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月曜日に病院にいって、特に体に異常はなかった。
先生に、入れ替わりのことを話そうか少し悩んで、やめた。結果は分かりきっている。余計で無駄な検査が一つ増えるだけだ。
家に帰って、由佳ちゃんに問題なかったことをメッセージで伝えて、掃除をしたり、片付けをしたり、洗濯をした。一通り家事が片付くとやることがなくなって、リビングのソファに力なく腰掛けた。
どこかでお昼のチャイムが鳴っている。テーブルの上には、朝由佳ちゃんが作ってくれたお弁当が置いてあるけれど、食指が動かない。何もしないまま、時間だけがのろのろ過ぎていく。
今までなら、月曜日に学校が休みだったら喜び勇んでまず昼まで寝て、それから午後はだらだらとゲームしたり、漫画読んだり、ときには出かけたりもして、夜になればあっという間に過ぎていく一日に絶望していた。
今はただただ、時間がのろい。やることが、ない。あるはずだけど、やることに意味を感じない。
かといってじっとしていれば、無限に考え事をしてしまう。
このまま由佳ちゃんが帰ってくるまで家にいたらマイナス思考に脳の随まで毒されそうで、特に行くあてもなかったけれど家を出た。
よく晴れていた。九月まで雨が多かったのが嘘のように、今年の秋は晴天が多い。紅葉にはまだ少し早い公園の銀杏が午後の風に揺れている。夏の名残のようなその緑色を見ていると、少し気持ちが落ち着く気がする。
買い物でもするか、と駅の方へ向かった。和佳になってから、あまりお金を使っていない。食費とか、家の買い物は別として、服を買ったり、本を買ったりはしていなかった。秀と出かけた以外には特に交際費も使っていない。
別に、いいじゃない。
私が和佳なんだから。
そう思う。そう、言い聞かせる。
自分は和佳だ。私が和佳だ。だから和佳のものをどう使ったって、何もおかしいことじゃない。
いつのまにか、キャッシュカードの暗証番号が思い出せるようになっている。銀行のATMに寄っていくらかの現金を引き出すと、そのまま財布に皺が寄るほど強く握りしめて、駅前のお店を順番に覗いていった。
古着屋。本屋。アクセサリーにスポーツショップ。欲しいものなんて、特にないけれど。
なんでもいい。大神伊織らしいことをしたいと思う。私が私であることを、確かめたい。誰かに証明してほしい。いっそのこと石碑に刻んで、置いておいてくれればそれでもいい。
私が大神伊織であることを、肯定してほしい。
スポーツショップで、スパイクを眺めた。もう陸上はやっていない。でも、いっそのこと陸上部に入るのもありか。水泳部なんか辞めてしまえばいい。別に続ける理由もない。
私は泳ぐより走る方が好きだ。泳いでも、風は感じられない。水流は、風の代わりにはならない。浮いてしまうから、重力も感じにくい。でも、人は重力があるから走れる。大地を蹴ることができる。うちの陸上部の顧問は物理の先生なので、その辺をやけに詳しく教えてくれたのが妙に印象に残っている。
「……和佳先輩?」
突然横から声をかけられ、私はゆっくりと声のした方を向いた。
おとなしそうな顔の女の子が立っていた。髪は短めで、肌は少し日に焼けている。私服姿で、痛めているのか足を少し引きずっていた。
一度も会ったことはないはずなのに、その性格も、彼女がどんなスイマーなのかも、そして彼女の名前も、私は知っていた。
彼女が中学時代、人を寄せつけず黙々と泳いでいた和佳を慕っていた唯一の後輩で、和佳もぎこちないなりに彼女とだけは交流を持っていたことさえも思い出せる。
「お久しぶりです」
「……うん。久しぶり、沙織」
沙織ちゃんの顔から笑みが薄れ、代わりに口の端が引き攣った。
和佳は彼女を、名前では呼ばなかったのだ。比嘉さん、と呼んでいた。
沖縄出身の彼女は、微妙になまりがあって、周囲からそれをよくからかわれていたけれど、和佳だけはからかわずにありのままの彼女を見ていた。
「珍しいですね。学校お休みですか?」
「文化祭の代休で。そういうそっちは……捻挫?」
「はい、朝学校行く前に家の階段でやっちゃって、今病院の帰りです。ついでだから、ちょっとスポーツショップ覗くくらいはいいかなーって」
サボりです、と笑う沙織ちゃんに、私はうまく笑い返せない。
「今さらですけど、インターハイ残念でしたね……本当に惜しかったです。新人戦はもう終わったんですか?」
「いや、出てない」
「あれ、九月じゃなかったでしたっけ?」
「夏休みに交通事故に遭ったから、この夏は全然泳げてないの」
私が淡々と事実を伝えると、沙織ちゃんの顔がまた強張った。
「えっ、聞いてないです。大丈夫だったんですか?」
「まあ……見ての通り」
私は苦笑いする。こういうときばかり、うまく笑えている気がする。
「じゃあ、今年はもう大会ないんですかね……そしたら来年のインハイですか? 私も来年高校生だし、地区予選とかで一緒に泳げますかね?」
にっこり笑うその顔が、何も考えずに来年の話をできるその呑気さが、憎くて、妬ましくて、私は自嘲気味に笑った。
「私は、出ないかな」
「えっ、なんでですか」
「もう、水泳辞めようかと思って」
沙織ちゃんの目が見開かれる。ずきりと、確かに胸が痛むのを覚えつつ、口はとまらない。
「怪我してから、なんか思うように泳げないし。私より早い人なんか、いくらでもいるし。家のことも忙しいし」
沙織ちゃんの顔が困惑気味に曇った。
「家、ですか?」
「ああ、言ってなかったっけ。私の家、母親が死んでるから、家事とかやらなきゃいけなくてさ。父親も仕事人間で全然家のことやってくれないし。あんまり妹にばっかり負担かけられないから」
ぺらぺらと不幸自慢をする和佳は、きっと彼女の目には別人のように映ったことだろう。
「……本気で言っているんですか?」
「何が?」
「水泳辞めちゃうって」
私は目をそらした。
記憶の中の和佳と彼女の姿は、かつての私の姿に重なる。私にも、あんなふうに一緒に一生懸命に走ってくれる友だちがいたような気がする。もう、名前も顔も、思い出せないけれど。
和佳にとってもきっと、水泳は特別なものだ。自分の意見をあまり言わず、主義主張も薄い彼女の、唯一の個性といってもいいものだ。
……だった、と言うべきだろう。私にとっての水泳は、どうあがいてもそれだけのものには昇華できない。私にとっての陸上と同じだ。代わりになんかならないんだ。
「そう、ですか」
見るからにしゅんと萎んでしまった沙織ちゃんの頭に、私はぽんと手を乗せた。
「まあ、私の分まで頑張ってよ」
彼女は私の手を乱暴に押しのけて怖い顔をした。睨まれて、その目が赤らんでいるのに気づいてはっとした。
私、いったい何をしているんだろう。和佳の後輩に、何を言っているんだろう。
「……こんなの、私の知ってる先輩じゃない」
沙織ちゃんは吐き捨てるようにつぶやいて、くるっと踵を返すと、痛々しく足を引きずりながら去っていった。
残された私は、自分の胸が、心臓が、今にも張り裂けそうに痛むのを確かに感じた。だけどそれだって、私の心なのかどうかも、もう定かではない。