さんにも言っといて! ほんっとうに、何でもないから!」
 何で今日に限ってお母さんが休みで、このタイミングで、そんな誤解を蒸し返されなきゃならないんだろう。
 ハルが琥珀を渡したのは苑子だ。
 ハルがつき合うのは私じゃなくて苑子だ。
 うちの家族と千尋さんも、苑子の家族も、みんな仲がいい。もし、この話が、苑子の耳に入ったら悲しませてしまう。ハルの耳に入ったら、心底嫌がられてしまう。
「ねーねー果歩、お母さん知りたいなー。きっかけ知りたいなー」
「バカっ」
 思いっきり怒鳴ってやった。だだっと短い廊下を駆けて、制服のまま、家を飛び出す。ほんっとうに、デリカシーのない母親で、嫌になる。
 階段を一気に駆け下りる。途中で、どんっ、と、大きい何かにぶつかった。
「あぶねーな。前見て歩けよ、果歩」
 ハルだ。
「……ごめん」
「いや、べつに怒ってないから。ただ、怪我するだろ? そんな猛スピードで」
 私は顔を上げることができない。立ち止まって、うつむいて、髪をしきりに触って、それでも胸の奥がざわめいて落ち着かない。
「何か、あった?」
 へんだぞおまえ、と、ハルが私の頭に手を置いた。いたわるような、やわらかい声。
「触んないでよ。何もないし。バカじゃない?」
「はあー? 何だよその言い方。ひとが心配してんのにそれはないだろ?」
 ハルが声を荒らげる。
「心配してくれなんて頼んでない」
「そうかよ。じゃ、もう、知らね」
 じゃな、も、またな、も言わずに、ハルは私の横をすり抜けて階段を上っていった。だんだんだん、と、私のそれより重い足音が響く。ハルの足音は、すぐにわかる。わかってしまう。
 嫌に、なる。