病院の前に車は停車した。病院を見上げ、保が心配そうに問う。

「雫、間に合うか?遅刻の理由俺が話そうか?」

「冗談はやめて。やばいけど大丈夫。全力で走るから……」

 慌てて車を降りようとした時、保が叫んだ。

「おい!忘れ物だぞ」

「えっ……!?な、何……?」

 振り返ったら……保が私にキスをした。
 不意にキスをされ、何が起こったのかわからず数回瞬きをする。

「雫、行ってらっしゃい」

 保が満面の笑みで私に手を振った。

「……いってきます」

 照れ臭くて……
 周囲を気にし、思わず苦笑する。

 車を降りると、猛ダッシュで病院の裏口に走り、ロッカールームに飛び込んだ。

 自分のロッカーに急ぐと、いつも遅刻ギリギリにくる茜と目が合った。

 茜はもう白衣に着替えている。

「やだ。雫、寝過ごしたの?珍しいね。しかもノーメイク?やだ、ひっどい」

「ひ、ひどい?」

 保は可愛いと言ってくれたけど、やっぱり酷いよね?
 
 思わずロッカーの扉に設置されている鏡を覗き込む。

 確かに、田んぼの案山子『へのへのもへじ』レベルだ。

「ほら、さっさとメイクしなさい。そのままじゃ患者さんが誰だかわかんないよ。でも時間に几帳面な雫が寝過ごすなんて、もしかして保と仲直りしたの!?朝までイチャついてたとか?雫、もしそうならありえないよ」

 茜はニヤニヤしながら、口紅を塗っている。

 図星だ……。

 茜は言いたい放題だな。
 親友だからって、少しは遠慮してよ。

 とりあえず、メイクしなきゃ。

「やばっ、八時過ぎてる。雫、先に行くね」

「……うん」

 茜はロッカールームを出て外科病棟に向かった。私は大慌てて眉を描きアイシャドーとリップだけつける。普段からナチュラルメイクを心掛けているため、たいして変わらないよ……ね?

 ナースになって無遅刻、無欠勤がモットーだったのに、初めての遅刻……。
 
 小児科病棟に異動になって間もないのに。
 最悪だな。

 ――その日、婦長に注意されたことは言うまでもない。

 ◇

 病室へ急ぐと、恵の高熱はまだ下がっていなかった。

「恵ちゃん、おはよう。点滴交換するね」

 小さく頷く恵の隣で、母親が心配そうに付き添っていた。

 昨日はしていなかった酸素マスクを装着し、呼吸はとても苦しそうだった。検査の結果、ただの風邪ではなく肺炎を併発していた。

 体力も免疫力も落ちている子供たちは、風邪を拗らせただけで命に危険が及ぶことがある。

「氷枕を新しくしてきましょうね」

 私は氷枕を手に病室を出る。
 恵の病室を出ると、廊下をウロウロしていた拓がすぐに走り寄った。

 不安そうに、私の白衣の裾を掴む。

「たっくん、自分の病室で待ってて。恵ちゃんの氷枕変えてくるからね」

 拓が『イヤイヤ』と首を左右に振る。

「どうしたの?」

 ここにいる子供たちは、みんな敏感だ。他の子供の異変はすぐに察知する。

「しずくといっしょ」

「一緒に来るの?」

「うん」

「わかった。じゃあ一緒に行こう」

 私は拓と手を繋いでナースステーションに戻った。