きみの好きなところを挙げてみよう。
誰にでもやさしいところ。
花を大切にするところ。
笑顔がかわいいところ。
声が丸いこと。
家族を思っていること。
がんばり屋さんでいつも一生懸命なところ。
ほら、いくつでも思いつくよ。
僕は自分自身にいつもうしろ向きだったと思う。頼りないし弱気だし、愛想もない。
そんな毎日にきみは現れたんだ。
きみに出会ってからの日々は、僕に新しい感情をたくさん教えてくれた。
きみのために変わりたいと思ったし、強くなりたいと願った。
――だけど、願いは叶わないんだね。
久々に登校したというのに、今日は雨降り。
部室でいつの間に買ったのか『園芸のすべて』という本を開き、さっきからきみは熱心に冬の花について話を続けている。
赤ペンでメモを取るのがきみの癖みたい。写真の横に大好きなきみの文字が並んでいる。
「だからね、桜先輩がマニュアルに書いているように、シクラメンは切り花にしてもいいとは思うの。教室に飾るアイデアも素敵だよね。でも、そうしたら花の命を縮めることになるでしょう」
僕の手元にあるマニュアル本には『シクラメンが咲いたらガラスの器に移し一年生の教室に置く』、と書かれている。
「たしかにシクラメンは一番奥の花壇にあるから目立たないけど、切るのはかわいそうじゃない?」
「切り花にするとだいたい一週間くらいしかもたないしね」
「できるだけ長く咲いていてほしいんだよね。だからわたし、考えたの」
ちょっとあごを上げた風花が、カバンからスケッチブックを取り出した。
そこには『クリスマスディスプレイ案』という文字と、色鉛筆で描かれたイラストがあった。
「シクラメンの植えてある花壇を『クリスマスコーナー』にするの。サンタの置物とか、ポインセチアの花とかを置けばにぎやかになると思う。できればイルミネーションのライトがあれば最高なんだけど、部費も残ってないし難しいよね?」
「……そうだね」
イラストに見惚れていて、返事が遅くなってしまった。
風花の描いた案は、彼女の花への気持ちが詰まっている宝箱みたいだった。
「それにさ」
ようやく落ち着いたらしく、風花は肩をすとんと落とした。
「もう十二月に入っちゃったから、これから準備するんじゃ間に合わないよね。だから、来年はそうしない?」
来年……か。
その言葉に急に部室が翳ったような気分になる。
そのころには、きっと僕はこの世にはいない。
「いいんじゃない?」
「あ、軽く答えてるでしょう? いいもん、わたしが学校にかけ合うから。予算を多くください、って」
ふてくされた顔も好きなところだよ。
ネガティブな想像しかできないこの先のことも、風花のそばにいられれば乗り越えられる気がしている。
「そんなにクリスマスコーナーを作りたいの?」
彼女のイラストを指でなぞってみる。下書きを何度もしたのだろう、薄い鉛筆の跡がいくつも残っていた。
「うん。園芸部の目玉みたいな作品にして、たくさんの人に見てもらいたいし、そうすれば入部してくれる人も増えるかも」
目を輝かせた風花が「んー」と唇を尖らせた。
「というより、わたしがクリスマスコーナーを見たいだけかも」
ころころと表情の変わる風花。そんなことを言われたら、僕だってなんとかしたいって思っちゃうよ。
「わかったよ。僕からも交渉してみる。ただ、今年はやっぱり厳しいよ。来年に向けて企画書を作ろう。桜先輩には悪いけれど、シクラメンはそのままにしておこうか」
「ほんと? やった!」
子どものように無邪気なところも、きれいな髪も全部好き。
風花がいてくれるから、この絶望に満ちた世界でも生きていられるんだ。
堤医師からあの夜告げられたのは、僕の残された人生の期間について。
手術ではすい臓だけでなく肝臓の一部も除去したそうだ。しかし、腹膜や骨への転移が確認されたらしい。
手術は意味がなく、あとは余命をどこまで延ばせるかにかかっていると説明された。
不思議だったのは、その話をきちんと受けとめられる自分がいたこと。
母親のいないふたりきりの場所で聞けたことも大きかったと思う。
結局、母親を入れての話し合いは何度も行われ、父親まで飛んでくることになった。
そのたびに母親は泣き、弟はふてくされたような顔でそっぽを向いていたっけ。
誰もが受けとめられない事実なのに、僕だけがすんなり理解しているような気分だった。
それともあまりの衝撃に感覚がマヒしているのだろうか。
「ね、聞いてる?」
風花の声に我に返ると、眉をひそめた顔がそばにあった。
「聞いてるよ」
「ひょっとして、今日は体調がよくないの?」
先月から学校を休みがちになっている。熱が出たり、背中や胃の痛みに耐えられないことが多くなっていたからだ。
服薬コントロールができたこのごろは、なんとか通えているものの、隠し通すのは難しかった。
クラスでもウワサになっていると聞くし、顔色や目の下の隈を隠すためにかけているメガネもわざとらしかったのかもしれない。
「大丈夫だよ。数ヶ月で治るみたいだし」
「ホルモン系の病気、だっけ?」
「そう。春には完治するみたい。それまでは迷惑かけちゃうけど、ごめん」
軽い口調を意識して言えば、あいまいに風花はうなずいた。
「だったらいいけど……。部活はわたしに任せてくれていいんだからね。友梨だって手伝ってくれるし。でも、本当に具合が悪ければちゃんと言ってね」
「大丈夫だよ」
言葉とは裏腹に風花の手を握る。そして、元気さをアピールするように力をこめた。
きみには言えない僕の秘密。
もし本当のことを知ってしまったら、こんなふうに笑い合えなくなる。
あまり長いあいだ握っていては気づかれてしまいそうで、名残惜しく手を離す。もう指先がさびしがっているみたいだ。
「そういえばね」
スケッチブックを閉じながら風花が言った。
「このあいだ、お姉ちゃんと一緒にピアノを弾いたの」
「え?」
驚く僕に、風花は照れたように笑った。
「もちろん自分からじゃないよ。ただ、そういう雰囲気になって……。ずっと弾いてなかったから全然指は動かなかったけどね」
「すごいじゃん」
「すごくないよ。だって、やっぱり弾いているときは複雑な心境だったし。でもね、普通にお姉ちゃんと話ができて……ちょっとうれしかったんだ」
風花はちゃんと前を向いて歩けている。うれしいようで、なぜかせつない気持ちもあるから不思議だった。
「これから少しずつでもお姉さんとの距離が近づくといいね」
「うん。ね……今日は魔法をかけてくれないの?」
拗ねた顔をした風花に、しょうがない、なんて言ってみせてから左手の中指に手を置いた。きみの指が僕の指に絡まれば魔法は始まる。
「家族っていいよね」
そう言うと、
「うん」
きみは小さくうなずいた。
「病気してからはとくにそう思う。母親だけじゃなく、弟もなんか気を遣ってくれているし」
「そうなんだ。弟さんはもう学校に行ってるの?」
「反抗期は終わったみたい。最近は話をすることも多いんだ」
細く美しい中指を宝物のように両手で包んだ。
「でもさ、逆に自分の気持ちを出せないつらさはあるよね。風花がお姉さんに対して持つ感情、やっとわかった気がする」
悲しくて泣きたいのに、笑っていなくちゃいけない。核心に触れる話題は避け、元気に振るまう自分を遠くで見ているような孤独。
きっと風花も同じような感情をずっと抱いているのだろう。
うつむく風花を下から覗くように見た。
「風花が本当の笑顔でお姉さんと話せるよう、魔法をかけるよ。即効作用はないけど、じわじわ効いてくるはずだから」
冗談めかして言うと、涙目の風花がぎゅっと口を結んでいる。
包んだ両手に願いを込める。
ただ願うんじゃなく、本気で風花がそうなるように強く強く。
手を離すと、風花は「ありがとう」と言った。
「なんだか、じわじわ効いてきた気がする」
こんなに好きな相手なのに、一緒に過ごせる時間は日に日に少なくなっているなんてつらいな。
もっと好きだと言えばよかった。もっとそばにいてあげたかった。
今からでもできるのに、その感情を見ないフリ。
いつだって僕は弱虫だ。
「じゃあ今日は帰るよ。病院行かなくちゃいけないし」
「気をつけてね」
鈍い痛みを誤魔化して平気そうに立ちあがる。
部室のドアを開け、閉めるまでずっと笑顔のままで。
風花、僕はきみを失うことになる。
残された風花は悲しみ苦しむだろう。それを知っているのに病気のことを言えないのは、まぎれもなく僕の弱さだ。
最後の瞬間まできみには笑っていてほしいから。
それは、僕の傲慢な願いなのかもしれない。
校門のところまで行き、学校を振り返る。
入学をして八か月。見慣れたはずの校舎はどこかくすんで見えた。
明日からまた入院が決まっている。といっても、治療はせずにがんの進行具合を見るだけだ。
病気を知る誰もが抗がん剤治療を勧めてきたし、自分でもそうしなくてはいけないとわかっている。
けれど、ネットの情報や堤医師から説明された副作用について考えると、とてもそんな気にはなれなかった。僕の体を蝕む病気のスピードは、現代医学ではかないっこないことは明らかだったから。
つらく苦しい治療が続くよりも、痛み止めを処方してもらって家にいることを選択した。病院で最期を過ごすのはいやだと結論づけたのだ。
抗がん剤治療をしないため、入院しても数日で退院できるらしい。
またこの校舎を見られる日は来るのだろうか。
いやに弱気になっている自分を奮い起こすように校門を出た。
すると、そこに犬神がいた。陸上部のユニフォーム姿じゃなく、黒ずくめの私服で校門にもたれて立っている。
「よお」
短い挨拶に眉をひそめてしまう。
「部活は?」
「いいんだよ。それより一緒に帰ろう」
なぜか不機嫌そうに鼻を鳴らす犬神。友だちになってから、しばらく経つからこそわかること。
こういうときの犬神はなにか言いたいことを抱えている。
たしか前回は……ハロウィンの仮装についてだった。結局そのあと参加したかどうかを聞くこともなく、世間はクリスマスムードに突入してしまっている。
時間なんてあっという間に過ぎてしまう。
隣に並んで歩き出すものの、犬神は横顔のまままだムッとしている。
そしてそのままわざとらしくため息をついた。
「前にも言ったろ。なんでも話してほしいって」
「……ああ」
たしかにそう言われていた。犬神の言いたいことがわかる気がした。
「ホルモン系の病気なんてウソだろ。しばらくは治療をして春になったら治る? んなの信じられるかよ」
「ウソじゃないよ」
ああ、やっぱり犬神は気づいているんだ。それでも、ウソをつかなくちゃいけない。
それはいったい、誰のために?
みんなを心配させないため?
それとも風花の耳に入らないようにするため?
「だったらなんで病名を伏せているんだよ。なんで言えないんだよ」
「それは……」
やめてくれ、と叫んでしまいたかった。
それでも笑みを崩してはいけない。
「犬神は気にしすぎなんだよ。病名はちゃんと知らないんだよ。なんだか難しい名前で――」
「いいかげんにしろよ!」
イラつく感情を地面にぶつけるように、犬神がアスファルトを右足で叩いた。
「そんなにおれが信用できないのか? だから言えないってこと?」
「違うってば」
笑えない。
誤魔化さなくちゃいけないのに、笑みが作れない。喉元まで本音が溢れてきそう。
それでも、それでも……。
「ちょっと落ち着けって。今日は体調がよくないんだよ」
はっと口を噤んだ犬神を見て、逆に胸がざわざわと落ち着かなくなる。心配させたくないのに、鼻の頭がツンと痛くなるのを感じる。
「悪い……。いとこがさ、すい臓がんで亡くなっててさ……。なんか、症状が似てるなって思って――。いや、忘れて。ごめん」
胸が、痛い。
誤魔化せるはずもない真実は、どんどん僕を追い詰めていくようだ。
泣いちゃだめだ。言い聞かせてもあっという間に視界が滲んでいく。
このままウソをつきとおして帰ればいい。今の医学の進歩を信じるなら、この先、なにかが変わるかもしれない。
そんな期待は、転移がわかった日から消え失せた。
だから僕は目の前にある『絶望』を見ないようにしたかった。
――奇跡なんて、この世にはない。
その言葉はずっと胸にあったはずなのに、今になってリアルにその姿を現している。
「犬神、前に言ってくれたよな? 『友だちだからなんでも言ってほしい』って」
「ああ、言ったよ」
さっきよりトーンを落とした犬神の姿がぼやけて映る。
「友だちだからこそ言えないこともあるんだよ」
「そんなに……重い病気なのか?」
「犬神にウソをつきたくない。だから聞かないでほしいし、誰にも言ってほしくない」
「……なんだよそれ。信用しろよな」
「してるよ。信用しているから、言いたくないこともあるんだ」
涙を誤魔化すように歩き出すと、犬神も遅れてついてくる。
木枯らしが僕を攻撃するように強く吹いている。
そんなことにさえ、崩れおちそうになる弱い自分を痛いほどに感じた。
薬が効いていないのか、今にも倒れそうだ。
「なあ犬神、ひとつお願いがあるんだけど」
思いつくと同時に言葉にしていた。
「ん?」
「友だちにしか頼めないことなんだ」
そう言って振り返ると、夕日が眩しくて犬神の表情がよく見えなかった。
「なんでも言えよ」
さびしげな口調の犬神に、僕は今考えたばかりのアイデアを話し出す。
背中に吹きつける風の冷たさも忘れるほど、言葉にするたびに気持ちは固まっていくようだった。
◆◆◆
病室から見える空は雨模様。風にあおられた雨が、窓ガラスにぶつかって砕け散り流れていく。
痛み止めの点滴のおかげで、今日は朝から調子がいい。まるで病気なんてなかったかのように、今なら駆け回ることもできそうなほど。
反面、病状が相当深刻なのは母親の表情でだいたいわかる。
検査入院も今月二度目になり、退屈なテレビからは年末ムードが漂っている。
明日はもうクリスマスらしい。
結局、犬神にした提案もそのままになっている。
――最後くらい、うまくいってほしかったな。
そんなことを考えてしまう自分と、それを慰める自分。ふたつの感情がぶつかって、戦って、ともに地面に叩きつけられているよう。
本来なら自宅療養もできるだろうに、母親が頑として退院させてくれないのだ。たしかに食欲はまったくないし、体力はかなり落ちている自覚はある。
駆け回ることなんて、やっぱりできないのかも。
ああ、またマイナスな考えが頭を支配するようだ。
ノックの音に続いて、おずおずと母親が顔を出した。
「どう、体調は?」
「平気」
このやり取りを何度繰り返しているのだろう?
そんな気弱そうに訊ねられて、正直に答える子供なんていない。
「なにか食べたいものある? 売店でプリン買ってきたんだけど」
丸椅子に腰かけてビニール袋から黄色いプリンを取りだす母親。冷蔵庫に昨日買って来てくれたプリンがまだ残っていることを忘れているんだろうな。
無言で受け取り、ひんやりとした容器を眺める。
なんだか不思議な気持ちだった。
まるで今起きていることは、全部ドッキリ企画かなにかのように感じてしまう。
「最近雨ばかりねぇ」
困った顔で雨空を見る母親に、思わず笑ってしまう。必死で明るく振るまってくれていることがわかるけれど、体調と天気の話ばかりだ。
「雨もいいよ。植物が育つから」
「あんたはこんなときにも園芸の話ばっかり。おばあちゃんそっくりね」
そうだったな、と思い出す。おばあちゃんは体が不自由になってからも、庭の植物のことばかり気にしていたっけ……。
「ねぇ、抗がん剤治療のことなんだけど」
何気なく口にしたつもりだろうけれど、声のトーンが下がっている。
「またその話? もういいってば。堤先生も乗り気じゃなかったじゃん」
「姉さんは薄情なのよ」
うつむいてしまう母親から目をそらし、白いカバーのしてある布団を見た。
「僕が悪かったんだよ。もっと早く病院に行けばよかったのに、ほんとごめん」
「違うの。私がもっと強く言えばよかったの。ごめんね」
何度もしてきた延命治療の話。きっと母親も手遅れだということをきみに受けいれつつあるのだろう。
この話題にかける時間は日に日に少なくなっている。
「それに」と、僕は伸びをした。
「少しだけ寿命を延ばしても、歴史に名を残せるわけでもないしさ」
プリンを脇にある床頭台に置くと、ごろんとベッドに横になる。点滴からは一粒ずつ規則正しく体に痛み止めが運ばれている。
「そう、ね」
必死に本やネットで調べてくれていることは知っていた。
「それよりトール、学校行けてるみたいだね。あの反抗期はなんだったの、って感じ」
場を占める重いムードを消したくて弟の話題を振ると、母親は「ああ」と僅かに声を明るくした。
「あなたにも昔、同じようなことあったのよ。まぁ短かったけどね」
「えー、覚えてないなぁ」
「みんなそんなものよ。あの子も最近じゃ行きたい高校も見つかったみたいで、勉強ばっかりしてるのよ」
いろんな問題は少しずつでも解決していくんだな、と知る。
「ここにも来るように言ってよ。たまには兄弟で語ろう、って」
「ええ。伝えておくわね」
よいしょ、と再び起きあがると、床頭台のプリンを手にする。
食べられないことも、ないか。
「スプーンは?」
そう訊ねると、やっと母親は笑ってくれた。
◆◆◆
あの日の夜から続いた高熱は、土曜日になっても下がらないままだった。
一日中うなされては、悪い夢ばかりを見る羽目になった。
風花からは花壇の写真が毎日のように送られてくる。
【プリムラの黄色い花がきれい】
【クリスマスローズって赤じゃなくて白色なんだね】
というメッセージが添えられている。
花よりも風花の写真を見たいのに、それを言い出せないでいる。
もちろん、きちんと返事はしている。明日にでも退院できそうなほど元気な文章を意識した。
痛み止めは時間とともに効果を弱くしている。背中に鈍い痛みがずっとあり、横向きに寝てもそれは消えてはくれなかった。
窓からは月の光が心細く部屋を照らしている。
額に手を当てても、熱があるのかどうかはわからなかった。
寝返りをうつ僕の耳に、病室のドアが開く音が聞こえる。
看護師の巡回だろう、とそのまま目を閉じるが、部屋の中に入ってきたようですぐ近くで足音がする。
ギイ。
丸椅子に腰かけたとなると、看護師ではなさそう。
振り向くと、うっすらとその輪郭が月光に浮かびあがった。
「あ、起こしちゃったか」
そう言った彼が、自分の弟であることはすぐにわかった。
けれど、まさか夜にやって来るなんて想像もしていなかったので、脳の処理が追いつかない。
まだ夢を見ているのだろうか。
「大丈夫? なんか、酷い顔してるけど」
率直な感想を口にしたトールに、
「え、なんでここにいるの?」
間抜けな声で答えてしまった。
トールは、その長い足を投げ出すように座ると肩をすくめた。
「見舞いに来い、って言ったのは誰だよ。兄弟で話をしたいんでしょ」
なにか言葉を返す前に、トールは顔を近づけてきた。
「体調はどう? って、めっちゃ悪そうだな」
こいつは昔からデリカシーがないところが多かった。けれど、表に出さないだけで心配してくれていることは伝わるから不思議だ。
顔は兄である僕から見ても悪くない。サラサラの茶がかった髪に切れ長の目、身長だってまた伸びたみたいに思える。
が、思ったことをずけずけ言うのは今も昔も同じ。
「兄ちゃん、死んじゃうの?」
やっぱりデリカシーがない。
「そんな言い方するなって」
兄らしいことなんてなんにもしていない。お互いに干渉しないルールを勝手に作っていた気がする。
「あ、プリンあるじゃん。いただき」
「大きな声出さないで。もう面会時間は過ぎてるし」
「明日は日曜日だから遅くまで起きてても平気だろ」
「お前の都合じゃないって。病院の規則のことを言ってるんだよ。水、取ってくれる?」
ベッドに上半身を起こし、冷えたペットボトルを受け取る。
こうしてふたりきりで話をするのは久々だった。いつ以来かも覚えていないほどだ。
「めっちゃうまいし。入院ってのも悪くないね」
プリンだけでなく、遠い親戚の叔母さんが持ってきたフルーツゼリーまでたいらげると、ようやく落ち着いたらしくトールはあくびをひとつした。
こっちの気持ちも知らないでのんきなものだと呆れるけれど、こういう態度を取る人も最近は少ないからほっとする部分もあった。
そう考えると、目の前の弟はいつもどんな気持ちだったのだろうと考えてしまう。
同じ屋根の下に住んでいるのだから、もっと話をすればよかった。
自分がその立場になるとわかることもあるな……。
「行きたい高校が見つかったんだって?」
そう訊ねる僕に、
「まあね」
と答えると、トールは足を組んだ。
「エアコンがあって、プールのない高校を見つけた」
「なにそれ」
思わず笑う僕に、トールも「ふふ」と口のなかで笑った。
「俺にとっては大事なこと。三年間、快適に過ごしたいじゃん」
そういえば泳げなかったっけ、といまさらながら思いだす。
「ま、トールが行きたいとこに行くのが一番だよね。僕は、もう行けそうもないけど」
弱気な言葉にトールは顔をしかめた。
「そんなに学校が、好きだったっけ?」
たしかにこういう話もしたことなかったよな……。
「好きだよ。友だちもいるし、部活だってある」
「ああ、花のやつ? 前から聞きたかったんだけど、なんで花なんて育てているわけ? ばあちゃんみたい」
「たしかにそうだね」
否定しない僕に、トールはなぜか口をへの字に結んだ。
昔からなんでも知りたがる性格で、質問ばかりしていたっけ。あいまいな答えをすると、こんな顔で不満を表していたよな……。
「園芸ってさ、花だけじゃなくて植物全般を育てることなんだよ。なんで好きか、って聞かれても、理由なんてない。ただ、好きなんだよ」
たくさんの『好き』が毎日あった。
友だちや家族、季節の花、そして風花。僕を形成するすべてが愛おしかった日々。
「へぇ……。俺にもそういう感情がいつか起きるのかなぁ」
「無理だろうね」
「ひでぇ! 兄弟ならそこは『起きる』って言うべきところだろ」
「大きな声出さないで」
まるで子どものころに戻ったみたいだ。漫才みたいなかけ合いをする僕らを、両親はいつもニコニコと見ていた。
いつから家族はバラバラになったのだろう。
それに対し、文句を言うつもりはない。与えられた日常をただ生きてきただけだったし、そういう点では僕たちのスタンスに差はないと思った。
「ひとつだけお願いがあるんだけどさ」
「なーに」
退屈そうに肩をコキコキ鳴らすトールの視線が泳いでいるのがわかった。
きっとわざとなんでもないように振るまっている。
「お前は……ちゃんと生きろよ」
僕の言葉にトールは「は?」と顔を前に出す。
伝わるだろうか、この気持ちが。
「トールが傷つきやすいのも知ってるし、やさしい性格も知ってる。ぶっきらぼうなのは自分を守るためなんだよね」
「そういう話、したくないし」
プイと顔をそむけてしまう。話ができるのはあと何回くらいあるのだろう?
「したくないならもうしないよ。でも、伝えられてよかった」
水を飲んだせいか吐き気が喉元に生まれている。ベッドに横になる僕に、トールは視線だけを向けてきた。
「今って、どんな気持ち? すごく怖かったりする?」
「どうだろう?」
「質問してるのは俺なんだけど」
薄暗い天井を眺めてから窓のほうを見る。
さっきよりも月の光は強く、さらさらと部屋に降り注いでいる。
「不思議なんだ。予感があったからか、実感がないからなのかもわからないけれど、怖いっていう感情はまだないんだよ。ひょっとしたら僕も、そう思いこむことで自分を守っているのかもしれない」
「つき合ってる子には病気のこと伝えてんの?」
きっと母親が話をしたのだろう。
ゆっくり首を横に振ってみせた。
「言ってない。きっと悲しむだろうから、『春には治る』ってウソをついてる。彼女にだけじゃない。学校にも友だちにも同じように伝えてる」
「なんだよそれ。そっちのほうがちゃんと生きてないじゃん」
「そんなことない。ちゃんと生きるためにウソをついてるんだよ」
ため息が熱を帯びているのがわかる。
「そうかなぁ。俺が彼女だったらつらいけど。あとで本当のことを知ったら、絶対後悔するだろうし」
「後悔?」
「そう、後悔」
そこで言葉を区切ったトールがやさしく目を細めた。
「兄ちゃんはすごいよ。俺にないものたくさん持ってるし」
少し声のトーンを落として、トールは目を伏せた。
「こう見えてもちょっとは尊敬してんだぜ? 俺もちゃんと生きてみる。だから、兄ちゃんも逃げずに最後まで生きて生きて、生き抜いてみろよ」
真っ直ぐに僕を見つめる瞳に、トールの言った言葉を反芻する。
トールの言うことも一理あると思った。いや、一理どころじゃない。
「たしかに逃げているのかもしれないね。……ちゃんと考えてみるよ」
軽くうなずくと、トールは「じゃあな」と部屋を出て行く。
静けさが戻る部屋で、もう一度天井を眺める。
友だちや風花に伝えたら……どうなるのだろう?
そのときの反応に、自分が耐えられるのか。
それを考えること自体避けていたことを今さらながら知った。
僕と出会っていなければ、今ごろ不安な気持ちを抱えずに笑っていられたのかもしれない。
病気になって、こういう〝もしも〟の話をよく考えるようになった。
残される人たちにとって、僕ができることはなんだろう。
これまで見ようとしていなかった世界を覗いてみれば、真っ黒な闇がうごめいている気がした。
目を凝らして見ると、まるで化け物が大きな口を開けているみたいだ。
もうすぐ、それは僕を呑みこんでしまうのだろう。
風花、きみに約束したよね。
風花がいつも笑っていられるようにしたい、って。そのために僕ができること。
それは、ひとつしかないと思うんだ。
誰にでもやさしいところ。
花を大切にするところ。
笑顔がかわいいところ。
声が丸いこと。
家族を思っていること。
がんばり屋さんでいつも一生懸命なところ。
ほら、いくつでも思いつくよ。
僕は自分自身にいつもうしろ向きだったと思う。頼りないし弱気だし、愛想もない。
そんな毎日にきみは現れたんだ。
きみに出会ってからの日々は、僕に新しい感情をたくさん教えてくれた。
きみのために変わりたいと思ったし、強くなりたいと願った。
――だけど、願いは叶わないんだね。
久々に登校したというのに、今日は雨降り。
部室でいつの間に買ったのか『園芸のすべて』という本を開き、さっきからきみは熱心に冬の花について話を続けている。
赤ペンでメモを取るのがきみの癖みたい。写真の横に大好きなきみの文字が並んでいる。
「だからね、桜先輩がマニュアルに書いているように、シクラメンは切り花にしてもいいとは思うの。教室に飾るアイデアも素敵だよね。でも、そうしたら花の命を縮めることになるでしょう」
僕の手元にあるマニュアル本には『シクラメンが咲いたらガラスの器に移し一年生の教室に置く』、と書かれている。
「たしかにシクラメンは一番奥の花壇にあるから目立たないけど、切るのはかわいそうじゃない?」
「切り花にするとだいたい一週間くらいしかもたないしね」
「できるだけ長く咲いていてほしいんだよね。だからわたし、考えたの」
ちょっとあごを上げた風花が、カバンからスケッチブックを取り出した。
そこには『クリスマスディスプレイ案』という文字と、色鉛筆で描かれたイラストがあった。
「シクラメンの植えてある花壇を『クリスマスコーナー』にするの。サンタの置物とか、ポインセチアの花とかを置けばにぎやかになると思う。できればイルミネーションのライトがあれば最高なんだけど、部費も残ってないし難しいよね?」
「……そうだね」
イラストに見惚れていて、返事が遅くなってしまった。
風花の描いた案は、彼女の花への気持ちが詰まっている宝箱みたいだった。
「それにさ」
ようやく落ち着いたらしく、風花は肩をすとんと落とした。
「もう十二月に入っちゃったから、これから準備するんじゃ間に合わないよね。だから、来年はそうしない?」
来年……か。
その言葉に急に部室が翳ったような気分になる。
そのころには、きっと僕はこの世にはいない。
「いいんじゃない?」
「あ、軽く答えてるでしょう? いいもん、わたしが学校にかけ合うから。予算を多くください、って」
ふてくされた顔も好きなところだよ。
ネガティブな想像しかできないこの先のことも、風花のそばにいられれば乗り越えられる気がしている。
「そんなにクリスマスコーナーを作りたいの?」
彼女のイラストを指でなぞってみる。下書きを何度もしたのだろう、薄い鉛筆の跡がいくつも残っていた。
「うん。園芸部の目玉みたいな作品にして、たくさんの人に見てもらいたいし、そうすれば入部してくれる人も増えるかも」
目を輝かせた風花が「んー」と唇を尖らせた。
「というより、わたしがクリスマスコーナーを見たいだけかも」
ころころと表情の変わる風花。そんなことを言われたら、僕だってなんとかしたいって思っちゃうよ。
「わかったよ。僕からも交渉してみる。ただ、今年はやっぱり厳しいよ。来年に向けて企画書を作ろう。桜先輩には悪いけれど、シクラメンはそのままにしておこうか」
「ほんと? やった!」
子どものように無邪気なところも、きれいな髪も全部好き。
風花がいてくれるから、この絶望に満ちた世界でも生きていられるんだ。
堤医師からあの夜告げられたのは、僕の残された人生の期間について。
手術ではすい臓だけでなく肝臓の一部も除去したそうだ。しかし、腹膜や骨への転移が確認されたらしい。
手術は意味がなく、あとは余命をどこまで延ばせるかにかかっていると説明された。
不思議だったのは、その話をきちんと受けとめられる自分がいたこと。
母親のいないふたりきりの場所で聞けたことも大きかったと思う。
結局、母親を入れての話し合いは何度も行われ、父親まで飛んでくることになった。
そのたびに母親は泣き、弟はふてくされたような顔でそっぽを向いていたっけ。
誰もが受けとめられない事実なのに、僕だけがすんなり理解しているような気分だった。
それともあまりの衝撃に感覚がマヒしているのだろうか。
「ね、聞いてる?」
風花の声に我に返ると、眉をひそめた顔がそばにあった。
「聞いてるよ」
「ひょっとして、今日は体調がよくないの?」
先月から学校を休みがちになっている。熱が出たり、背中や胃の痛みに耐えられないことが多くなっていたからだ。
服薬コントロールができたこのごろは、なんとか通えているものの、隠し通すのは難しかった。
クラスでもウワサになっていると聞くし、顔色や目の下の隈を隠すためにかけているメガネもわざとらしかったのかもしれない。
「大丈夫だよ。数ヶ月で治るみたいだし」
「ホルモン系の病気、だっけ?」
「そう。春には完治するみたい。それまでは迷惑かけちゃうけど、ごめん」
軽い口調を意識して言えば、あいまいに風花はうなずいた。
「だったらいいけど……。部活はわたしに任せてくれていいんだからね。友梨だって手伝ってくれるし。でも、本当に具合が悪ければちゃんと言ってね」
「大丈夫だよ」
言葉とは裏腹に風花の手を握る。そして、元気さをアピールするように力をこめた。
きみには言えない僕の秘密。
もし本当のことを知ってしまったら、こんなふうに笑い合えなくなる。
あまり長いあいだ握っていては気づかれてしまいそうで、名残惜しく手を離す。もう指先がさびしがっているみたいだ。
「そういえばね」
スケッチブックを閉じながら風花が言った。
「このあいだ、お姉ちゃんと一緒にピアノを弾いたの」
「え?」
驚く僕に、風花は照れたように笑った。
「もちろん自分からじゃないよ。ただ、そういう雰囲気になって……。ずっと弾いてなかったから全然指は動かなかったけどね」
「すごいじゃん」
「すごくないよ。だって、やっぱり弾いているときは複雑な心境だったし。でもね、普通にお姉ちゃんと話ができて……ちょっとうれしかったんだ」
風花はちゃんと前を向いて歩けている。うれしいようで、なぜかせつない気持ちもあるから不思議だった。
「これから少しずつでもお姉さんとの距離が近づくといいね」
「うん。ね……今日は魔法をかけてくれないの?」
拗ねた顔をした風花に、しょうがない、なんて言ってみせてから左手の中指に手を置いた。きみの指が僕の指に絡まれば魔法は始まる。
「家族っていいよね」
そう言うと、
「うん」
きみは小さくうなずいた。
「病気してからはとくにそう思う。母親だけじゃなく、弟もなんか気を遣ってくれているし」
「そうなんだ。弟さんはもう学校に行ってるの?」
「反抗期は終わったみたい。最近は話をすることも多いんだ」
細く美しい中指を宝物のように両手で包んだ。
「でもさ、逆に自分の気持ちを出せないつらさはあるよね。風花がお姉さんに対して持つ感情、やっとわかった気がする」
悲しくて泣きたいのに、笑っていなくちゃいけない。核心に触れる話題は避け、元気に振るまう自分を遠くで見ているような孤独。
きっと風花も同じような感情をずっと抱いているのだろう。
うつむく風花を下から覗くように見た。
「風花が本当の笑顔でお姉さんと話せるよう、魔法をかけるよ。即効作用はないけど、じわじわ効いてくるはずだから」
冗談めかして言うと、涙目の風花がぎゅっと口を結んでいる。
包んだ両手に願いを込める。
ただ願うんじゃなく、本気で風花がそうなるように強く強く。
手を離すと、風花は「ありがとう」と言った。
「なんだか、じわじわ効いてきた気がする」
こんなに好きな相手なのに、一緒に過ごせる時間は日に日に少なくなっているなんてつらいな。
もっと好きだと言えばよかった。もっとそばにいてあげたかった。
今からでもできるのに、その感情を見ないフリ。
いつだって僕は弱虫だ。
「じゃあ今日は帰るよ。病院行かなくちゃいけないし」
「気をつけてね」
鈍い痛みを誤魔化して平気そうに立ちあがる。
部室のドアを開け、閉めるまでずっと笑顔のままで。
風花、僕はきみを失うことになる。
残された風花は悲しみ苦しむだろう。それを知っているのに病気のことを言えないのは、まぎれもなく僕の弱さだ。
最後の瞬間まできみには笑っていてほしいから。
それは、僕の傲慢な願いなのかもしれない。
校門のところまで行き、学校を振り返る。
入学をして八か月。見慣れたはずの校舎はどこかくすんで見えた。
明日からまた入院が決まっている。といっても、治療はせずにがんの進行具合を見るだけだ。
病気を知る誰もが抗がん剤治療を勧めてきたし、自分でもそうしなくてはいけないとわかっている。
けれど、ネットの情報や堤医師から説明された副作用について考えると、とてもそんな気にはなれなかった。僕の体を蝕む病気のスピードは、現代医学ではかないっこないことは明らかだったから。
つらく苦しい治療が続くよりも、痛み止めを処方してもらって家にいることを選択した。病院で最期を過ごすのはいやだと結論づけたのだ。
抗がん剤治療をしないため、入院しても数日で退院できるらしい。
またこの校舎を見られる日は来るのだろうか。
いやに弱気になっている自分を奮い起こすように校門を出た。
すると、そこに犬神がいた。陸上部のユニフォーム姿じゃなく、黒ずくめの私服で校門にもたれて立っている。
「よお」
短い挨拶に眉をひそめてしまう。
「部活は?」
「いいんだよ。それより一緒に帰ろう」
なぜか不機嫌そうに鼻を鳴らす犬神。友だちになってから、しばらく経つからこそわかること。
こういうときの犬神はなにか言いたいことを抱えている。
たしか前回は……ハロウィンの仮装についてだった。結局そのあと参加したかどうかを聞くこともなく、世間はクリスマスムードに突入してしまっている。
時間なんてあっという間に過ぎてしまう。
隣に並んで歩き出すものの、犬神は横顔のまままだムッとしている。
そしてそのままわざとらしくため息をついた。
「前にも言ったろ。なんでも話してほしいって」
「……ああ」
たしかにそう言われていた。犬神の言いたいことがわかる気がした。
「ホルモン系の病気なんてウソだろ。しばらくは治療をして春になったら治る? んなの信じられるかよ」
「ウソじゃないよ」
ああ、やっぱり犬神は気づいているんだ。それでも、ウソをつかなくちゃいけない。
それはいったい、誰のために?
みんなを心配させないため?
それとも風花の耳に入らないようにするため?
「だったらなんで病名を伏せているんだよ。なんで言えないんだよ」
「それは……」
やめてくれ、と叫んでしまいたかった。
それでも笑みを崩してはいけない。
「犬神は気にしすぎなんだよ。病名はちゃんと知らないんだよ。なんだか難しい名前で――」
「いいかげんにしろよ!」
イラつく感情を地面にぶつけるように、犬神がアスファルトを右足で叩いた。
「そんなにおれが信用できないのか? だから言えないってこと?」
「違うってば」
笑えない。
誤魔化さなくちゃいけないのに、笑みが作れない。喉元まで本音が溢れてきそう。
それでも、それでも……。
「ちょっと落ち着けって。今日は体調がよくないんだよ」
はっと口を噤んだ犬神を見て、逆に胸がざわざわと落ち着かなくなる。心配させたくないのに、鼻の頭がツンと痛くなるのを感じる。
「悪い……。いとこがさ、すい臓がんで亡くなっててさ……。なんか、症状が似てるなって思って――。いや、忘れて。ごめん」
胸が、痛い。
誤魔化せるはずもない真実は、どんどん僕を追い詰めていくようだ。
泣いちゃだめだ。言い聞かせてもあっという間に視界が滲んでいく。
このままウソをつきとおして帰ればいい。今の医学の進歩を信じるなら、この先、なにかが変わるかもしれない。
そんな期待は、転移がわかった日から消え失せた。
だから僕は目の前にある『絶望』を見ないようにしたかった。
――奇跡なんて、この世にはない。
その言葉はずっと胸にあったはずなのに、今になってリアルにその姿を現している。
「犬神、前に言ってくれたよな? 『友だちだからなんでも言ってほしい』って」
「ああ、言ったよ」
さっきよりトーンを落とした犬神の姿がぼやけて映る。
「友だちだからこそ言えないこともあるんだよ」
「そんなに……重い病気なのか?」
「犬神にウソをつきたくない。だから聞かないでほしいし、誰にも言ってほしくない」
「……なんだよそれ。信用しろよな」
「してるよ。信用しているから、言いたくないこともあるんだ」
涙を誤魔化すように歩き出すと、犬神も遅れてついてくる。
木枯らしが僕を攻撃するように強く吹いている。
そんなことにさえ、崩れおちそうになる弱い自分を痛いほどに感じた。
薬が効いていないのか、今にも倒れそうだ。
「なあ犬神、ひとつお願いがあるんだけど」
思いつくと同時に言葉にしていた。
「ん?」
「友だちにしか頼めないことなんだ」
そう言って振り返ると、夕日が眩しくて犬神の表情がよく見えなかった。
「なんでも言えよ」
さびしげな口調の犬神に、僕は今考えたばかりのアイデアを話し出す。
背中に吹きつける風の冷たさも忘れるほど、言葉にするたびに気持ちは固まっていくようだった。
◆◆◆
病室から見える空は雨模様。風にあおられた雨が、窓ガラスにぶつかって砕け散り流れていく。
痛み止めの点滴のおかげで、今日は朝から調子がいい。まるで病気なんてなかったかのように、今なら駆け回ることもできそうなほど。
反面、病状が相当深刻なのは母親の表情でだいたいわかる。
検査入院も今月二度目になり、退屈なテレビからは年末ムードが漂っている。
明日はもうクリスマスらしい。
結局、犬神にした提案もそのままになっている。
――最後くらい、うまくいってほしかったな。
そんなことを考えてしまう自分と、それを慰める自分。ふたつの感情がぶつかって、戦って、ともに地面に叩きつけられているよう。
本来なら自宅療養もできるだろうに、母親が頑として退院させてくれないのだ。たしかに食欲はまったくないし、体力はかなり落ちている自覚はある。
駆け回ることなんて、やっぱりできないのかも。
ああ、またマイナスな考えが頭を支配するようだ。
ノックの音に続いて、おずおずと母親が顔を出した。
「どう、体調は?」
「平気」
このやり取りを何度繰り返しているのだろう?
そんな気弱そうに訊ねられて、正直に答える子供なんていない。
「なにか食べたいものある? 売店でプリン買ってきたんだけど」
丸椅子に腰かけてビニール袋から黄色いプリンを取りだす母親。冷蔵庫に昨日買って来てくれたプリンがまだ残っていることを忘れているんだろうな。
無言で受け取り、ひんやりとした容器を眺める。
なんだか不思議な気持ちだった。
まるで今起きていることは、全部ドッキリ企画かなにかのように感じてしまう。
「最近雨ばかりねぇ」
困った顔で雨空を見る母親に、思わず笑ってしまう。必死で明るく振るまってくれていることがわかるけれど、体調と天気の話ばかりだ。
「雨もいいよ。植物が育つから」
「あんたはこんなときにも園芸の話ばっかり。おばあちゃんそっくりね」
そうだったな、と思い出す。おばあちゃんは体が不自由になってからも、庭の植物のことばかり気にしていたっけ……。
「ねぇ、抗がん剤治療のことなんだけど」
何気なく口にしたつもりだろうけれど、声のトーンが下がっている。
「またその話? もういいってば。堤先生も乗り気じゃなかったじゃん」
「姉さんは薄情なのよ」
うつむいてしまう母親から目をそらし、白いカバーのしてある布団を見た。
「僕が悪かったんだよ。もっと早く病院に行けばよかったのに、ほんとごめん」
「違うの。私がもっと強く言えばよかったの。ごめんね」
何度もしてきた延命治療の話。きっと母親も手遅れだということをきみに受けいれつつあるのだろう。
この話題にかける時間は日に日に少なくなっている。
「それに」と、僕は伸びをした。
「少しだけ寿命を延ばしても、歴史に名を残せるわけでもないしさ」
プリンを脇にある床頭台に置くと、ごろんとベッドに横になる。点滴からは一粒ずつ規則正しく体に痛み止めが運ばれている。
「そう、ね」
必死に本やネットで調べてくれていることは知っていた。
「それよりトール、学校行けてるみたいだね。あの反抗期はなんだったの、って感じ」
場を占める重いムードを消したくて弟の話題を振ると、母親は「ああ」と僅かに声を明るくした。
「あなたにも昔、同じようなことあったのよ。まぁ短かったけどね」
「えー、覚えてないなぁ」
「みんなそんなものよ。あの子も最近じゃ行きたい高校も見つかったみたいで、勉強ばっかりしてるのよ」
いろんな問題は少しずつでも解決していくんだな、と知る。
「ここにも来るように言ってよ。たまには兄弟で語ろう、って」
「ええ。伝えておくわね」
よいしょ、と再び起きあがると、床頭台のプリンを手にする。
食べられないことも、ないか。
「スプーンは?」
そう訊ねると、やっと母親は笑ってくれた。
◆◆◆
あの日の夜から続いた高熱は、土曜日になっても下がらないままだった。
一日中うなされては、悪い夢ばかりを見る羽目になった。
風花からは花壇の写真が毎日のように送られてくる。
【プリムラの黄色い花がきれい】
【クリスマスローズって赤じゃなくて白色なんだね】
というメッセージが添えられている。
花よりも風花の写真を見たいのに、それを言い出せないでいる。
もちろん、きちんと返事はしている。明日にでも退院できそうなほど元気な文章を意識した。
痛み止めは時間とともに効果を弱くしている。背中に鈍い痛みがずっとあり、横向きに寝てもそれは消えてはくれなかった。
窓からは月の光が心細く部屋を照らしている。
額に手を当てても、熱があるのかどうかはわからなかった。
寝返りをうつ僕の耳に、病室のドアが開く音が聞こえる。
看護師の巡回だろう、とそのまま目を閉じるが、部屋の中に入ってきたようですぐ近くで足音がする。
ギイ。
丸椅子に腰かけたとなると、看護師ではなさそう。
振り向くと、うっすらとその輪郭が月光に浮かびあがった。
「あ、起こしちゃったか」
そう言った彼が、自分の弟であることはすぐにわかった。
けれど、まさか夜にやって来るなんて想像もしていなかったので、脳の処理が追いつかない。
まだ夢を見ているのだろうか。
「大丈夫? なんか、酷い顔してるけど」
率直な感想を口にしたトールに、
「え、なんでここにいるの?」
間抜けな声で答えてしまった。
トールは、その長い足を投げ出すように座ると肩をすくめた。
「見舞いに来い、って言ったのは誰だよ。兄弟で話をしたいんでしょ」
なにか言葉を返す前に、トールは顔を近づけてきた。
「体調はどう? って、めっちゃ悪そうだな」
こいつは昔からデリカシーがないところが多かった。けれど、表に出さないだけで心配してくれていることは伝わるから不思議だ。
顔は兄である僕から見ても悪くない。サラサラの茶がかった髪に切れ長の目、身長だってまた伸びたみたいに思える。
が、思ったことをずけずけ言うのは今も昔も同じ。
「兄ちゃん、死んじゃうの?」
やっぱりデリカシーがない。
「そんな言い方するなって」
兄らしいことなんてなんにもしていない。お互いに干渉しないルールを勝手に作っていた気がする。
「あ、プリンあるじゃん。いただき」
「大きな声出さないで。もう面会時間は過ぎてるし」
「明日は日曜日だから遅くまで起きてても平気だろ」
「お前の都合じゃないって。病院の規則のことを言ってるんだよ。水、取ってくれる?」
ベッドに上半身を起こし、冷えたペットボトルを受け取る。
こうしてふたりきりで話をするのは久々だった。いつ以来かも覚えていないほどだ。
「めっちゃうまいし。入院ってのも悪くないね」
プリンだけでなく、遠い親戚の叔母さんが持ってきたフルーツゼリーまでたいらげると、ようやく落ち着いたらしくトールはあくびをひとつした。
こっちの気持ちも知らないでのんきなものだと呆れるけれど、こういう態度を取る人も最近は少ないからほっとする部分もあった。
そう考えると、目の前の弟はいつもどんな気持ちだったのだろうと考えてしまう。
同じ屋根の下に住んでいるのだから、もっと話をすればよかった。
自分がその立場になるとわかることもあるな……。
「行きたい高校が見つかったんだって?」
そう訊ねる僕に、
「まあね」
と答えると、トールは足を組んだ。
「エアコンがあって、プールのない高校を見つけた」
「なにそれ」
思わず笑う僕に、トールも「ふふ」と口のなかで笑った。
「俺にとっては大事なこと。三年間、快適に過ごしたいじゃん」
そういえば泳げなかったっけ、といまさらながら思いだす。
「ま、トールが行きたいとこに行くのが一番だよね。僕は、もう行けそうもないけど」
弱気な言葉にトールは顔をしかめた。
「そんなに学校が、好きだったっけ?」
たしかにこういう話もしたことなかったよな……。
「好きだよ。友だちもいるし、部活だってある」
「ああ、花のやつ? 前から聞きたかったんだけど、なんで花なんて育てているわけ? ばあちゃんみたい」
「たしかにそうだね」
否定しない僕に、トールはなぜか口をへの字に結んだ。
昔からなんでも知りたがる性格で、質問ばかりしていたっけ。あいまいな答えをすると、こんな顔で不満を表していたよな……。
「園芸ってさ、花だけじゃなくて植物全般を育てることなんだよ。なんで好きか、って聞かれても、理由なんてない。ただ、好きなんだよ」
たくさんの『好き』が毎日あった。
友だちや家族、季節の花、そして風花。僕を形成するすべてが愛おしかった日々。
「へぇ……。俺にもそういう感情がいつか起きるのかなぁ」
「無理だろうね」
「ひでぇ! 兄弟ならそこは『起きる』って言うべきところだろ」
「大きな声出さないで」
まるで子どものころに戻ったみたいだ。漫才みたいなかけ合いをする僕らを、両親はいつもニコニコと見ていた。
いつから家族はバラバラになったのだろう。
それに対し、文句を言うつもりはない。与えられた日常をただ生きてきただけだったし、そういう点では僕たちのスタンスに差はないと思った。
「ひとつだけお願いがあるんだけどさ」
「なーに」
退屈そうに肩をコキコキ鳴らすトールの視線が泳いでいるのがわかった。
きっとわざとなんでもないように振るまっている。
「お前は……ちゃんと生きろよ」
僕の言葉にトールは「は?」と顔を前に出す。
伝わるだろうか、この気持ちが。
「トールが傷つきやすいのも知ってるし、やさしい性格も知ってる。ぶっきらぼうなのは自分を守るためなんだよね」
「そういう話、したくないし」
プイと顔をそむけてしまう。話ができるのはあと何回くらいあるのだろう?
「したくないならもうしないよ。でも、伝えられてよかった」
水を飲んだせいか吐き気が喉元に生まれている。ベッドに横になる僕に、トールは視線だけを向けてきた。
「今って、どんな気持ち? すごく怖かったりする?」
「どうだろう?」
「質問してるのは俺なんだけど」
薄暗い天井を眺めてから窓のほうを見る。
さっきよりも月の光は強く、さらさらと部屋に降り注いでいる。
「不思議なんだ。予感があったからか、実感がないからなのかもわからないけれど、怖いっていう感情はまだないんだよ。ひょっとしたら僕も、そう思いこむことで自分を守っているのかもしれない」
「つき合ってる子には病気のこと伝えてんの?」
きっと母親が話をしたのだろう。
ゆっくり首を横に振ってみせた。
「言ってない。きっと悲しむだろうから、『春には治る』ってウソをついてる。彼女にだけじゃない。学校にも友だちにも同じように伝えてる」
「なんだよそれ。そっちのほうがちゃんと生きてないじゃん」
「そんなことない。ちゃんと生きるためにウソをついてるんだよ」
ため息が熱を帯びているのがわかる。
「そうかなぁ。俺が彼女だったらつらいけど。あとで本当のことを知ったら、絶対後悔するだろうし」
「後悔?」
「そう、後悔」
そこで言葉を区切ったトールがやさしく目を細めた。
「兄ちゃんはすごいよ。俺にないものたくさん持ってるし」
少し声のトーンを落として、トールは目を伏せた。
「こう見えてもちょっとは尊敬してんだぜ? 俺もちゃんと生きてみる。だから、兄ちゃんも逃げずに最後まで生きて生きて、生き抜いてみろよ」
真っ直ぐに僕を見つめる瞳に、トールの言った言葉を反芻する。
トールの言うことも一理あると思った。いや、一理どころじゃない。
「たしかに逃げているのかもしれないね。……ちゃんと考えてみるよ」
軽くうなずくと、トールは「じゃあな」と部屋を出て行く。
静けさが戻る部屋で、もう一度天井を眺める。
友だちや風花に伝えたら……どうなるのだろう?
そのときの反応に、自分が耐えられるのか。
それを考えること自体避けていたことを今さらながら知った。
僕と出会っていなければ、今ごろ不安な気持ちを抱えずに笑っていられたのかもしれない。
病気になって、こういう〝もしも〟の話をよく考えるようになった。
残される人たちにとって、僕ができることはなんだろう。
これまで見ようとしていなかった世界を覗いてみれば、真っ黒な闇がうごめいている気がした。
目を凝らして見ると、まるで化け物が大きな口を開けているみたいだ。
もうすぐ、それは僕を呑みこんでしまうのだろう。
風花、きみに約束したよね。
風花がいつも笑っていられるようにしたい、って。そのために僕ができること。
それは、ひとつしかないと思うんだ。