深夜だったため他の患者さんは皆就寝し、病棟は静まり返っていた。廊下を移動中、彼が携帯電話で誰かに電話をかけていた。

 その声が静かな廊下に、耳障りなほどに響く。

「あっ、俺、俺、一週間くらい入院だってさ。明日でいいから、着替えと入院の保証人頼むわ」

 恋人かな?
 奥さんかな?

 なーんだ。
 ちゃんと世話をしてくれる相手がいるんだ。

 私は彼の会話を聞きながら、病室に案内する。空いているベッドは右側の窓際だ。

 四人部屋で、同室の患者はもう眠っていたため、病室の中に静かに入った。

「入院についての詳しい説明は、明日の朝しますから、このベッドを使用して下さい」

「ここか。窓際だから眺めもいいな。看護師さん、カーテンを閉めてくれる?」

 私は彼に言われるままに、白いカーテンを閉めた。

「ご家族が着替えを持ってこられるまで、病院の寝間着をお貸ししますね。私物は棚の抽斗に入れておきます。もしも、患部が痛むようでしたら、ナースコールを鳴らして下さい。痛み止めを出しますから。では、おやすみなさい」

 カーテンに手をかけたとき、いきなり彼が私の腕を掴んで引き寄せた。バランスを崩した私はベッドに座っていた彼の胸に倒れ込む。

 えっ……?な、何?

 突然のことに、私は声が出せない。

 彼は倒れ込んだ私のうなじに顔を近づけた。

 これは、な、なに!?

 私は彼を突き離し、思わず睨みつけた。

「な、何をするんですかっ!」

 彼は悪びれた様子もなく口角を引き上げた。

「朝食何時か聞こうと思っただけだよ。看護師さんがバランス崩して抱き着いたんだろう。案外積極的なんだな」

 はあ?ふざけてるの?

「看護師さんって香水つけてないのに、いい匂い」

「……や、やめて下さい。変なこと言わないで。朝食は午前七時ですから」

 どんなに誤魔化しても、あれは明らかにセクハラ行為だ。倒れるくらい強く引っ張ったくせに白々しいにもほどがある。

「それよりさ、俺の服、せっかくプレゼントしてもらったのに、ハサミで切り裂かれたら相手に申し訳ないだろう。看護師さんがもちろん責任とってくれるんだよね」

 責任?この私に謝罪しろと?

「申し訳ありませんでした。失礼します」

 私はこの場から逃れるために頭を下げ、勢いよくカーテンを開き病室を飛び出した。

 ナースステーションに戻っても、鼓動はまだドキドキと鳴り止まない。

 あいつに掴まれた手首。
 水道の蛇口を捻り、ハンドソープでゴシゴシと洗う。彼に触れられたと思っただけで、鳥肌が立ちそうだ。

 テーブルの上に置かれたカルテに視線を落とす。『中居保《なかいたもつ》二十四歳。職業は消防士』

 ――消防士だったんだ……。
 でもどうして私服だったんだろう。

 上から目線だから年上だと思っていたら、私と同じ歳じゃない。人を馬鹿にして、看護師を何だと思ってるの。

 セクハラは絶対に許さないんだから。
 看護師が大人しくしてると思ったら、大間違いなんだからね。

 私の怒りは、夜が更けても暫くは治まらなかった。

 ――翌朝、午前八時、日勤の看護師との交代。
 ナースステーションで申し送りを済ませ、帰ろうとした時、同僚の看護師、山口茜《やまぐちあかね》が、声を掛けてきた。

茜は私と同期で、同じく二十四歳だ。

「昨夜、また急患だって?雫が夜勤の時って、いつも急患が入るよね。それで昨夜の人ってどんな感じ?カルテを見るからには、私達と同じ年齢だし職業は消防士。ねぇ、イケメンだった?」

 あいつがイケメンかって?

 そんなのどうだっていいでしょう。

 看護師にいきなり抱き着くような男だ。
 理性のない野獣と同じに決まってる。

 私は茜の質問に、ぶっきらぼうに答える。

「別に、たいした男じゃないわよ」

「なんだ、期待したのに残念」

 茜は私の肩をポンッと叩いた。
 残念なのは、あの男の性格だ。

 日勤の看護師と交代し、ナースステーションから出ようとした時、若い女性に呼び止められた。

「あのう……中居保さんは何号室ですか?」

 見るからに二十代の女性。年齢は私と同じくらいにも見える。

 咄嗟に昨夜の電話の相手だとわかった。
 派手なメイクをし、長い爪には赤いマニキュアに黄色い薔薇が描かれていて、彼女からはきつめの香水とお酒の匂いがした。

 もしかして水商売なのかな?キャバ嬢に見えなくもない。

 でも、若くて華やかで綺麗な女性だ。

 私は夜勤あけで疲れていて、一刻も早く仕事から解放されたかったため、ナースステーションで点滴の用意をしている茜に声を掛ける。

「山口さん、お願いします」

「ごめん、朝野さん。今から402号室で点滴の交換なのよ。帰る前に、中居さんの病室に案内してくれない。入院の説明にはあとで必ず行きますから」

「ええー……」

「朝野さん、お願いしまーす」

 茜、それ、本気で言ってるの?
 あいつの病室なんて、行きたくないよ。
 あいつは私に悪意を持ってセクハラしたんだよ。

 ていうか、こんな話をしても、誰も信じてくれないよね。

 昨夜のことを思い出しただけでも腹が立つ。
 彼の顔なんか、二度と見たくない。

「ねえ、看護師さんまだなの?」

 女性に催促され、仕方なく笑顔を向ける。

「中居さんは432号室です。ご案内します」

 他の看護師や彼女の手前、そのまま立ち去ることもできず、私は彼女を渋々病室まで案内した。