三年生の円城《えんじょう》先輩。

 聞き間違いであってほしいと思いながらほかの子にも聞いたけど、答えは変わらなかった。間違えたら失礼だと、遠くから耳をそばだててはみたものの、聞こえた声はあの日聞いた声によくにていた。十中八九、彼で間違いないだろう。だからさっさと返せればいいのだが、わたしには男女問わず色んな人たちに囲まれているあの先輩に突撃する自信はない。
 いや、みっちゃんの付き添いなしで後日あらためて返しに行くのにも精神《メンタル》をゴリッゴリにすりへらさないとムリだけど!
 でもあの空間に、コミュ力の塊であるみっちゃんは相応しくても、窓際読書系女子のわたしには場違いもいいところだ。
 あの中に行くくらいだったら『柏木《かしわぎ》、あの円城先輩に告白したんだって。鏡見てから出直して来いよって感じだよね』と言われた方がマシである。
 もちろんキラキラしている先輩に告白なんてそんなおそれおおいことはしないけど。というかそもそも相手が円城先輩だって分かってたら借りたりしなかった。風邪の寒気なんて気合でどうにかできなかったのか、って一昨日の自分を殴りたいくらい!
 百面相をくり返すわたしをみっちゃんは不思議そうにながめていた。けれど「もう少しで昼休み終わっちゃうね」とつぶやくと半分だけ開いたドアをガラっと開いて顔を出した。
「すみませ~ん。円城先輩、少しお時間いいですか?」
「みっちゃん!」
 よりによってなんでそんな目立つようなマネを!
 その原因はもちろん、パーカーを借りた張本人のわたしがチンタラしているからなんだけど!
 お慈悲を~と腕にすがりついてみたものの、みっちゃんにすればただの付き添いの用事である。早く済ませてしま痛いのだろう。わたしという重りをモノともせずに教室側へと進んでいく。
「だれ? アキラ、知り合い?」
「じゃないと思うけど……?」
「もしかして告白か? 昼休みに突撃してくるタイプは初めてじゃね? モテ男はなんでもありだな」
「モテ男って……古くね?」
 そういえばみっちゃん、告白なんて中学の時だけでも何度とこなしてきたもんね……。小学校からずっと少しはなれた場所から見守ることしかできなかったけど、わたしの頭の中にはみっちゃん告白セレクションのアルバムを作れるほどにはみっちゃんの勇姿が刻まれている。二つ上の先輩の教室で何を言われようともビクともしないその精神《メンタル》、わたしも修得できたらいいのに……。そう思い続けて早10年。思うだけで実行に移してこなかった自分が恨めしい。いつだってみっちゃんが何とかしてくれたもんね。いつかは独り立ちならぬみっちゃん立ちをしなければいけないだろうって分かってはいたけれど、まさかそのタイミングが突然現れるなんて予想もしていなかった。ビクビクとみっちゃんの後ろで震えても事態が好転することはない。その理由は簡単。このじたいはわたしにとっては大きな壁なだけで、ほかの人たちにとっては何気ない日常だから。好転もなにもないのだ。
 食事中の手を止めて、「どうしたの?」とわざわざ廊下までやって来てくれる円城先輩。
「すぐすみますので」
みっちゃんは先輩にペコリと頭を下げると、「アコ」とこのタイミングでのわたしへのパス。
 ベストタイミングである。
 なにせわたしの用事なのだから。
 あいかわらず震えは止まらない。けれど借りたパーカーを返却するというミッションはこなさなければ、今後ともわたしに引っ付いて回ることとなる。早く済ませるか。ずるずると引きずるか。
答えなんて決まっている。
早く返さないと、って思ったからこそ、みっちゃんに手伝ってもらってここまで来たのだ。三年生の先輩たちから向けられる好奇な視線をビンビンに浴びながら、パーカーの入ったふくろを先輩へとつき出した。
「あの、これ! ありがとうございます!」
 どもりはしたものの、ちゃんと感謝の言葉は伝えられた。それだけで最低ラインは突破したといってもいいだろう。低いハードルだけど、でもお礼って大事だから。
袋を受け取った先輩はパチパチと大きな目をしばたかせる。そして数秒後に一昨日の出来事を思い出したのか「ああ!」と両手を打ちつけた。
「具合良くなったんだね」
「はい、おかげさまで」
「それなら良かった。パーカー、わざわざ返しに来てくれてありがとうね」
「いえ、お借りしたものはお返ししないとですから」
 あの日と同じく少しゆっくりと話す円城先輩と、テンパるわたし。そして突き刺さるいくつもの視線。
 せなかには冷たい汗がじっとりとわき上がる。わたしはすぐに我慢できなくなって「本当にありがとうございました!」と深く頭を下げると、みっちゃんの手を引いて早々に退散した。
廊下は走るな! と先生に怒られないように早足で。でも気持ちはダッシュ。50m走の自己ベストは10秒を少し切るくらいの、自他ともにみとめる運動オンチなわたしだけど、今測定してくれれば9秒台をたたき出せる気がする。額に汗を浮かべながら、そんな根拠のない自信で胸をバクバクとはずませていた。決して恐怖とかではない、はずだ。……多分。だって借りたものを返しただけだし。言ってしまえば図書室に本を返しに行くのと同じ! 同じ、はずだ。