その声を無視し、私は淡々と処置をする。

「おいっ!雫!わ、ざ、と痛くしてないか?」

 医師の前でも、図々しく私を呼び捨てにする彼。医師が呆れ顔で私を見た。私はブルブルと首を振り、目で『特別な関係ではありません』と訴える。

 恥ずかしい思いをしたが、あえて彼の言葉はスルーし聞こえない振りをした。

 絶対に許さないからね。
 あとで文句を言ってやる。

 医師の手前、平常心を装いながらも怒りが湧き起こる。その怒りは沸点に達し、グツグツと腸が煮えくりかえる。

「雫、雫!包帯キツすぎだろ。おいっ!聞いてるのか?こらっ!」

「大丈夫ですよ。ちゃんと調整してますから」

 にっこり笑って、ギュッて包帯を絞める。
 職権濫用だ。

 回診のあと、医師から「一部の患者さんと親しくするのはどうかと思いますよ」と、厳重注意を受けた。これも全部、あいつの無神経な呼び方のせいだ。

 一日中怒りはおさまることはなかったが、この日は入退院の患者さんがいて、慌ただしく仕事をしていたため、彼に文句を言う暇もなかった。

 それなのに、なんでこんなにもあいつの事ばかり考えているのか、自分でも納得がいかなかった。



 当病院のシフトは基本的に二交替制で今日は日勤だったが、夜勤の人が風邪でダウンし、急遽休むことになっため、午後四時でいったん仕事を終え、零時から深夜勤に入ることになった。

 突然シフトが変更になることは、当院では多々あること。いったん帰宅し、睡眠を取り、再び出勤する。

 私はどちらかといえば臆病者だ。
 深夜の巡回はもう慣れたとはいえ、午前二時、三時を過ぎると、夜の静寂に言い知れぬ寂しさを感じ胸が押しつぶされそうになる。

 薄暗い廊下、病院特有の雰囲気。
 静まり返った病棟。

 ――あの飛行機事故の無惨な光景が……
 脳裏を過ぎる。

 病室を巡回していると、廊下の隅で話し声が聞こえた。誰かが携帯電話で喋っているようだ。

 みんな就寝しているのに、少し耳障りな話し声。

 注意しようかな……。
 深夜だし、他の患者さんに迷惑だよね。

 人影に近づき、ピタリと足が止まった。
 電話の主は中居保だった。

 彼は私に気付き携帯電話で話しながら、こちらに視線を向けた。

 やばい……。

 野獣と目が合ってしまった。

 見なかったことにしよう。

「じゃあな。また電話するよ」

 彼は電話を切ると、携帯電話をパジャマの胸ポケットに収め、私を見据えた。

 私はそしらぬ顔で、彼の横を通り過ぎる。
 瞬時に、ムンズと手首を掴まれた。

 獲物を捕らえた獣みたいに、彼は不敵な笑みを浮かべた。

「えっ……な、何ですか」

「それはこっちのセリフだよ。何か言いたそうに俺を見てただろ」
  
「電話をかけるなら、談話室でして下さい。他の……患者さんに……迷……」

 言葉が終わらない内に、いきなり抱き竦められ唇を奪われた。

 予想だにしない……キス……。

 突然のことに、私はフリーズして動けない。彼の左手はガッチリと私の体を捕らえている。

 数秒後、我に返った私は慌てて彼から離れた。

「な、何をするの」

「だって、月夜に照らされた雫が可愛いかったから」

 彼は窓の外を見上げた。
 夜空にぽっかりと浮かぶ月。
 黄色い月が神秘的な光を放っていた。

「……っ、そんな理由で……」

「それだけじゃダメ?」

「……ふざけないで下さい」

 私は彼から離れ、くるりと背を向け歩き出す。背中に彼の視線を感じながら、羞恥心から火が点いたように体が火照った。

 ありえない……。

 ありえない…………。

 ありえない…………………。

 心の中で何度も否定しながらも、鼓動は乱れドキドキと音を速める。

 ナースステーションに戻り上がった息を整え、冷静になればなるほどに自己嫌悪に陥り、頭を抱えて蹲る。

 巡回から戻った看護師に声をかけられ、ビクンと体が跳ねた。

「朝野さん、どうかしました?何か大きな声がしましたけど?」

「い、いえ、何でもないの。廊下で電話していた患者さんに注意をしただけよ」

 私としたことが……
 あんな男の毒牙にかかるなんて、情けない……。

 どうしてこんなにも冷静さを欠き、アタフタしてしまうのだろう。

 あんな奴、一発ひっぱたけばよかったのに。
 どうして、叩けないのよ。

 あの澄んだ目に見つめられたら、次の言葉が出てこない。

 彼を異性として意識しているから?

 ま、まさか……!?

 あいつには怜子って恋人がいるのよ。

 看護師をからかって遊んでいるに過ぎない。

 セクハラで訴えることもできる。

 でも……。

 ――『だって、月夜に照らされた雫が可愛いかったから』

 鼓膜に残る彼の言葉が、その怒りにブレーキをかけた。
 
 今日は夜勤あけで、明日は休暇を取っている。だから、彼と顔を合わせるのもあと少しの辛抱だ。

 テンパっている自分に、何度もそう言い聞かせた。