二
――貴方の日常の中で、「これは絶対に在り得ない」といったものはありますか?
例えば、隣の席になった美少女が超能力者で、自分より数十倍も大きい岩や木を念力だけで浮かすことができるとか、近所に引っ越してきた爽やかイケメンが実は極秘で潜入した国家機密のスパイで極秘任務中だったとか、はたまた生き別れた父親が地球征服を企む大魔王で、寝室にある本棚の裏側に隠された扉の向こうにはアジトへの入り口になっていた……とか。
「いやいや、これはないって。在り得ないって」――例え話のような思わず笑ってしまう出来事は流石にないかもしれない。最後の大魔王はほぼ無いと断言してもいいだろう。例え話だというのに突飛すぎてつい私もこれはないと笑ってしまった。
つまり何が言いたいのかというと、「貴方は他人に言われて自分が問われる側になったとき、普段と表情を変えずに答えることができますか?」ってこと。
卑しいことがない限り、大抵の人は笑って受け流すことが出来るかもしれない。それでも笑えない冗談というものは簡単かつ唐突に現れるもので、咄嗟に笑えないものでもある。
一つ、例え話をしよう。
ある日、貴方がとある人物と金銭トラブルで口論になったその数時間後、その人物が何者かの手によって殺されてしまった。貴方は現場からかなり離れた場所にいたが、一人で行動していたためアリバイがない。しかし、現場付近に隠すように捨てられていた包丁から相手の血痕と貴方の指紋が残っていたことから、警察と名探偵が事情聴取に貴方を呼んだ。
かなり突飛で過激な例題だが、よく考えてみて欲しい。
名探偵はあらゆる情報を集約して、貴方を指してこう語り始めるだろう。
「貴方は最近、被害者と揉めていたそうですね。
「犯行時刻に貴方を見かけたという目撃者からの情報があるんですよ。
「……自分じゃない? いやいや、証言してくれた人はちゃんと貴方の顔を見たと話しています。それに包丁に付着した貴方の指紋はどう説明していただけます?
「私は許せないのです。なぜ貴方のような人がこんなことをするのか。
「何かしらの事情があったにせよ、包丁の指紋が事件を物語っているように思えて仕方がない。
「たかが二十円ぽっちの小銭のやり取りで殺すなんて、よほどの殺意があったのでしょうね。どうして周りの人に相談してくれなかったんですか。
「……きっと被害者も、貴方の口から答えを待っています。貴方だって、心のどこかで絶対後悔していると思うんです。
「今ならまだ間に合います。自分に嘘をつかないで。……さぁ、今こそ真実を話すのです!」
名探偵はいかにも悲しそうな顔で、知りもしない貴方と被害者の心理を勝手に組み立てた推理を押し付けてくる。
ここで貴方と名探偵との間にズレが生じている。
口論になったきっかけはただの小銭の借り貸しで、知っているのは貴方と相手のみ以外、誰も知らない。いや、誰かに相談すればほど馬鹿らしいと笑われる額だ。名探偵には恥ずかしくて金額を伝えてはない。そして貴方は犯行現場から離れた場所にいたことも事実で、殺せるはずがない。
それでも血まみれの包丁に付着していた指紋は貴方のもので、貴方が近くにいなかったことを証明してくれる人も物も存在しない。貴方が誰にも話していなくても、被害者が誰かに相談していたのかも不明だ。
人望の厚い名探偵の言葉を受けた警察は勿論、周りの人々は冷たい視線を向け、貴方から離れていく。匿ってくれる味方はいないと思ってもいい。
さあ、今ここでもう一度貴方に問おう。
この状況下で自分の今後が危うくなっても、笑いながら無実を訴え続けることができますか?
――私は、多分できない。
「貴女がやったんでしょ。いい加減白状しなさいよ」
梅雨入りが遅れた六月のある日の昼休み。
次の授業の準備をしていると、乱雑な開け方をした扉から困惑した様子の生徒指導の先生とA、B組の学級委員の生徒が、一度辺りを見回してから真っ直ぐ私の座っている机の前に立った。一体何事かと眉をひそめると、指をさされて唐突に無茶苦茶な推理を叩きつけてきた。
「A、B組で立て続けに起こっている盗難騒ぎを知っているな? 犯人は牛山鼓、お前だ!」
「……は?」
「とぼけても無駄だ。普通科ごときが特進科の頭に敵うとでも思うなよ!」
男子生徒はそう息巻くと、嘲笑うように見下した。
ここで捕捉として、柚木第二高校のクラス分けについて説明しておこう。
柚木第二高校の分け方は学科内でも成績別に分けられている。もちろん希望した学科で分かれてはいるものの、アルファベットの早い方が成績優秀であるという話がひそかに囁かれている。
普通科は一般科目を均等に受けるが、難関大学を目指す特進科はその差が激しく、加えて特待生は特定の授業科目を受けて伸ばしていく。まさにエリートの集まりといっても過言ではない。
その中の一人、探偵を気取ったB組の学級委員である戸田克之とは、入学してから今日まで全く関わりがない。確か学校関係者の息子だとかいう話は噂程度で聞いたことがあるものの、これが初対面であることに変わりなく、共通の知人がいるわけでもないのに、出会って三秒で最初の会話がこれだと第一印象が台無しだ。――そんなことはどうでもいい。何が言いたいかというと、戸田君の声はよく響く。教室にいた全生徒の目を一か所に集めるなど、容易いことだった。
話を戻そう。
状況が理解しきれていない私を置き去りにして、今度はA組の学級委員である桜井朋美が彼の後ろからヤジを飛ばす。
「貴女だったのね、私達のお金を返して!」
「ちょ、ちょっと待って。一体なんの……」
「とぼけるんじゃないわよ。貴女が私達の財布からお金を盗んで、折り紙を入れた犯人でしょ? 貴女が授業中に出歩いていることは知っているの。誰もいない時間帯にB組の教室に何度か出入りしてるの、私はこの目で見たわ。先生に呼ばれたからっていうわけでもないでしょうに、授業中に抜け出すなんて、私達の荷物を漁ってお金を抜き取ってる証拠じゃない!」
「物的証拠が必要なら出してやるよ。ほら」
そう言って戸田君はスマートフォンを操作して私に向ける。
画面には校内のどこかから隠し撮りしたかのような動画が流れていた。
中心には女子生徒がおり、ロッカーにつけられた南京錠に触れて開けている。顔は見えないが、肩まで伸びた茶髪と耳に掛けた髪が落ちてこないように留める銀色のヘアピンが反射して光った。そこに映っているのは背丈も雰囲気も私に良く似ていた。南京錠に何か細いものを刺していじっているところで、動画は止まってしまうと、戸田君はスマートフォンをポケットに仕舞い込んだ。
「わかったか? 証拠はすでにこっちが掴んでいるんだ。大人しく観念したらどうだ?」
満足そうな戸田君の顔に苛立ちを感じながらも私はようやく口を開く。
「……これが私だって決めつけるのは無理やりすぎじゃない? 肝心の顔が映っていないし、後ろ姿だったら私以外にも他に……」
「確かに後ろ姿だけでは判断ができないかもしれないが、この後動画の彼女は三分もしないうちに南京錠を開けてしまった。……この芸当が出来る人物は、お前以外在り得ないんだよ!」
だったら三分もしないうちに鍵を開けた場面もしっかり撮ってよ。動画の録画時間が一分も経っていないことくらい、私にだってわかる。
冷静になれと自分に言い聞かせて叫びたくなる罵倒を飲み込むと、桜井さんが口を開いた。
「逆に聞くけど、貴女が犯人じゃないっていう理由はなに? 答えられる?」
「……それはどういう意味?」
「だって牛山さん、南京錠くらいだったら開けられるじゃない」
桜井さんの言葉で思わず椅子から立ち上がる。ガタン、と教室中に響くのをお構いなしに、私は食い気味で桜井さんを睨みつける。
「あら、心当たりがあるの?」
顔をしかめた私を見て、今度は桜井さんが勝ち誇ったように鼻で嗤う。
中途半端な表情を出すんじゃなかった。この状況下で私に容疑を晴らす証拠は一つもない。口車に乗せられて終わりだ。
「どうやって南京錠を開けたかはともかく、そもそも授業中に盗むなんて無理な話じゃない? A、B組がいつ移動教室でいないのか知らないけど、私はちゃんと一日の授業すべてに出席しているもの。先生に確認は取った? 出席名簿にはちゃんとチェックが入ってるはずだよ! そうですよね?」
二人の後ろで口を閉ざしている先生に声をかける。
授業が始まる前に必ず教師は生徒の出欠の確認をし、教師全員が持っている手帳型名簿にチェックを入れている。それはどの生徒も見たことがあるだろう。少なくとも私が受けた授業では始める前に出欠を確認して名簿に書き込んでいる教師の姿を授業の度に見てきた。出欠の日数は学期末の成績表や受験の内申点に響く。書き忘れることはあっても、確認は必ずしているはずなのだ。
確認事項を怠らない教師だったら味方になってくれる。――そう思った私は完全に甘えていた。
「確かに、名簿上ではお前が授業に出ていることはすぐにわかるだろう。でも実際に授業に出ていたという確証はないんだよ」
先生は困った顔をしてさらに話を続けた。
「たまに授業に出ていないのに出席していたり、途中で抜けることもあるだろう? 正確な出席簿があるかどうか……先生達も混乱しているんだ。まさか牛山がそんなことするはずがないって信じている、信じているけど……この盗難騒ぎを早く収束させるために、協力してくれないか?」
今まで固く閉ざしていた先生の口がようやく開いたかと思えば、出てきたのは普段から全生徒に感じていた不信感とこれ以上騒ぎを大事にしたくないという倦怠感だった。
生徒の成績を評価する教師がそんな曖昧な確認の仕方でいいのかと口に出しそうになるが、それ以上に自分が疑われていることがショックで、私はそっと周りを見渡した。
誰か反論してくれたなら少しでも変わるかもしれないのに。淡い希望を思いながら辺りを見回すが、教室にいる全員が私に冷たい視線を向けている。クラス替えをしてまだ二カ月も経っていないこともあって――初めて同じクラスになる人は仕方がないとして――一年の時に同じクラスだった子も疑いの目を向けられていたのを見て目を背けた。
どれだけ無実を訴えたとしても、一人じゃ証明できない。味方がいないなら、それは嘘つきの真似事だ。
私は今だに緩みきった頬をしている戸田君を見る。
「さあ、もう逃げられない。罪を償え。恨むなら俺の推理を恨めよ? ……ああ、その推理が真実だったっけ? じゃあ自分を恨め。正直に話すのなら今だ。これ以上罪を増やすな」
罪? 推理? 真実?
「……じゃないの」
「え?」
小さく呟いた言葉が聞き取れなかったようで、戸田君は私の顔の近くに耳を傾ける。口を開いた瞬間に吐かれた息が頬を掠めると、思わず身震いした。
ああ、もう無理。
「なーに? 聞こえな――」
彼が言い切るその前に、私は右手を開いたまま彼の左頬に向かって叩きつけた。教室に弾ける音が響くと同時に、反動で戸田君が後ろの黒板に背中を打ち付けた。授業終わりでまだ消していなかったチョークの粉が頭や肩に降りかかる。一瞬顔をしかめたが、すぐに私の方に向かって睨みつける。口元が若干切れて血が滲んでいた。
怪我をさせた――そんな認識は今の私にはなくて、溜め込んでいたものを吐き出すように、この状況にお構いなく彼にぶつけた。
「――バッカじゃないの! 人の話も聞かず、勝手に犯人扱いしていいと思ってんの? 何を根拠に話してるのか知らないけど、その鬱陶しい顔をどうにかしてからにして!」
振り上げた右手の痺れを抑えるように力強く握る。
自分の無実を認めてもらえない事実をひがんだ怒りではなく、戸田君の言動に腹が立って我慢できずに手をあげてしまった。嗤った彼の顔や口を開く度に顔にかかる臭い息、ふんぞり返った態度、話も聞かず自分の都合に合わせるその神経――彼の人間として嫌な部分全てを否定してしまう。
殴った後でなんて子供なんだとと思うともっと自分が嫌になった。それでもどこかすっきりした達成感は否めなくて、「ざまあみろ」とつい口が開きそうになる。
溜め込んでいた本音を吐き出して、咄嗟のことで睨みつけながらも若干涙目になっている戸田君に少し優越感を覚えると、横から桜井さんの平手が飛んでくるのが見えた時にはもう遅かった。
物凄い形相で右腕を振り落とそうとする彼女を見て、なんてことをしてしまったんだと後悔する暇もなく、咄嗟に目を強く瞑る。
叩かれても仕方がないのはわかっていた。私だって戸田君を叩いて少しすっきりしたのは確かだ。彼女の掌が頬に届く数十秒の間、私は「自分も自己満足な人間だな」なんて悠長なことを考えた。
しかし、我慢しようとしていた痛みは一向にくることなく、代わりに聞こえてきたのは桜井さんが痛がる小さな悲鳴と、教室がざわつくクラスメイトの声だった。
恐る恐る目を開けると、目の前には桜井さんの腕を掴む男子生徒の姿があった。
「……さっきから騒がしくて寝れねぇんだけど」
ボサボサの黒髪に使い込まれた制服。苛立っているような低い声で桜井さんを睨み付けた。――というより、寝起きで目がまだ開いていないだけかもしれない。緊迫したこの空気の中で、彼は口を開けて大きな欠伸をする。
教室中の誰もが「誰だコイツ?」と首を傾げる。私も同じことを思った。こんな口調の悪い男子生徒なんていただろうか。
打ち付けた背中をさすりながら戸田君が動揺しながらもボサボサ頭の彼に向かって吠えた。
「な、ななんだよお前! いつからそこにいた!?」
「ずっと居たよ。アンタらがギャーギャー騒いでる時からずーっと。せっかく席替えで窓際の一番後ろのポジション取れたのに、アンタのせいで寝起き最悪。どーしてくれんの?」
そう言って、気怠そうに桜井さんの腕を掴んでいるのとは逆の手で頭を掻く。
……そうだ、思い出した。
彼は授業中にも関わらず、いつも教室の一番後ろの席で突っ伏して寝ている男子生徒だ。二年生になってクラス替えが行われたため、昨年とは違ったクラスメイトと一緒になった中で、私も含め他の生徒とまともに会話をしているところを見たことがない。よく寝ていることから教科書の音読に指名されることも多いが、教科書の正しい文章を読み上げるだけで口調までは知らない生徒が多い。だからほぼ初めて聞く彼の口調に誰もが首を傾げるしかなかったのだ。
確か名前は――東雲祥吾。
そんな彼がこんな修羅場のような場面で登場してくるとは、これはどこかの少女漫画か。
「何よ、その子の味方をする気?」
「…………」
桜井さんがそう言うと、東雲君はじっと彼女の顔を見つめ、あと十センチくらいで鼻先がつきそうな距離まで自分の顔を近づけた。――いや、目を細めているところからしてまだ視界がぼやけているのかもしれない――桜井さんが頬を一瞬赤らめたかと思えば、すぐに顔を歪める。彼女の視線の先を見ると、手首に包帯が巻かれていた。怪我をしていたのに気付いたのか、東雲君はその包帯をじっと見つめてから腕を離した。
そして戸田君と見ると出入り口の方を指さして言う。
「さっさと教室戻れ。その金切り声、うぜぇ」
「…………はぁ? なんなんだよお前!」
「そろそろ授業が始まる頃だから戻れって言ってんの。教室の外で猪野チャンが待ってんだから早くしろって」
「随分上から言うじゃないか。誰にその口聞いてんのかわかっているのか? 俺は理事長の息子だぞ、そんな口の利き方をして……」
「授業内容はともかく、開始時間を遅らせてることに理事長って関係あんの? テストで満点取れなかったら教師のせいなの? アンタのお勉強の時間を知らないくせに、親が学校に口出ししてどうすんのさ? アンタが恥ずかしくない?」
「テストは関係ないだろ! 俺の親父の一言でお前の退学だって……」
「親頼みで解決すんの? だったらアンタの推理とやらは親のおかげなんだ。へぇ……なんか虚しいね。可哀想」
「ふ、二人とも落ち着きなさい! ここで小競り合いしても意味はないだろう?」
どんどん加速していく東雲君と戸田君の言い争いに慌てて先生が止めに入るものの、一向に収まる気配はない。
「先生、コイツも指導対象ですよね? 俺に向かって暴言吐きましたけど」
「暴言? さっきアンタがそこの女子に言ってたのと何が違うの?」
「お前……言っていいことと悪いことが――」
「アンタがどこの誰で口が臭かろうと、アンタがしてたことは俺が吐いた暴言と同じ。お互い様だろ? これ以上口臭い上に面倒臭いことすんなよ」
「口臭いって言うな!」
戸田君が東雲君の口車に上手く乗せられている。先生が懸命に戸田君を抑える中、軽く受け流す東雲君に教室にいる誰もが苦い顔をして見ていた。
……それにしても、彼はこんなに口が悪いのか。
いつも机の上に頭を乗せて眠っている印象が強く、授業前の出席確認の時も寝ぼけながら手を上げるくらいで音読以外で声を発したところを見たことも聞いたこともない。
そもそも最初の席も席替えした後も遠いから聞いたことないのも無理はないとは思うが、周辺の席に座っている子でさえ驚いた表情をしているから、聞き慣れていないのだろう。もともと低い声なのだろうが、寝起きのせいでもっと低くて怠そうに聞こえてくるから、「あれ、怒ってる?」なんて錯覚をしてしまう。
しかし、彼の言う通り教室の外で次の授業である『猪野チャン』こと日本史担当の猪野先生が待っていたのは明らかで、いつまで経っても止まない争いに痺れを切らした猪野先生が殴りこむようにして入ってくると、二人が連れてきた生徒指導の先生が血相を変えて彼らを引きずるようにして教室を出ていった。
猪野先生は呆れた顔で彼らを見送ると、何事もなかったかのように日本史の授業を始めた。
そっと後ろの席に目を向けると、つい先程まで起きていた東雲君は教科書を頭に被せて寝てしまっていた。もちろん、それからすぐ猪野先生に気付かれて起こされ、教科書の本文を五ページほど読まされたのは言うまでもない。
授業が終わって私が席を立つと、どことなく冷たい視線が刺さってくる。無理もない。クラスメイトがいる中で盗難事件の容疑者の疑いをかけられ、別クラスで特進科の生徒を叩いたばかりだ。はた迷惑もいいところである。
視線をかき分けるように一番後ろの席で机に突っ伏して眠っている東雲君の前に行く。あれだけ教科書の内容を読まされていたにも関わらず、肩を揺すっても起きる気配がないほどぐっすり眠っていた。
「えーっと……し、東雲君ー?」
「…………」
ダメ元で声をかけたが、やはり無反応。起きる気配はない。
「あれ、また寝ちゃったの?」
後ろから分厚い授業用ファイルを抱えた猪野先生がやってくると、机を二、三回程叩いて起こそうとした。それでも起きる様子のない彼に、猪野先生は全く……と小さく笑った。
猪野侑子先生は二年C組の担任で、自称二十七歳。耳が少し隠れるくらいのショートカットの黒髪にパンツスタイルの灰色スーツ、片手に大きな授業用ファイルを抱えて校内を歩いていれば、大体猪野先生だ。男勝りで強気なところは先程の先生の様子を見れば一目瞭然だが、恐れられる存在と言っても過言ではないだろう。
恐ろしい印象とは裏腹に、生徒からの信頼は厚い。何でも先生に恋愛相談すると本当に恋が叶う、運動部の練習メニューを見直してもらうと次の試合で勝利するなどという、ほぼ百発百中の助言欲しさに連日職員室に押し掛ける生徒もいる程だ。
そんな猪野先生の悩みの種の一つが、東雲君の授業態度だ。何度も起こして音読させてみても、今年に入って彼がずっと起きていた授業は一つもない。
「五ページじゃ昼寝前の運動も同じなのね……次はもっと増やしてみようかしら」
「そ、それは可哀想なのでは……」
東雲君はよく寝る。それはどの授業でも同じらしく、猪野先生の授業に限った話ではない。
疲れて寝ているのかと思えば、彼が部活動に入っていることもアルバイトをしているとも聞いたことはない。よく話す友人もいるのかも分からない、クラスで浮いているすべてが謎の人物だ。
「そういえば授業前の戸田と桜井は何だったの? 生徒指導まで引き連れちゃってさ」
「あー……実は――」
従業前の騒ぎを簡単に説明すると、猪野先生は眉をひそめた。
「牛山が犯人なワケないでしょ。授業にちゃんと出てるの知ってるし、部活入ってないけど颯爽と教室から出て帰宅しているの見てるし」
「先生……それ、私の身の潔白を証明できる証拠になってないです……」
味方がいない中でも数少ない証拠にはなったかもしれないけど。
「でも手をあげたのはダメよ。暴力で解決するのは絶対ダメ。手が出たら負けなのよ。それが例え男でも女でも、守りたい理由とか格好良いことを謳ったところで結局罪悪感しか残らないんだから」
「……はい、すみませんでした」
罪悪感しか残らない。――猪野先生の言葉に引っかかるも、素直に頷いた。殴った後の罪悪感の他に感じたあの優越感は私の中のエゴイズムなのかもしれない。
「それにしても、戸田が出てくるとはねぇ。面倒なことにならなければいいんだけど……」
「え? 理事長の息子だからって何か問題でもあるんですか?」
いくら学校の一番偉い人の息子だからと言って贔屓するのはいかがなものか。だって偉いのは父親であって、息子は息子でしょう? ――そんな私の考えは、猪野先生の少し悔しそうな顔で上手くいかない事情であることを悟った。
「戸田のお父さんはお金を援助してくれている企業の社長さんなのよ。自分の息子が三年間世話になるからっていう理由で入学する少し前から始まったんだけど……目に見えてわかる溺愛っぷりでね。学校の運営にも関わってくるから、戸田君に何かあるとお父さんが出てきて物言いが始まるの。クラス担任はおろか、校長先生でもどうにもできないから話がややこしくなってね……。牛山達も大人の社会に仲間入りしたら嫌でも見ることになるわよ。それまで子供でいられるこの生活を噛み締めておきなさいね。
「……あ、今の独り言よ? 聞いてないわよね、牛山?
「……そう、ならいいわ。とにかく、そんなに思い詰めちゃダメよ。確かにここ一か月半くらい盗難が続いているけど、【ロッカーの鍵を開けることができる人物】を生徒の誰かができるかなんて疑うには難しいところなんだから。生徒指導の先生達が授業中の見回りを強化して捕まえてやるって息巻いているし、きっと大丈夫よ。噂もすぐに収まるわ。私は牛山がやったなんて絶対思えないし、これからも思わない」
真っ直ぐ私の目を見てそう言う猪野先生に、私は小さく頷くくらいしかできなかった。
「今はいろんな人に嫌なことを沢山言われるかもしれない。私に何かできるかわからないけど、すぐ来なさいね。……って言っても、私は明日の午後から出張でいないんだけど……っあ! ヤバイ、授業遅れる! 日直の人、黒板消しといてねー!」
「い、行ってらっしゃーい……」
黒板の上にかかっている時計を見てバタバタと慌てながら教室を出ていく。先生は大変だ。
「――相変わらず元気だな、猪野チャン」
「っうぇ!?」
予期せず東雲君の寝起きの声が聞こえてつい変な声を出してしまった。眠そうに目を擦っているが、全く瞼が開いていない。
「先生も大変だな。猪野チャンはああ言ってたけど、さっきの生徒指導のセンセーも犯人捜しなんてろくにできてないんじゃね? 模索中ってところだろうけど、犯人も目星もついていないようだし、戸田の話も半信半疑な顔して聞いているから、教師陣も想定外だったんだろうけど」
間抜け顔が見れただけ楽しめたからいっか、と満足気に鼻で笑う。寝起きにしては淡々と流暢に話す彼に、私は苦笑いを浮かべる。
「い……いつから起きてたの?」
「ん? アンタが席に来た時から」
……ということは、私が猪野先生と話している間、ずっと彼は起きていたことになる。
「猪野チャンに起きてることバレたらまた教科書読まされるじゃん」
「いや、寝てるから読まされるんだよ……」
「で、なんか用?」
小首を傾げて聞いてくる。本来の目的を忘れていた。
「ああ、えっと……さっきはありがとう。助かった」
「……ああ、あれか。安眠妨害されてクレーム入れただけだよ。アンタ、なんか大変なことに巻き込まれちゃった感じ?」
「……多分」
「あ、そう」
まあ、頑張って。――そう言って東雲君はまた机に突っ伏してしまった。先程より寝息が聞こえてくるから、今度こそ眠ってしまったのだろう。これ以上話せるわけでもないので、私も自分の席に戻った。
それからも周りの目は相変わらず冷ややかなものではあったが、その日はもう誰かが何かを言ってくることも、戸田君と桜井さんがまた乗り込んでくることもなかった。
全ての授業と最後のホームルームが終わってすぐ、誰よりも先に教室を出て廊下を走った。途中で誰かに「廊下を走るなー!」と注意されたが、振り向かず一直線に昇降口へ向かう。
教室に、いや学校の敷地内に長居すれば私が盗難の犯人だと更に疑われてしまう。それならば先に校舎を出てしまえばいい。何より、今は彼らの声を聴きたくなかった。
「……私は、やってない」
――お金のために鍵を開けるなんて、全然面白くない。
校門の外に出て大きく息を吐く。明日またここに来るのだと思うと、なんだか気が重くなった。
――貴方の日常の中で、「これは絶対に在り得ない」といったものはありますか?
例えば、隣の席になった美少女が超能力者で、自分より数十倍も大きい岩や木を念力だけで浮かすことができるとか、近所に引っ越してきた爽やかイケメンが実は極秘で潜入した国家機密のスパイで極秘任務中だったとか、はたまた生き別れた父親が地球征服を企む大魔王で、寝室にある本棚の裏側に隠された扉の向こうにはアジトへの入り口になっていた……とか。
「いやいや、これはないって。在り得ないって」――例え話のような思わず笑ってしまう出来事は流石にないかもしれない。最後の大魔王はほぼ無いと断言してもいいだろう。例え話だというのに突飛すぎてつい私もこれはないと笑ってしまった。
つまり何が言いたいのかというと、「貴方は他人に言われて自分が問われる側になったとき、普段と表情を変えずに答えることができますか?」ってこと。
卑しいことがない限り、大抵の人は笑って受け流すことが出来るかもしれない。それでも笑えない冗談というものは簡単かつ唐突に現れるもので、咄嗟に笑えないものでもある。
一つ、例え話をしよう。
ある日、貴方がとある人物と金銭トラブルで口論になったその数時間後、その人物が何者かの手によって殺されてしまった。貴方は現場からかなり離れた場所にいたが、一人で行動していたためアリバイがない。しかし、現場付近に隠すように捨てられていた包丁から相手の血痕と貴方の指紋が残っていたことから、警察と名探偵が事情聴取に貴方を呼んだ。
かなり突飛で過激な例題だが、よく考えてみて欲しい。
名探偵はあらゆる情報を集約して、貴方を指してこう語り始めるだろう。
「貴方は最近、被害者と揉めていたそうですね。
「犯行時刻に貴方を見かけたという目撃者からの情報があるんですよ。
「……自分じゃない? いやいや、証言してくれた人はちゃんと貴方の顔を見たと話しています。それに包丁に付着した貴方の指紋はどう説明していただけます?
「私は許せないのです。なぜ貴方のような人がこんなことをするのか。
「何かしらの事情があったにせよ、包丁の指紋が事件を物語っているように思えて仕方がない。
「たかが二十円ぽっちの小銭のやり取りで殺すなんて、よほどの殺意があったのでしょうね。どうして周りの人に相談してくれなかったんですか。
「……きっと被害者も、貴方の口から答えを待っています。貴方だって、心のどこかで絶対後悔していると思うんです。
「今ならまだ間に合います。自分に嘘をつかないで。……さぁ、今こそ真実を話すのです!」
名探偵はいかにも悲しそうな顔で、知りもしない貴方と被害者の心理を勝手に組み立てた推理を押し付けてくる。
ここで貴方と名探偵との間にズレが生じている。
口論になったきっかけはただの小銭の借り貸しで、知っているのは貴方と相手のみ以外、誰も知らない。いや、誰かに相談すればほど馬鹿らしいと笑われる額だ。名探偵には恥ずかしくて金額を伝えてはない。そして貴方は犯行現場から離れた場所にいたことも事実で、殺せるはずがない。
それでも血まみれの包丁に付着していた指紋は貴方のもので、貴方が近くにいなかったことを証明してくれる人も物も存在しない。貴方が誰にも話していなくても、被害者が誰かに相談していたのかも不明だ。
人望の厚い名探偵の言葉を受けた警察は勿論、周りの人々は冷たい視線を向け、貴方から離れていく。匿ってくれる味方はいないと思ってもいい。
さあ、今ここでもう一度貴方に問おう。
この状況下で自分の今後が危うくなっても、笑いながら無実を訴え続けることができますか?
――私は、多分できない。
「貴女がやったんでしょ。いい加減白状しなさいよ」
梅雨入りが遅れた六月のある日の昼休み。
次の授業の準備をしていると、乱雑な開け方をした扉から困惑した様子の生徒指導の先生とA、B組の学級委員の生徒が、一度辺りを見回してから真っ直ぐ私の座っている机の前に立った。一体何事かと眉をひそめると、指をさされて唐突に無茶苦茶な推理を叩きつけてきた。
「A、B組で立て続けに起こっている盗難騒ぎを知っているな? 犯人は牛山鼓、お前だ!」
「……は?」
「とぼけても無駄だ。普通科ごときが特進科の頭に敵うとでも思うなよ!」
男子生徒はそう息巻くと、嘲笑うように見下した。
ここで捕捉として、柚木第二高校のクラス分けについて説明しておこう。
柚木第二高校の分け方は学科内でも成績別に分けられている。もちろん希望した学科で分かれてはいるものの、アルファベットの早い方が成績優秀であるという話がひそかに囁かれている。
普通科は一般科目を均等に受けるが、難関大学を目指す特進科はその差が激しく、加えて特待生は特定の授業科目を受けて伸ばしていく。まさにエリートの集まりといっても過言ではない。
その中の一人、探偵を気取ったB組の学級委員である戸田克之とは、入学してから今日まで全く関わりがない。確か学校関係者の息子だとかいう話は噂程度で聞いたことがあるものの、これが初対面であることに変わりなく、共通の知人がいるわけでもないのに、出会って三秒で最初の会話がこれだと第一印象が台無しだ。――そんなことはどうでもいい。何が言いたいかというと、戸田君の声はよく響く。教室にいた全生徒の目を一か所に集めるなど、容易いことだった。
話を戻そう。
状況が理解しきれていない私を置き去りにして、今度はA組の学級委員である桜井朋美が彼の後ろからヤジを飛ばす。
「貴女だったのね、私達のお金を返して!」
「ちょ、ちょっと待って。一体なんの……」
「とぼけるんじゃないわよ。貴女が私達の財布からお金を盗んで、折り紙を入れた犯人でしょ? 貴女が授業中に出歩いていることは知っているの。誰もいない時間帯にB組の教室に何度か出入りしてるの、私はこの目で見たわ。先生に呼ばれたからっていうわけでもないでしょうに、授業中に抜け出すなんて、私達の荷物を漁ってお金を抜き取ってる証拠じゃない!」
「物的証拠が必要なら出してやるよ。ほら」
そう言って戸田君はスマートフォンを操作して私に向ける。
画面には校内のどこかから隠し撮りしたかのような動画が流れていた。
中心には女子生徒がおり、ロッカーにつけられた南京錠に触れて開けている。顔は見えないが、肩まで伸びた茶髪と耳に掛けた髪が落ちてこないように留める銀色のヘアピンが反射して光った。そこに映っているのは背丈も雰囲気も私に良く似ていた。南京錠に何か細いものを刺していじっているところで、動画は止まってしまうと、戸田君はスマートフォンをポケットに仕舞い込んだ。
「わかったか? 証拠はすでにこっちが掴んでいるんだ。大人しく観念したらどうだ?」
満足そうな戸田君の顔に苛立ちを感じながらも私はようやく口を開く。
「……これが私だって決めつけるのは無理やりすぎじゃない? 肝心の顔が映っていないし、後ろ姿だったら私以外にも他に……」
「確かに後ろ姿だけでは判断ができないかもしれないが、この後動画の彼女は三分もしないうちに南京錠を開けてしまった。……この芸当が出来る人物は、お前以外在り得ないんだよ!」
だったら三分もしないうちに鍵を開けた場面もしっかり撮ってよ。動画の録画時間が一分も経っていないことくらい、私にだってわかる。
冷静になれと自分に言い聞かせて叫びたくなる罵倒を飲み込むと、桜井さんが口を開いた。
「逆に聞くけど、貴女が犯人じゃないっていう理由はなに? 答えられる?」
「……それはどういう意味?」
「だって牛山さん、南京錠くらいだったら開けられるじゃない」
桜井さんの言葉で思わず椅子から立ち上がる。ガタン、と教室中に響くのをお構いなしに、私は食い気味で桜井さんを睨みつける。
「あら、心当たりがあるの?」
顔をしかめた私を見て、今度は桜井さんが勝ち誇ったように鼻で嗤う。
中途半端な表情を出すんじゃなかった。この状況下で私に容疑を晴らす証拠は一つもない。口車に乗せられて終わりだ。
「どうやって南京錠を開けたかはともかく、そもそも授業中に盗むなんて無理な話じゃない? A、B組がいつ移動教室でいないのか知らないけど、私はちゃんと一日の授業すべてに出席しているもの。先生に確認は取った? 出席名簿にはちゃんとチェックが入ってるはずだよ! そうですよね?」
二人の後ろで口を閉ざしている先生に声をかける。
授業が始まる前に必ず教師は生徒の出欠の確認をし、教師全員が持っている手帳型名簿にチェックを入れている。それはどの生徒も見たことがあるだろう。少なくとも私が受けた授業では始める前に出欠を確認して名簿に書き込んでいる教師の姿を授業の度に見てきた。出欠の日数は学期末の成績表や受験の内申点に響く。書き忘れることはあっても、確認は必ずしているはずなのだ。
確認事項を怠らない教師だったら味方になってくれる。――そう思った私は完全に甘えていた。
「確かに、名簿上ではお前が授業に出ていることはすぐにわかるだろう。でも実際に授業に出ていたという確証はないんだよ」
先生は困った顔をしてさらに話を続けた。
「たまに授業に出ていないのに出席していたり、途中で抜けることもあるだろう? 正確な出席簿があるかどうか……先生達も混乱しているんだ。まさか牛山がそんなことするはずがないって信じている、信じているけど……この盗難騒ぎを早く収束させるために、協力してくれないか?」
今まで固く閉ざしていた先生の口がようやく開いたかと思えば、出てきたのは普段から全生徒に感じていた不信感とこれ以上騒ぎを大事にしたくないという倦怠感だった。
生徒の成績を評価する教師がそんな曖昧な確認の仕方でいいのかと口に出しそうになるが、それ以上に自分が疑われていることがショックで、私はそっと周りを見渡した。
誰か反論してくれたなら少しでも変わるかもしれないのに。淡い希望を思いながら辺りを見回すが、教室にいる全員が私に冷たい視線を向けている。クラス替えをしてまだ二カ月も経っていないこともあって――初めて同じクラスになる人は仕方がないとして――一年の時に同じクラスだった子も疑いの目を向けられていたのを見て目を背けた。
どれだけ無実を訴えたとしても、一人じゃ証明できない。味方がいないなら、それは嘘つきの真似事だ。
私は今だに緩みきった頬をしている戸田君を見る。
「さあ、もう逃げられない。罪を償え。恨むなら俺の推理を恨めよ? ……ああ、その推理が真実だったっけ? じゃあ自分を恨め。正直に話すのなら今だ。これ以上罪を増やすな」
罪? 推理? 真実?
「……じゃないの」
「え?」
小さく呟いた言葉が聞き取れなかったようで、戸田君は私の顔の近くに耳を傾ける。口を開いた瞬間に吐かれた息が頬を掠めると、思わず身震いした。
ああ、もう無理。
「なーに? 聞こえな――」
彼が言い切るその前に、私は右手を開いたまま彼の左頬に向かって叩きつけた。教室に弾ける音が響くと同時に、反動で戸田君が後ろの黒板に背中を打ち付けた。授業終わりでまだ消していなかったチョークの粉が頭や肩に降りかかる。一瞬顔をしかめたが、すぐに私の方に向かって睨みつける。口元が若干切れて血が滲んでいた。
怪我をさせた――そんな認識は今の私にはなくて、溜め込んでいたものを吐き出すように、この状況にお構いなく彼にぶつけた。
「――バッカじゃないの! 人の話も聞かず、勝手に犯人扱いしていいと思ってんの? 何を根拠に話してるのか知らないけど、その鬱陶しい顔をどうにかしてからにして!」
振り上げた右手の痺れを抑えるように力強く握る。
自分の無実を認めてもらえない事実をひがんだ怒りではなく、戸田君の言動に腹が立って我慢できずに手をあげてしまった。嗤った彼の顔や口を開く度に顔にかかる臭い息、ふんぞり返った態度、話も聞かず自分の都合に合わせるその神経――彼の人間として嫌な部分全てを否定してしまう。
殴った後でなんて子供なんだとと思うともっと自分が嫌になった。それでもどこかすっきりした達成感は否めなくて、「ざまあみろ」とつい口が開きそうになる。
溜め込んでいた本音を吐き出して、咄嗟のことで睨みつけながらも若干涙目になっている戸田君に少し優越感を覚えると、横から桜井さんの平手が飛んでくるのが見えた時にはもう遅かった。
物凄い形相で右腕を振り落とそうとする彼女を見て、なんてことをしてしまったんだと後悔する暇もなく、咄嗟に目を強く瞑る。
叩かれても仕方がないのはわかっていた。私だって戸田君を叩いて少しすっきりしたのは確かだ。彼女の掌が頬に届く数十秒の間、私は「自分も自己満足な人間だな」なんて悠長なことを考えた。
しかし、我慢しようとしていた痛みは一向にくることなく、代わりに聞こえてきたのは桜井さんが痛がる小さな悲鳴と、教室がざわつくクラスメイトの声だった。
恐る恐る目を開けると、目の前には桜井さんの腕を掴む男子生徒の姿があった。
「……さっきから騒がしくて寝れねぇんだけど」
ボサボサの黒髪に使い込まれた制服。苛立っているような低い声で桜井さんを睨み付けた。――というより、寝起きで目がまだ開いていないだけかもしれない。緊迫したこの空気の中で、彼は口を開けて大きな欠伸をする。
教室中の誰もが「誰だコイツ?」と首を傾げる。私も同じことを思った。こんな口調の悪い男子生徒なんていただろうか。
打ち付けた背中をさすりながら戸田君が動揺しながらもボサボサ頭の彼に向かって吠えた。
「な、ななんだよお前! いつからそこにいた!?」
「ずっと居たよ。アンタらがギャーギャー騒いでる時からずーっと。せっかく席替えで窓際の一番後ろのポジション取れたのに、アンタのせいで寝起き最悪。どーしてくれんの?」
そう言って、気怠そうに桜井さんの腕を掴んでいるのとは逆の手で頭を掻く。
……そうだ、思い出した。
彼は授業中にも関わらず、いつも教室の一番後ろの席で突っ伏して寝ている男子生徒だ。二年生になってクラス替えが行われたため、昨年とは違ったクラスメイトと一緒になった中で、私も含め他の生徒とまともに会話をしているところを見たことがない。よく寝ていることから教科書の音読に指名されることも多いが、教科書の正しい文章を読み上げるだけで口調までは知らない生徒が多い。だからほぼ初めて聞く彼の口調に誰もが首を傾げるしかなかったのだ。
確か名前は――東雲祥吾。
そんな彼がこんな修羅場のような場面で登場してくるとは、これはどこかの少女漫画か。
「何よ、その子の味方をする気?」
「…………」
桜井さんがそう言うと、東雲君はじっと彼女の顔を見つめ、あと十センチくらいで鼻先がつきそうな距離まで自分の顔を近づけた。――いや、目を細めているところからしてまだ視界がぼやけているのかもしれない――桜井さんが頬を一瞬赤らめたかと思えば、すぐに顔を歪める。彼女の視線の先を見ると、手首に包帯が巻かれていた。怪我をしていたのに気付いたのか、東雲君はその包帯をじっと見つめてから腕を離した。
そして戸田君と見ると出入り口の方を指さして言う。
「さっさと教室戻れ。その金切り声、うぜぇ」
「…………はぁ? なんなんだよお前!」
「そろそろ授業が始まる頃だから戻れって言ってんの。教室の外で猪野チャンが待ってんだから早くしろって」
「随分上から言うじゃないか。誰にその口聞いてんのかわかっているのか? 俺は理事長の息子だぞ、そんな口の利き方をして……」
「授業内容はともかく、開始時間を遅らせてることに理事長って関係あんの? テストで満点取れなかったら教師のせいなの? アンタのお勉強の時間を知らないくせに、親が学校に口出ししてどうすんのさ? アンタが恥ずかしくない?」
「テストは関係ないだろ! 俺の親父の一言でお前の退学だって……」
「親頼みで解決すんの? だったらアンタの推理とやらは親のおかげなんだ。へぇ……なんか虚しいね。可哀想」
「ふ、二人とも落ち着きなさい! ここで小競り合いしても意味はないだろう?」
どんどん加速していく東雲君と戸田君の言い争いに慌てて先生が止めに入るものの、一向に収まる気配はない。
「先生、コイツも指導対象ですよね? 俺に向かって暴言吐きましたけど」
「暴言? さっきアンタがそこの女子に言ってたのと何が違うの?」
「お前……言っていいことと悪いことが――」
「アンタがどこの誰で口が臭かろうと、アンタがしてたことは俺が吐いた暴言と同じ。お互い様だろ? これ以上口臭い上に面倒臭いことすんなよ」
「口臭いって言うな!」
戸田君が東雲君の口車に上手く乗せられている。先生が懸命に戸田君を抑える中、軽く受け流す東雲君に教室にいる誰もが苦い顔をして見ていた。
……それにしても、彼はこんなに口が悪いのか。
いつも机の上に頭を乗せて眠っている印象が強く、授業前の出席確認の時も寝ぼけながら手を上げるくらいで音読以外で声を発したところを見たことも聞いたこともない。
そもそも最初の席も席替えした後も遠いから聞いたことないのも無理はないとは思うが、周辺の席に座っている子でさえ驚いた表情をしているから、聞き慣れていないのだろう。もともと低い声なのだろうが、寝起きのせいでもっと低くて怠そうに聞こえてくるから、「あれ、怒ってる?」なんて錯覚をしてしまう。
しかし、彼の言う通り教室の外で次の授業である『猪野チャン』こと日本史担当の猪野先生が待っていたのは明らかで、いつまで経っても止まない争いに痺れを切らした猪野先生が殴りこむようにして入ってくると、二人が連れてきた生徒指導の先生が血相を変えて彼らを引きずるようにして教室を出ていった。
猪野先生は呆れた顔で彼らを見送ると、何事もなかったかのように日本史の授業を始めた。
そっと後ろの席に目を向けると、つい先程まで起きていた東雲君は教科書を頭に被せて寝てしまっていた。もちろん、それからすぐ猪野先生に気付かれて起こされ、教科書の本文を五ページほど読まされたのは言うまでもない。
授業が終わって私が席を立つと、どことなく冷たい視線が刺さってくる。無理もない。クラスメイトがいる中で盗難事件の容疑者の疑いをかけられ、別クラスで特進科の生徒を叩いたばかりだ。はた迷惑もいいところである。
視線をかき分けるように一番後ろの席で机に突っ伏して眠っている東雲君の前に行く。あれだけ教科書の内容を読まされていたにも関わらず、肩を揺すっても起きる気配がないほどぐっすり眠っていた。
「えーっと……し、東雲君ー?」
「…………」
ダメ元で声をかけたが、やはり無反応。起きる気配はない。
「あれ、また寝ちゃったの?」
後ろから分厚い授業用ファイルを抱えた猪野先生がやってくると、机を二、三回程叩いて起こそうとした。それでも起きる様子のない彼に、猪野先生は全く……と小さく笑った。
猪野侑子先生は二年C組の担任で、自称二十七歳。耳が少し隠れるくらいのショートカットの黒髪にパンツスタイルの灰色スーツ、片手に大きな授業用ファイルを抱えて校内を歩いていれば、大体猪野先生だ。男勝りで強気なところは先程の先生の様子を見れば一目瞭然だが、恐れられる存在と言っても過言ではないだろう。
恐ろしい印象とは裏腹に、生徒からの信頼は厚い。何でも先生に恋愛相談すると本当に恋が叶う、運動部の練習メニューを見直してもらうと次の試合で勝利するなどという、ほぼ百発百中の助言欲しさに連日職員室に押し掛ける生徒もいる程だ。
そんな猪野先生の悩みの種の一つが、東雲君の授業態度だ。何度も起こして音読させてみても、今年に入って彼がずっと起きていた授業は一つもない。
「五ページじゃ昼寝前の運動も同じなのね……次はもっと増やしてみようかしら」
「そ、それは可哀想なのでは……」
東雲君はよく寝る。それはどの授業でも同じらしく、猪野先生の授業に限った話ではない。
疲れて寝ているのかと思えば、彼が部活動に入っていることもアルバイトをしているとも聞いたことはない。よく話す友人もいるのかも分からない、クラスで浮いているすべてが謎の人物だ。
「そういえば授業前の戸田と桜井は何だったの? 生徒指導まで引き連れちゃってさ」
「あー……実は――」
従業前の騒ぎを簡単に説明すると、猪野先生は眉をひそめた。
「牛山が犯人なワケないでしょ。授業にちゃんと出てるの知ってるし、部活入ってないけど颯爽と教室から出て帰宅しているの見てるし」
「先生……それ、私の身の潔白を証明できる証拠になってないです……」
味方がいない中でも数少ない証拠にはなったかもしれないけど。
「でも手をあげたのはダメよ。暴力で解決するのは絶対ダメ。手が出たら負けなのよ。それが例え男でも女でも、守りたい理由とか格好良いことを謳ったところで結局罪悪感しか残らないんだから」
「……はい、すみませんでした」
罪悪感しか残らない。――猪野先生の言葉に引っかかるも、素直に頷いた。殴った後の罪悪感の他に感じたあの優越感は私の中のエゴイズムなのかもしれない。
「それにしても、戸田が出てくるとはねぇ。面倒なことにならなければいいんだけど……」
「え? 理事長の息子だからって何か問題でもあるんですか?」
いくら学校の一番偉い人の息子だからと言って贔屓するのはいかがなものか。だって偉いのは父親であって、息子は息子でしょう? ――そんな私の考えは、猪野先生の少し悔しそうな顔で上手くいかない事情であることを悟った。
「戸田のお父さんはお金を援助してくれている企業の社長さんなのよ。自分の息子が三年間世話になるからっていう理由で入学する少し前から始まったんだけど……目に見えてわかる溺愛っぷりでね。学校の運営にも関わってくるから、戸田君に何かあるとお父さんが出てきて物言いが始まるの。クラス担任はおろか、校長先生でもどうにもできないから話がややこしくなってね……。牛山達も大人の社会に仲間入りしたら嫌でも見ることになるわよ。それまで子供でいられるこの生活を噛み締めておきなさいね。
「……あ、今の独り言よ? 聞いてないわよね、牛山?
「……そう、ならいいわ。とにかく、そんなに思い詰めちゃダメよ。確かにここ一か月半くらい盗難が続いているけど、【ロッカーの鍵を開けることができる人物】を生徒の誰かができるかなんて疑うには難しいところなんだから。生徒指導の先生達が授業中の見回りを強化して捕まえてやるって息巻いているし、きっと大丈夫よ。噂もすぐに収まるわ。私は牛山がやったなんて絶対思えないし、これからも思わない」
真っ直ぐ私の目を見てそう言う猪野先生に、私は小さく頷くくらいしかできなかった。
「今はいろんな人に嫌なことを沢山言われるかもしれない。私に何かできるかわからないけど、すぐ来なさいね。……って言っても、私は明日の午後から出張でいないんだけど……っあ! ヤバイ、授業遅れる! 日直の人、黒板消しといてねー!」
「い、行ってらっしゃーい……」
黒板の上にかかっている時計を見てバタバタと慌てながら教室を出ていく。先生は大変だ。
「――相変わらず元気だな、猪野チャン」
「っうぇ!?」
予期せず東雲君の寝起きの声が聞こえてつい変な声を出してしまった。眠そうに目を擦っているが、全く瞼が開いていない。
「先生も大変だな。猪野チャンはああ言ってたけど、さっきの生徒指導のセンセーも犯人捜しなんてろくにできてないんじゃね? 模索中ってところだろうけど、犯人も目星もついていないようだし、戸田の話も半信半疑な顔して聞いているから、教師陣も想定外だったんだろうけど」
間抜け顔が見れただけ楽しめたからいっか、と満足気に鼻で笑う。寝起きにしては淡々と流暢に話す彼に、私は苦笑いを浮かべる。
「い……いつから起きてたの?」
「ん? アンタが席に来た時から」
……ということは、私が猪野先生と話している間、ずっと彼は起きていたことになる。
「猪野チャンに起きてることバレたらまた教科書読まされるじゃん」
「いや、寝てるから読まされるんだよ……」
「で、なんか用?」
小首を傾げて聞いてくる。本来の目的を忘れていた。
「ああ、えっと……さっきはありがとう。助かった」
「……ああ、あれか。安眠妨害されてクレーム入れただけだよ。アンタ、なんか大変なことに巻き込まれちゃった感じ?」
「……多分」
「あ、そう」
まあ、頑張って。――そう言って東雲君はまた机に突っ伏してしまった。先程より寝息が聞こえてくるから、今度こそ眠ってしまったのだろう。これ以上話せるわけでもないので、私も自分の席に戻った。
それからも周りの目は相変わらず冷ややかなものではあったが、その日はもう誰かが何かを言ってくることも、戸田君と桜井さんがまた乗り込んでくることもなかった。
全ての授業と最後のホームルームが終わってすぐ、誰よりも先に教室を出て廊下を走った。途中で誰かに「廊下を走るなー!」と注意されたが、振り向かず一直線に昇降口へ向かう。
教室に、いや学校の敷地内に長居すれば私が盗難の犯人だと更に疑われてしまう。それならば先に校舎を出てしまえばいい。何より、今は彼らの声を聴きたくなかった。
「……私は、やってない」
――お金のために鍵を開けるなんて、全然面白くない。
校門の外に出て大きく息を吐く。明日またここに来るのだと思うと、なんだか気が重くなった。