「朝野さん。恵ちゃんは退院した事にするのよ。分かったわね。周りの子供たちに不安を与えてはダメよ」

 婦長の指示通り、恵は回復し退院したと子供たちには伝えることとなった。

 早朝、目を覚ました拓が、不安な眼差しで私に問いかける。

「ねーねーしずく、恵ちゃんは?」

「たっくん、おはよう。恵ちゃんはお家に帰ったのよ。これね、たっくんにあげるって」

「えーっ!?恵ちゃんのくまさんだ!大事にしてたのになんで?」

「たっくんに持っていて欲しいんだって……」

「ふーん。でも、みんなにさよなら言わないで帰ったのか?」

 拓が私をジッと見つめた。
 無垢な瞳に、私は笑顔で答える。

 ――『みんなにさよならいわないで』拓の素直な言葉に、胸が熱くなった。

「恵ちゃんも、みんなに『さようなら』が言いたかったはずだよ。でも、朝早かったし、みんなはまだ寝てたからね。恵ちゃん、お家に帰るのがすごく嬉しかったんだよ。きっと、みんなに『ありがとう』って言ってるよ」

「そっか、おれもいつかおうちにかえれる?」

 たっくん……
 お家に帰れたらいいね……。

 元気になって、帰れたらいいね……。

 早くドナーが見つかったらいいね……。

 私は思わず、拓の小さな体を抱きしめた。

「しずくぅ……どうしたの?」

「ううん、なんでもない。たっくんが可愛いから、ギュッとしたくなったんだよ」

「えへへっ、てれちゃうなぁ」

 拓は照れ臭そうに笑った。
 私達の話し声で目覚めた子供たちが、ベッドから降りて私に近付く。

「わたしもギュッとして……」

「ぼくもぉ……」

 早朝は付き添いの両親も不在で、みんな寂しくて堪らない。

 ベッドの周りに集まった子供たちに、拓が声をかける。

「よーし!じゅんばんだぞ!」

 小さな拓がみんなの順番を決め、私は一人ずつギュッと抱き締めた。

 ――どうか……

 この子供たちが……

 一日も早く健康になれますように。

 私は心の中で祈りながら、一人ずつ抱き締めた。

 ◇

 ――朝、夜勤の仕事を終え病院を出ると、病院の前に保の車が停まっていた。

 窓越しに保の顔を見て、救われた気がした。
 一人では背負いきれないほどの深い悲しみに、心が押し潰されそうだったから。
 
 私は車の助手席に乗り込む。

「保、ありがとう……」

「いいえ、どういたしまして」

 保は私を見つめにっこりと笑った。

「どうした雫?元気ないな?」

「うん……。今日ね……小さな子供が亡くなったんだ……」

「そっか……。可哀相だったな」

「うん……」

 私は恵ちゃんの死を悼み涙ぐむ。

 保が左手を伸ばし、私の頭をくしゃっと撫でた。

「泣くな……」

 保の一言で、涙がどっと溢れた。
 私は看護師に向いてないのかもしれない。

 人の死に直面したら、心が弱くなってしまう。

 保が私の手を力強く握り締めた。そして優しく微笑む。

 保の優しさが、粉々に壊れそうになっていた心を繋ぎ止めてくれた。

 泣き顔を上げ保に微笑み返す。
 車窓から歩道に目を向け涙を拭った。

 ――その時……。

 歩道で一組の家族連れを見つけた。

 その女性は……紛れもなく優美さんだった。

「優美さん……」

「えっ?」

「保、優美さんだよ」

 信号が赤になり、保が歩道に視線を向けた。

 彼女は年配の男性と談笑しながら歩いていた。男性の隣には中学生くらいの女の子がいた。

 ほんの一瞬だったけど、私には幸せな家族に見えた。

「よかったな。優美……」

 保がポツリと呟いた。
 心の底から安堵したような、穏やかな声だった。

 私の心の中にあった白い霧がやっと晴れた気がした。