【黄昏の恋人】~この手のぬくもりを忘れない~




 忘れない。

 たとえ、すべてが消えてしまっても。

 何ひとつ残らなくても。

 この手は覚えている。

 繋いだ手の感触を、そのぬくもりを。

 私は、ぜったい、忘れたりしない――。









 激しく揺れる視界の向こう側で、深紅に燃える夕日が、見慣れた街の風景を真っ赤に染めている。

 でも、もうじきすべては、背後から迫る夜の闇にのまれてしまう。

 その闇から逃れるように、急に下がりだした夜気に身を震わせる暇もなく、家路に急ぐ人波を縫って少女はひたすら走っていた。

 一つ、また一つ。

 燈っていく街の灯りが、視界の先で激しく舞い踊る。

――苦しい。

 足が、腕が、肺が、そして、心臓が。

 もうこれ以上の負荷には耐えられないと、もう限界だと悲鳴を上げている。

 でも、止まるわけにはいかない。

 はあはあと上がる息の下、湧き上がる、たとえようもない恐怖心。

 怖かった。

 足を止めたら、追って来るモノに捕らわれてしまったら、そこで全てが終わってしまう。

 自分と言う存在を跡形もなく消し去られてしまう、そんな恐怖心。

 耐えられたのは、たぶん、震えるこの手をギュッと握り締めてくれている『彼』の存在のおかげだ。

 彼女の手を引く、力強い大きな手。

 伝わるぬくもりが、ともすれば挫けそうになる心を奮い起こしてくれる。

 


 街中を抜け人気のない森の道に入れば、太陽の最後の残照が、彼女の手を引いて走る彼のシルエットを薄闇の中にくっきりと浮かび上がらせる。

 均整の取れた、スラリとした体躯。

 小柄な彼女からすれば、見上げる位置にある彼の横顔。

 無駄なモノがそぎ落とされたようにシャープな頬の輪郭と、高い鼻梁。

 風を受けてなびく、サラサラな金色の頭髪。

 その存在の一つ一つが、彼女の心を揺さぶる。

 離れたくない。

 ずっと、一緒にいたい。

 こみ上げる想いが、懸命に動き続けていた彼女の足を止める。

「!?」

 驚いたように振り返る彼に全身で息をつきながら、彼女はふるふると頭を振った。

「もう少しだから頑張れ!」

 ギュッと握る手に力を込められても、再び否と頭を振った。

――だって。このまま行けば、そこにあるのは『別れ』。なら、それなら、最後までこのまま一緒にいたい――。

「っ……」

 言葉にできない想いが涙の雫となって瞳から溢れ出し、止めどなく頬を伝い落ちる。  

 立ちすくみ、ただ声を殺してしゃくり上げる彼女を、彼は優しく引き寄せると、まるで壊れ物を扱うみたいにすっぽりと包みこんで、彼女の頭にそっとアゴを乗せた。




 冷えた体に、じんわりと染み渡る彼の体温。そのぬくもりに身を預けながら、やはり彼女はなす術もなく泣くことしかできない。

優花(ゆうか)……」

 少し困ったように、そして諭すように、彼は彼女の名を呼ぶ。

 分かっている。

 これは、誰でもない彼女自身が選んだこと。

 それでも、胸が痛い。

 この期に及んで、このぬくもりを手放してしまうことが、迫りくるモノよりも怖いなんて。

――私っていつもこうだ。

 優柔不断で、決意したつもりでも、すぐに心が揺らぐ。

 こんなことじゃいけない。

 残された時間が少ないなら、泣き顔でなんていたくない。

 ほらっ、しっかりしろ如月(きさらぎ)(ゆうか)花!

 元気なのが、あんたの取りえでしょうが!

 顔を上げて、前を向かなきゃ!――

 ギュッと唇を噛んで自分に気合いを入れ、精一杯の笑顔を作って、どうにか顔を上げる。

「ごめ……」

――えっ?

 詫びを言おうと開きかけた唇へ、不意に届いた柔らかい感触に、思わず思考が止まった。

 驚きすぎた彼女は、体を強張らせたまま目を瞬かせる。『ごめんね』の言葉は、口から滑り出す前に彼の唇に遮られてしまったのだと、ぼんやりと理解した。

 近づきすぎてピンボケだった彼の顔が少し離れて、呆然と見つめる彼女の目の前ですっきりと像を結ぶ。

 くっきり二重の色素の薄い茶色の瞳が少し照れたような色をたたえて、それでも真っ直ぐに彼女の視線を捉える。

 そして彼は微かに口の端を上げると、信じられないような台詞を吐いた。

「餞別せんべつに、貰っておくよ」

――は、はあっ!?

「せ、餞別ぅっ!?」

――今の今まで『そんな気はこれっぽっちもない』ような涼しい顔をしておいて、最後の最後に、こんなっ。こんなの、不意打ちじゃないかっ!

御堂(みどう)晃一郎(こういちろう)の卑怯者ーっ!!」

……って、……あれ?




 大音量の自分の叫び声でハッと我に返った如月優花(きさらぎ ゆうか)は、パチリと目を開けた。

 見慣れた、白いクロス貼りの天井から淡いアイボリーの小花柄の壁紙へ。その下の、パステルピンクのカーテンの隙間から柔らかい朝日が差し込む窓辺まで、ゆるゆると視線を運ぶ。

 壁掛けの鳩時計の針は、午前六時を指している。

 ここは、夕暮れの街中でも、夜の帳に包まれる直前の森の中でもない。紛れもなく、自分の部屋だった。

 だとすれば、あれは――

「夢……?」

 呆然とつぶやき、まだドキドキと激しく跳ね回る鼓動を感じながら、重い体をベッドの上に引き起こした。

 もう十月だと言うのに、背中にはぐっしょりと寝汗をかいている。

 頬に残る涙の後を両手で拭い取り、右手のひらを目の前でそっと開いて見つめてみれば、そこに残るのは繋いだ手の感触。あのぬくもりが残っている気がして、ギュッと右手を握りしめた。

――また、あの夢だ。

 ここ数年、何度となく繰り返し見てきた、『誰かと逃げる』夢。

 最初は、まるで映画のワンシーンを繋ぎ合わせたような、脈絡のない映像の連なりにすぎなかった。

 例えるなら、そう。祖父が昔、優花が子供のころに見せてくれた秘蔵のサイレント映画のような、まったく音の無いただのモノクロ・ビジョン。

 それがやがて色を持ち、音を纏い、感触を伴うようになった。
 でも、こんなにリアルなのは、初めてだ。

 今までは、一緒に逃げている相手が誰なのか分からなかった。ましてや――。

「私の、ファースト・キス……」

 唇に触れた時の、感触。

 柔らかくて温かいあの感触が甦ってきてしまい、反射的に両手で口を覆い隠す。




――そりゃあ、夢の中のことだけど。

 あそこまでリアルだと、なんだかとってもショック。

 その上、相手が幼なじみの『晃こうちゃん』、御堂晃一郎(みどう こういちろう)だったなんて。

 幼なじみのお隣さんで、同じ高校で、おまけに同じクラスで、ついでに隣の席で。毎日顔を突き合わせなきゃいけないのに。

 うううっ。

 今日、どんな顔をして会えばいいのよ、私?――

 もちろん、晃一郎のことは嫌いではない。

 それこそ、生まれた時からのお隣さんで、家族ぐるみのお付き合いだ。同じ年齢なこともあって、幼い頃はまるで兄妹みたいに仲が良かった。

 昔から面倒見が良くて、いつも笑わしてくれる『晃ちゃん』は、子供のころ極端に人見知りだった優花にとっては唯一の遊び相手で、幼い彼女の世界は、『晃ちゃん』の存在を中心に回っていたと言っても過言ではない。

 幼稚園から高校まで見事に同じ学校で、高三になった今は同じクラスにいる。勉強はソツなくこなし、ガリ勉ではないのにいつもテストは上位にいて、均整の取れたスラリとした肢体と高身長、スポーツ万能で運動神経は抜群。

 色素の薄い茶髪と同じ色合いの明るい瞳はくっきり二重で、寝不足だとすぐ腫れぼったくなってしまう奥二重の優花からすれば、羨ましいくらいで。

 性格も、明るく快活で人見知りをしない。だから、昔から女の子にモテる。にも関わらず、なぜか特定の彼女を作らず、いつ見ても違う女の子にモーションをかけられている不思議な人でもある。

 友人で作家志望の村瀬玲子(むらせ れいこ)の言葉を借りれば、『アレは、来るもの拒まずのただの節操なし!』、と言うことになるけれど。