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 アサギマダラという蝶は、春から夏にかけて北上し、その後季節が夏から秋へと移ろいゆくにつれ南下していく。

 おそらくは生活に適した温度帯の地域を求めて渡り鳥のように移動しているのだと考えられているが、実際のところ彼の蝶が数千キロもの距離を飛行する真意は、未だ謎に満ちた部分が多い。

 最終的に彼らがどこへ行きつくのか、どうやってそんなにも長い距離を飛んでいるのか、その生態は明らかにされていない――私の調べた限りではそんなところだった。

 話は変わるが、精霊馬というものがある。
 お盆の時期になると、キュウリで作ったり、ナスで作った馬や牛を飾るアレだ。先祖の魂がこちらの世界へやって来て、帰っていくための乗り物とされている。

 では、その年に亡くなった死者の魂は、いったい誰が彼岸へ運んでいくのだろう。
 精霊馬とは別に、蝶々にも死者の使いだとされる伝承は日本各地に点在する。

 ――蝶々って、魂を運ぶ虫なのよ。

 あの人も、確かにそんなことを言っていた。

 ――昔からね。霊の乗り物だなんて呼ばれてたの。アサギマダラが海を超えるのは、ひょっとして海を渡りたい魂を乗せているのかもしれないわね……。

 海を渡りたい魂。

 海とは、ひょっとしてこの世界と、あの世の境界のことを意味するのだろうか。

 事故に遭った日、確かに蝶々を見た。
 淡く光をまとう、不思議な蝶だった。ほんの一瞬だったからはっきりとは覚えていないけれど、薄青い、縁から黒い模様の伸びた、美しい翅をしていた気がする。
 あの蝶が、黄泉からの使いだったのだろうか。

「……まあ、百歩譲ってそれが事実だとして」
 私は頬杖をついたまま、ぶすっと言った。

「何をどう間違えたら、私と和佳が入れ替わるのよ」

「さあ、俺も理屈を知っているわけじゃないからな。ただ、」
 佐島は飛行機の窓に映る青空をぼんやり眺めてつぶやくように言った。

「入れ替わってしまったことには、きっと何か意味があるんだろうと思う」

「意味ね……」

 私は、今でも佐島の話を信じているわけじゃない。
 だけどうっすら、自分の終わりが近いことは自覚している。

 死ぬわけじゃない。ただ、私の魂は森宮和佳の肉体に埋もれて、いずれかすかな自意識を残すのみとなる予感は確かにあった。
 それは大まかに言ってしまえば、大神伊織の死でもあった。

 佐島がかつて別の人間だったと言う話も、心から信じているわけじゃない。
 だけど現に私は入れ替わってしまったわけで、大神伊織としての記憶、自意識も消えつつある。
 言ってみれば、佐島は私の行きつく先なのかもしれなかった。

 鏡を見るたび、この顔が自分でないことだけをはっきりと感じる。だけどかつて自分が誰だったのかは、決して思い出すことはできない。
 それがどれほどの苦痛なのか、恐怖なのか、あるいは悔恨なのか……私には知るよしもない。

 けれど、自分が和佳の友人だったことも忘れて、和佳として生きることは、恐ろしいことのように思えた。

 自意識はどこまでいっても和佳ではないのに、記憶が、顔が、体が、自分は森宮和佳であると証明する。
 いつか、気が狂ってしまいそうな気さえする。

 繰り返し見る夢は、肉体の抵抗なのかもしれない。
 元の魂を返せ、返せと、和佳の肉体が訴えているのかもしれない。

「まあしかし、あんたと二人旅とは」

「気が向かないか」

「テンションは上がらないね」
 私はつっけんどんに言った。

 佐島と一緒でテンションの上げようもなかったけれど、そもそもこの旅自体が陰鬱だった。

 秀に言ったとおり、森宮和佳はあの町に必ず帰るだろう。
 けれどそのとき、その中身があのとき秀と約束した少女なのかどうかは、きっと誰にもわからないのだ。