空気がしんと冷えて冷たい。

 羽織ったコートも、首に巻いたマフラーも突き抜けるようにして、冷気は肌から骨の芯へと染みてくる。寒いのはそんなに苦手ではないけれど、今年の冬は厳しい寒さが続いている。まだ雪が降っていないのが不思議なほどだ。

 手に息を吹きかけながら登校すると、昇降口のところに小柄な少女の姿があった。川村さんだとわかって、私は足を止める。

 彼女が上履きを履き替えて、階段を上がっていくのを見届けてから昇降口に入った。自分の上履きを取り出したところで、真後ろから「ねえ」と声をかけられて身が竦んだ。

 振り向くと、長谷川さんだった。寒さに紅潮した頬をマフラーに埋めて、目を細めて私を見ていた。

「今、川村のこと避けた?」

 私はぎくりとして、とっさに首を横に振った。長谷川さんはまだ私のことを、睨むように見ていた。

「まあいいけどさ、別にどうでも」
 ぽつりとつぶやいて、彼女は昇降口を抜けていく。

 彼女の残した冷たい瞳が、妙に印象に残った。今朝がた由佳が見せたのも、あんな目だった気がする。

 わからない。どうして由佳も、長谷川さんも、そんなふうに私のことを見るんだろう。
 私にいったい、何を期待しているんだろう。

 お腹の中で、何かが暴れているような気がする。朝ご飯のパンを少し焦がしたせいに決まっている。なのにどうして、誰かに怒られているような気がしてしまうんだろう。

 私は間違っていない。今まで通りの私だ。これが私のはずだ。森宮和佳のはずだ。
 だけどそう思うほどにお腹が痛くなるのだった。
 のろのろと階段を上っていると、どんどん痛みが鋭くなっていくのだった。

 誰かが私の中で怒っている。そんなことあるはずがないのに、私ではない何かの怒りを確かに感じる。
 何かがお腹から、出ていきたがっている。焦げた食パンに決まっている。決まっているんだ。

 教室の前に立つと、足が震えた。中から人の声がする。川村さんや、長谷川さんもきっと中にいる。彼らの視線が自分に向くことを、私は恐れている。
 私のことなんか、目に映さないでほしい。

 ――嘘つき。

 私ははっとした。
 気がつくと教室に入っていた。

 すでに登校していたクラスメイトたちは、こちらを見ていない。川村さんと長谷川さんの姿もあった。川村さんは少しだけ私を見て、視線を泳がせる。長谷川さんは自分のスマホを無心に打っている
 もう、誰も挨拶をしてこない。

 誰の目にも、私は映っていない。
 ――それで、いいはずだった。
 ずっとそうやって生きてきた。

 母が死んだ日に、私も死んだ。
 家のことをしっかりしなければ、と思ったとき、自分を殺すのが手っ取り早かった。
 遊ぶだの、趣味だの、部活だの、余計なことに時間を取られている余裕はない。

 学校で大事なのは成績だけだった。しっかり勉強して、いい高校、大学へ進学して、しっかりした会社に就職して、早く一人前になって、大人になって、そうしたらきっと父を楽にしてあげられると思った。由佳を普通に大学に行かせてあげられると思った。

 だけど、ああ……あの日、私は伊織に会ってしまった。
 あのときから、私はずっと彼女に憧れている。

 彼女みたいになりたい自分と、誰の瞳にも映らない自分がせめぎ合って、私は二つに引き裂かれた。ずっと矛盾を抱えて生きてきた。
 だから今だって、私の心は矛盾している。

 誰の目にも映りたくないのに。
 誰かの目に、映りたいと願っている。

 お腹が痛くて、痛くて、もうこれ以上我慢できそうにもなかった。

 ――自分で自分を殺しちゃだめだよ。

 その瞬間、何かがぐっと、私の腹の底から言葉を押し出した。

「お……」

 あまりに小さい声だったけれど、それは確かに焦げた食パンではなかったと思う。

 ――おはよう。

 一番遠くにいたのに、ぱっと顔を輝かせたのは川村さんだった。

「おはよー、もりみー」

 そこからふっと、温かい空気が教室中に広がっていくかのようだった。

「おはよー」
「おはよう、森宮さん」
「おっす森宮。声小せえよ」

 私は顔が真っ赤になるのを感じて、慌てて自分の席に逃げ込む。でも、ああ、そうだった。逃げたところで私の後ろの席は……。

 長谷川さんはスマホから顔を上げて私を認め、小さく首を傾げた。
「おはよ?」

 そのとき、私は確かに、自分の心が溶けるのを感じたのだ。
 この世界を構成するピースの一つとして、自分に色がついている。
 私は私として、誰かの目に映っている。

 だから私は、自分の目にも彼女を映す。

「……おはよう。長谷川さん」