校舎をなぞるように設置されている花壇には、アリウムとシラーが薄紫の花を咲かせている。
アリウムは細い茎の先に丸い花が、シラーは星形やベル形の小花がたくさんついていて、どちらも薄い紫色。花自体は小さくて目立たないが丈夫で育てやすいのが特徴だ。
梅雨時期には外での作業も難しくなるため、桜先輩が去年の冬前に球根をこれでもかというほど植えたそうだ。
夕暮れの校庭を横切れば、長い影も一緒についてくる。
グラウンドのほうからは野球部のかけ声がこだまのように響き、空に昇っていくよう。
毎日、部活の終わりには花壇を見まわっている。ときには右回り、ときにはジグザグにチェックをしていく。
園芸部は花だけでなく樹木も担当する決まりだが、さすがに部員ふたりでは手に負えず、下瓦さんに丸投げしている状態だ。
入部当時は作業着に緑色のエプロン姿でウロウロすることに恥ずかしさもあったけれど、人は慣れる生き物。最近では平気になり、花壇で作業をする僕に『ごくろうさま』と先生が声をかけてくれることも多くなった。
にしても、この高校はほかでは見ないほどに花壇が多い。
水やりだけでも相当な苦労があるだろうから、下瓦さんも大変だろう。
「あ! いた!」
向こうから風花が駆けてくる。さっき二手に分かれて見まわりを始めたところなのに。
「え、もう終わったの?」
「うん」
はあはあ、と苦しそうに息を切らす風花。額に光る汗が、頬の辺りに伝っている。
「走らなくていいのに。って、昨日も言ったよね?」
「あ、そうだった」
今、思い出したかの様子で風花は目を丸くしている。
「もう暗くなってきたし、走っちゃ危ないよ」
「うん。ありがとう」
褒めているわけじゃないけれど……。
部室に向かって歩いていると、ちょうど下瓦さんが用具入れから出てくるところだった。
僕を認めると、あごをクイッとあげた。これは、『こっちに来い』の合図だ。
「お疲れさまです」
ふたりして駆け足で近づくと、下瓦さんは「ん」とひと文字で答える。
最初のうちは苦労した意思疎通も最近ではコツが掴めてきたみたい。
「ガーベラの水やりをしたのは?」
下瓦さんが太い人差し指を交互に動かしたので、
「僕です」
と答えた。
「わたしです」
風花が言う。
「いえ、僕です」
「うるさい! もうどっちでもいい」
太い腕を組むと、下瓦さんは「腐るぞ」そう言った。
水の量が多すぎたということだろう。
「すみませんでした。以後、気を付けます」
きっちり謝罪する。風花が慌てて口を開いたところを、下瓦さんがごつい右手を開いて制した。
「きみは花壇へ」
花壇の手入れをするように、という意味だと受け取る。
「はい!」
慌てて駆け出す風花の頭は、もうアネモネで埋め尽くされているに違いない。走ったら危ないと言ったばかりなのに。
ふたりして見送ると、下瓦さんは体を僕に向けた。
「これ、頼む」
手渡されたのはラベルのはがされた二リットルが入る大きさのペットボトルだった。透明の液体が八割くらい入っていて、ずっしりと重い。
取っ手のついているところを見ると、焼酎が入っていたと思われる。
なんだろう、これ?
疑問が顔に出ていたのだろう、下瓦さんはわざとらしく大きなため息をついた。
「液肥」
最低限の言葉で説明しようとするが、すぐに僕が理解していないと悟ったのか、
「スマホで調べろ」
と、もう歩き出してしまう。
「えきひ、ですか?」
背中に声をかけると、足を止めた下瓦さんがめんどくさそうに振り向いた。
「間違っても飲むなよ。あっという間にあっちに行くぞ」
太い人差し指を上空に向けている。
どうやら『死ぬ』と言いたいらしい。強面で言われると思わずゾッとしてしまう。カクカクとロボットのようにうなずくと、下瓦さんはクワッと顔をゆがめた。
いや……どうやら笑っているらしい。
「四十倍に薄めて使え」
「わかりました」
「東校舎にホースが置かれたままだぞ」
「はい」
「倉庫に種が届いていたから持っていけ」
「はい」
頭にメモをして僕も歩き出す。
言われたことをこなしているとどんどん空が暗くなっている。
下瓦さんの言う通り、明日は雨らしく上空を厚い雲が覆い始めている。
日の入りは徐々に遅くなっているとはいえ、さすがに六時。
もう帰ったほうがいいだろう。
部室の建物が見えたと同時に、脇の花壇にしゃがみこむ風花のうしろ姿が見えた。
自然に足が止まってしまう。
――痛いな。
無意識に胸の辺りに手を当ててしまう。
先月までは会えることが楽しみで、部活の時間が待ち遠しかった。
入部以来、風花は毎日放課後になるとここに来たし、重労働な園芸部の活動にも文句は言わなかった。
むしろ、土にまみれ虫に刺されても楽しんでいるように見えた。
さっきまで一緒にいたのに、少し離れただけで会いたくなっている。
変わったのは僕のほうだ。
授業よりも友だちと話をするよりも、風花に会うことだけが毎日の中で重要なことになっている。
二十四時間分の約二時間。かけがえのない時間は、終わった瞬間からもう会いたくなっている。
同時に感じるのは孤独という名の耐えがたい感情。
――そんなわけがない。
これは恋なんかじゃない。自分に言い聞かせるように、今度はしくしくと痛むお腹に手をおろす。
ああ、こういうのもストレスになるのか。
たまたま同じ部活に入っただけの仲。クラスも違うし、プライベートな話なんて少しもしたことがない。
もちろんスマホの連絡先も聞けずにいる。知っているのは、家に帰る方向が違うということくらい。
意識して大きく息を吸いこむと、
「お待たせ」
軽い口調を心がけ、風花に近づいた。
「お疲れ様」
スコップを手に振り向く風花。花壇には、先週までアネモネがあんなに様々な色で咲いていたのがウソみたいに半分近く散ってしまっている。
「だいぶ枯れちゃったね」
風花が指す先、そこにはしおれかかっている白いアネモネがあった。
「もう六月だしね」
「残念だなぁ。ずっと咲いていたらいいのに」
「そうだね」
何気なく答えても、耳が心が彼女の言葉を受けとめようと必死になっている。
「夏にもいろんな花が咲くよ」
慰めの言葉をかける僕に、風花は「そうだね」と言った。全然、納得していないのがたった四文字の言葉でも伝わってくる。
「なんでそんなにアネモネが好きなの?」
「見た目と違うから」
「見た目?」
「あんなにきれいなのに、花言葉がさびしいでしょう? そういうところかな」
はかない恋、か。
まるで僕のことを表しているみたいだ。
必死で否定しても、コップから水が溢れるように気持ちが止められない。
風花に近づきすぎないよう距離を取りしゃがんだ。僕たちの前にある花壇では元気なく首を下に向けている。
「アネモネは球根植物なんだ」
間を埋めるように説明をする。
「球根?」
「うん。だから、明日から土の中にある球根を取り出して保存するための作業をするよ」
頭の上にハテナマークを浮かべる風花は、まだピンときていない様子。
「秋ごろに『分球』という作業をするんだ。分球によって古い球根から新しい球根に生まれ変わる。それを植えれば、来年の春にはまたきれいな花を咲かせるよ」
ようやく理解したのか、ぱあっと顔を輝かせた風花。あまりにうれしそうに笑うから、眩しくて目をそらしてしまう。
「それって、花が生まれ変わるってこと?」
生まれ変わるなんて大げさだと思ったけれど、喜ぶ風花をもっと見たくて、だけど見られないまま僕はひとつうなずいた。
「そう、だね。準備さえきちんとしていれば、生まれ変わるよ」
「もうお別れかと思ってたからすごくうれしい。ありがとう」
「いや、僕はべつに……」
実際のところ、枯れゆくアネモネを悲しがる風花のために必死で調べたこと。照れを隠すように空を見ると、夜がいた。
「じゃあ、そろそろ帰ろうか?」
「え、もう?」
立ちあがった風花の柔らかい髪が風に踊っていた。
同じように体を起こすと、僕は手にしていたペットボトルを見せた。
「下瓦さんからの指令でさ。液肥、ってのを調べなくちゃいけないから先に帰って」
「じゃあ、わたしも残る。一緒に調べたほうが早いよ」
「ひとりでいいよ。家族が心配しているといけないし」
そう言った瞬間、にこやかだった風花の表情が翳ったのを見逃さなかった。
それは僅かな変化だったけれど、悲しみを含んでいると思った。
が、すぐに風花は晴れ渡るような笑みに戻っている。
「いいから一緒にやろうよ。たったふたりの部員でしょう。部室に集合!」
僕の手からペットボトルをさらりと取ると、もう風花は部室に向かって歩き出す。
……今のは、見間違い?
ようやく足を動かし「早く早く」とせかす風花を追いかける。
確認するように横に並ぶと、すっとそらされる瞳。
恋はせつないな。
相手の些細な変化にも気づいてしまう。そうして、きっと今夜はその理由について思い悩むのだろう。
気持ちを再確認するほどに、風花への気持ちはどんどん成長していく。
まるでモンスターのように大きくなり、その存在を僕に知らせる。
ここにいるよ、と悲しく叫ぶ声が、僕を動けなくする。
◆◆◆
梅雨入りしてから雨はぴたりと止まり、この数日初夏の陽気が続いている。
昼休みになると同時に新しい液肥を用務員室に取りに行った。どうやらまだまだ散布しなくてはならないらしい。
重いペットボトルを両手に持って歩くそばから、白いシャツの中に熱気がこもる感覚。
なにか声が聞こえるな、と思ったら、友梨と犬神が花壇のところではしゃいでいた。
「あ、来た来た」
「遅いな。なにやってたんだよ」
それはこっちのセリフだ。
「こんなところでなにしてるわけ?」
いぶかしげに訊ねると、
「犬神くんがスズッキイのこと探してたから、連れてきてあげたんだよ」
友梨が自慢げにあごをあげた。
「教室で待ってればいいのに」
部室の鍵を開けて中に入ると、当然のようにふたりともついてきた。
「へぇ。園芸部の部室ってすげえな。秘密基地みたい」
キョロキョロと見まわす犬神が、僕の定位置の椅子にドカッと座った。
「ねぇ、その手に持ってるのなに?」
友梨の質問に「液肥」と前に下瓦さんに言われたままの言葉で答えるが、「ん?」と首をかしげている。
「液肥っていうのは、花にやる液体の肥料のこと。四十倍に薄めて、水と一緒に撒くんだよ」
先日、風花と一緒に調べたことを説明する。ちなみに主な成分は『油かす』だそうだ。
最近いろんな花に撒いているけれど酸っぱいにおいが苦手だ。
「そんなことまでやるんだ。園芸って意外に体を使うんだね。スズッキイも運動部の子みたいに焼けてるし」
たしかに僕の体は腕と顔だけが真っ黒に日焼けをしている。
土や肥料を運ぶことも多いので意図しなくとも腕や足が太くなってきた気もする。
……なんで風花は園芸部に入ったんだろう。
最近はことあるごとに頭に浮かぶ風花の顔。意識して追い払うと、まだ室内を観察している犬神の前に座った。
「なんの用だったの?」
すると、犬神が迷ったような顔をしたから驚く。
なんでもズバズバ言う奴だと思っていたから、こういう素振りははじめて見た。
「いや、なんか余計なお世話かもだけどさ、最近疲れてるだろ?」
「僕が?」
「ほかに誰がいるんだよ。部活が忙しいのかもしれないけど、元気がないのが気になっててさ、友梨に相談したら同じ意見だったし」
友梨も僕たちのそばに来ると大きくうなずく。
「今日だって昼ご飯食べてないでしょ。スズッキイはちょっとがんばりすぎなんだよ。部員がふたりってのは悲劇だけどさ、人間には活動限界点があるんだからね」
たしかに最近、体調が悪いことが増えた。
いつもかかっている医者にも薬を処方されるようになっていたのは事実だ。
やはりストレスや疲れが溜まってきているらしい。
そろそろ医者の言うようにちゃんとした検査をしなくてはならないだろう。
「疲れてないよ。それにがんばり屋なのはそっちのほうじゃん。サックスの練習大変みたいだし」
明るい口調で言うけれど、友梨は「そんなことない」という姿勢を崩さなかった。
「とにかく聞けよ。で、友梨と決めたんだよ」
犬神は友梨と視線を合わせる。ふたりして軽くうなずき合ってから、また口を開いた。
「おれたちも園芸部の手伝いをすることにした」
「え? なんだよそれ」
冗談かと思い笑ってしまうが、ふたりは真面目な表情をしている。
「べつに入部するわけじゃないぜ。おれたちも部活があるし、毎日は無理。でも重い荷物を運ぶときとか、人手がほしいときは遠慮なく言ってくれ。友梨が運ぶから」
「なんであたしなのよ。ふたりで協力するんでしょ」
「冗談だよ、冗談。だからさ、スズッキイ――」
犬神が体を少し前にして顔を近づけてきた。
「つらかったら頼れよ。友だちなんだからさ」
「そうそう。あたしたちにまかせなって」
どうやら本気らしい。
「……わかった。ありがとう。遠慮なくお願いさせてもらうよ」
そう言うと、ようやくふたりは表情を緩めた。
まさか表情や態度に現れているとは思わなかった。
これからは心配かけないように気をつけないと……。
部室を出て鍵を閉めていると、「そうだ」と友梨がうしろですっとんきょうな声を出した。
「風花がね、今日は部活参加できないってさ」
ビクッと跳ねる胸を誤魔化して、友梨を振り返った。
今、風花の名前が聞こえた気がしたけれど……。
「風花、すごく気にしてたよ。なんかの花を植え替える約束をしていたとか――」
「なんで?」
「家の用事だって。スズッキイに伝えてほしいって言われてたの忘れてた」
「そうじゃなくて――」
動揺を悟られないよう、鍵に集中しているフリで続ける。
「なんで友梨が風花のこと知ってるの?」
「え、もう呼び捨てなんだ。やるーぅ」
いや、それは風花から先週お願いされたことであって……。
って、今はそれどころじゃない。
ようやく鍵をかけ終えてから振り返ると、友梨たちは歩き出していた。うしろにつく僕に友梨は「だって」とこっちを見た。
「風花とは小学校からの仲だからね。この町は小さいから、ある程度みんな知り合いだよ」
「へぇ」
興味のなさそうな声を意識する僕は、なんだか間抜けなピエロみたいだ。
風花と友梨が知り合いなら、自分の気持ちは隠さないといけない。
体調の変化に気づくくらい敏感ならなおさらだ。
ふたりは親切で言ってくれているのに、大切な風花との時間が侵されるような気分になってしまう。自分のいやな部分を知ったみたいで気持ちが重くなる。
そんなことを考えてしまう自分もきらい。
これが『負のスパイラル』ってやつかも。
「ほら、さっさと行こうぜ。腹減った」
犬神の声に「ああ」とうなずくけれど、今日は風花に会えないという事実にさっきよりも足は鉛みたいに重く感じる。
◆◆◆
最後の鉢を校舎脇へ移動させ終わるころには雨は本降りになっていた。
犬神と友梨の手伝い宣言から二日が過ぎた。ふたりは約束通り、さっきまで文句も言わず鉢を荷台に乗せて運んでくれた。
雨に打たれているトルコギキョウはまだ満開とはいかないものの、ソフトクリームのようにねじれたつぼみは、夏いっぱいそのピンクの花を咲かせるだろう。
本当なら脇枝をカットしたかったけれど、この雨では無理そうだ。
レインコートのフードを深くかぶり、部室へ戻るといつものテーブルについているのは風花だけだった。
六月も後半に入り、本格的に梅雨がこの町にも訪れている。今朝までは晴れていたのに、今はそれがウソのように大雨が降っている。
「あれ、ふたりは?」
レインコートを脱ぎながら訊ねると、
「ふたりとも部活に行くって慌てて出て行ったよ」
風花は読んでいたマニュアルから目を離し僕を見た。
「そっか。まあこの雨じゃ作業はできないしなあ」
「植木鉢の移動だけでも相当かかると思っていたから助かったよね」
壁につけられたハンガーにレインコートをかけると、風花の前の席につく。
部屋の外では、雨が土を叩く音が聞こえている。
沈黙が怖くて僕は「ね」と声をかけた。
「珍しく早く終われたし、今日は帰ろうか?」
この提案はこれまでに何度かした。けれどそのたびに風花は首を横に振る。今も、まだ雨に濡れた髪を耳にかけながら、風花は一瞬表情を曇らせた。
が、次の瞬間には「そうだ」と明るい声を作った。
「トルコギキョウの花言葉ってどんなの?」
「……ああ、たしか『優美』とか『思いやり』かな」
「見た目と同じできれいな花言葉だね」
「うん。それより雨も強くなってきたしさ――」
「もう少し勉強していくから先に帰ってもいいよ」
風花はきゅっと唇をかみしめてから、すぐに笑みを浮かべた。くじけそうな心を意識して隠そうとしている。
こんな少しの変化でもわかってしまうんだ。
「言いたくなかったら言わなくてもいいんだけどさ……家でなにかあったの?」
迷いながらも訊ねる僕に、風花はさっきと同じように口を閉じて、そして笑う。
「え? なにもないよー」
ふにゃっとした顔で答える風花に、僕は「そう」とうなずく。小さな勇気も、結局は萎んでしまう。
余計なことを聞いてぎこちなくなるよりも、この瞬間を楽しめばいい。
それはわかっているのに。わかっていたのに……。
「あの、さ」
まだ話しつづける僕に風花は「あ」と小さく口を開いた。
「液肥なんだけどね、聞いたら下瓦さんの手作りなんだって。少しでも部費を使わないように家で作ってきてくれているんだよ。やさしいよね」
「……そう」
「下瓦さんて本当に園芸が好きなんだろうね。そういうの知らなかったから、勝手に怖い人だって思いこんじゃってたから反省してるんだ」
急に饒舌になる風花は、この話題が続くことを拒否している。誰だって悩みはあるだろうし、人に言いたくないことだってある。
しくしくと胃が痛い。
「前にも言ったけどさ、無理して笑わなくていいんじゃない?」
ぽろりと言葉はこぼれる。
しまった、と口を閉じてももう遅い。
風花は時間を止めたように固まっている。
――僕は。
「僕もうまく笑えないし、愛想もないって自覚している」
――なにを言っているんだろう?
「だけど、無理して笑っている風花を見るのは悲しい」
自分の気持ちを押しつけているだけだ、とようやく口を閉じた。
風花はゆるゆると視線を落としてしまった。まるであの日に枯れた白いアネモネのように力なく肩を落としている。
「違うんだ……。ただ、心配でさ」
言いわけのように後づけする言葉に、雨が屋根を叩く音が強くなった。まるでこの世界にふたりきり取り残されたような気分になる。
僕はただ、風花に本当の笑顔でいてほしい。
僕の前では素直な感情を見せてほしいだけ。けれど、それこそが片想いのエゴでありおこがましいことだと感じてしまう。
どれくらい黙りこんだのだろう。
「すごいね」
ぽつりと風花が口にした。
見ると、彼女の髪の先からはまだ雫がひとつテーブルに落ちるところだった。
「誰にも気づかれていない自信あったんだけどなー。花に詳しいだけじゃなくって、こういうこともわかっちゃうんだね」
「ごめん……。余計なことだよね」
「ううん」
首を横に振れば、またいくつかの水滴がテーブルで跳ねる。
「わたし……ね、家に帰りたくないの。もうずっと前からそう思ってる。理由は言いたくない……」
「そうなんだ。ごめん」
また謝る僕に風花は「いいの」と言った。
「気づく人もいるんだな、って、ちょっとうれしかった」
言葉と裏腹に、風花は苦し気に目を伏せた。
長いまつ毛が濡れているように見えるのは雨のせいなのか、それとも僕が泣かせた……?
「それじゃあアドバイス通り、今日は帰ろうかな」
マニュアル本を棚にしまうと、風花はエプロンを外した。
「濡れちゃうから作業着のまんまで帰る。明日は晴れるといいね」
部室のドアを開けた風花が「ばいばい」と出て行く。
ゆっくりと閉まるドアにすぐにその姿は見えなくなる。
まるで追い出したみたいな罪悪感にため息をこぼした。きっと、これまでならそういう感情を押し殺していた気がする。
だけど……。
カバンを手に取り、外に出る。
雨は激しさを増し、少し先の景色も溶かしているみたい。傘をさせば、すごい勢いでビニールを打ちつけてくる。
走る足元で泥が騒がしく跳ねている。
校門の手前でようやく風花に追いついた。すぐに気づく。彼女は傘をさしていなかった。
「風花!」
「あ……。どうしたの?」
「どうしたのじゃないよ。傘は?」
「忘れちゃった。そっかぁ、部室のレインコートを借りればよかったんだ」
ふにゃっと笑う風花に、めまいのようなものが襲ってくる。
僕が、彼女を孤独にさせたんだ。
「ごめん。本当にごめん」
「どうして謝るの? わたしが傘を忘れちゃったからなのに」
誰かを抱きしめたいと思ったのははじめてのことだった。
柄を握る手に力を入れ、その気持ちを押しとどめた。
「これ、使って」
「え……でも。いいよ、どうせ濡れてるし」
「僕の家、近いから」
余裕がないまま傘を無理やり渡すと、一気に全身がずぶ濡れだ。
受け取った風花が困ったようにうつむいたあと、
「じゃあ……バス停まで一緒に来てくれる?」
そう訊ねた。
「いいよ」
「バスを降りたら、すぐ目の前が家だから」
「うん」
「じゃあ……お願いします」
どちらの声もきっと雨音に負けている。
それから僕たちは身体を寄せ合いながらバス停を目指した。外灯もけむる細道を、遠くて近いバス停まで黙って歩いた。
なにか気の利いたことを言えればいいのに、言葉は無力だと知っている僕がいた。
雨の中、僕たちはふたりなのにひとりずつ。
騒がしいのは雨の音じゃない。
愛しい気持ちと、それを上回る罪悪感が叫んでいる。
アリウムは細い茎の先に丸い花が、シラーは星形やベル形の小花がたくさんついていて、どちらも薄い紫色。花自体は小さくて目立たないが丈夫で育てやすいのが特徴だ。
梅雨時期には外での作業も難しくなるため、桜先輩が去年の冬前に球根をこれでもかというほど植えたそうだ。
夕暮れの校庭を横切れば、長い影も一緒についてくる。
グラウンドのほうからは野球部のかけ声がこだまのように響き、空に昇っていくよう。
毎日、部活の終わりには花壇を見まわっている。ときには右回り、ときにはジグザグにチェックをしていく。
園芸部は花だけでなく樹木も担当する決まりだが、さすがに部員ふたりでは手に負えず、下瓦さんに丸投げしている状態だ。
入部当時は作業着に緑色のエプロン姿でウロウロすることに恥ずかしさもあったけれど、人は慣れる生き物。最近では平気になり、花壇で作業をする僕に『ごくろうさま』と先生が声をかけてくれることも多くなった。
にしても、この高校はほかでは見ないほどに花壇が多い。
水やりだけでも相当な苦労があるだろうから、下瓦さんも大変だろう。
「あ! いた!」
向こうから風花が駆けてくる。さっき二手に分かれて見まわりを始めたところなのに。
「え、もう終わったの?」
「うん」
はあはあ、と苦しそうに息を切らす風花。額に光る汗が、頬の辺りに伝っている。
「走らなくていいのに。って、昨日も言ったよね?」
「あ、そうだった」
今、思い出したかの様子で風花は目を丸くしている。
「もう暗くなってきたし、走っちゃ危ないよ」
「うん。ありがとう」
褒めているわけじゃないけれど……。
部室に向かって歩いていると、ちょうど下瓦さんが用具入れから出てくるところだった。
僕を認めると、あごをクイッとあげた。これは、『こっちに来い』の合図だ。
「お疲れさまです」
ふたりして駆け足で近づくと、下瓦さんは「ん」とひと文字で答える。
最初のうちは苦労した意思疎通も最近ではコツが掴めてきたみたい。
「ガーベラの水やりをしたのは?」
下瓦さんが太い人差し指を交互に動かしたので、
「僕です」
と答えた。
「わたしです」
風花が言う。
「いえ、僕です」
「うるさい! もうどっちでもいい」
太い腕を組むと、下瓦さんは「腐るぞ」そう言った。
水の量が多すぎたということだろう。
「すみませんでした。以後、気を付けます」
きっちり謝罪する。風花が慌てて口を開いたところを、下瓦さんがごつい右手を開いて制した。
「きみは花壇へ」
花壇の手入れをするように、という意味だと受け取る。
「はい!」
慌てて駆け出す風花の頭は、もうアネモネで埋め尽くされているに違いない。走ったら危ないと言ったばかりなのに。
ふたりして見送ると、下瓦さんは体を僕に向けた。
「これ、頼む」
手渡されたのはラベルのはがされた二リットルが入る大きさのペットボトルだった。透明の液体が八割くらい入っていて、ずっしりと重い。
取っ手のついているところを見ると、焼酎が入っていたと思われる。
なんだろう、これ?
疑問が顔に出ていたのだろう、下瓦さんはわざとらしく大きなため息をついた。
「液肥」
最低限の言葉で説明しようとするが、すぐに僕が理解していないと悟ったのか、
「スマホで調べろ」
と、もう歩き出してしまう。
「えきひ、ですか?」
背中に声をかけると、足を止めた下瓦さんがめんどくさそうに振り向いた。
「間違っても飲むなよ。あっという間にあっちに行くぞ」
太い人差し指を上空に向けている。
どうやら『死ぬ』と言いたいらしい。強面で言われると思わずゾッとしてしまう。カクカクとロボットのようにうなずくと、下瓦さんはクワッと顔をゆがめた。
いや……どうやら笑っているらしい。
「四十倍に薄めて使え」
「わかりました」
「東校舎にホースが置かれたままだぞ」
「はい」
「倉庫に種が届いていたから持っていけ」
「はい」
頭にメモをして僕も歩き出す。
言われたことをこなしているとどんどん空が暗くなっている。
下瓦さんの言う通り、明日は雨らしく上空を厚い雲が覆い始めている。
日の入りは徐々に遅くなっているとはいえ、さすがに六時。
もう帰ったほうがいいだろう。
部室の建物が見えたと同時に、脇の花壇にしゃがみこむ風花のうしろ姿が見えた。
自然に足が止まってしまう。
――痛いな。
無意識に胸の辺りに手を当ててしまう。
先月までは会えることが楽しみで、部活の時間が待ち遠しかった。
入部以来、風花は毎日放課後になるとここに来たし、重労働な園芸部の活動にも文句は言わなかった。
むしろ、土にまみれ虫に刺されても楽しんでいるように見えた。
さっきまで一緒にいたのに、少し離れただけで会いたくなっている。
変わったのは僕のほうだ。
授業よりも友だちと話をするよりも、風花に会うことだけが毎日の中で重要なことになっている。
二十四時間分の約二時間。かけがえのない時間は、終わった瞬間からもう会いたくなっている。
同時に感じるのは孤独という名の耐えがたい感情。
――そんなわけがない。
これは恋なんかじゃない。自分に言い聞かせるように、今度はしくしくと痛むお腹に手をおろす。
ああ、こういうのもストレスになるのか。
たまたま同じ部活に入っただけの仲。クラスも違うし、プライベートな話なんて少しもしたことがない。
もちろんスマホの連絡先も聞けずにいる。知っているのは、家に帰る方向が違うということくらい。
意識して大きく息を吸いこむと、
「お待たせ」
軽い口調を心がけ、風花に近づいた。
「お疲れ様」
スコップを手に振り向く風花。花壇には、先週までアネモネがあんなに様々な色で咲いていたのがウソみたいに半分近く散ってしまっている。
「だいぶ枯れちゃったね」
風花が指す先、そこにはしおれかかっている白いアネモネがあった。
「もう六月だしね」
「残念だなぁ。ずっと咲いていたらいいのに」
「そうだね」
何気なく答えても、耳が心が彼女の言葉を受けとめようと必死になっている。
「夏にもいろんな花が咲くよ」
慰めの言葉をかける僕に、風花は「そうだね」と言った。全然、納得していないのがたった四文字の言葉でも伝わってくる。
「なんでそんなにアネモネが好きなの?」
「見た目と違うから」
「見た目?」
「あんなにきれいなのに、花言葉がさびしいでしょう? そういうところかな」
はかない恋、か。
まるで僕のことを表しているみたいだ。
必死で否定しても、コップから水が溢れるように気持ちが止められない。
風花に近づきすぎないよう距離を取りしゃがんだ。僕たちの前にある花壇では元気なく首を下に向けている。
「アネモネは球根植物なんだ」
間を埋めるように説明をする。
「球根?」
「うん。だから、明日から土の中にある球根を取り出して保存するための作業をするよ」
頭の上にハテナマークを浮かべる風花は、まだピンときていない様子。
「秋ごろに『分球』という作業をするんだ。分球によって古い球根から新しい球根に生まれ変わる。それを植えれば、来年の春にはまたきれいな花を咲かせるよ」
ようやく理解したのか、ぱあっと顔を輝かせた風花。あまりにうれしそうに笑うから、眩しくて目をそらしてしまう。
「それって、花が生まれ変わるってこと?」
生まれ変わるなんて大げさだと思ったけれど、喜ぶ風花をもっと見たくて、だけど見られないまま僕はひとつうなずいた。
「そう、だね。準備さえきちんとしていれば、生まれ変わるよ」
「もうお別れかと思ってたからすごくうれしい。ありがとう」
「いや、僕はべつに……」
実際のところ、枯れゆくアネモネを悲しがる風花のために必死で調べたこと。照れを隠すように空を見ると、夜がいた。
「じゃあ、そろそろ帰ろうか?」
「え、もう?」
立ちあがった風花の柔らかい髪が風に踊っていた。
同じように体を起こすと、僕は手にしていたペットボトルを見せた。
「下瓦さんからの指令でさ。液肥、ってのを調べなくちゃいけないから先に帰って」
「じゃあ、わたしも残る。一緒に調べたほうが早いよ」
「ひとりでいいよ。家族が心配しているといけないし」
そう言った瞬間、にこやかだった風花の表情が翳ったのを見逃さなかった。
それは僅かな変化だったけれど、悲しみを含んでいると思った。
が、すぐに風花は晴れ渡るような笑みに戻っている。
「いいから一緒にやろうよ。たったふたりの部員でしょう。部室に集合!」
僕の手からペットボトルをさらりと取ると、もう風花は部室に向かって歩き出す。
……今のは、見間違い?
ようやく足を動かし「早く早く」とせかす風花を追いかける。
確認するように横に並ぶと、すっとそらされる瞳。
恋はせつないな。
相手の些細な変化にも気づいてしまう。そうして、きっと今夜はその理由について思い悩むのだろう。
気持ちを再確認するほどに、風花への気持ちはどんどん成長していく。
まるでモンスターのように大きくなり、その存在を僕に知らせる。
ここにいるよ、と悲しく叫ぶ声が、僕を動けなくする。
◆◆◆
梅雨入りしてから雨はぴたりと止まり、この数日初夏の陽気が続いている。
昼休みになると同時に新しい液肥を用務員室に取りに行った。どうやらまだまだ散布しなくてはならないらしい。
重いペットボトルを両手に持って歩くそばから、白いシャツの中に熱気がこもる感覚。
なにか声が聞こえるな、と思ったら、友梨と犬神が花壇のところではしゃいでいた。
「あ、来た来た」
「遅いな。なにやってたんだよ」
それはこっちのセリフだ。
「こんなところでなにしてるわけ?」
いぶかしげに訊ねると、
「犬神くんがスズッキイのこと探してたから、連れてきてあげたんだよ」
友梨が自慢げにあごをあげた。
「教室で待ってればいいのに」
部室の鍵を開けて中に入ると、当然のようにふたりともついてきた。
「へぇ。園芸部の部室ってすげえな。秘密基地みたい」
キョロキョロと見まわす犬神が、僕の定位置の椅子にドカッと座った。
「ねぇ、その手に持ってるのなに?」
友梨の質問に「液肥」と前に下瓦さんに言われたままの言葉で答えるが、「ん?」と首をかしげている。
「液肥っていうのは、花にやる液体の肥料のこと。四十倍に薄めて、水と一緒に撒くんだよ」
先日、風花と一緒に調べたことを説明する。ちなみに主な成分は『油かす』だそうだ。
最近いろんな花に撒いているけれど酸っぱいにおいが苦手だ。
「そんなことまでやるんだ。園芸って意外に体を使うんだね。スズッキイも運動部の子みたいに焼けてるし」
たしかに僕の体は腕と顔だけが真っ黒に日焼けをしている。
土や肥料を運ぶことも多いので意図しなくとも腕や足が太くなってきた気もする。
……なんで風花は園芸部に入ったんだろう。
最近はことあるごとに頭に浮かぶ風花の顔。意識して追い払うと、まだ室内を観察している犬神の前に座った。
「なんの用だったの?」
すると、犬神が迷ったような顔をしたから驚く。
なんでもズバズバ言う奴だと思っていたから、こういう素振りははじめて見た。
「いや、なんか余計なお世話かもだけどさ、最近疲れてるだろ?」
「僕が?」
「ほかに誰がいるんだよ。部活が忙しいのかもしれないけど、元気がないのが気になっててさ、友梨に相談したら同じ意見だったし」
友梨も僕たちのそばに来ると大きくうなずく。
「今日だって昼ご飯食べてないでしょ。スズッキイはちょっとがんばりすぎなんだよ。部員がふたりってのは悲劇だけどさ、人間には活動限界点があるんだからね」
たしかに最近、体調が悪いことが増えた。
いつもかかっている医者にも薬を処方されるようになっていたのは事実だ。
やはりストレスや疲れが溜まってきているらしい。
そろそろ医者の言うようにちゃんとした検査をしなくてはならないだろう。
「疲れてないよ。それにがんばり屋なのはそっちのほうじゃん。サックスの練習大変みたいだし」
明るい口調で言うけれど、友梨は「そんなことない」という姿勢を崩さなかった。
「とにかく聞けよ。で、友梨と決めたんだよ」
犬神は友梨と視線を合わせる。ふたりして軽くうなずき合ってから、また口を開いた。
「おれたちも園芸部の手伝いをすることにした」
「え? なんだよそれ」
冗談かと思い笑ってしまうが、ふたりは真面目な表情をしている。
「べつに入部するわけじゃないぜ。おれたちも部活があるし、毎日は無理。でも重い荷物を運ぶときとか、人手がほしいときは遠慮なく言ってくれ。友梨が運ぶから」
「なんであたしなのよ。ふたりで協力するんでしょ」
「冗談だよ、冗談。だからさ、スズッキイ――」
犬神が体を少し前にして顔を近づけてきた。
「つらかったら頼れよ。友だちなんだからさ」
「そうそう。あたしたちにまかせなって」
どうやら本気らしい。
「……わかった。ありがとう。遠慮なくお願いさせてもらうよ」
そう言うと、ようやくふたりは表情を緩めた。
まさか表情や態度に現れているとは思わなかった。
これからは心配かけないように気をつけないと……。
部室を出て鍵を閉めていると、「そうだ」と友梨がうしろですっとんきょうな声を出した。
「風花がね、今日は部活参加できないってさ」
ビクッと跳ねる胸を誤魔化して、友梨を振り返った。
今、風花の名前が聞こえた気がしたけれど……。
「風花、すごく気にしてたよ。なんかの花を植え替える約束をしていたとか――」
「なんで?」
「家の用事だって。スズッキイに伝えてほしいって言われてたの忘れてた」
「そうじゃなくて――」
動揺を悟られないよう、鍵に集中しているフリで続ける。
「なんで友梨が風花のこと知ってるの?」
「え、もう呼び捨てなんだ。やるーぅ」
いや、それは風花から先週お願いされたことであって……。
って、今はそれどころじゃない。
ようやく鍵をかけ終えてから振り返ると、友梨たちは歩き出していた。うしろにつく僕に友梨は「だって」とこっちを見た。
「風花とは小学校からの仲だからね。この町は小さいから、ある程度みんな知り合いだよ」
「へぇ」
興味のなさそうな声を意識する僕は、なんだか間抜けなピエロみたいだ。
風花と友梨が知り合いなら、自分の気持ちは隠さないといけない。
体調の変化に気づくくらい敏感ならなおさらだ。
ふたりは親切で言ってくれているのに、大切な風花との時間が侵されるような気分になってしまう。自分のいやな部分を知ったみたいで気持ちが重くなる。
そんなことを考えてしまう自分もきらい。
これが『負のスパイラル』ってやつかも。
「ほら、さっさと行こうぜ。腹減った」
犬神の声に「ああ」とうなずくけれど、今日は風花に会えないという事実にさっきよりも足は鉛みたいに重く感じる。
◆◆◆
最後の鉢を校舎脇へ移動させ終わるころには雨は本降りになっていた。
犬神と友梨の手伝い宣言から二日が過ぎた。ふたりは約束通り、さっきまで文句も言わず鉢を荷台に乗せて運んでくれた。
雨に打たれているトルコギキョウはまだ満開とはいかないものの、ソフトクリームのようにねじれたつぼみは、夏いっぱいそのピンクの花を咲かせるだろう。
本当なら脇枝をカットしたかったけれど、この雨では無理そうだ。
レインコートのフードを深くかぶり、部室へ戻るといつものテーブルについているのは風花だけだった。
六月も後半に入り、本格的に梅雨がこの町にも訪れている。今朝までは晴れていたのに、今はそれがウソのように大雨が降っている。
「あれ、ふたりは?」
レインコートを脱ぎながら訊ねると、
「ふたりとも部活に行くって慌てて出て行ったよ」
風花は読んでいたマニュアルから目を離し僕を見た。
「そっか。まあこの雨じゃ作業はできないしなあ」
「植木鉢の移動だけでも相当かかると思っていたから助かったよね」
壁につけられたハンガーにレインコートをかけると、風花の前の席につく。
部屋の外では、雨が土を叩く音が聞こえている。
沈黙が怖くて僕は「ね」と声をかけた。
「珍しく早く終われたし、今日は帰ろうか?」
この提案はこれまでに何度かした。けれどそのたびに風花は首を横に振る。今も、まだ雨に濡れた髪を耳にかけながら、風花は一瞬表情を曇らせた。
が、次の瞬間には「そうだ」と明るい声を作った。
「トルコギキョウの花言葉ってどんなの?」
「……ああ、たしか『優美』とか『思いやり』かな」
「見た目と同じできれいな花言葉だね」
「うん。それより雨も強くなってきたしさ――」
「もう少し勉強していくから先に帰ってもいいよ」
風花はきゅっと唇をかみしめてから、すぐに笑みを浮かべた。くじけそうな心を意識して隠そうとしている。
こんな少しの変化でもわかってしまうんだ。
「言いたくなかったら言わなくてもいいんだけどさ……家でなにかあったの?」
迷いながらも訊ねる僕に、風花はさっきと同じように口を閉じて、そして笑う。
「え? なにもないよー」
ふにゃっとした顔で答える風花に、僕は「そう」とうなずく。小さな勇気も、結局は萎んでしまう。
余計なことを聞いてぎこちなくなるよりも、この瞬間を楽しめばいい。
それはわかっているのに。わかっていたのに……。
「あの、さ」
まだ話しつづける僕に風花は「あ」と小さく口を開いた。
「液肥なんだけどね、聞いたら下瓦さんの手作りなんだって。少しでも部費を使わないように家で作ってきてくれているんだよ。やさしいよね」
「……そう」
「下瓦さんて本当に園芸が好きなんだろうね。そういうの知らなかったから、勝手に怖い人だって思いこんじゃってたから反省してるんだ」
急に饒舌になる風花は、この話題が続くことを拒否している。誰だって悩みはあるだろうし、人に言いたくないことだってある。
しくしくと胃が痛い。
「前にも言ったけどさ、無理して笑わなくていいんじゃない?」
ぽろりと言葉はこぼれる。
しまった、と口を閉じてももう遅い。
風花は時間を止めたように固まっている。
――僕は。
「僕もうまく笑えないし、愛想もないって自覚している」
――なにを言っているんだろう?
「だけど、無理して笑っている風花を見るのは悲しい」
自分の気持ちを押しつけているだけだ、とようやく口を閉じた。
風花はゆるゆると視線を落としてしまった。まるであの日に枯れた白いアネモネのように力なく肩を落としている。
「違うんだ……。ただ、心配でさ」
言いわけのように後づけする言葉に、雨が屋根を叩く音が強くなった。まるでこの世界にふたりきり取り残されたような気分になる。
僕はただ、風花に本当の笑顔でいてほしい。
僕の前では素直な感情を見せてほしいだけ。けれど、それこそが片想いのエゴでありおこがましいことだと感じてしまう。
どれくらい黙りこんだのだろう。
「すごいね」
ぽつりと風花が口にした。
見ると、彼女の髪の先からはまだ雫がひとつテーブルに落ちるところだった。
「誰にも気づかれていない自信あったんだけどなー。花に詳しいだけじゃなくって、こういうこともわかっちゃうんだね」
「ごめん……。余計なことだよね」
「ううん」
首を横に振れば、またいくつかの水滴がテーブルで跳ねる。
「わたし……ね、家に帰りたくないの。もうずっと前からそう思ってる。理由は言いたくない……」
「そうなんだ。ごめん」
また謝る僕に風花は「いいの」と言った。
「気づく人もいるんだな、って、ちょっとうれしかった」
言葉と裏腹に、風花は苦し気に目を伏せた。
長いまつ毛が濡れているように見えるのは雨のせいなのか、それとも僕が泣かせた……?
「それじゃあアドバイス通り、今日は帰ろうかな」
マニュアル本を棚にしまうと、風花はエプロンを外した。
「濡れちゃうから作業着のまんまで帰る。明日は晴れるといいね」
部室のドアを開けた風花が「ばいばい」と出て行く。
ゆっくりと閉まるドアにすぐにその姿は見えなくなる。
まるで追い出したみたいな罪悪感にため息をこぼした。きっと、これまでならそういう感情を押し殺していた気がする。
だけど……。
カバンを手に取り、外に出る。
雨は激しさを増し、少し先の景色も溶かしているみたい。傘をさせば、すごい勢いでビニールを打ちつけてくる。
走る足元で泥が騒がしく跳ねている。
校門の手前でようやく風花に追いついた。すぐに気づく。彼女は傘をさしていなかった。
「風花!」
「あ……。どうしたの?」
「どうしたのじゃないよ。傘は?」
「忘れちゃった。そっかぁ、部室のレインコートを借りればよかったんだ」
ふにゃっと笑う風花に、めまいのようなものが襲ってくる。
僕が、彼女を孤独にさせたんだ。
「ごめん。本当にごめん」
「どうして謝るの? わたしが傘を忘れちゃったからなのに」
誰かを抱きしめたいと思ったのははじめてのことだった。
柄を握る手に力を入れ、その気持ちを押しとどめた。
「これ、使って」
「え……でも。いいよ、どうせ濡れてるし」
「僕の家、近いから」
余裕がないまま傘を無理やり渡すと、一気に全身がずぶ濡れだ。
受け取った風花が困ったようにうつむいたあと、
「じゃあ……バス停まで一緒に来てくれる?」
そう訊ねた。
「いいよ」
「バスを降りたら、すぐ目の前が家だから」
「うん」
「じゃあ……お願いします」
どちらの声もきっと雨音に負けている。
それから僕たちは身体を寄せ合いながらバス停を目指した。外灯もけむる細道を、遠くて近いバス停まで黙って歩いた。
なにか気の利いたことを言えればいいのに、言葉は無力だと知っている僕がいた。
雨の中、僕たちはふたりなのにひとりずつ。
騒がしいのは雨の音じゃない。
愛しい気持ちと、それを上回る罪悪感が叫んでいる。