雨がだんだん強くなってきているようだったので、私たちはほとんどとんぼ返りで霊園を後にした。
「誰かさん、雨女だったっけ」
秀が懐かしそうにつぶやいている。
意外だって言われるけれど、私、結構な雨女なのだ。陸上部の試合とか、先輩に「応援来んな」と言わしめたほど、大事な日ほど雨を降らせる。
中学入ってからだろうか、試合の前日に、よくポストにてるてる坊主が入れられていることがあった。いびつな笑顔が書いてあって、それで秀が作ったのだとわかった。
今思えば雨女の私をからかっていたんだろうけど、あの頃は藁にも縋る気持ちでそれをずらっと部屋のカーテンレールにつるしていたものだ。
いつしか大量に溜まったてるてる坊主は高校に上がるときに全部捨ててしまったけれど、それからもたまに、思い出したように雨の日にてるてる坊主が入っていることがあった。
「最近、調子どうだ?」
秀の顔が急にこっちを向いて、私は反射的に前に向き直った。
「どうって、別に、全然……」
行きはちっとも話さなかったから、少し油断していた。和佳が使わなさそうな言葉をとっさに使ってしまう。
「全然?」
「ああいや、その、普通だよ。全然、普通!」
私は足下を凝視しながら大きな声を出す。雨粒が水たまりに跳ねて、無数の波紋が広がって、干渉して、水面を揺らがすのをじっと見つめる。
普通、じゃない。全然、普通じゃない。なぜか今、川村さんのことを思い出す。胸がちくちくと痛む。
「信号赤だぞ」
秀に言われて、私は立ち止まった。前を全然見ていなかった。確かに赤信号だ。少し遅れて、タクシーが水しぶきを散らしながら走り去っていく。
足下の水たまりに、和佳の顔が映っている。
私の知らない顔をしている。
眉が下がっている。口元が歪んでいる。目が泳いでいる。感情が出過ぎだと思った。全然、私の知っている和佳の顔じゃない。
じわじわと、何かが胸を焦がす。
「緑になったぞ」
秀に言われるがまま、歩き出す。足下だけを見て歩く。ぎゅぅと傘の柄を強く握り過ぎたせいで、第二関節が白くなっているのがわかる。
「なんか俺の目避けてねえ?」
いきなり言われて、私は慌てて秀の方を向いた。眉尻を落とした、あまり見ない顔だった。
「そんなことないよ」
ついつい苦笑いを浮かべてしまって、慌てて引っ込める。和佳はこんな笑い方しない。
「そんなこと、ない」
「まだ怒ってんのか?」
訊かれて、私はきょとんとする。それからふっと、思い出す。和佳と秀って、喧嘩してたんだっけ。喧嘩っていうか、ちょっとしたすれ違いみたいな。
「怒ってないよ、全然」
私は言った。嘘ではない。私は和佳ではないというだけだけど、それを言うこともできない。
「本当に?」と秀。
「本当本当」と私。
「怪しいなァ」
「しつっこいな、本当だってば!」
私はムキになって言った。
秀が一瞬目を丸くして、それからぷっと笑い出した。
「なんか今日の和佳、あいつみたいな言い方するのな」
私はぎくりとして立ち止まった。秀は気づかず歩いていってしまい、慌てて後を追いかけた。
――あいつ。
私のことを言ったんだろうか。つまり、大神伊織のことを?
確かにそうかもしれない。秀と言い合いになって、私がムキになると最後はだいたい、うるっさいとかしつっこいとか、そういうことをよく言っていた気がする。
心臓がどきどきする。
秀が、伊織みたいな和佳に笑ったことにどきどきする。
「……秀ってさ」
気がつくと、その問いは口から飛び出していた。
「伊織のこと、どう思ってたの」
秀が立ち止まって、振り向かずに訊いた。
「なんで?」
秀がどんな顔をしているのかは見えない。私が今どんな顔をしているのか、秀に見られることもない。それでも私は傘を深く下ろして、身を守るように身構える。
「別に……ただ、私より、付き合い長かったし」
ビニール傘の向こうで、秀がまた歩き出したのが見えた。
「和佳はどう思ってた?」
雨は次々降り注ぐ。大粒の水滴がアスファルトに跳ねて、弾けて、無数の水しぶきになってまた跳ねる。そうして少しずつ、水たまりになっていく。ぼやけた秀の背中がゆっくり遠ざかる。ソックスがじんわりと湿って冷たい。気持ち悪い。
「……明るくて、馬鹿で、空気が読めない」
ぼそりとそう言うと、秀が笑った。
「ひでえな」
「秀はどう思ってたのよ」
私は少しいらいらしながら言い返す。なぜ、いらいらするのだろう。
「お節介。要領悪い。頭より先に手が動く」
秀は指折りそんなことを言った。全部悪口じゃないか。
「……そんで、いつでも自分の気持ちに正直だ」
最後にそんなことを付け加える。それも、きっと悪口だと思う。
「そうかな」
自分の声がやや尖った。
「そうだろ」
いつでも心のままに動いてるように見えた、羨ましかった、と秀は寂しそうにつぶやいた。
そんなことはなかった。心のままになんか、動けていなかった。今だってそうだ。私は私の心を殺して生きている。
「和佳はちょっと、見習った方がいいよな」
秀がそんなことを言ったので、私は顔を上げた。
「どういう意味?」
「もっと自分の思ったようにさ、自由に生きていいと思う。和佳はいつだって、自分を殺して生きているみたいに見える」
私は言い返せなかった。
それは確かに、私が和佳として生きる日々の中で、和佳に対して抱いた感想と、綺麗に重なっていたからだ。
「誰かさん、雨女だったっけ」
秀が懐かしそうにつぶやいている。
意外だって言われるけれど、私、結構な雨女なのだ。陸上部の試合とか、先輩に「応援来んな」と言わしめたほど、大事な日ほど雨を降らせる。
中学入ってからだろうか、試合の前日に、よくポストにてるてる坊主が入れられていることがあった。いびつな笑顔が書いてあって、それで秀が作ったのだとわかった。
今思えば雨女の私をからかっていたんだろうけど、あの頃は藁にも縋る気持ちでそれをずらっと部屋のカーテンレールにつるしていたものだ。
いつしか大量に溜まったてるてる坊主は高校に上がるときに全部捨ててしまったけれど、それからもたまに、思い出したように雨の日にてるてる坊主が入っていることがあった。
「最近、調子どうだ?」
秀の顔が急にこっちを向いて、私は反射的に前に向き直った。
「どうって、別に、全然……」
行きはちっとも話さなかったから、少し油断していた。和佳が使わなさそうな言葉をとっさに使ってしまう。
「全然?」
「ああいや、その、普通だよ。全然、普通!」
私は足下を凝視しながら大きな声を出す。雨粒が水たまりに跳ねて、無数の波紋が広がって、干渉して、水面を揺らがすのをじっと見つめる。
普通、じゃない。全然、普通じゃない。なぜか今、川村さんのことを思い出す。胸がちくちくと痛む。
「信号赤だぞ」
秀に言われて、私は立ち止まった。前を全然見ていなかった。確かに赤信号だ。少し遅れて、タクシーが水しぶきを散らしながら走り去っていく。
足下の水たまりに、和佳の顔が映っている。
私の知らない顔をしている。
眉が下がっている。口元が歪んでいる。目が泳いでいる。感情が出過ぎだと思った。全然、私の知っている和佳の顔じゃない。
じわじわと、何かが胸を焦がす。
「緑になったぞ」
秀に言われるがまま、歩き出す。足下だけを見て歩く。ぎゅぅと傘の柄を強く握り過ぎたせいで、第二関節が白くなっているのがわかる。
「なんか俺の目避けてねえ?」
いきなり言われて、私は慌てて秀の方を向いた。眉尻を落とした、あまり見ない顔だった。
「そんなことないよ」
ついつい苦笑いを浮かべてしまって、慌てて引っ込める。和佳はこんな笑い方しない。
「そんなこと、ない」
「まだ怒ってんのか?」
訊かれて、私はきょとんとする。それからふっと、思い出す。和佳と秀って、喧嘩してたんだっけ。喧嘩っていうか、ちょっとしたすれ違いみたいな。
「怒ってないよ、全然」
私は言った。嘘ではない。私は和佳ではないというだけだけど、それを言うこともできない。
「本当に?」と秀。
「本当本当」と私。
「怪しいなァ」
「しつっこいな、本当だってば!」
私はムキになって言った。
秀が一瞬目を丸くして、それからぷっと笑い出した。
「なんか今日の和佳、あいつみたいな言い方するのな」
私はぎくりとして立ち止まった。秀は気づかず歩いていってしまい、慌てて後を追いかけた。
――あいつ。
私のことを言ったんだろうか。つまり、大神伊織のことを?
確かにそうかもしれない。秀と言い合いになって、私がムキになると最後はだいたい、うるっさいとかしつっこいとか、そういうことをよく言っていた気がする。
心臓がどきどきする。
秀が、伊織みたいな和佳に笑ったことにどきどきする。
「……秀ってさ」
気がつくと、その問いは口から飛び出していた。
「伊織のこと、どう思ってたの」
秀が立ち止まって、振り向かずに訊いた。
「なんで?」
秀がどんな顔をしているのかは見えない。私が今どんな顔をしているのか、秀に見られることもない。それでも私は傘を深く下ろして、身を守るように身構える。
「別に……ただ、私より、付き合い長かったし」
ビニール傘の向こうで、秀がまた歩き出したのが見えた。
「和佳はどう思ってた?」
雨は次々降り注ぐ。大粒の水滴がアスファルトに跳ねて、弾けて、無数の水しぶきになってまた跳ねる。そうして少しずつ、水たまりになっていく。ぼやけた秀の背中がゆっくり遠ざかる。ソックスがじんわりと湿って冷たい。気持ち悪い。
「……明るくて、馬鹿で、空気が読めない」
ぼそりとそう言うと、秀が笑った。
「ひでえな」
「秀はどう思ってたのよ」
私は少しいらいらしながら言い返す。なぜ、いらいらするのだろう。
「お節介。要領悪い。頭より先に手が動く」
秀は指折りそんなことを言った。全部悪口じゃないか。
「……そんで、いつでも自分の気持ちに正直だ」
最後にそんなことを付け加える。それも、きっと悪口だと思う。
「そうかな」
自分の声がやや尖った。
「そうだろ」
いつでも心のままに動いてるように見えた、羨ましかった、と秀は寂しそうにつぶやいた。
そんなことはなかった。心のままになんか、動けていなかった。今だってそうだ。私は私の心を殺して生きている。
「和佳はちょっと、見習った方がいいよな」
秀がそんなことを言ったので、私は顔を上げた。
「どういう意味?」
「もっと自分の思ったようにさ、自由に生きていいと思う。和佳はいつだって、自分を殺して生きているみたいに見える」
私は言い返せなかった。
それは確かに、私が和佳として生きる日々の中で、和佳に対して抱いた感想と、綺麗に重なっていたからだ。