パッと目を開けると、予期せず浮遊感が生じた。
――落ちる!?
さっきまで存在していた白い地面は消え、今まさに落ちる瞬間にあった。
無我夢中で、目の前の細い棒を掴み、全力でしがみつく。
わずかな時間、棒を抱きしめることだけに全神経を注ぐ。
足の届かないプールで、親の腕にすがりつく幼子のように震える。
(……と、止まった?)
落下が止まったことを体感して、サッと状況を確認する。
(檻?)
よく見ると抱きついている棒と同じ物が、一定の間隔を空けて何本も円形に備わっており、上部はドーム型になっている。
(いや、鳥かご?)
しかし大きさは鳥かごの比ではなく、人間が入れそうな大きさだ。
(なんとか中に入れないか?)
意識が中に向いて、初めてその異様な光景に気づいた。
(白髪? いや銀髪? 外国人か?)
鳥かごの中に人間の女性が倒れていたのだ。
「あの! えっと、エクスキューズミー!」
とっさに助けを求めるも反応は無い。
引っ張ってもらうという選択肢を即座に捨てる。
一つのアイデアに固執している余裕などない。
未だ足は宙空を蹴っており、手も痺れてきた。
心臓がうるさいくらいに緊急警報を鳴らしている。
このままでは数分が限界だろう。
しかし棒の隙間は狭く、とても体をねじ込ませることはできないにない。
せめて足だけでも鳥かごに掛けられるよう、必死に棒をよじ登る。
(手汗なんて機能、人体にいらないだろ!)
棒よひしゃげよと言わんばかりの渾身の握り込みで、少しずつよじ登る。
なんとか足先が鳥かごの底に掛かり、そのままぐいっと立ち上がる。
ちょうどブランコを立ち漕ぎしているようなスタイルになったところで、一つ大きく息を吐く。
そっと下を見ると、はるか下方に海が見える。
自分がかなりの高所でブランコ状態になっていることが分かった。
身につけている病院の検査着がはためいたことで、そこそこ強い風が吹いていることにも今更ながら気づいた。
「あの! すいません!」
もう一度、鳥かごの中で倒れている女性に呼びかける。
女性の指がぴくりと動いた。
どうやら生きているようだ。
「ちょっと手を貸してもらえないかな!? ヘルプミー!」
女性が頭だけを動かしてこちらを見る。
頭を動かした拍子に顔を覆っていた銀髪がはらりと落ち、琥珀色の双眸が現れた。
おそらく少女なのだろうが、すっかり頬がこけており、着衣の汚れと相まって、まるで若々しさを感じない。
「あの! このままだと落ちそうで! なんとか中に入れない!? インサイド! オーケー!?」
彼女は倒れたまま手を動かし、俺を指した。
「……ろ」
「え?」
「う……し……ろ」
後ろと言われたと分かり、下を見ないように首だけを水平に回す。
「あ……」
そこには塔のような建物があった。
ちょうど同じ高さに、内部に入れそうな吹き抜けの階があり、床の存在も確認できる。
だいたいの距離は両手を広げたくらいだろうか。
もう少し広いかもしれないが、あそこまで行ければ危機から抜け出せそうだ。
(頑張れば……ジャンプでいけるか? いやいや、リスクすっげーな)
これが軒先の水溜まりなら気軽に跳べたかもしれない。
しかし、今そこにあるのは世界一デカい水溜まりで、しかも距離感がつかめない程に下方にある。
かといって、他の選択肢も思いつかない。
(ジャンプは決まりかよ)
だとしても、このまま背面ジャンプをするのは無謀過ぎる。
なんとか塔の方に向き直りたい。
右手を離し、左手が握る棒を瞬時に掴む。
体をひねり、いったん左を向く。
同時に左手を離し、素早く背中側の棒を探り当てた。
(よし、手はこれでいい)
同様に足も交差させてから、左右の足を入れ換える。
もし靴を履いていたら、棒と棒の隙間に足が入らなかったかもしれない。
覚悟を決めてエイヤッと顔と体を塔の方に向けた。
(いいぞ、向いた!)
体を塔に向けることには成功した。
しかし、もはや眼前には宙空と塔しかないという究極的な状況であることを悟り、わずかに感じた達成感は霧散した。
何かの映画で、豪華客船の船首から身を乗り出して空を飛ぶフリをするシーンを、場違いにも思い出す。
(なんという際どいことをしてんだ俺は!)
改めて塔を見る。
全体的に薄汚れており、壁の石材が所々で剥がれていて、長らく放置されているのではないかと思わせる。
さきほど確認したように、目の前の少し離れた場所に、四隅を柱で支えられているだけの吹き抜けになった階が見える。
視界の上の方に太い棒も見えた。
塔から突き出た太い棒によって、この鳥かごは吊るされているようだ。
この棒に飛びつくことも思いついたが、届きそうにもない。
やはり前方に跳んで内部に入るしかないだろう。
慎重に彼我の距離を目測する。
ジャンプをする機会など日常にないため自信はないが、届くか届かないかギリギリの距離ではないかと感じる。
数年前に高校の体育で、助走なしで両足で踏み切ってジャンプする幅跳びをやったことを思い出す。
(自分の記録は平均的だった気がする……まさかあの授業がこれほど人生に役立つ授業だったとは)
恐怖が高まりすぎて逆に落ち着いてきた、そう自分に暗示をかける。
跳ぶ以外に活路がない上は、ベストを尽くすしかない。
(大丈夫、大丈夫だ、ハクナマタタ、ハクナマタタ)
不安な時のおまじないを口中で繰り返す。
何度か深呼吸する。
カウント開始だ。
一、
二、
三……
(いやいや、三から始めよう!)
三、
二、
一……
(待て待て! ゼロで飛ぶのか? ゼロって言った後に飛ぶのか?)
棒を掴む手がじっとり汗ばんできた。
足の裏も痛い。
海から吹き上げる風も強くなった気がする。
状況は刻々と悪くなっていく。
(よし……よし……じゃあ、いっせーのせで飛ぶ。最後の「せ」で飛ぶ)
誰かと合わせるわけでもないのに、ジャンプのタイミングを決める。
(いっせーの……)
「せぁああ!」
風を掴むように両手を挙げて飛んだ。
検査着をはためかせて空を舞う。
徐々に減退する跳躍力。
束の間の無重力。
始まる落下。
迫る塔。
ガツ!
下半身は塔の壁に激突し、上半身だけが塔の中に着地した。
またもや足が宙空を蹴る。
今度はプールサイドから上がろうと必死にもがく小学生のように、手と肘を必死で使って這いずり上がる。
ザラザラした石床だったので摩擦が生じて、少しずつ上半身が前に進む。
足でも壁に窪みがないかを探し回るが、せっかく取っ掛りを見つけても、つま先を掛けるとボロボロと崩れたり剥がれたりと頼りない。
時間にすれば数秒か、十数秒か、格闘の末になんとか塔の中に体を滑り込ませた。
「だぁ! はぁはぁ……」
全身が塔に入り、石床の硬い安定感にようやく人心地がついた。
地面を全身で感じたくて、大の字に寝転がった。
「どうだ……はぁはぁ……どうだぁ! っしゃあ! ああ!」
わけもなく叫ぶ。
叫ばずにはいられない。
勝利の雄叫びだ。
何度か気が済むまで「わー!」と叫んだ。
荒い鼓動と呼吸が静まるのを待つ。
(なんなんだよ。なに飛んでんだよ俺は。どこだよここ。さっきの……白い空間はどこいったんだよ)
目を閉じて無理矢理に深呼吸をする。
今更になって色々な感情と一緒に、これまでの経緯を思い出してきていた。
――落ちる!?
さっきまで存在していた白い地面は消え、今まさに落ちる瞬間にあった。
無我夢中で、目の前の細い棒を掴み、全力でしがみつく。
わずかな時間、棒を抱きしめることだけに全神経を注ぐ。
足の届かないプールで、親の腕にすがりつく幼子のように震える。
(……と、止まった?)
落下が止まったことを体感して、サッと状況を確認する。
(檻?)
よく見ると抱きついている棒と同じ物が、一定の間隔を空けて何本も円形に備わっており、上部はドーム型になっている。
(いや、鳥かご?)
しかし大きさは鳥かごの比ではなく、人間が入れそうな大きさだ。
(なんとか中に入れないか?)
意識が中に向いて、初めてその異様な光景に気づいた。
(白髪? いや銀髪? 外国人か?)
鳥かごの中に人間の女性が倒れていたのだ。
「あの! えっと、エクスキューズミー!」
とっさに助けを求めるも反応は無い。
引っ張ってもらうという選択肢を即座に捨てる。
一つのアイデアに固執している余裕などない。
未だ足は宙空を蹴っており、手も痺れてきた。
心臓がうるさいくらいに緊急警報を鳴らしている。
このままでは数分が限界だろう。
しかし棒の隙間は狭く、とても体をねじ込ませることはできないにない。
せめて足だけでも鳥かごに掛けられるよう、必死に棒をよじ登る。
(手汗なんて機能、人体にいらないだろ!)
棒よひしゃげよと言わんばかりの渾身の握り込みで、少しずつよじ登る。
なんとか足先が鳥かごの底に掛かり、そのままぐいっと立ち上がる。
ちょうどブランコを立ち漕ぎしているようなスタイルになったところで、一つ大きく息を吐く。
そっと下を見ると、はるか下方に海が見える。
自分がかなりの高所でブランコ状態になっていることが分かった。
身につけている病院の検査着がはためいたことで、そこそこ強い風が吹いていることにも今更ながら気づいた。
「あの! すいません!」
もう一度、鳥かごの中で倒れている女性に呼びかける。
女性の指がぴくりと動いた。
どうやら生きているようだ。
「ちょっと手を貸してもらえないかな!? ヘルプミー!」
女性が頭だけを動かしてこちらを見る。
頭を動かした拍子に顔を覆っていた銀髪がはらりと落ち、琥珀色の双眸が現れた。
おそらく少女なのだろうが、すっかり頬がこけており、着衣の汚れと相まって、まるで若々しさを感じない。
「あの! このままだと落ちそうで! なんとか中に入れない!? インサイド! オーケー!?」
彼女は倒れたまま手を動かし、俺を指した。
「……ろ」
「え?」
「う……し……ろ」
後ろと言われたと分かり、下を見ないように首だけを水平に回す。
「あ……」
そこには塔のような建物があった。
ちょうど同じ高さに、内部に入れそうな吹き抜けの階があり、床の存在も確認できる。
だいたいの距離は両手を広げたくらいだろうか。
もう少し広いかもしれないが、あそこまで行ければ危機から抜け出せそうだ。
(頑張れば……ジャンプでいけるか? いやいや、リスクすっげーな)
これが軒先の水溜まりなら気軽に跳べたかもしれない。
しかし、今そこにあるのは世界一デカい水溜まりで、しかも距離感がつかめない程に下方にある。
かといって、他の選択肢も思いつかない。
(ジャンプは決まりかよ)
だとしても、このまま背面ジャンプをするのは無謀過ぎる。
なんとか塔の方に向き直りたい。
右手を離し、左手が握る棒を瞬時に掴む。
体をひねり、いったん左を向く。
同時に左手を離し、素早く背中側の棒を探り当てた。
(よし、手はこれでいい)
同様に足も交差させてから、左右の足を入れ換える。
もし靴を履いていたら、棒と棒の隙間に足が入らなかったかもしれない。
覚悟を決めてエイヤッと顔と体を塔の方に向けた。
(いいぞ、向いた!)
体を塔に向けることには成功した。
しかし、もはや眼前には宙空と塔しかないという究極的な状況であることを悟り、わずかに感じた達成感は霧散した。
何かの映画で、豪華客船の船首から身を乗り出して空を飛ぶフリをするシーンを、場違いにも思い出す。
(なんという際どいことをしてんだ俺は!)
改めて塔を見る。
全体的に薄汚れており、壁の石材が所々で剥がれていて、長らく放置されているのではないかと思わせる。
さきほど確認したように、目の前の少し離れた場所に、四隅を柱で支えられているだけの吹き抜けになった階が見える。
視界の上の方に太い棒も見えた。
塔から突き出た太い棒によって、この鳥かごは吊るされているようだ。
この棒に飛びつくことも思いついたが、届きそうにもない。
やはり前方に跳んで内部に入るしかないだろう。
慎重に彼我の距離を目測する。
ジャンプをする機会など日常にないため自信はないが、届くか届かないかギリギリの距離ではないかと感じる。
数年前に高校の体育で、助走なしで両足で踏み切ってジャンプする幅跳びをやったことを思い出す。
(自分の記録は平均的だった気がする……まさかあの授業がこれほど人生に役立つ授業だったとは)
恐怖が高まりすぎて逆に落ち着いてきた、そう自分に暗示をかける。
跳ぶ以外に活路がない上は、ベストを尽くすしかない。
(大丈夫、大丈夫だ、ハクナマタタ、ハクナマタタ)
不安な時のおまじないを口中で繰り返す。
何度か深呼吸する。
カウント開始だ。
一、
二、
三……
(いやいや、三から始めよう!)
三、
二、
一……
(待て待て! ゼロで飛ぶのか? ゼロって言った後に飛ぶのか?)
棒を掴む手がじっとり汗ばんできた。
足の裏も痛い。
海から吹き上げる風も強くなった気がする。
状況は刻々と悪くなっていく。
(よし……よし……じゃあ、いっせーのせで飛ぶ。最後の「せ」で飛ぶ)
誰かと合わせるわけでもないのに、ジャンプのタイミングを決める。
(いっせーの……)
「せぁああ!」
風を掴むように両手を挙げて飛んだ。
検査着をはためかせて空を舞う。
徐々に減退する跳躍力。
束の間の無重力。
始まる落下。
迫る塔。
ガツ!
下半身は塔の壁に激突し、上半身だけが塔の中に着地した。
またもや足が宙空を蹴る。
今度はプールサイドから上がろうと必死にもがく小学生のように、手と肘を必死で使って這いずり上がる。
ザラザラした石床だったので摩擦が生じて、少しずつ上半身が前に進む。
足でも壁に窪みがないかを探し回るが、せっかく取っ掛りを見つけても、つま先を掛けるとボロボロと崩れたり剥がれたりと頼りない。
時間にすれば数秒か、十数秒か、格闘の末になんとか塔の中に体を滑り込ませた。
「だぁ! はぁはぁ……」
全身が塔に入り、石床の硬い安定感にようやく人心地がついた。
地面を全身で感じたくて、大の字に寝転がった。
「どうだ……はぁはぁ……どうだぁ! っしゃあ! ああ!」
わけもなく叫ぶ。
叫ばずにはいられない。
勝利の雄叫びだ。
何度か気が済むまで「わー!」と叫んだ。
荒い鼓動と呼吸が静まるのを待つ。
(なんなんだよ。なに飛んでんだよ俺は。どこだよここ。さっきの……白い空間はどこいったんだよ)
目を閉じて無理矢理に深呼吸をする。
今更になって色々な感情と一緒に、これまでの経緯を思い出してきていた。