*

 校舎内には、昼間ほどの活気はないけれど、まだ人の気配がする。
 文化祭の撤収作業が行われているのだろう。窓の外を通る生徒の声が聞こえる。

 バラしたテントのパイプとパイプがぶつかる金属音、台車の走るガタゴトいう音、せーのっとかけ声がするのは重たいものでも運んでいるのだろうか。

 それらの音や気配がすべて、別世界のように感じた。保健室に佐島と二人きり。まるでそれだけで、世界が完結しているかのように。

「渡る?」
 意味がわからずに、私はやっとのことで訊き返した。掠れた声だったが、閉め切られた保健室には妙に大きく響く。

「清水裕子を知っているだろう」
 佐島が淡々と口にした名前には、確かに覚えがあった。三ヶ月ほど前、病院で出会った不思議な老婆のことだ。けれどなぜ、佐島がその名前を知っているのだろう。

 佐島は黙ったまま、私のベッド脇を指差す。そこにはアサギマダラの髪留めが置いてあり、私は自分の髪がほどかれていることに気がつく。夕日を受けて、浅葱色と混ざって紫色に染まった髪留めは、光の加減で羽ばたいているようにも見えた。

「それは一点物なんだ。彫金師だった祖父が作った。いつも見ていたからわかる。最初森宮がつけてるのを見たときは、驚いた」

「……は?」

「祖母に最後に会ったひと月、病院で話し相手になってくれる女の子がいるんだとよく話してくれた。まさかクラスメイトだったとは、思わなかったけどな」

 その言葉で、なんとか頭の中でパズルのピースが繋がった気がした。
 所々主語が抜けていてわかりづらいけれど、キーワードは祖父。祖母。そして、最後のひと月に会っている。

「佐島は清水さんの……?」

 佐島は真顔のまま、深くうなずいて言う。
「孫だよ。清水は母の旧姓だ」

 私は息を吞んだ。

 あの人に、孫がいた。
 同じ学校で、同じ学年。しかも、同じ部活の男子高校生。
 あまりにも、重なりすぎている。ただの偶然だろうか。

「偶然だよ。たぶんそこまではな」

 意味深なことを言って佐島は、自分の言葉が真実であることを証明するためか、清水さんが私のことをどんなふうに語っていたのかを教えてくれた。

 交通事故に遭った少女。右腕骨折。よく窓の外を見ている。きっかけは大雨の日、窓の上を這う虫だった。学校に行きたくないと言うくせに、外ばかり見ていて、まるで籠の鳥のようだった、と。

 その言い方は、確かに清水さんを彷彿とさせた。そして、清水さんと私しか知り得ない事実を言い当てていた。ガラスの内側と外側を這っていた虫の話なんて、私とあの人以外に知りようがないはずだ。

 佐島は本当に、清水さんの孫なのだと、認めざるを得なかった。

「祖母が言うには、その女子高生が『友だちの体に入ってしまった』なんて言うそうだ」

 私の体が友だちの体なんだということは、そういえば確かに清水さんには話した覚えがある。佐島はそれを祖母から聞いたのだろう。
 今となっては迂闊だったなと思いつつ、私は曖昧に笑って否定しようとする。

「あれはなんていうか、事故の後で頭が混乱してて……」

驚いたよ。私以外に、(・・・・・・・・・・)そんな人間がいるなん(・・・・・・・・・・)て思わなかった(・・・・・・・)

 確かに佐島の声だった。
 佐島ではない誰かがしゃべったように聞こえた。

 自分の顔に貼り付けた作り笑いが、ゆっくりと溶けて、肌の上を滑り落ちていくのがわかった。

「……なんて?」

「俺以外に、そんな人間がいるとは思わなかった」
 佐島は静かに言った。

 私は佐島をまじまじと見つめた。
 不思議な目だ。何色なのか、よくわからない。真っ黒ではないと思う。ああ、でもそういえば、清水さんの目も青色が少し交じっていたっけ。

「……意味、わかんない」
 私は喘ぐ。

 俺以外に、そんな人間がいるとは思わなかった。
 その言い方は、まるで……。

「俺も昔入れ替わってる。だからそういう意味じゃ、俺は佐島裕一という人間じゃない」
「うそよ!」
 私は布団をはねのけて起き上がり、佐島と距離を取った。

 わからない。訳が分からない。怖い。なんでこいつは、こんな話を平然とするのだろう。

「人と人が入れ替わるなんて、そんな馬鹿な話そうそうあるわけない!」
 自分のことを棚に上げて、私は金切り声で喚く。

 佐島は表情を崩さない。
「ないだろうな。だからここまでは、偶然だ」

「ここまで? この先は必然だとでも?」
 私は嘲笑する。

 もうすでに頭はぐちゃぐちゃで、よくわからなかった。どうすればいいのかわからなくて、ただどうやって逃げようかだけ考えていた。

「俺がおまえに会ったのは必然だ。俺だけが、この先おまえがどうなるのかを知っている。俺はそれを、おまえに伝えにきた」

「うるさい! そんなの聞きたくもない!」
 私は叫ぶなり、佐島を突き飛ばして保健室を駆けた。ドアまでの距離はほんの五メートル。ちょっと走ればすぐにたどり着く。息を切らしてドアの引き手に手をかけ、思いっきり引く、

「話を聞け、大神伊織」
 魔法の呪文のようであり、呪いの詞のようでもあった。

 私はへなへなと力を失って、振り向いた。
 佐島はこっちを見ている。
 私を見ている。
 その瞳には、森宮和佳の体に埋もれている、大神伊織の魂が見えている? そんな馬鹿な。

「元の記憶を無くししかけているだろ。前にも言ったが、その記憶はいずれ消える。そうなってからじゃ遅いんだ」

 私は額を押さえた。
 ずきり、と痛む。
 思い出せないこと。たくさんある気がするけれど、何の記憶が消えてしまったのかなんて私にはわからない。だって本当に消えてしまったのなら、それを思い出すことなんてできない。

「自分が本当はこの体じゃなかったという実感だけが、ずっと残り続けるんだ。おまえが思っているよりもずっと、それは苦痛だぞ」
 佐島の顔に、その瞳に、いつになく感情がこもっている。泳いでいるときだってこんな顔はしない。

「今しかないんだ。今の時期ならあの蝶の場所がわかる。今なら追える」

 私の中で、何かが爆発する。
「蝶がなんだっていうのよ! 蝶々を追いかけたいなら一人で追えばいいじゃない。気持ち悪いことを言って私を巻き込まないでよ!」

 逃げようとした瞬間、ぐいっと手首を捕まれて、引き戻された。振り向くと、佐島の必死な顔がそこにあった。

「ずっと、入れ替わった意味を探していた。俺はもう、かつて自分が誰だったのかも思い出せない。だけど今の俺にすべきことがあるとするなら、それは森宮和佳を救ってやることなんだ。それだけが、ずっと忘れられない。自分が誰であるかを忘れてしまっても、この気持ちだけがずっと消えない……」

 きっと俺と同じ人間を、これ以上生み出さないために、元の体の持ち主がそう願っってる。

 佐島はそう言って、その顔に奇妙な笑みを浮かべた。
 必死で、苦しそうで、切実な思いが滲んだ、とても高校生とは思えない疲れの刻まれた微笑だった。