――前から思ってたんだけど。二宮さんってさ。
 ためらいがちに声をひそめた、真紀。
 小テストの紙が配られる。まったくもって思い出せない英単語のスペルのかわりに、真紀のセリフが脳内でリフレインしてる。
 二宮さんってさ。
 続きの言葉がたやすく浮かんでしまう自分を、持て余している。
 これなら、真紀が全部言ってくれた方がよかったと、ずるいことを考えてしまう。
 私は苑子が好き。一点の曇りもなく、好き。
 だけど、きっとみんなはそう思ってはいない。
 要領よく、クラスのどのグループ、どの階層の女子たちとも話を合わせられる私とちがって、苑子は臆病だし、ぽんぽんはずむ会話のテンポにもいまいち乗っていけない。
「果歩のこと誘いたいけど、二宮さんも一緒なら、ちょっと……」
 とか、
「果歩はいいけど、二宮さんは、ちょっと、何話していいかわかんない。気を遣っちゃう」
 とか。言われたことは、一度や二度じゃない。
 さっきの真紀は、きっと、もっと鋭い言葉を口にしようとしていた。私はそれを、瞬時に察してしまった。
 あと一分、と、先生が声を張り上げた。私はどうしても、目の前の問題に、集中することができない。
 結局、小テストは散々な出来で、私は放課後に間違った単語の書き取りをして先生に提出することになってしまった。
 黙々と作業をこなす。脳にスペルは刻み込まれない。マシーンと化して、ただ、ひたすらに手を動かすだけ。
 私だけじゃない。他にもちらほら、居残り命令が出されたクラスメイトはいる。ハルも、だ。ハルは数学や理科は得意だけど英語は苦手。ザ・理系って感じの偏り方。私はというと、全教科まんべんなく苦手だ。
 苑子は自分の席で、文庫本を読みながら、私のノルマが終わるのを待っている。
 ラストの単語のラストの一文字を書き終えて、ノートを閉じて。伸びをしてぐるぐると肩を回す。あとは職員室に行って先生に提出するだけだ。その前に、苑子にひとこと言って行こう。
 立ち上がり、苑子の席の方を見やると、杉崎くんがいた。杉崎くんが、赤い顔して苑子に何か話しかけている。苑子は文庫本を閉じた。きゅっと、口を引き結んでいる。立ち上がり、ふたり連れだって教室を出ていく。
 苑子のもとへ行くタイミングを失って、私はただ、その様子を見守っていた。今まで苑子のことを見ているだけだった杉崎くんが、ついに、行動に出たのだ。
 苑子のとなりの席の、ハルに視線を移す。ハルは、シャーペンを動かす手を止めていた。
 私はなんだか落ち着かなくて、肩にはまだ届かない半端な長さの自分の髪を、ひとたば、人差し指に巻きつけてはほどき、巻きつけてはほどき、していた。立ち上がったままで。職員室に行くこともせずに。
 ハルはまだ止まっている。かちりと、一時停止ボタンを押されたみたいに。
 多分、今、苑子は告白されている。
 ハルもそのことに気づいている。自分の友達が、苑子のことを好きで、ついに思いを告げる決心をしたことに。
 ハルが、ふいに顔を上げて、苑子の席を見やった。苑子の机に置かれた文庫本を、見つめた。その、表情(かお)が。
 知らないひとみたいだった。小さいころから一緒にいる、私のよく知ってるハルじゃない。
 寝癖のついた頭を無造作に掻いたり、ガチャガチャに一喜一憂したり、未確認飛行物体を探して空を見上げたり。そんな、私の、幼馴染みじゃない。
 どうしてだろう。急にいたたまれなくなって、ハルの席に駆け寄った。後ろから、ぽこんと頭をはたいてやる。
「まじめに書き取りしなよ。ばーか」
 戻ってきてよ、ハル。
「ばかって何だよ、ばかって」
 ハルはむくれた。少しだけ、ほっとする。
 私は、ハルの前の席に座った。
 しばらくして、苑子がふらふらと戻ってきた。ひとりだ。私は立ち上がって、駆け寄った。
「かほちゃん」
 苑子の顔は真っ赤だ。もともと色白だから、花がほころぶみたいに、さあっと色づくのだ。
「わ、私」
 私は苑子の両手を取った。
「見てた。何となく察してる。で、その」
 どうするの、と、声をひそめる。苑子は首を横に振った。ぶんぶんと、何かを振り払うように、何度も、首を横に振った。
「こ、断わった。だって、だって私」
 苑子は目に涙をいっぱいためている。
 杉崎くんじゃ、ないんだ。苑子の好きなひと。
 やっぱりな、と思う自分がいた。
 気づかないふりをしていた。苑子の想いの矢印が向かう相手なんて、最初から、限られている。限られているというか、ひとりしかいない。
「一緒に帰ろう」
 ささやくように、告げる。苑子は小さくうなずいた。
 ハルの方は、見られなかった。