五
柚木第二高校のモットーは『文武両道』だ。勉強も部活も両立しましょう。楽しむときは思い切り楽しみましょう。――そんな緩いモットーの下で全国大会にまで出場している部活動がいくつかある。
その中で近年、大会で好成績を残しているのが陸上部だ。九年くらい前にある男子部員がハードルの種目で全国大会に出場したのがきっかけで、学校側が部活動にも力を注ぐようになり、今では特待生まで取るようになった。
今回の被害者の一人である女子生徒――馬場実咲は、陸上部のマネージャーだった。容姿端麗で普通科の生徒でありながらも成績は常に上位の彼女は、いわゆる『高嶺の花』だ。
水飲み場でボトルを洗っていたジャージ姿の彼女に巳波先輩が声をかけると、手を止めて話を聞いてくれた。
「えーっと……馬場さんでいいかな? さっきはありがとう。確認をしたくてまた来てしまったんだけど、大丈夫かな?」
「あ、はい。……ってあれ?」
先輩の後ろにいた私と目が合った途端、彼女は嬉しそうに目を輝かせて私に飛び付いてきた。
「ツヅミ! 大丈夫だった? クラスの子に苛められてない? 戸田にビンタしたって話は聞いたけどツヅミは怪我してない? 桜井さんから殴られそうになったって話も聞いて……ああ、なんで私はツヅミと一緒のクラスになれなかったんだろう! 私が近くにいたら、代わりにボコボコにしてやったのに!」
「お、落ち着いて、実咲……っ!」
「落ち着いていられる訳ないでしょ? 私の友達が理不尽に酷い目に遭っているのに、何もできない自分が悔しくて仕方がないの! せめて、せめてツヅミの前では笑顔でいたいけど、今だけは怒らせて!」
「ぶべっ! つ、つべだ……っ!」
先程まで水に触れていた彼女の手が私の両頬を挟む。ひんやりとした感覚と勢いで挟まれて変な声が出た。彼女の背中を叩いて離れてもらうように訴えるが、先程から続く懺悔のせいで効果はない。彼女は力も自分を追い詰める加減も知らないのだ。
「牛山ちゃん、知り合いだったの?」
驚いた顔をしている先輩の隣で仏頂面の東雲君が問いに苦笑いで答える。
私と実咲は中学からの友人だ。三年間同じクラスで行動するときはいつも一緒だった。高校は別だと思っていたにも関わらず、たまたま受験した高校が一緒だったため、今でも仲は有難いことに健在だ。
先程『高嶺の花』と例えたが、実は彼女の心配性で慌てやすい性格は昔から変わらない。これが更に進んでいくと、発言は狂った追っかけやヤンデレに近いものがある。それを凌駕するように、彼女の笑顔はいつも眩しくて、知られたくない黒い部分は見せないのだ。
「どうしてツヅミが二人と一緒に? すごい珍しいコンビよね」
「……とりあへずはにゃして(とりあえず離して)」
「へ? ああ、ごめんね」
今の状態に気付いたのか、実咲はどこか名残惜しそうに離れた。
「なんて言ったらいいのかな……濡れ衣であることを証明するために、二人に助けてもらっているっていうか……」
「そうだったんだ……とにかく、まだ何もされてないんだよね?」
何が?
「あのー……盛り上がっているところ悪いんだけど」
完全に蚊帳の外にされていた巳波先輩が声をかけてくる。ああ、忘れていた。
「まさか昨日の被害者と知り合いだったとは……牛山、とばっちりにも程があるぜ」
「生徒会長、私とツヅミは中学からの仲です。この子を犯人扱いするなら許しませんからね!」
「お前ら見れば嫌でもわかるよ、牛山が腐れ縁の荷物を漁るほど腐ってねぇことくらい」
「酷い! 腐れ縁なんて言い方は酷すぎます。せめて運命の糸とか、偶然ではなく必然だったとか……まさか、そうやって私とツヅミを引き離そうと……」
「してねぇよ! なんでそんな怖い発想に繋げられるんだよ?」
「実咲、ちょっと落ち着いて」
彼女が暴走すると私でさえ手に負えない。こんなところで時間を使っている余裕は今の私にはないというのに。不服そうな顔をしている彼女に、本題の南京錠を見せる。
「ねぇ、この南京錠の鍵はある?」
「鍵? うん、部室に置いてある鞄に入ってるけど……何かあったの?」
詳しい事は伏せて確認したいことがあると伝えると、彼女は小さく頷いて部室に向かった。流石に部外者で泥棒の噂が広まっている私が無闇に近付くと実咲にも迷惑がかかるので、ここで待たせてもらうことにした。
待っている間、どこからか視線を感じて目を向けると東雲君が仏頂面でこちらを見ていた。
「なんでそんなにふて腐れた顔なの?」
「……別に。普段からこんな顔だけど」
「いやいや、いつもより目付き悪いじゃん」
「随分容赦のない悪口だなオイ」
拗ねたようにそっぽを向く東雲君。
「……アンタが馬場ちゃんと仲が良いなんて知らなかった」
「へ? 馬場ちゃん? 東雲君、実咲と知り合いだったの?」
「一年の時、同じクラスでずっと叩き起こされてたから嫌でも名前は覚えた……」
どこか遠くの方を見ながら若干震えている。実咲は怒る時は怒るから、きっと昨年の約半年は彼女を見るたびに眠い目を擦っていたに違いない。何より私も一度怒らせたことがあるので、大体想像がついた。
今度、東雲君と被害者の会でも作ろう。勝手に彼の肩に手を置いて黙って頷くと、東雲君は不思議そうに首を傾げた。
「それにしても、まさか馬場ちゃんがねぇ……」
「ね、私もビックリした。そういえば実咲、合唱部の助っ人でピアノの伴奏頼まれたって話をしてたような……」
彼女は小学生の頃からピアノを習っていたこともあり、中学の時も何度かクラス合唱で伴奏を引き受けていた。その傍ら、自身は陸上部に入っていて、リレーの選手に選ばれたこともあった。それでもピアノの伴奏は嫌な顔をせず引き受け、授業の間の休み時間や放課後を利用して音楽室で練習していたのを何度か見たことがある。
流石に無理をしていないかと思い、一度聞いたことがあるが、「私が好きだから伴奏するの。ツヅミが一緒にいてくれるのと同じで、私は自分にとって負担になることは絶対しないわ」と、やけに嬉しそうに笑う彼女を、今でも鮮明に覚えている。
「いや、その話じゃなくて」
「へ? じゃあ何?」
「そっち」
どっちだ。
東雲君の回答に首を傾げていると、部室から実咲が戻ってきた。手には南京錠の鍵と、可愛らしいオレンジ色の花のキーホルダーがついている。南京錠についていたシールと同じ花だ。
「いつも制服のポケットに入れてるんだけど、あの日は盗難が続いていたから体育の授業でも持って行ってたの。ダイヤル錠もついてるから大丈夫だと思ってたけど、念の為に。だから放課後になって月謝袋を見たとき驚いたわ」
「……ダイヤル錠の番号、自分の誕生日でしょ」
「えっ? うん、なんでわかるの?」
私が言い当てると、実咲はとても驚いた顔をした。こういうものは大抵自分が忘れない番号に設定しがちになってしまい、名簿や誕生日、携帯の番号に設定すると他人でもすぐわかってしまう。
「この話、結構有名だと思うんだけど……」
「そっか……じゃあ今度からツヅミと出会った記念日にしておくね!」
「設定してもいいけど、ロックをかける時はちゃんと番号を全部ずらしてね。一つだけ回しても無駄だから」
小さくため息をつきながら、実咲が持ってきた鍵を見つめる。どこも怪しいところは見当たらない。むしろきれいに拭かれているように思えた。ハンカチに包まれていた訳ではなさそうだ。
「牛山、何かわかったか?」
「何かって、なんですか?」
「ピッキングに使用されたかとかさ、見てわかんねぇの?」
「何度も言いますけど、私別にピッキングを見破れる名人でもなんでもないですから!」
先輩を軽く睨みながら言うと、威力が強かったのか、先輩が両手を上げて落ち着けと促す。
「わ、わかったよ……」
「……いえ、すみません」
「でもこの鍵、なんか妙だな」
横から覗くような形で鍵を見てくる東雲君が呟く。
「馬場ちゃん、裕司先輩に話した昨日のこと、特にロッカーのことを教えて」
「わ、わかった。えーっと……。
「まず、私は体育の授業の後から放課後まで一度も開けてないわ。
「昼休みに食べたお弁当をしまう時に一度開けたけど、体育の授業は昼休みの後だったし、自販機で飲み物を買った時も、持ち歩いている小銭入れのお金を使っていたし……。
「少なくともロッカーには放課後になるまで近づいてない。これは断言できるよ。
「最初はダイヤル錠しかつけてなかったんだけど、盗難が多発してるって聞いて一週間くらい前に南京錠をつけたの。貴重品はいつもロッカーに入れているわ。
「鞄までは入れられないから、ロッカーの中は財布とピアノ教室に持っていく月謝袋だけ。あとは教科書がいくつか入っているくらいかな。
「南京錠の鍵はいつもブレザーのポケットに入れているけど、最近は盗難騒ぎが多発していたから、昨日は体育の授業にも持って行ったわ。持ち歩くようになったのは……ここ二、三日前。B組に盗まれた人が出た頃かな。
「それまでは自分の席の椅子にかけてたわ。私、教室では廊下の出入り口近くだから、入れっぱなしにしておくと怖いなって思って。
「……遅かったけど、ね。
「正直、D組まで来るとは思ってなかったのよ。A組から順番にこう……。
「……ごめんなさい。訂正するわ。悪気があった訳じゃないのよ。
「あ、昨日の放課後の部活は出てないわ。
「大会に出る合唱部の伴奏を頼まれた時は、休ませて欲しいって先生にお願いしてるの。今年に入ってマネージャーも増えたから、役割分担ができて融通が利くようになったのは良かった。
「中学の時から、ピアノ教室の先生に無理を言って時間を作って貰っているの。だから昨日はホームルームが終わってすぐ学校を出たかな。グラウンドにはまだ野球部が準備運動してたもの。
「それにしても、不思議よね。
「月謝袋に入っててすり替えられた二千円、財布の中に四千円入ってたときから、私が移し忘れただけなのかなー……とか思ってて。でも折り紙は入れた覚えがないし。
「一応念の為に学校には連絡したわ。でもツヅミに迷惑をかけることになるなんて……これは想定外だったわ。犯人が見つかったらすぐに弁慶の泣き所を蹴ってやるんだから!」
実咲の話が一通り終わると、東雲君は腕を組んで黙り込んだ。今の話を聞いて整理しているのだろうが、彼の目線は私の掌に乗せられた南京錠の鍵に向けられていた。何度見ても、どこにでも売っている南京錠の鍵にしか見えない。
すると東雲君がいる反対側から急に影が伸びてきた。顔をあげると、中学の頃からよく見慣れていた顔が覗き込んでいた。
「その鍵、なんか焦げ臭くないですか?」
「へえっ⁉」
「相変わらずいい反応ですね、ツヅミ先輩」
彼はそう言って笑うと、少し離れて私達を見下ろした。黒の短髪にキリッとした眉、一八五センチの長身の彼は、陸上部のジャージ姿だった。あまりにも急なことに驚いていた私の代わりに、実咲が彼に問う。
「瑛太、お疲れ。もう休憩?」
「いえ、ランニングから戻ってきたところです。馬場先輩が遅いから見て来い。……って、部長が」
「ああ、そっか。ごめんね」
「気にしないでください。事情は何となく察したので」
瑛太と呼ばれた彼はそう言ってこちらを見る。
「ツヅミ先輩」
「は、はい!」
唐突に名前を呼ばれて反射的に敬語になる。彼は私の後ろを差しながら問う。
「その変な顔をしている奴は誰ですか?」
「……はい?」
彼の視線の先――後ろを振り返ると、更に仏頂面が増した東雲君と呆然とした顔で見ている生徒会長の姿があった。
「えっと……同じクラスの東雲君と、その後ろにいるのが生徒会長の巳波先輩で……」
「同じクラス……先輩とどういったご関係で?」
「えっと……」
「ただのクラスメイトだけど。何、なんかイイ感じにでも見えた?」
私を差し置いて、東雲君はグッと前に出た。東雲君もそんなに低くないはずなのに、彼と目線を合わせる為に少し見上げている。
「ええ、随分仲が良く見えたので。世話になった先輩が面倒ごとに巻き込まれた話は校内に広がっていますし、何よりロングスリーパーで有名な問題生徒が、理事長の息子に啖呵を切ったらしいじゃないですか。心配にもなりますよ」
「心配? いやいや、それは嫉妬以外の何物でもないよ。ボディーガードだがなんだか知らないけど、男の嫉妬は醜いらしいぜ」
「随分口の悪い先輩ですね。だから問題児扱いされてるんですか?」
「別に俺のことは何言っても別に良いんだけどさ、俺よりアンタの方が毒舌だよ。後輩なら目上に対する姿勢ってモンを覚えろ」
「――ってちょっと待って、ストップストップ!」
二人が睨み合いにになってくる前に、間に入って仲裁する。私を挟んで喧嘩を始めないでほしい。
「ちょっと牛山ちゃん、コイツなんなんだよ? 知り合い?」
「コイツじゃありません。先輩、こんなのと一緒にいると何か悪いものが移ります。一刻も早く離れましょう」
「ああ、もう! ちょっと黙って!」
出会ってまだ五分も経っていないというのに、なんでこんなに敵意をむき出しにしているのだろうか。彼らの間にバチバチと火花が散っているのは、後ろで口を開けて固まっている巳波先輩にも見えたらしい。
ちなみに実咲は慌てて仲裁に入る私を楽しそうに傍観していた。せめて部活の後輩である瑛太を宥めるところくらい、手伝ってくれたっていいのに。
二人が落ち着いたところで、二人に長身の彼を紹介する。
「彼は犬塚瑛太。私と実咲と同じ中学の後輩で、特進科の一年生。陸上部でハードル走の競技選手の特待生だよ」
「……はぁ?」
柚木第二高校の受験には一般と推薦の他に、特待生受験が用意されている。
瑛太はその中でもスポーツ特待生として入学し、陸上部のエース候補として活躍している。実際に彼は中学二年生の頃からハードル走で全国大会で上位に入るほどの実力者だ。
実咲に誘われて見学しに行ったときも含め、何度か走っているところを見たことがあるが、素人の私が見ても彼の走り方はとても綺麗で、力強いと思えた。
「今年のスポーツ特待生がヤバイって騒いでいたのは、お前のことだったんだな。噂では聞いていたんだが……うん。なかなかの男前じゃないか。宜しくな」
「俺は世話になった先輩達が、変質者に何かされていないか確認しに来ただけです。手伝う気は毛頭ありません」
「勝手に先輩を変質者にするな!」
「裕司先輩、ちょっと黙って」
明らかに挑発している瑛太に、東雲君は先程と打って変わって真剣な目で彼に問う。
「さっき、焦げ臭いって言った?」
「……言いましたけど」
「それってどこから?」
「鍵から」
瑛太が指をさしたのは、私の掌にある実咲の南京錠の鍵だった。
「俺、昔から嗅覚が鋭いんです」
「そんなどや顔で言われてもなぁ……牛山、その鍵から何か匂うか?」
先輩も信じられないといった顔をしている。私もただ金属臭いくらいしかわからない。更に周りの土の匂いや近くの商店街から流れてくる惣菜のわずかな匂いがするくらいで、焦げ臭い感じはしない。
すると東雲君が何かを見つけたようで、鍵を横から奪い取るようにしてギザギザの部分をじっくり見つめた。
「……あった」
鍵のギザギザの部分を私達に見えるように指をさす。微かに凹んでいるところに黒い煤がついていた。
「煤……というより、焦げた痕というか。馬場ちゃん、摩擦熱でも起こした?」
「そんなことするわけないでしょ! 私のポケットに発火物なんて入ってないわよ!」
「……あ」
焦げた痕――その言葉でふとある方法を思いついた。これなら犯人は南京錠の合鍵を、低コストで作って開けることができる。しかし、これを校内で行うとなると、完全に人がいない時間帯と空間が揃っていないと成立できない。
「犬塚君、他に何か感じない?」
東雲君が瑛太に問いかけると、迷惑そうな顔をしてそっぽを向く。
「出会って五分も経たないうちに犬扱いですか」
「アンタのその犬並みの嗅覚、自分で自慢したんだから有効活用させろ。鋭い嗅覚を持ってるアンタならわかるだろ?」
完全に喧嘩を売っている。
ニヤリと笑みを浮かべた東雲君に対し、瑛太は眉間に皺を寄せた。不服そうな顔をしながらも、差し出された鍵を鼻に近づけると、すぐ何かに気づいたようだ。
「……香水? いや、これは薬……?」
「わかるのか?」
「まぁ、多少……これ、市販で売っている、薬用のハンドクリームの匂いがします」
「薬用なら私も持ってるわよ?」
「馬場先輩が持っているハンドクリームはシトラス系でしょ。その匂いとは別に、薬品臭いのが混ざってる。それが恐らく無香料なんでしょうね」
「無香料って匂いしないよね? 瑛太の嗅覚どうなってんの?」
「だから薬用なんだろ」
実咲の問いかけにあっさりと切り捨てた東雲君は、瑛太の顔を見てニヤリと笑った。
「サンキュ。ちょっとわかったよ」
「別に協力した訳じゃありませんから」
「わぁってるよ。邪魔して悪かったな」
東雲君は踵を翻し、校舎の方へ戻っていく。私と先輩も一緒になって彼を追う。少し後ろを振り返ると、実咲が苦笑いする瑛太の背中を軽く叩いて楽しそうにしているのが見えた。
柚木第二高校のモットーは『文武両道』だ。勉強も部活も両立しましょう。楽しむときは思い切り楽しみましょう。――そんな緩いモットーの下で全国大会にまで出場している部活動がいくつかある。
その中で近年、大会で好成績を残しているのが陸上部だ。九年くらい前にある男子部員がハードルの種目で全国大会に出場したのがきっかけで、学校側が部活動にも力を注ぐようになり、今では特待生まで取るようになった。
今回の被害者の一人である女子生徒――馬場実咲は、陸上部のマネージャーだった。容姿端麗で普通科の生徒でありながらも成績は常に上位の彼女は、いわゆる『高嶺の花』だ。
水飲み場でボトルを洗っていたジャージ姿の彼女に巳波先輩が声をかけると、手を止めて話を聞いてくれた。
「えーっと……馬場さんでいいかな? さっきはありがとう。確認をしたくてまた来てしまったんだけど、大丈夫かな?」
「あ、はい。……ってあれ?」
先輩の後ろにいた私と目が合った途端、彼女は嬉しそうに目を輝かせて私に飛び付いてきた。
「ツヅミ! 大丈夫だった? クラスの子に苛められてない? 戸田にビンタしたって話は聞いたけどツヅミは怪我してない? 桜井さんから殴られそうになったって話も聞いて……ああ、なんで私はツヅミと一緒のクラスになれなかったんだろう! 私が近くにいたら、代わりにボコボコにしてやったのに!」
「お、落ち着いて、実咲……っ!」
「落ち着いていられる訳ないでしょ? 私の友達が理不尽に酷い目に遭っているのに、何もできない自分が悔しくて仕方がないの! せめて、せめてツヅミの前では笑顔でいたいけど、今だけは怒らせて!」
「ぶべっ! つ、つべだ……っ!」
先程まで水に触れていた彼女の手が私の両頬を挟む。ひんやりとした感覚と勢いで挟まれて変な声が出た。彼女の背中を叩いて離れてもらうように訴えるが、先程から続く懺悔のせいで効果はない。彼女は力も自分を追い詰める加減も知らないのだ。
「牛山ちゃん、知り合いだったの?」
驚いた顔をしている先輩の隣で仏頂面の東雲君が問いに苦笑いで答える。
私と実咲は中学からの友人だ。三年間同じクラスで行動するときはいつも一緒だった。高校は別だと思っていたにも関わらず、たまたま受験した高校が一緒だったため、今でも仲は有難いことに健在だ。
先程『高嶺の花』と例えたが、実は彼女の心配性で慌てやすい性格は昔から変わらない。これが更に進んでいくと、発言は狂った追っかけやヤンデレに近いものがある。それを凌駕するように、彼女の笑顔はいつも眩しくて、知られたくない黒い部分は見せないのだ。
「どうしてツヅミが二人と一緒に? すごい珍しいコンビよね」
「……とりあへずはにゃして(とりあえず離して)」
「へ? ああ、ごめんね」
今の状態に気付いたのか、実咲はどこか名残惜しそうに離れた。
「なんて言ったらいいのかな……濡れ衣であることを証明するために、二人に助けてもらっているっていうか……」
「そうだったんだ……とにかく、まだ何もされてないんだよね?」
何が?
「あのー……盛り上がっているところ悪いんだけど」
完全に蚊帳の外にされていた巳波先輩が声をかけてくる。ああ、忘れていた。
「まさか昨日の被害者と知り合いだったとは……牛山、とばっちりにも程があるぜ」
「生徒会長、私とツヅミは中学からの仲です。この子を犯人扱いするなら許しませんからね!」
「お前ら見れば嫌でもわかるよ、牛山が腐れ縁の荷物を漁るほど腐ってねぇことくらい」
「酷い! 腐れ縁なんて言い方は酷すぎます。せめて運命の糸とか、偶然ではなく必然だったとか……まさか、そうやって私とツヅミを引き離そうと……」
「してねぇよ! なんでそんな怖い発想に繋げられるんだよ?」
「実咲、ちょっと落ち着いて」
彼女が暴走すると私でさえ手に負えない。こんなところで時間を使っている余裕は今の私にはないというのに。不服そうな顔をしている彼女に、本題の南京錠を見せる。
「ねぇ、この南京錠の鍵はある?」
「鍵? うん、部室に置いてある鞄に入ってるけど……何かあったの?」
詳しい事は伏せて確認したいことがあると伝えると、彼女は小さく頷いて部室に向かった。流石に部外者で泥棒の噂が広まっている私が無闇に近付くと実咲にも迷惑がかかるので、ここで待たせてもらうことにした。
待っている間、どこからか視線を感じて目を向けると東雲君が仏頂面でこちらを見ていた。
「なんでそんなにふて腐れた顔なの?」
「……別に。普段からこんな顔だけど」
「いやいや、いつもより目付き悪いじゃん」
「随分容赦のない悪口だなオイ」
拗ねたようにそっぽを向く東雲君。
「……アンタが馬場ちゃんと仲が良いなんて知らなかった」
「へ? 馬場ちゃん? 東雲君、実咲と知り合いだったの?」
「一年の時、同じクラスでずっと叩き起こされてたから嫌でも名前は覚えた……」
どこか遠くの方を見ながら若干震えている。実咲は怒る時は怒るから、きっと昨年の約半年は彼女を見るたびに眠い目を擦っていたに違いない。何より私も一度怒らせたことがあるので、大体想像がついた。
今度、東雲君と被害者の会でも作ろう。勝手に彼の肩に手を置いて黙って頷くと、東雲君は不思議そうに首を傾げた。
「それにしても、まさか馬場ちゃんがねぇ……」
「ね、私もビックリした。そういえば実咲、合唱部の助っ人でピアノの伴奏頼まれたって話をしてたような……」
彼女は小学生の頃からピアノを習っていたこともあり、中学の時も何度かクラス合唱で伴奏を引き受けていた。その傍ら、自身は陸上部に入っていて、リレーの選手に選ばれたこともあった。それでもピアノの伴奏は嫌な顔をせず引き受け、授業の間の休み時間や放課後を利用して音楽室で練習していたのを何度か見たことがある。
流石に無理をしていないかと思い、一度聞いたことがあるが、「私が好きだから伴奏するの。ツヅミが一緒にいてくれるのと同じで、私は自分にとって負担になることは絶対しないわ」と、やけに嬉しそうに笑う彼女を、今でも鮮明に覚えている。
「いや、その話じゃなくて」
「へ? じゃあ何?」
「そっち」
どっちだ。
東雲君の回答に首を傾げていると、部室から実咲が戻ってきた。手には南京錠の鍵と、可愛らしいオレンジ色の花のキーホルダーがついている。南京錠についていたシールと同じ花だ。
「いつも制服のポケットに入れてるんだけど、あの日は盗難が続いていたから体育の授業でも持って行ってたの。ダイヤル錠もついてるから大丈夫だと思ってたけど、念の為に。だから放課後になって月謝袋を見たとき驚いたわ」
「……ダイヤル錠の番号、自分の誕生日でしょ」
「えっ? うん、なんでわかるの?」
私が言い当てると、実咲はとても驚いた顔をした。こういうものは大抵自分が忘れない番号に設定しがちになってしまい、名簿や誕生日、携帯の番号に設定すると他人でもすぐわかってしまう。
「この話、結構有名だと思うんだけど……」
「そっか……じゃあ今度からツヅミと出会った記念日にしておくね!」
「設定してもいいけど、ロックをかける時はちゃんと番号を全部ずらしてね。一つだけ回しても無駄だから」
小さくため息をつきながら、実咲が持ってきた鍵を見つめる。どこも怪しいところは見当たらない。むしろきれいに拭かれているように思えた。ハンカチに包まれていた訳ではなさそうだ。
「牛山、何かわかったか?」
「何かって、なんですか?」
「ピッキングに使用されたかとかさ、見てわかんねぇの?」
「何度も言いますけど、私別にピッキングを見破れる名人でもなんでもないですから!」
先輩を軽く睨みながら言うと、威力が強かったのか、先輩が両手を上げて落ち着けと促す。
「わ、わかったよ……」
「……いえ、すみません」
「でもこの鍵、なんか妙だな」
横から覗くような形で鍵を見てくる東雲君が呟く。
「馬場ちゃん、裕司先輩に話した昨日のこと、特にロッカーのことを教えて」
「わ、わかった。えーっと……。
「まず、私は体育の授業の後から放課後まで一度も開けてないわ。
「昼休みに食べたお弁当をしまう時に一度開けたけど、体育の授業は昼休みの後だったし、自販機で飲み物を買った時も、持ち歩いている小銭入れのお金を使っていたし……。
「少なくともロッカーには放課後になるまで近づいてない。これは断言できるよ。
「最初はダイヤル錠しかつけてなかったんだけど、盗難が多発してるって聞いて一週間くらい前に南京錠をつけたの。貴重品はいつもロッカーに入れているわ。
「鞄までは入れられないから、ロッカーの中は財布とピアノ教室に持っていく月謝袋だけ。あとは教科書がいくつか入っているくらいかな。
「南京錠の鍵はいつもブレザーのポケットに入れているけど、最近は盗難騒ぎが多発していたから、昨日は体育の授業にも持って行ったわ。持ち歩くようになったのは……ここ二、三日前。B組に盗まれた人が出た頃かな。
「それまでは自分の席の椅子にかけてたわ。私、教室では廊下の出入り口近くだから、入れっぱなしにしておくと怖いなって思って。
「……遅かったけど、ね。
「正直、D組まで来るとは思ってなかったのよ。A組から順番にこう……。
「……ごめんなさい。訂正するわ。悪気があった訳じゃないのよ。
「あ、昨日の放課後の部活は出てないわ。
「大会に出る合唱部の伴奏を頼まれた時は、休ませて欲しいって先生にお願いしてるの。今年に入ってマネージャーも増えたから、役割分担ができて融通が利くようになったのは良かった。
「中学の時から、ピアノ教室の先生に無理を言って時間を作って貰っているの。だから昨日はホームルームが終わってすぐ学校を出たかな。グラウンドにはまだ野球部が準備運動してたもの。
「それにしても、不思議よね。
「月謝袋に入っててすり替えられた二千円、財布の中に四千円入ってたときから、私が移し忘れただけなのかなー……とか思ってて。でも折り紙は入れた覚えがないし。
「一応念の為に学校には連絡したわ。でもツヅミに迷惑をかけることになるなんて……これは想定外だったわ。犯人が見つかったらすぐに弁慶の泣き所を蹴ってやるんだから!」
実咲の話が一通り終わると、東雲君は腕を組んで黙り込んだ。今の話を聞いて整理しているのだろうが、彼の目線は私の掌に乗せられた南京錠の鍵に向けられていた。何度見ても、どこにでも売っている南京錠の鍵にしか見えない。
すると東雲君がいる反対側から急に影が伸びてきた。顔をあげると、中学の頃からよく見慣れていた顔が覗き込んでいた。
「その鍵、なんか焦げ臭くないですか?」
「へえっ⁉」
「相変わらずいい反応ですね、ツヅミ先輩」
彼はそう言って笑うと、少し離れて私達を見下ろした。黒の短髪にキリッとした眉、一八五センチの長身の彼は、陸上部のジャージ姿だった。あまりにも急なことに驚いていた私の代わりに、実咲が彼に問う。
「瑛太、お疲れ。もう休憩?」
「いえ、ランニングから戻ってきたところです。馬場先輩が遅いから見て来い。……って、部長が」
「ああ、そっか。ごめんね」
「気にしないでください。事情は何となく察したので」
瑛太と呼ばれた彼はそう言ってこちらを見る。
「ツヅミ先輩」
「は、はい!」
唐突に名前を呼ばれて反射的に敬語になる。彼は私の後ろを差しながら問う。
「その変な顔をしている奴は誰ですか?」
「……はい?」
彼の視線の先――後ろを振り返ると、更に仏頂面が増した東雲君と呆然とした顔で見ている生徒会長の姿があった。
「えっと……同じクラスの東雲君と、その後ろにいるのが生徒会長の巳波先輩で……」
「同じクラス……先輩とどういったご関係で?」
「えっと……」
「ただのクラスメイトだけど。何、なんかイイ感じにでも見えた?」
私を差し置いて、東雲君はグッと前に出た。東雲君もそんなに低くないはずなのに、彼と目線を合わせる為に少し見上げている。
「ええ、随分仲が良く見えたので。世話になった先輩が面倒ごとに巻き込まれた話は校内に広がっていますし、何よりロングスリーパーで有名な問題生徒が、理事長の息子に啖呵を切ったらしいじゃないですか。心配にもなりますよ」
「心配? いやいや、それは嫉妬以外の何物でもないよ。ボディーガードだがなんだか知らないけど、男の嫉妬は醜いらしいぜ」
「随分口の悪い先輩ですね。だから問題児扱いされてるんですか?」
「別に俺のことは何言っても別に良いんだけどさ、俺よりアンタの方が毒舌だよ。後輩なら目上に対する姿勢ってモンを覚えろ」
「――ってちょっと待って、ストップストップ!」
二人が睨み合いにになってくる前に、間に入って仲裁する。私を挟んで喧嘩を始めないでほしい。
「ちょっと牛山ちゃん、コイツなんなんだよ? 知り合い?」
「コイツじゃありません。先輩、こんなのと一緒にいると何か悪いものが移ります。一刻も早く離れましょう」
「ああ、もう! ちょっと黙って!」
出会ってまだ五分も経っていないというのに、なんでこんなに敵意をむき出しにしているのだろうか。彼らの間にバチバチと火花が散っているのは、後ろで口を開けて固まっている巳波先輩にも見えたらしい。
ちなみに実咲は慌てて仲裁に入る私を楽しそうに傍観していた。せめて部活の後輩である瑛太を宥めるところくらい、手伝ってくれたっていいのに。
二人が落ち着いたところで、二人に長身の彼を紹介する。
「彼は犬塚瑛太。私と実咲と同じ中学の後輩で、特進科の一年生。陸上部でハードル走の競技選手の特待生だよ」
「……はぁ?」
柚木第二高校の受験には一般と推薦の他に、特待生受験が用意されている。
瑛太はその中でもスポーツ特待生として入学し、陸上部のエース候補として活躍している。実際に彼は中学二年生の頃からハードル走で全国大会で上位に入るほどの実力者だ。
実咲に誘われて見学しに行ったときも含め、何度か走っているところを見たことがあるが、素人の私が見ても彼の走り方はとても綺麗で、力強いと思えた。
「今年のスポーツ特待生がヤバイって騒いでいたのは、お前のことだったんだな。噂では聞いていたんだが……うん。なかなかの男前じゃないか。宜しくな」
「俺は世話になった先輩達が、変質者に何かされていないか確認しに来ただけです。手伝う気は毛頭ありません」
「勝手に先輩を変質者にするな!」
「裕司先輩、ちょっと黙って」
明らかに挑発している瑛太に、東雲君は先程と打って変わって真剣な目で彼に問う。
「さっき、焦げ臭いって言った?」
「……言いましたけど」
「それってどこから?」
「鍵から」
瑛太が指をさしたのは、私の掌にある実咲の南京錠の鍵だった。
「俺、昔から嗅覚が鋭いんです」
「そんなどや顔で言われてもなぁ……牛山、その鍵から何か匂うか?」
先輩も信じられないといった顔をしている。私もただ金属臭いくらいしかわからない。更に周りの土の匂いや近くの商店街から流れてくる惣菜のわずかな匂いがするくらいで、焦げ臭い感じはしない。
すると東雲君が何かを見つけたようで、鍵を横から奪い取るようにしてギザギザの部分をじっくり見つめた。
「……あった」
鍵のギザギザの部分を私達に見えるように指をさす。微かに凹んでいるところに黒い煤がついていた。
「煤……というより、焦げた痕というか。馬場ちゃん、摩擦熱でも起こした?」
「そんなことするわけないでしょ! 私のポケットに発火物なんて入ってないわよ!」
「……あ」
焦げた痕――その言葉でふとある方法を思いついた。これなら犯人は南京錠の合鍵を、低コストで作って開けることができる。しかし、これを校内で行うとなると、完全に人がいない時間帯と空間が揃っていないと成立できない。
「犬塚君、他に何か感じない?」
東雲君が瑛太に問いかけると、迷惑そうな顔をしてそっぽを向く。
「出会って五分も経たないうちに犬扱いですか」
「アンタのその犬並みの嗅覚、自分で自慢したんだから有効活用させろ。鋭い嗅覚を持ってるアンタならわかるだろ?」
完全に喧嘩を売っている。
ニヤリと笑みを浮かべた東雲君に対し、瑛太は眉間に皺を寄せた。不服そうな顔をしながらも、差し出された鍵を鼻に近づけると、すぐ何かに気づいたようだ。
「……香水? いや、これは薬……?」
「わかるのか?」
「まぁ、多少……これ、市販で売っている、薬用のハンドクリームの匂いがします」
「薬用なら私も持ってるわよ?」
「馬場先輩が持っているハンドクリームはシトラス系でしょ。その匂いとは別に、薬品臭いのが混ざってる。それが恐らく無香料なんでしょうね」
「無香料って匂いしないよね? 瑛太の嗅覚どうなってんの?」
「だから薬用なんだろ」
実咲の問いかけにあっさりと切り捨てた東雲君は、瑛太の顔を見てニヤリと笑った。
「サンキュ。ちょっとわかったよ」
「別に協力した訳じゃありませんから」
「わぁってるよ。邪魔して悪かったな」
東雲君は踵を翻し、校舎の方へ戻っていく。私と先輩も一緒になって彼を追う。少し後ろを振り返ると、実咲が苦笑いする瑛太の背中を軽く叩いて楽しそうにしているのが見えた。