与那国島には、東崎と西崎という場所がある。
東崎と書いて、「あがりざき」と読むらしい。西崎の方は「いりざき」だ。
東は太陽が上がるほうだから、あがりざき。西は日の入りの方角だから、いりざき。本当かどうかは、知らないけれど。
遅めの昼食を取った後休息をとって、日が沈み始める頃、私たちは西崎へ向かった。
そんなところに蝶はいないぞ、という裕作さんがぶつくさ言いながらも車を出してくれて、私たちは島の最西端へと辿り着いた。
マジックアワー、というらしい。
日が沈んでからの短い間、夕焼けよりもなお濃い紅蓮が空の端を染め上げる、魔法の時間帯。それは確かに、素晴らしい眺めだった。
雲が赤みを帯びて、空はもうほとんど夜の群青に染まっているのに、まるで炎が燃えているみたいに空の果てだけが真っ赤なのだ。
ひょっとしてアサギマダラは、あの場所を目指して飛んでいくのではないかと、思ってしまうような。
そびえ立つのは西埼灯台。周囲は断崖絶壁になっていて、灯台の近くには日本最西端を示す石碑が建っている。この国で、一番最後に日が沈む場所。
実際の最西端はもう少し先にある小さな岩らしいけれど、人の足で行けるのはここが限界だ。
蝶の姿はない。けれど近いのがわかる。
私は確かに、今までになく強く、和佳の魂の存在を感じた。
裕作さんは放っておいて、私たちは蝶を探し始めた。茂みや木陰、石碑の裏や灯台の周囲をぐるりと回る。
「あのさ」
茂みを覗き込みながら、私は今さらのことを、佐島に訊ねた。
「私が大神伊織だって、なんでわかったの」
「森宮と一緒に事故に遭ったと聞いたからな」
佐島はなんでもなさそうに答える。
まあ、確かに。他に入れ替わりそうな人がいなかったら、そうなるのか。
「じゃあさ」
私はわざとそっけなく言った。
「伊織って呼んで」
佐島がこっちを見たのがわかったので、私も顔を上げた。
マジックアワーの赤色を背に受けて、佐島の輪郭が茜色に染まっている。
「……わかった」
佐島がうなずいた。
「それからさ、あんたが入れ替わった意味ってやつだけど」
お腹の引っ張られる感覚が、いよいよ強くなってきた。
「本当に、あんたは私に、自分の失敗を伝えるだけだけに、今日まで佐島裕一として生きてきたのかもしれない」
「なんだ、急に」
「たぶん、佐島が伝えてくれなかったら、私も逃げていたよ」
佐島が私をまじまじと見ている。
私はパズルのピースを一つ一つ嵌めるように、佐島の心に、ぽっかりと空いているのであろう穴を埋めるようにしゃべる。
「私は、深い意味があって入れ替わっただなんて思ってない。でも、こうして入れ替わったことに、まったくなんの意味がなかったとも思わない。意味があって入れ替わったんじゃなくて。入れ替わったから、意味が生まれるんだと思う」
森宮和佳として生きたこの数ヶ月、私はきっと、この世界に何かを残せたと思う。
そう思ったとき、心は妙に穏やかだった。
与那国島の浜辺に打ち寄せる、青く静かな波のように、とても穏やかで、凪いでいた。
だからとても自然に、笑うことができた。
「ありがとう。伝えてくれて」
それから空を見上げて、言った。
「……来たよ」
それは、一瞬だった。
ほんの刹那、強い風が吹いたと思った瞬間、天から無数の青い蝶の群れが舞い降りて、島の西端を覆いつくした。
青い嵐が吹き荒れる。
沈んだ日が空の果てを真っ赤に塗りつぶす光と、アサギマダラの青が混ざって、世界は青と赤に埋め尽くされる。
「伊織!」
どこかで佐島の声がした。
私は答えない。
蝶の渦の中心。
浅黄色と、茜色の風の中。
前髪がばたばたと荒ぶっている。
髪留めが飛んでいきそうだ。
私は半分目をつむりながら、和佳を探す。
体は強く引かれている。
呼ばれている感覚がある。
蝶たちは西へ、さらに西へと飛び立っていく。
ここは彼らの目的地ではない。
もっと先へ。もっと遠くへ。蝶たちは再び空へと上がっていこうとする。
私は声にならない叫びをあげる。
待って!
私は逃げずこにここにきた。
だから和佳も逃げないで。
生きることから、逃げないで。
生きなきゃだめだよ。
和佳を待っている人たちが、たくさんいるんだから。
あの町で、あなたの帰りを待っているんだから。
私なら、自分よりもうまく生きてくれると思ってる?
違うよ。
この体は、和佳なんだ。
和佳が生きなきゃ、ダメなんだ。
今までの人生、森宮和佳は、ちゃんと、いろんな人の目に映っていた。私が和佳として生きたこの数ヶ月は、その膨大な積み重ねに、ほんのちょっと積み上げたことに過ぎない。
生きてきたのは、和佳なんだよ。
だから残りも、あなたが生きなきゃ、だめだよ。
一際強い風が吹く。
背中を押されながら、私は蝶の群れを追いかける。
西へ。西へ。
待って……まだ、まだ見つからない。
どこにいるの、和佳!
「待て、危ない伊織!」
踏み出した瞬間、右足が空を切った。
足元に断崖が口を開けていた。
ひゅっと、重力が私の足をつかんだ。
私は崖を転がり落ちていく。
あちこちに体をぶつけ、頭を打ち、意識が飛びかけた。
体が水に落ちたのがわかった。海?
体がしびれる。
かろうじて水面に顔を出す。
口の中が辛い。海水だ。
体は浮いたが、うまく動けなかった。
息が苦しい。
ひゅーひゅーと、奇妙な音が自分の口からこぼれている。
空に向かって、手をよろよろと伸ばす。
高いところを、蝶々が遠ざかっていくのが見える。
夕焼けが消えていく。マジックアワーが終わるのだ。空は少しずつ群青へ、急速に夜へと吸い込まれていく。
海面を綺麗な茜色に染め上げていた、その赤の消失とともに、アサギマダラの大群もまた空高く昇っていく。
「待って……行かないで和佳……」
掠れた声とともに口から血がこぼれた。
視界がにじんでいるのか、海水なのか涙なのかもよくわからない。
痛い。腕が上手く伸びない。
それでも私は必死に手を空にかざす。
蝶の群れが、ぼやけて見える。
あんな高いところ、届くはずもない。声だってもう届かない。
それでも手を伸ばして、しゃがれた声で、あえぐように祈った。
「お願い……お願いです、神様」
和佳を連れてきて。
和佳をこの体に、戻して。
この体は和佳のものです。
あの日、生き伸びたのは和佳です。
それでいいんです。それでよかったんです。その結末で、私は納得しています。
死にたくないと、今でも思うけれど、和佳に生きてほしいと、それ以上に強く思うから。
だから、あるべきものを、あるべきところへ返して。
「お願い、だから、」
意識が薄れていく。
大量の血が出ているのがぼんやりわかる。
死ぬのかもしれない。それじゃあ意味がない。だめだ、死ぬわけにはいかない……。
誰かが呼んでいる声がする。私の名前を呼んでくれている。
ふっと、青い蝶の大群から、ひとひらの光の欠片がはがれるように、何かが落ちてくるのが、見えたような気がした。
東崎と書いて、「あがりざき」と読むらしい。西崎の方は「いりざき」だ。
東は太陽が上がるほうだから、あがりざき。西は日の入りの方角だから、いりざき。本当かどうかは、知らないけれど。
遅めの昼食を取った後休息をとって、日が沈み始める頃、私たちは西崎へ向かった。
そんなところに蝶はいないぞ、という裕作さんがぶつくさ言いながらも車を出してくれて、私たちは島の最西端へと辿り着いた。
マジックアワー、というらしい。
日が沈んでからの短い間、夕焼けよりもなお濃い紅蓮が空の端を染め上げる、魔法の時間帯。それは確かに、素晴らしい眺めだった。
雲が赤みを帯びて、空はもうほとんど夜の群青に染まっているのに、まるで炎が燃えているみたいに空の果てだけが真っ赤なのだ。
ひょっとしてアサギマダラは、あの場所を目指して飛んでいくのではないかと、思ってしまうような。
そびえ立つのは西埼灯台。周囲は断崖絶壁になっていて、灯台の近くには日本最西端を示す石碑が建っている。この国で、一番最後に日が沈む場所。
実際の最西端はもう少し先にある小さな岩らしいけれど、人の足で行けるのはここが限界だ。
蝶の姿はない。けれど近いのがわかる。
私は確かに、今までになく強く、和佳の魂の存在を感じた。
裕作さんは放っておいて、私たちは蝶を探し始めた。茂みや木陰、石碑の裏や灯台の周囲をぐるりと回る。
「あのさ」
茂みを覗き込みながら、私は今さらのことを、佐島に訊ねた。
「私が大神伊織だって、なんでわかったの」
「森宮と一緒に事故に遭ったと聞いたからな」
佐島はなんでもなさそうに答える。
まあ、確かに。他に入れ替わりそうな人がいなかったら、そうなるのか。
「じゃあさ」
私はわざとそっけなく言った。
「伊織って呼んで」
佐島がこっちを見たのがわかったので、私も顔を上げた。
マジックアワーの赤色を背に受けて、佐島の輪郭が茜色に染まっている。
「……わかった」
佐島がうなずいた。
「それからさ、あんたが入れ替わった意味ってやつだけど」
お腹の引っ張られる感覚が、いよいよ強くなってきた。
「本当に、あんたは私に、自分の失敗を伝えるだけだけに、今日まで佐島裕一として生きてきたのかもしれない」
「なんだ、急に」
「たぶん、佐島が伝えてくれなかったら、私も逃げていたよ」
佐島が私をまじまじと見ている。
私はパズルのピースを一つ一つ嵌めるように、佐島の心に、ぽっかりと空いているのであろう穴を埋めるようにしゃべる。
「私は、深い意味があって入れ替わっただなんて思ってない。でも、こうして入れ替わったことに、まったくなんの意味がなかったとも思わない。意味があって入れ替わったんじゃなくて。入れ替わったから、意味が生まれるんだと思う」
森宮和佳として生きたこの数ヶ月、私はきっと、この世界に何かを残せたと思う。
そう思ったとき、心は妙に穏やかだった。
与那国島の浜辺に打ち寄せる、青く静かな波のように、とても穏やかで、凪いでいた。
だからとても自然に、笑うことができた。
「ありがとう。伝えてくれて」
それから空を見上げて、言った。
「……来たよ」
それは、一瞬だった。
ほんの刹那、強い風が吹いたと思った瞬間、天から無数の青い蝶の群れが舞い降りて、島の西端を覆いつくした。
青い嵐が吹き荒れる。
沈んだ日が空の果てを真っ赤に塗りつぶす光と、アサギマダラの青が混ざって、世界は青と赤に埋め尽くされる。
「伊織!」
どこかで佐島の声がした。
私は答えない。
蝶の渦の中心。
浅黄色と、茜色の風の中。
前髪がばたばたと荒ぶっている。
髪留めが飛んでいきそうだ。
私は半分目をつむりながら、和佳を探す。
体は強く引かれている。
呼ばれている感覚がある。
蝶たちは西へ、さらに西へと飛び立っていく。
ここは彼らの目的地ではない。
もっと先へ。もっと遠くへ。蝶たちは再び空へと上がっていこうとする。
私は声にならない叫びをあげる。
待って!
私は逃げずこにここにきた。
だから和佳も逃げないで。
生きることから、逃げないで。
生きなきゃだめだよ。
和佳を待っている人たちが、たくさんいるんだから。
あの町で、あなたの帰りを待っているんだから。
私なら、自分よりもうまく生きてくれると思ってる?
違うよ。
この体は、和佳なんだ。
和佳が生きなきゃ、ダメなんだ。
今までの人生、森宮和佳は、ちゃんと、いろんな人の目に映っていた。私が和佳として生きたこの数ヶ月は、その膨大な積み重ねに、ほんのちょっと積み上げたことに過ぎない。
生きてきたのは、和佳なんだよ。
だから残りも、あなたが生きなきゃ、だめだよ。
一際強い風が吹く。
背中を押されながら、私は蝶の群れを追いかける。
西へ。西へ。
待って……まだ、まだ見つからない。
どこにいるの、和佳!
「待て、危ない伊織!」
踏み出した瞬間、右足が空を切った。
足元に断崖が口を開けていた。
ひゅっと、重力が私の足をつかんだ。
私は崖を転がり落ちていく。
あちこちに体をぶつけ、頭を打ち、意識が飛びかけた。
体が水に落ちたのがわかった。海?
体がしびれる。
かろうじて水面に顔を出す。
口の中が辛い。海水だ。
体は浮いたが、うまく動けなかった。
息が苦しい。
ひゅーひゅーと、奇妙な音が自分の口からこぼれている。
空に向かって、手をよろよろと伸ばす。
高いところを、蝶々が遠ざかっていくのが見える。
夕焼けが消えていく。マジックアワーが終わるのだ。空は少しずつ群青へ、急速に夜へと吸い込まれていく。
海面を綺麗な茜色に染め上げていた、その赤の消失とともに、アサギマダラの大群もまた空高く昇っていく。
「待って……行かないで和佳……」
掠れた声とともに口から血がこぼれた。
視界がにじんでいるのか、海水なのか涙なのかもよくわからない。
痛い。腕が上手く伸びない。
それでも私は必死に手を空にかざす。
蝶の群れが、ぼやけて見える。
あんな高いところ、届くはずもない。声だってもう届かない。
それでも手を伸ばして、しゃがれた声で、あえぐように祈った。
「お願い……お願いです、神様」
和佳を連れてきて。
和佳をこの体に、戻して。
この体は和佳のものです。
あの日、生き伸びたのは和佳です。
それでいいんです。それでよかったんです。その結末で、私は納得しています。
死にたくないと、今でも思うけれど、和佳に生きてほしいと、それ以上に強く思うから。
だから、あるべきものを、あるべきところへ返して。
「お願い、だから、」
意識が薄れていく。
大量の血が出ているのがぼんやりわかる。
死ぬのかもしれない。それじゃあ意味がない。だめだ、死ぬわけにはいかない……。
誰かが呼んでいる声がする。私の名前を呼んでくれている。
ふっと、青い蝶の大群から、ひとひらの光の欠片がはがれるように、何かが落ちてくるのが、見えたような気がした。