次の約束の時間まで、公園でぶどうパンを食べながら暇を潰した。
大好きだったぶどうパンは、相変わらずおいしくて、少し塩辛かった。
ゆっくり太陽が昇る。
それでもちょっと寒くて、上着のファスナーを首元まで上げる。
八時頃になると、場所を駅前に移す。開店したばかりの喫茶店で窓際に座り、ブラックのコーヒーを啜った。
私も和佳もブラックでは飲めないはずだけど、今はその苦さが眠気覚ましにちょうどいい。
一時間くらいして、秀がお店にやってきた。
窓際の私を認めて、そのまま歩いてくる。
「悪い。待たせたか?」
「四時間ほど」
「えっ」
「うそうそ。こっちの朝が早かっただけ」
私は眠気を飲み込むように笑って、飲み干したコーヒーカップを下げ台へ片付けた。
二人で店を出て、あまり人気のない駅南側の銀杏並木をゆっくり歩いた。
樹上の葉はぽつぽつ黄色に染まって、もうすっかり秋だった。散り始めた葉が、木枯らしに吹かれてかさかさと転がっていく。
「その荷物は?」
大きなリュックサックを指差して、秀が訊いた。
「これから旅行なの」
「え、聞いてないんだけど……」
「うん。言ってない」
私が言うと、秀が眉根に皺を寄せた。
「一人?」
「ううん。友だちと一緒」
「クラスメイト?」
「うん」
「そっか。ならいいけど……」
また心配されているな、と思う。
私もきっと、和佳がいきなり旅行に行くって言い出したら、心配するかもしれない。
しっかり者で、何事もそつなくこなす和佳だけど、誰かと旅行に行くというのはうまく想像できない。一人でどこかへ行ってしまいそうに見えるのかもしれない。
「どこ行くんだ?」
「沖縄」
「今の時期に?」
「妹にも言われたけどさ、沖縄は十一月はオフシーズンだからわりと狙い目なんだよ。海入るのはきついけど」
「そうなのか? でも台風とかさ」
「例年十一月には落ち着いてるって。大丈夫だよ」
「うん……」
あまりに深刻な顔をするものだから、笑ってしまった。
「大丈夫だって。ほんの二泊三日だし。すぐ帰ってくるよ」
「じゃあ、今日はなんの用なんだ?」
秀が疑り深い目を向けてきた。
私は立ち止まった。あまり人に聞かれたい話でもなくて、周囲の様子をうかがう。車は通るけれど、通行人は少ないし、遠い。大丈夫。
「あのね、ちゃんと言っておこうと思って」
私は秀の目を見た。
ああ、やっぱりどきどきするな。
なんの意味もないって、わかっていても。
きちんと言うのは、これが最初で最後だし。
伝わらないってわかっていても、心臓は激しく脈打つ。こんなに涼しいのに、手のひらに汗が滲む。
「私、秀が好きだよ」
一言で言い切ると、秀が目を白黒させた。
「……なんだよ、いきなり」
うん。まあ、そうなるね。
「ううん、別に。ただ、今まで言ったことなかったな、って思っただけ」
私は努めてクールに言う。照れ隠し半分、和佳を意識したのが半分。
「そうだっけ」
「たぶんね」
確信はある。事実がどうかは知らないけれど。
和佳はきっと、秀にちゃんと好きだって言ったことはなかったと思う。本当に、心から好きだったかどうかもわからない。
それに今、私が伝えたのは和佳の気持ちじゃない。
大神伊織としての、気持ちだ。
それを言ったのは、確かに初めてだった。だから秀が知るよしがないとしても、それは嘘ではない。
私が、秀に自分の気持ちを伝えたのは、これが最初で、そして最後だ。
秀は照れるかと思ったけど、真剣な目で私を見返していた。
照れてもいそうだけど、困惑の割合の方が大きそうだと思った。どうして今。なぜこのタイミング。色々疑っていそうな目。確かに不自然だ。
だけど私にとっては、今しかなかったんだよ。
たとえその目に、私が映らないとしても。
「……じゃあ、もう行くね」
私がくるりと踵を返すと、その背中を掴むように秀の声がした。
「おい和佳」
振り向くと、眉間に皺を寄せている。目元に力を入れて、私を睨んでいる。
「帰ってくるよな?」
「当たり前じゃん。なんで?」
私は笑って訊き返す。秀が目をそらす。
「いや……なんか、遺言みたいに聞こえたから」
「考えすぎだよ」
そう、考えすぎだ。ちゃんと帰りの飛行機だって押さえてある。
森宮和佳は、間違いなくこの町に帰ってくる。
そんなの、当たり前のことだ。
「……そう、だよな」
秀はつぶやきながら顔を上げた。
私は秀の顔を見返す。
距離が近かった。静かだった。周囲には人気がなかった。なんとなく、そういう雰囲気だった。
秀が少し顔を近づけてきたのが分かった。私は一瞬目を閉じる。
そうしたい気持ちが強くこみ上げて、だけど直前で私は目を開けて手で自分の唇を隠した。
「……帰ってきてからにする」
未遂に終わった秀が、顔をしかめた。初めてだったのかもしれない。
「なんだよ、それ」
「これなら、ちゃんと帰ってくるって思えるでしょ」
私が笑うと、秀もつられたように苦笑いする。理屈はともかく、納得はしてくれたようだ。
「気をつけて行ってこいよ」
秀が一歩引いて、手を振った。
「うん。ありがと」
私も手を振りかえして、前に向き直った。
それから何度か振り返っても、私が見えなくなるまで秀はずっと手を振ってくれていた。
本当に、和佳のことが好きなんだなと、胸が痛みながらも嬉しく思った。
秀が見えなくなってから、私は小さくつぶやく。
「……さよなら」
大好きだったぶどうパンは、相変わらずおいしくて、少し塩辛かった。
ゆっくり太陽が昇る。
それでもちょっと寒くて、上着のファスナーを首元まで上げる。
八時頃になると、場所を駅前に移す。開店したばかりの喫茶店で窓際に座り、ブラックのコーヒーを啜った。
私も和佳もブラックでは飲めないはずだけど、今はその苦さが眠気覚ましにちょうどいい。
一時間くらいして、秀がお店にやってきた。
窓際の私を認めて、そのまま歩いてくる。
「悪い。待たせたか?」
「四時間ほど」
「えっ」
「うそうそ。こっちの朝が早かっただけ」
私は眠気を飲み込むように笑って、飲み干したコーヒーカップを下げ台へ片付けた。
二人で店を出て、あまり人気のない駅南側の銀杏並木をゆっくり歩いた。
樹上の葉はぽつぽつ黄色に染まって、もうすっかり秋だった。散り始めた葉が、木枯らしに吹かれてかさかさと転がっていく。
「その荷物は?」
大きなリュックサックを指差して、秀が訊いた。
「これから旅行なの」
「え、聞いてないんだけど……」
「うん。言ってない」
私が言うと、秀が眉根に皺を寄せた。
「一人?」
「ううん。友だちと一緒」
「クラスメイト?」
「うん」
「そっか。ならいいけど……」
また心配されているな、と思う。
私もきっと、和佳がいきなり旅行に行くって言い出したら、心配するかもしれない。
しっかり者で、何事もそつなくこなす和佳だけど、誰かと旅行に行くというのはうまく想像できない。一人でどこかへ行ってしまいそうに見えるのかもしれない。
「どこ行くんだ?」
「沖縄」
「今の時期に?」
「妹にも言われたけどさ、沖縄は十一月はオフシーズンだからわりと狙い目なんだよ。海入るのはきついけど」
「そうなのか? でも台風とかさ」
「例年十一月には落ち着いてるって。大丈夫だよ」
「うん……」
あまりに深刻な顔をするものだから、笑ってしまった。
「大丈夫だって。ほんの二泊三日だし。すぐ帰ってくるよ」
「じゃあ、今日はなんの用なんだ?」
秀が疑り深い目を向けてきた。
私は立ち止まった。あまり人に聞かれたい話でもなくて、周囲の様子をうかがう。車は通るけれど、通行人は少ないし、遠い。大丈夫。
「あのね、ちゃんと言っておこうと思って」
私は秀の目を見た。
ああ、やっぱりどきどきするな。
なんの意味もないって、わかっていても。
きちんと言うのは、これが最初で最後だし。
伝わらないってわかっていても、心臓は激しく脈打つ。こんなに涼しいのに、手のひらに汗が滲む。
「私、秀が好きだよ」
一言で言い切ると、秀が目を白黒させた。
「……なんだよ、いきなり」
うん。まあ、そうなるね。
「ううん、別に。ただ、今まで言ったことなかったな、って思っただけ」
私は努めてクールに言う。照れ隠し半分、和佳を意識したのが半分。
「そうだっけ」
「たぶんね」
確信はある。事実がどうかは知らないけれど。
和佳はきっと、秀にちゃんと好きだって言ったことはなかったと思う。本当に、心から好きだったかどうかもわからない。
それに今、私が伝えたのは和佳の気持ちじゃない。
大神伊織としての、気持ちだ。
それを言ったのは、確かに初めてだった。だから秀が知るよしがないとしても、それは嘘ではない。
私が、秀に自分の気持ちを伝えたのは、これが最初で、そして最後だ。
秀は照れるかと思ったけど、真剣な目で私を見返していた。
照れてもいそうだけど、困惑の割合の方が大きそうだと思った。どうして今。なぜこのタイミング。色々疑っていそうな目。確かに不自然だ。
だけど私にとっては、今しかなかったんだよ。
たとえその目に、私が映らないとしても。
「……じゃあ、もう行くね」
私がくるりと踵を返すと、その背中を掴むように秀の声がした。
「おい和佳」
振り向くと、眉間に皺を寄せている。目元に力を入れて、私を睨んでいる。
「帰ってくるよな?」
「当たり前じゃん。なんで?」
私は笑って訊き返す。秀が目をそらす。
「いや……なんか、遺言みたいに聞こえたから」
「考えすぎだよ」
そう、考えすぎだ。ちゃんと帰りの飛行機だって押さえてある。
森宮和佳は、間違いなくこの町に帰ってくる。
そんなの、当たり前のことだ。
「……そう、だよな」
秀はつぶやきながら顔を上げた。
私は秀の顔を見返す。
距離が近かった。静かだった。周囲には人気がなかった。なんとなく、そういう雰囲気だった。
秀が少し顔を近づけてきたのが分かった。私は一瞬目を閉じる。
そうしたい気持ちが強くこみ上げて、だけど直前で私は目を開けて手で自分の唇を隠した。
「……帰ってきてからにする」
未遂に終わった秀が、顔をしかめた。初めてだったのかもしれない。
「なんだよ、それ」
「これなら、ちゃんと帰ってくるって思えるでしょ」
私が笑うと、秀もつられたように苦笑いする。理屈はともかく、納得はしてくれたようだ。
「気をつけて行ってこいよ」
秀が一歩引いて、手を振った。
「うん。ありがと」
私も手を振りかえして、前に向き直った。
それから何度か振り返っても、私が見えなくなるまで秀はずっと手を振ってくれていた。
本当に、和佳のことが好きなんだなと、胸が痛みながらも嬉しく思った。
秀が見えなくなってから、私は小さくつぶやく。
「……さよなら」