『奇跡の少年』良は当時世間でそう呼ばれていたが、ショックから事故当日の記憶は欠落していた。

 その後、周辺にいた人や警備員の話で、良は一人の少年とこのような会話を交わしていたことがわかった。

 ――十年前のあの日、良は見ず知らずの少年が羽田空港ロビーのソファーで倒れているのを発見し、揺り起こしたそうだ。

 その少年は、良にこう問いかけた。

『君の名前は……?』

『僕の名前は朝野良《あさのりょう》』

『良君、お姉ちゃんいる?』

『いるよ。お兄ちゃん、お姉ちゃんのこと知ってるの?お姉ちゃんは今日キャンプなんだよ。だから行かないの』

『……お姉ちゃんの名前は、朝野雫?』

『そうだけど……どうして知ってるの?』

 少年は突然血相を変えた。

『良君、飛行機に乗っちゃダメだ!お父さんもお母さんも乗っちゃダメだ!』

 少年は良の手を強く握り、大声で叫んだ。
 その声に驚き、良は怖がっていた。

 北ウィングの出発口付近にいた両親と警備員が良に近付く。

『良……』

『お母さん!』

 良は母に抱き着き、警備員は少年の前に立ちはだかる。

『君、小さな子供に何をしているんだ』

『違うんだ。ARR823便は今すぐ点検整備して下さい!エンジントラブルであの飛行機は墜落する。乗客、乗員の命が奪われてしまうんだ!』

『君、何の根拠もない話をでっちあげるんじゃない。最近の若者はこれだから困るんだ。これ以上暴言を吐くなら、搭乗は認めないよ。警備室で話を聞かせてもらうことになりますよ』

『朝野さん、お願いだから、搭乗しないで下さい!皆さん!ARR823便に乗ってはいけない!

 周辺にいた者も両親も、少年の言葉を信じることなく、北ウィングの出発口に向かった。

『良君!お兄ちゃんの座席は君の隣なんだ。窓側だから、綺麗な景色が見える。お兄ちゃんの座席に座るんだ!必ず座るんだ!いいね!』

 数名の警備員に取り押さえられた少年は、それでも叫び続けたという。

 ARR823便は点検整備することなく、定刻通り羽田空港を飛び立った。

 ――そして、悲劇は起きた。

 良は事故が起こる直前に、空席となった窓際の座席にコッソリ移動し、窓から景色を眺めていたらしい。

 母は良に自分の座席に戻るように何度も注意を促したが、良は言うことを聞かなかった。

 その直後に不幸な事故は起こり、良は窓際の座席に座っていたことで、奇跡的に助かった。

 もしも良が自分の座席に戻っていたら、奇跡は起きなかったかもしれない。その後母の遺体はDNA鑑定で確認されたが、父はその一部すら、発見出来なかった。

 ――生と死。
 神を恨み、運命を呪った私が、数年後看護師の道を進むことを選んだ。その思いは幼い良も同じだった。

 両親にしてあげられなかったことを、病気や怪我で苦しむ人の力になりたい。

 それは正義感や使命感からではなく、自分だけがこの世界に生き残ってしまった後悔と懺悔の気持ちからだった。