「母親になろうと思うからいけないんだよ」

「えっ……」

「どうあがいたって、優美は母親にはなれないんだ。だって、その子には本当の母親がちゃんといるんだから。それは無理な話なんだよ。その男のさ、いい奥さんになろうって、それだけ考えていればいい。そしたら、その中坊もお袋さんもさ、優美の事を理解してくれるようになるさ」

 俺……何を言ってるんだ。

 優美と男の仲を、取り持ってどうするんだよ。

 そいつは俺から……優美を奪った男なんだから。

 バツイチの上司のくせに、部下に手を出した非常識な男なんだ。

 七ヶ月振りに会った優美は、あの頃より綺麗になっていた。美しい横顔が苦悩に満ちた表情に歪む……。

 そんな悲しい顔、するんじゃない。
 優美にそんな顔は似合わないよ。

『優美を泣かせるような男と、さっさと別れて戻ってこい』その言葉が喉元に引っかかる。

 俺は唇を噛み締め、優美を突き放す。

「車で送ってやるから。その男と腹を割ってよく話し合え」

「保……」

「お前は二度とここには戻らないつもりで出て行ったんだよな?」

 優美の潤んだ瞳が俺を見つめた。

「だったら、もう戻ってくるな。俺……今、付き合ってる子がいるんだ。だから、お前がこうして戻ってきたら、困るんだよ。頼むよ、もうここには来ないでくれ」

「保……」

 優美は声を震わせ泣き出した。

 ――泣くなよ……。

 優美……
 そんな目で、俺を見るな。

 頼むから……
 そんな目で、俺を見ないでくれよ。

「わかった……ごめんね。迷惑だったよね。もう一度、彼と話し合ってみるよ。もう……ここには来ないから、本当にごめんね」

 涙声で俺にそう告げると、大粒の涙が頰にこぼれ落ちた……。

 俺から……
 優美がスッと離れた。

 優美の香りが……
 俺から遠ざかる。

 ――あの頃と……同じ香水……。

 楽しかった日々が、走馬灯のように脳裏を駆け巡る。

 優美を突き放したくせに、俺は咄嗟に優美の手を掴んでいた。

「……保」

 振り向いた優美を……
 強く抱き締める。

「保……?」

 自分でも、どうして引き止めてしまったのか分からない。

「ごめん……。最後に少しだけこうさせてくれ。少しだけでいいんだ……」

「保……」

 俺は優美がここに必ず戻って来ると、心のどこかで待っていた……。

 やっと戻って来た優美……。
 この手を離したらもう二度と会えない。

 自分の気持ちに終止符を打つために、俺は優美を抱き締める。

 これで優美とは永遠に『さよなら』なのだと……。

 優美が俺を見上げた。
 もう一度別れを告げようとしたら、優美の方から俺に唇を重ねた。

 優美の優しいキスが、俺を過去に引き戻す。

 あの頃には戻れないくせに……
 俺達は互いの唇を求めた。

 別れていた七ヶ月間の想いをぶつけ合うように、激しく唇を貪る。

 ――その時、玄関の開く音がした。

 俺の視界に、玄関に佇む雫の姿が映る。

 雫は手に持っていたビニール袋を足元に落とした。袋の中から、コロコロとりんごが転がった。

 慌てて優美が俺から離れた。

 雫は暫くボー然と佇む。

 次第に……雫の目に涙が浮かぶ……。

 ――数秒後……。

 雫は唇をキュッと結び、靴のままズカズカと部屋に上がり込んだ。

 雫は俺の目の前に立ちはだかると、俺の頬を思いっきりひっぱたいた。

 頬を叩く大きな音と、キーンと鼓膜に響くほどの痛みが走る。

「っあ……!?」

 俺は唖然とし、雫を見つめた。
 雫はてっきり逃げ出すかと思ったから。

 雫は俺を見据え、強い口調でこう言い放った。

「だれ?」