これまでの経緯《いきさつ》を思い出して目を開けた。

(ここは異世界、ってことだよな……?)

 とにかく冷静になろうと努める。

(白い空間で意識を失って、気付いたら落ちてるとか……女神様、Sかよ)

 SかMかという談義になった場合、俺は必ずRと答えることにしている。
 サディストでもマゾヒストでもない、ロマンティストである。

(よ、よし。俺は冷静だ。いつもの俺だ。いつもの、人より少しロマンティック成分が強めの俺だ)

 アホなことを考えることで平常心であることを確認する。

(ってか、俺は何で召喚されたんだ?)

 当然最初に考えてもいいはずの疑問が今更になって湧き上がってきた。

 硬い床の感触を惜しむように、ゆっくりと上半身を起こして状況確認に努める。
 外にはどんよりとした曇り空が見えて憂鬱《メランコリー》な気分にさせる。
 同時に、肌寒いくらいの冷気をはらんだ風が塔内に吹き込んできて、ふいに心細くなる。

 少しだけ淵に近寄って、周辺の地形を見る。
 四方を海に囲まれた孤島に、この塔は立っているようだ。
 少し離れているが近くに陸地も見えるので、離れ小島なのだろう。

(絶海の孤島、って感じじゃなさそうだな……よかったぁ)

 島自体は狭く、岩場と砂浜が目立つため、荒涼とした印象を受ける。
 浜辺の近くにはテントのような物が点々と存在しているので、あそこには多くの人がいるのかもしれない。

 この塔のことを知るためにも真下がどうなっているか興味はあるが、あのジャンプというかダイブの直後に淵から下を覗くのは怖い。
 今はやめておくことにした。

 鳥かごに掴まってる時に見えたとおり、ここは塔のように高い建造物の頂上なのだろう。
 下に降りる階段はあるが、上る階段はない。
 上には天井しかない。

 一通り辺りを見回し終えて、前を向き直した。

 そうすると、否応なく鳥かごが視界に入る。
 塔の中から見ると、空にポツンと鳥かごが浮かんでいるかのような錯覚を覚える。
 実際は浮かんでいるのではなく、塔から出ている太い棒に吊るされていたことを思い出す。
 鳥かごを見ていると、リンゴが木から落ちるように、突然ポトリと落下してしまわないか不安になる。

(あんな場所でブランコ状態だったとか……萎える)

 塔に鳥かごが吊るされている理由も分からないが、中に人間が入っている理由も全く理解できない。
 異様な状況だ。

 現在、唯一の情報源である少女に話を聞くべきだろう。
 塔の淵ギリギリまで行くのはまだ怖いので、中央あたりから座ったまま声を掛ける。


「あの! さっきはありがとう。おかげでーー」


 助かったと言おうと思ったが、鳥かごの中にいる人に対して使うには、不適切な気がして途中で止める。
 助かるという言葉は、彼女にとってセンシティブなキーワードなのではないかと直感したからだ。
 それに、さっきはなんとなく分かった気がしたが、言葉は通じるのだろうか。

 そんな逡巡をしていると、のそりと少女が身を起こした。

 改めて見ると着ているのは、なんの装飾もないボロボロの布だけだ。
 襟元を中心に黒々とした染みで汚れているため、輝くような銀髪とは対照的に一層みすぼらしく見える。
 少女は鳥かごにもたれかかったまま、無表情でこちらに琥珀色の目を向け、紫色に変色した唇を開いた。


「……た?」


 少々遠すぎるのか、彼女の声は風にかき消されて聞こえない。
 仕方なく這いずって、塔の端の方ににじり寄る。
 第一村人との会話は重要だと相場が決まっているのだ。
 村人というよりは囚人という方が正しいかもしれないが。
 近づくと再び彼女が口を開いた。


「何……を……もらった……?」


 上手く声が出せないのか、途切れ途切れに最小限の単語で質問をしてきた。
 かなり衰弱しているようだ。
 言葉足らず過ぎて要領を得ない質問だが、おそらく白い空間で女神様からもらったチートのことだろう。
 チートについて知っているということは、この子が召喚魔法を使った術者なのかもしれない。


「それって、チートのことだよね? 何をもらったかは時間がなくてちゃんと聞けてないけど、何か能力をもらったと思う。あ、俺の言葉分かる?」

「手を……」


 おそらく言葉は通じているのだろう。
 カサカサに乾いた枝のような手を格子の間から伸ばしてきた。
 手に触れろ、または手を握れとかそういうことだとは分かる。
 しかし、さきほどのジャンプからわずかな時間しか経っておらず、淵まで行って手を塔の外に出すというのは恐ろしい。

 動けずにいると彼女の手がだらりと下ってしまった。
 手を伸ばし続けているのも辛いようだ。
 銀髪を風が揺らしている。
 さっきまで自分もその風に晒されていたので、彼女の辛苦を少しだけ理解できる。
 理解できてしまえば無視はできない。

(手を取ることは決定事項だな)

 そう自分に言い聞かせて、トカゲのような体勢で這い進んだ。
 淵では四つん這いになることすら怖いので、完全に体を床に伏せて手を伸ばす。
 彼女も牢から出る手を一層伸ばしてきた。
 ギリギリの距離で、なんとか彼女の指を掴んだ。

 指を掴んだ瞬間、腹の下辺りに違和感を感じた。
 大腸を揉まれるような気持ちの悪い感覚。
 だが耐えられないほどの不快感ではなく、無視できる程度だ。


「どうでしょう?」


 間抜けな質問だと、言ってから気づく。
 デパートの片隅で恋愛占いをしているような感覚で聞いてしまって、ちょっと恥ずかしい。
 ひょっとすると少年と少女が初めて触れ合う感動的なシーンで、ボーイとミーツがガールした瞬間かもしれないのに「どうでしょう?」はダサすぎる。

 彼女が手を離して、わずかに首を振った。


「下がって……意識を……強く。自分の中を……探って。見えたら……叫ぶ」


 突っ込みどころ満載の指示だが「わからなかったから、がんばって調べて」ということだと理解した。
 言われたとおり塔の中央辺りまで下がり、立ち上がった。
 自分の中に何か変わった感覚がないかを探ってみる。

 目を閉じて……
 未知なる力を……
 探る。

 へその下あたりが熱を持ち始めた気がする。

(そんで、どうするんだっけ?)

 何かが見えたら叫ぶと言っていたことを思い出した。

(うーむ、何か見えるのだろうか)

 ぼんやりと脳裏をよぎる光景に意識を向ける。

(そういえばさっき海が見えたな……海、塔、召喚、異世界、チート、海、広いな、大きいな……)

 まぶたの裏に、強烈なビジョンが浮かんだ……ような気がした。


「み、見えた……? 見えたかも!」


 彼女に伝えると小さく頷くのが見える。
 叫べということなのだろう。

(いやぁ、でも恥ずかしいなぁ……ゲームじゃあるまいしなぁ……)

 彼女が琥珀色の瞳をこちらに向けている。
 待っているように見える。
 いや、確実に待っているのだろう。


「り……」


 俺が一言出すと、彼女が少し身を乗り出した。


「り……」


 そのまま俺が言葉を繋げずにいると、彼女は更に身を乗り出して鉄格子を掴んだ。

 不謹慎にも、動物園で参加した虎に餌を与えるイベントを思い出す。
 肉を注視する虎のような真剣な眼差しで、彼女が俺の挙動を見ている。
 もはや言わずには済ましてもらえまいと悟った。

 ままよと意を決して叫ぶ。


「り……海龍王《リヴァイアサン》!!」


 言ってしまった。
 海龍王《リヴァイアサン》、それは海の怪獣として世界史の授業で習った伝説上の存在。
 哲学的な意味合いもあった気がするが、よく思い出せない。

(きゅ、究極的にかっこいい……かっこよすぎて死ねる……)

 自分の黒歴史がリアルタイムで更新されていくことに苦悶していると、突然目眩に襲われた。
 白い空間がちらつく目眩ではなく、グラリと体がふらつくような強烈な目眩。
 立っているはずなのに、自分がうまく立てているのか分からなくなるような感覚。
 足に力を入れて踏ん張るが、一向にふらつきは治まらない。
 前を向いたまましゃがみこんでいるかのように、どんどん目線の高さが下がっていく。

(え、なにこれ、倒れた?)

 目眩が治まると足元を見る。
 自分が倒れていないことを確認する。

(周りが、大きくなっている? いや……俺が縮んでいる!?)

 先程まで立っていた石床には、自分の足のサイズと同程度の正方形の石材が敷き詰められていた。
 それが今では、ダンスや柔道をしても枠からはみ出さないくらいまで広がっている。
 広がっているというよりも、自分が小さくなっている。
 見上げればかなり遠くに鳥かごが見える。

 そのとき一段と強い風が塔内に吹き込んできて、思わず後ずさった。

(あぶな……!)

 体重も軽くなっているのか、風に抗えずにそのまま尻もちをついてしまった。
 これでは危なくてとても塔の淵まで行く気にはなれない。
 ふとした拍子で風にさらわれそうだ。

 呆然としていると、再び目眩に襲われた。
 さきほどとは逆に、座っているはずなのに視点がどんどん高くなっていく。
 まるで小さい子が脇を持たれて立たされるように、目線の高さが上がっていく。
 すぐに慣れ親しんだ高さまで戻った。

(元に戻った……)

 小さくなっているときは遠くに見えた鳥かごも、元通りすぐ近くにある。
 やはり自分が小さくなって、しばらくして元に戻った、ということだと推測する。


「それ……」


 あまりにも非現実的な体験をしたことで、心ここにあらずになっていたところに、少女のかぼそい声が聞こえた。
 再び彼女に近づき声を掛ける。


「あ、あぁ、これが力? なのかな……」


 俺が伝えると、彼女の片頬がぴくりと動き、彼女は目を逸らした。
 目を逸らしたというか、焦点が外れた程度のわずかな動きだ。
 今まで以上に茫洋とした表情になり、このまま動かなくなってしまいそうなほどに生命力を感じない。
 ガシャリと音を立てて、後ろの格子にもたれかかった。
 鳥かごが小さく揺れた。

 どうやら俺のチートは彼女の期待とは違ったようだ。


「お願い……がある」


 まるで遺言を伝えるかのように、か細い声で彼女が呟くので、こちらも耳をそばだてた。


「私を……自由の身に……して」


 結構ガチなお願いを口にした。
 やはり捕まっているのだろうか。
 とはいえ、どうすればいいのか検討がつかない。
 自由の身にするというのが、何を意味するかも分からない。
 誰かに鍵をもらって鳥かごから出すということか、それとも法的な手続きを必要とするのか、ひょっとして脱獄のヘルプなのだろうか。
 何も答えられずに戸惑っていたが、彼女が続けた次の言葉に戦慄する。


「自由にするって……どうか……約束して……ほしい」


 約束。

 俺が世界で最も嫌いな言葉、それが約束だ。
 憎んでいると言ってもいい。
 絶対に軽々しく約束をしないと心に誓っている。
 とくに真面目な約束はダメだ。
 誰かと待ち合わせをする約束ですら忌避感を覚える。
 彼女にとって、鳥かごから出ることは命がけの願いに違いない。
 それほどに残酷な光景だ。
 ボロ布を着て風が止まない屋外に放置されて、眼下には海が広がっているような過酷な環境だ。
 そんな不遇の美少女から助けて欲しいと頼まれても、それが約束ということであれば自動的に俺の返事は決まる。


「ごめん、約束はできない」


 彼女を見ずに自分の返事を伝えた。
 さっきまでは、助けてくれてありがとうと言おうとしていた相手。
 そんな彼女からのお願いでも、無碍《むげ》に断る自分を最低だと思う。
 俺は最低だが、約束は最悪だ。

 もちろん彼女を見捨てるのは、あまりにも心苦しい。
 それはそうだろう。
 明らかにヘルプが必要そうな相手を前に、助けませんと突っぱねるのは胸が痛む。

 しかし、彼女を外に出すことが善なのか悪なのか、その判断さえ出来ないのだ。
 せめてもう少し情報が欲しい。

 かといって約束はしたくない。
 例え彼女を助けることが正当な行為でも、それが約束という形式なら、お断りだ。

 とにかく今は少しでも時間が欲しい。
 決定を先に伸ばして、情報を集めたい。
 そもそも自分の身すら、どうなるかよく分からないのだ。

 約束のことはこれ以上触れずに、相手にとって他の重要事項は何かを考える。
 彼女の様子を伺う。
 俺に突き放されても彼女は表情を変えず、何も変わらない。
 虚空を見つめている。
 彼女の鼻先にぽつりと雨があたった。
 すると、それまで無駄な動作をしなかった彼女がゆっくりと上を向いて、少し口を空けた。

 黙って彼女を見つめていると、雨が本格的に降ってきた。
 塔の中は天井があるので濡れないが、彼女はびしょ濡れになって天を仰いでいる。
 少しして彼女の喉が上下した。
 彼女は、雨を飲んでいる。

 粛々と雨を飲み続ける様子を、何かの神聖な行為のように思いながら眺めていた。
 満足したのか、しばらくすると彼女は飲むのを止めて前を向いた。
 彼女のためにできることが見つかったような気がして質問をする。


「何か、食べたいものはある?」

「……魚、食べたい」

「魚って、どこにあるか分かる?」

「下」


 大きな約束はできない。
 だから小さな約束を受け入れて、大きな約束を有耶無耶にしたい。
 小さいとはいえ、約束を受けいれたことで自分を許すことができる。
 これは本気の約束ができない自分を甘やかす欺瞞。
 真剣な約束ができない自分であり続けるための免罪符。

(そんなことは分かってる)

 魚を持ってくることですら、俺にとってはかなりの挑戦だ。
 ここがどこなのか、全く分からないのだから。


「下って、勝手に行っても平気、だよね?」

「この下なら……平気」

「じゃあ、下に行って魚をもらってくる」

「気をつけて」


 彼女は約束のことには触れなかった。
 断られたのに、すがりついてはこなかった。
 それが諦めたからなのか、保留にしただけなのか、他に意図があってのことなのか、彼女の行動原理はまるで分からない。
 なんにせよ、今はその対応に救われた思いがする。

 とりあえず下へ向かう。
 情けないとは思いつつも、逃げるようにその場を後にした。

 ◆

 階段は螺旋階段になっていた。
 中央は吹き抜けになっており、下まで何もない空間が続いている。
 手すりはあるが頼りない。
 上から眺めた限り、塔には窓がないため暗く、階下を覗き込んでも見えない。
 思っていたよりもずっと長いのかもしれないと先行き不安になる。
 気のせいかもしれないが唸り声のようなものも聞こえてきて、一層不気味に感じる。


「う、これ降りるのか。そしてまた後で登るのか……」


 ここ以外降りる方法はないと思うので、仕方なく暗闇に身を沈めるように階段を降りていく。
 手すりを掴む手をスライドさせながら、一歩一歩ゆっくりと進んだ。
 あまりにも長く暗い階段が続くので、俺はいつのまにか嫌な記憶を思い出していた。