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そうして今、私は伊織と向かい合っている。
墓石には蝶々が一羽とまっている。黒い縁に、浅黄色の翅を持つ、大きな蝶――アサギマダラだ。こんな低地にいるのは珍しい気がする。
今日の髪留めは、ちょうどこの蝶に似ている。
どこで買ったのか、あるいはもらったのか、病院にいたときから持っている、不思議な青色の蝶々の髪留めに。
「……未だに、信じられないよ」
私はぽつりとつぶやいて、その髪留めを外し、お墓の前に置いた。ほどけた髪を、夏の風がさらっていった。
今の私は、高校三年生だ。
学校生活のブランクは三ヶ月近かったけれど、先生からは進級のための出席日数は足りていると言われ、ブランク期間の授業はいろんな人に助けてもらって、なんとかカバーした。
三年になるときはクラス替えがないから、同じクラスメイトのまま進級できたことが嬉しかった。水泳部には比嘉さんが入部した。
最近、お弁当は由佳と交互に作るようになった。父は相変わらず帰りが遅いけれど、土日は家にいることが少し増えたように思う。秀とは前よりも、だいぶ恋人らしくなった。
季節はあっという間に過ぎて、夏になった。それでも私は未だに――。
「伊織が死んだなんて、全然思えなくて」
蝶は薄い翅をゆっくりと羽ばたきしている。見ていると、なんだか落ち着く動作だ。
儚く、脆いのに、力強さを感じさせる。そこに命を、強く感じる。
「ねえ伊織。あの日記に書いたのは、本当に伊織だったの?」
答えるはずもない問いは、小さく墓石に弾けて消えた。
私は今でも、信じているわけじゃない。
あの頃、「伊織」が「和佳」だったのかもしれない、なんて。
だけど彼女が、何かを残してくれたような気はしている。
お腹の中で時折跳ねている、違和感の正体がそうだと思っているわけじゃないけれど。
なんだか前よりも、食べるようになった。
なんだか前よりも、笑えるようになった。
なんだか前よりも、世界は輝いて見える。
「私の中に、伊織が生きているみたい」
死を考えたことがあった。
確かに、死にたいと思ったことがあった。
だけど今、私は生きようと思う。というより、死ねなくなってしまった。
死にたいという気持ちは、少しずつ、雪が熱に溶けて消えるように、夏の熱気の中に蒸発していっている。
お腹の中のそれが、少しずつ体の外に押し出して、今はもう、ほとんど残っていない。
声がする。
秀だ。佐島もいる。あれは……伊織のお母さんと、お父さんかな。あの女の子はきっと、陸上部の子だ。確か、吉田さん。
伊織は愛されていた。
私なんかよりもずっと、愛されていたと思う。
だけど私も確かに、愛されているのだと思う。
誰かの目に、大切なものとして、映っているのだと、今はそう思える。
「ありがとね、伊織」
するっと、頬を静かに涙がつたった。伊織が死んでから、初めて流した涙だった。
蝶々が翅を広げて飛んでいく。青い青い夏空のかなた。いったいどこまで飛んでいくのだろう。
空高く、まるで鳥のように風に乗り、小さな点になって、そして蒼空に溶け込むように、ふっと見えなくなった。
もしかすると伊織のところへいったのかもしれないと、なんとなくそう思う。
【完】