山を下ることになって、先頭をいく裕作さんが蝶々に夢中になっている隙に、私は何気なく訊ねてみた。
「あんたさ、その脇の傷どうしたの」
佐島はシャツの上から脇腹をさすって、遠くを見る目になる。
「ガードレールが腹に刺さった。死にかけたらしい」
「げっ……」
聞いているだけで痛い話を、あっさり言ってくれる。佐島もそう思ったのか、頭をかいて付け加えた。
「まあ、その辺のことはあまり実感がなくてな。確かにガードレールが刺さった記憶はあるが、実際にその目に遭ったのは俺じゃない。この体の、本来の持ち主だ」
私は目を眇める。
「あんたも事故で入れ替わったの?」
佐島はかぶりを振った。
「事故じゃなかった。佐島裕一は、死を望んでいた。自殺だったんだ」
身が強張るのがわかる。
風が吹いて、髪を強くなびかせた。十一月の、秋を連れてくる風だ。
東京ではきっと、もっと冷たい。この場所では涼しい程度だ。
でも妙に、肌寒く感じた。
佐島の淡々とした、けれど痛みの染みこんだ低い声が、確かにこの場の温度を下げていると感じた。
「病院で目を覚ましたときにはこの体になっていた。あの病院に、きっとあの日死んだ人間がいて、俺の魂はそこからきたんだろうな」
私は佐島の話をぼんやり反芻する。
死を強く望んでいたから。
だから彼の蝶は、その魂を黄泉へと運ぼうしたんだろうか。
だから抜け殻になった体に、本当は死ぬはずだった私の魂を入れたんだろうか。
わからない。わかるはずもない。
だけど佐島裕一と森宮和佳には、確かに重なるところがあるかもしれない。
「森宮も知っているだろうが、祖母は不思議な人でな。裕作さんも言っていた通り周囲から不気味がられてもいたが、妙に懐の広い人でもあった。人に見えないものが見えているようだった。入れ替わってしまったと言っても、あの人だけが俺と普通に接してくれた。入れ替わったことには何か意味があるんだと、そう言って信じてくれた」
「ああ……うん。そんな人だった」
あの人には確かに、そういう、受け入れてくれそうな器の大きさを感じた。スピリチュアルだと言ってしまえば悪口のように聞こえるかもしれない。
別に超能力者とか、霊能力者というわけではなかったと思うけれど、少なくとも“感じる力”が普通の人より強そうだった。
「――自意識が薄れるにつれ、夢を見るようになった。アサギマダラに紛れて、本来の魂が運ばれていく夢だ。体が共鳴しているようだった。本当の魂を、呼んでいるようだった」
熱にうなされたように、佐島はしゃべり続ける。
私にもその感覚はある。
この地にきてから、とても強くなっている。
けれど、気づかぬふりをしている。
「その話を祖母にしたら、裕作さんを紹介してくれた。女よりも蝶の尻を嬉々として追いかける酔狂な兄がいると言ってな。それで夏から、裕作さんのマーキングを手伝うことになった。南下していくうちに、少しずつ体の真ん中が、引っ張られるような感覚が強くなった。夢を見る頻度も、上がっていった」
私は黙ったまま、前を行く齢八十過ぎには到底見えない蝶マニアの背中を眺めていた。
佐島ももはや、私が聞いているかどうかはどうでもよさそうだった。
午後になって、少し空が晴れてきた。上空は風が強い。雲が流れると日が差して、真っ青な空が覗く。
私は西の方を見る。空はそっちから晴れてきている。
そちらの方から、強く、この体を呼ぶ力を感じる。
「その感覚を頼りに探した。アサギマダラはここからさらに西に渡る。国内で追い切れるのは、ここが限界だった」
佐島は西の方を指さした。
「そして元の魂を、この地で見つけた。確かに本当の持ち主を見つけた。だけど俺はそこで考えてしまった。彼に体を返したとき、自分はどうなるのだろう……」
――死ぬだろう。
佐島はつぶやいた。
「俺は死の恐怖に負けた。彼に体を返さなかった。佐島裕一は死にたがっていたんだ。だから別に構わないだろう、と……。そして蝶は、そのまま彼の魂を持っていってしまった」
自嘲するような、歪んだ笑みを浮かべて。
「あれも十一月だった。飛び去っていく蝶が見えなくなってから、死ぬほど後悔した」
私は立ち止まる。
死の恐怖。
そうだ。
私もずっと苛まれている。
死ぬのは怖い。
和佳の魂に会ったとき、きっとその魂とこの体は一つに戻る。私の魂は、追い出されて、そしてあの蝶によって黄泉へと運ばれるだろう。
だってもともと、死ぬのは私のはずだったのだから。
「……なぜ後悔したの? 何を後悔したの?」
私は静かに訊いた。佐島が私の方を、ぼやけた目で見た。
「佐島裕一はきっと、本当は生きたかったはずだから」
短く、そしてゆるぎない答えだった。
確信している目だった。
佐島の顔には、珍しく表情らしい表情が浮かんでいた。苦悶にゆがんだ、後悔の色の強い、寂しげな顔をしていた。
「入れ替わったことに意味があるなんてえらそうに言ったが……結局自分が生き延びてしまったことに、他でもない俺自身が、意味を欲しているだけなんだろう。本当の佐島裕一の魂を追い出してまで生きた、その人生に意味があるんだと思いたくて、だからおまえに俺の代わりをさせようとしているのかもしれない」
吐き捨てるような佐島の独白を、私はぼんやり聞いていた。
和佳は今、このまま死んでしまいたいと思っている。日記から垣間見えた彼女の本心は、生きることに苦痛を覚えていた。
誰の目にも映らず、ただロボットのように肉体だけが疲弊し、摩耗していく日々に、嫌気が差していた。
死を望んでいる和佳と生きることを望んでいる私、確かに私が生きる方が、自然なのかもしれない。
それでみんな幸せになれるのかもしれない……ただ一人、和佳を除いては。
そう。その幸せには、和佳だけがいない。
和佳は今でも、生きることが苦痛かもしれない。
和佳が苦しんでいた過去を、どうにかできるわけじゃない。
でも、その日々を変えていくことはできると思う。
だって和佳は、ロボットじゃないのだから。
量産型の、無個性な命なんかじゃない。
和佳の人生を生きることができるのは、和佳だけだ。
そして私は、きっと和佳も心のどこかでは、それをわかっていると思う。
風が吹いた。
呼ばれるように、西の方を向いた。
おへそのあたりが、今まになく強く引っ張られる感じがした。
「……ねえ、佐島」
私はつぶやいた。
「和佳が、海の方にきてる」
「あんたさ、その脇の傷どうしたの」
佐島はシャツの上から脇腹をさすって、遠くを見る目になる。
「ガードレールが腹に刺さった。死にかけたらしい」
「げっ……」
聞いているだけで痛い話を、あっさり言ってくれる。佐島もそう思ったのか、頭をかいて付け加えた。
「まあ、その辺のことはあまり実感がなくてな。確かにガードレールが刺さった記憶はあるが、実際にその目に遭ったのは俺じゃない。この体の、本来の持ち主だ」
私は目を眇める。
「あんたも事故で入れ替わったの?」
佐島はかぶりを振った。
「事故じゃなかった。佐島裕一は、死を望んでいた。自殺だったんだ」
身が強張るのがわかる。
風が吹いて、髪を強くなびかせた。十一月の、秋を連れてくる風だ。
東京ではきっと、もっと冷たい。この場所では涼しい程度だ。
でも妙に、肌寒く感じた。
佐島の淡々とした、けれど痛みの染みこんだ低い声が、確かにこの場の温度を下げていると感じた。
「病院で目を覚ましたときにはこの体になっていた。あの病院に、きっとあの日死んだ人間がいて、俺の魂はそこからきたんだろうな」
私は佐島の話をぼんやり反芻する。
死を強く望んでいたから。
だから彼の蝶は、その魂を黄泉へと運ぼうしたんだろうか。
だから抜け殻になった体に、本当は死ぬはずだった私の魂を入れたんだろうか。
わからない。わかるはずもない。
だけど佐島裕一と森宮和佳には、確かに重なるところがあるかもしれない。
「森宮も知っているだろうが、祖母は不思議な人でな。裕作さんも言っていた通り周囲から不気味がられてもいたが、妙に懐の広い人でもあった。人に見えないものが見えているようだった。入れ替わってしまったと言っても、あの人だけが俺と普通に接してくれた。入れ替わったことには何か意味があるんだと、そう言って信じてくれた」
「ああ……うん。そんな人だった」
あの人には確かに、そういう、受け入れてくれそうな器の大きさを感じた。スピリチュアルだと言ってしまえば悪口のように聞こえるかもしれない。
別に超能力者とか、霊能力者というわけではなかったと思うけれど、少なくとも“感じる力”が普通の人より強そうだった。
「――自意識が薄れるにつれ、夢を見るようになった。アサギマダラに紛れて、本来の魂が運ばれていく夢だ。体が共鳴しているようだった。本当の魂を、呼んでいるようだった」
熱にうなされたように、佐島はしゃべり続ける。
私にもその感覚はある。
この地にきてから、とても強くなっている。
けれど、気づかぬふりをしている。
「その話を祖母にしたら、裕作さんを紹介してくれた。女よりも蝶の尻を嬉々として追いかける酔狂な兄がいると言ってな。それで夏から、裕作さんのマーキングを手伝うことになった。南下していくうちに、少しずつ体の真ん中が、引っ張られるような感覚が強くなった。夢を見る頻度も、上がっていった」
私は黙ったまま、前を行く齢八十過ぎには到底見えない蝶マニアの背中を眺めていた。
佐島ももはや、私が聞いているかどうかはどうでもよさそうだった。
午後になって、少し空が晴れてきた。上空は風が強い。雲が流れると日が差して、真っ青な空が覗く。
私は西の方を見る。空はそっちから晴れてきている。
そちらの方から、強く、この体を呼ぶ力を感じる。
「その感覚を頼りに探した。アサギマダラはここからさらに西に渡る。国内で追い切れるのは、ここが限界だった」
佐島は西の方を指さした。
「そして元の魂を、この地で見つけた。確かに本当の持ち主を見つけた。だけど俺はそこで考えてしまった。彼に体を返したとき、自分はどうなるのだろう……」
――死ぬだろう。
佐島はつぶやいた。
「俺は死の恐怖に負けた。彼に体を返さなかった。佐島裕一は死にたがっていたんだ。だから別に構わないだろう、と……。そして蝶は、そのまま彼の魂を持っていってしまった」
自嘲するような、歪んだ笑みを浮かべて。
「あれも十一月だった。飛び去っていく蝶が見えなくなってから、死ぬほど後悔した」
私は立ち止まる。
死の恐怖。
そうだ。
私もずっと苛まれている。
死ぬのは怖い。
和佳の魂に会ったとき、きっとその魂とこの体は一つに戻る。私の魂は、追い出されて、そしてあの蝶によって黄泉へと運ばれるだろう。
だってもともと、死ぬのは私のはずだったのだから。
「……なぜ後悔したの? 何を後悔したの?」
私は静かに訊いた。佐島が私の方を、ぼやけた目で見た。
「佐島裕一はきっと、本当は生きたかったはずだから」
短く、そしてゆるぎない答えだった。
確信している目だった。
佐島の顔には、珍しく表情らしい表情が浮かんでいた。苦悶にゆがんだ、後悔の色の強い、寂しげな顔をしていた。
「入れ替わったことに意味があるなんてえらそうに言ったが……結局自分が生き延びてしまったことに、他でもない俺自身が、意味を欲しているだけなんだろう。本当の佐島裕一の魂を追い出してまで生きた、その人生に意味があるんだと思いたくて、だからおまえに俺の代わりをさせようとしているのかもしれない」
吐き捨てるような佐島の独白を、私はぼんやり聞いていた。
和佳は今、このまま死んでしまいたいと思っている。日記から垣間見えた彼女の本心は、生きることに苦痛を覚えていた。
誰の目にも映らず、ただロボットのように肉体だけが疲弊し、摩耗していく日々に、嫌気が差していた。
死を望んでいる和佳と生きることを望んでいる私、確かに私が生きる方が、自然なのかもしれない。
それでみんな幸せになれるのかもしれない……ただ一人、和佳を除いては。
そう。その幸せには、和佳だけがいない。
和佳は今でも、生きることが苦痛かもしれない。
和佳が苦しんでいた過去を、どうにかできるわけじゃない。
でも、その日々を変えていくことはできると思う。
だって和佳は、ロボットじゃないのだから。
量産型の、無個性な命なんかじゃない。
和佳の人生を生きることができるのは、和佳だけだ。
そして私は、きっと和佳も心のどこかでは、それをわかっていると思う。
風が吹いた。
呼ばれるように、西の方を向いた。
おへそのあたりが、今まになく強く引っ張られる感じがした。
「……ねえ、佐島」
私はつぶやいた。
「和佳が、海の方にきてる」