うっかり「お邪魔します」と言いかけて、ぎこちなく「ただいま」に言い直した。
 
 すっきりした玄関を上がり、廊下を抜けてリビングへ。
 
 白い廊下には飾りもないが、汚れもほとんどない。扉はすべてきちんと閉められている。リビングに入ると、由佳ちゃんが「あちー」と言いながらエアコンのスイッチを入れる。

「麦茶飲む?」

「ううん、大丈夫」
 
 私はゆっくりと部屋を見渡す。
 
 リビングはなんだか懐かしい匂いがする。四人がけのテーブルがあって、一画にノートパソコンやら書類やらがうずたかく積まれていた。そこだけが雑多で、後は綺麗に片付いている。妹と自分の他には誰もいない。

「素麺ゆでるね」

 由佳ちゃんが言った。

「三把でいいよね」

「あのさ」

 私はずっと気になっていたことを訊ねた。

「お母さんは?」

 由佳ちゃんが手を止めて、また眉を曲げて私を見返した。

「何言ってんの? 後ろにいるじゃん」

 私はぐさりとした。
 ぐさり、と何かが確かに心臓に突き刺さってきたような感じがした。

 ふっと、鼻孔をくすぐる懐かしい匂いの正体に私は気がついた。お線香だ。「後ろ」から漂ってくる。

 ぱっと振り向くと、仏壇があった。女性の遺影が置かれていた。

「いない……」

 私は喘ぐようにつぶやいた。由佳ちゃんが手を止めて私のところまで歩いてきた。

「本当に大丈夫? 休んだ方がいいんじゃない?」

 見上げる顔は少し強張っている。心配されている。

「いや……ウン」

 私はそれ以上彼女の顔を見られなかった。

 和佳の家には母親がいない。

 そんなこと、今まで一度も聞いたことがなかった。和佳は私にも、秀にも、家の事情を話したことはなかった。

 だから私たちは、何も知らないまま、ずっと呑気に和佳と接してきた。秀の方は、ひょっとすると、何か勘づいていたのかもしれないけれど。

 今さらのように気がつく。
 
 私、和佳のこと、本当に何も知らない。