どこかで人が泣いている。
そう思って目を覚ましたはずなのに、瞼を開けてみるとそんな声は聞こえなかった。
少し冷たい風が左頬を撫でているのを感じる。
窓が開いているのかと思ったけれど、そっちに冷房があるようで、室内機が低くエンジンをふかすみたいな音がする。
左側を向くと、カーテンは開いていた。窓の向こうの空は茜色に染まって、逆行を受けた背の高いビルが黒く濃い影になっている。
どこだろう、と思った。
視線を前に戻すと、知らない天井だった。古びた蛍光灯が二本、どちらも端っこが黒ずんで微妙に明滅している。小さな虫が一匹、その光に惑わされたように、くるくると飛んでいる。飛んで火に入る夏の虫、という言葉がぽっと浮かぶ。
首を右に傾けると、そちらはカーテンが引かれていた。保健室みたいな味気ないカーテンは窓から差し込む夕日にピンク色に染まって、元の色はなんなのかよくわからなかった。
「病院……?」
かすれた声。なんだか自分の声じゃないみたいだ。
蛍光灯の回りを飛んでいた虫が、何を思ったのかふわふわと降りてきて右腕に止まった。反射的に振り払おうとして腕に力を込めた瞬間、奇妙な違和感を覚えて私は初めて自分の体を見下ろす。
変な声がこぼれた。
右腕がぐるぐる巻きにされていた。布? いや、ギプスだ。どうやら骨折しているらしい。自分の腕のはずなのに、妙に他人事のように思う。
いつ骨折したのだろう。
そもそも、ここはどこだ。
私はなぜ、病院のベッドに寝ているのだろう。
頭がぼんやりしている。
記憶の糸をうまく手繰れずにあたりを見回すと、ベッド脇になぜか壊れた白いスマホが置いてあった。ひん曲がって、画面が派手にひび割れている。
なぜこんなところにあるんだろう。しかもこれは、私のものじゃない。
解せぬまま身を起こした。
ベッドが不吉に軋み、右腕はもっと不吉に軋んだ。腕以外も体の節々が痛い。顔をしかめながらベッドの外に足を出し、置いてあったスリッパにつま先をつるりと入れる。
「……あれ」
私の足、こんなに白かったっけ。
首を傾げながら顔を上げると、室内の様子が薄ら映っている窓ガラスに、私のものではない顔が映っているのが見えた。
「あれ?」
右手を挙げると、窓ガラスに映った少女が手を挙げた。
左手で顔を触ると、窓ガラスに映った少女も顔に触れた。
顔をしかめると、窓ガラスの少女も顔をしかめた。
頬をぐにぐに揉みほぐし、二度強く瞬きし、それから窓ガラスに顔を近づけて、もう一度自分の顔をよく見る。
「和佳の顔……」
背後からからからと物音が響いて、私はびくっと振り返った。
人気のない四人部屋の病室の脇を、ストレッチャーが通り過ぎていく。押していく看護婦さんたちの他に、付き添いらしき人が数人。
病人かと思ったけれど、仏様のようだ。霊安室へ向かうのだろう、顔まですっぽりと真っ白なシーツに覆われて、その顔は見えない。
付き添う人たちは一様にうなだれている。大人の男の人と、女の人。それから、若い男の子が一人……。
ストレッチャーに縋りついている女性の横顔に、見覚えがあった。
「……お母さん?」
見間違いかと思ったけど、間違いない。母だった。
なんでお母さんがこんなところに?
じゃああれは、お父さん?
……誰? 誰が亡くなったの?
うちは一人っ子だ。
おじいちゃんか、おばあちゃん?
でも、じゃあ、その男の子は誰?
ふっと男の子の顔が見えて、私の心臓は早鐘のように打った。
秀だった。
普段、頭の回転ははやいほうじゃない。
でもそのときばかりは、頭の中で、一瞬にして足し算と引き算が行われた。計算結果が出た瞬間、私は駆けだして、ストレッチャーにしがみついた。看護師の静止も聞かず、仏様の頭まで覆われたシーツをがばっと剥がす。
「……私?」
そう思って目を覚ましたはずなのに、瞼を開けてみるとそんな声は聞こえなかった。
少し冷たい風が左頬を撫でているのを感じる。
窓が開いているのかと思ったけれど、そっちに冷房があるようで、室内機が低くエンジンをふかすみたいな音がする。
左側を向くと、カーテンは開いていた。窓の向こうの空は茜色に染まって、逆行を受けた背の高いビルが黒く濃い影になっている。
どこだろう、と思った。
視線を前に戻すと、知らない天井だった。古びた蛍光灯が二本、どちらも端っこが黒ずんで微妙に明滅している。小さな虫が一匹、その光に惑わされたように、くるくると飛んでいる。飛んで火に入る夏の虫、という言葉がぽっと浮かぶ。
首を右に傾けると、そちらはカーテンが引かれていた。保健室みたいな味気ないカーテンは窓から差し込む夕日にピンク色に染まって、元の色はなんなのかよくわからなかった。
「病院……?」
かすれた声。なんだか自分の声じゃないみたいだ。
蛍光灯の回りを飛んでいた虫が、何を思ったのかふわふわと降りてきて右腕に止まった。反射的に振り払おうとして腕に力を込めた瞬間、奇妙な違和感を覚えて私は初めて自分の体を見下ろす。
変な声がこぼれた。
右腕がぐるぐる巻きにされていた。布? いや、ギプスだ。どうやら骨折しているらしい。自分の腕のはずなのに、妙に他人事のように思う。
いつ骨折したのだろう。
そもそも、ここはどこだ。
私はなぜ、病院のベッドに寝ているのだろう。
頭がぼんやりしている。
記憶の糸をうまく手繰れずにあたりを見回すと、ベッド脇になぜか壊れた白いスマホが置いてあった。ひん曲がって、画面が派手にひび割れている。
なぜこんなところにあるんだろう。しかもこれは、私のものじゃない。
解せぬまま身を起こした。
ベッドが不吉に軋み、右腕はもっと不吉に軋んだ。腕以外も体の節々が痛い。顔をしかめながらベッドの外に足を出し、置いてあったスリッパにつま先をつるりと入れる。
「……あれ」
私の足、こんなに白かったっけ。
首を傾げながら顔を上げると、室内の様子が薄ら映っている窓ガラスに、私のものではない顔が映っているのが見えた。
「あれ?」
右手を挙げると、窓ガラスに映った少女が手を挙げた。
左手で顔を触ると、窓ガラスに映った少女も顔に触れた。
顔をしかめると、窓ガラスの少女も顔をしかめた。
頬をぐにぐに揉みほぐし、二度強く瞬きし、それから窓ガラスに顔を近づけて、もう一度自分の顔をよく見る。
「和佳の顔……」
背後からからからと物音が響いて、私はびくっと振り返った。
人気のない四人部屋の病室の脇を、ストレッチャーが通り過ぎていく。押していく看護婦さんたちの他に、付き添いらしき人が数人。
病人かと思ったけれど、仏様のようだ。霊安室へ向かうのだろう、顔まですっぽりと真っ白なシーツに覆われて、その顔は見えない。
付き添う人たちは一様にうなだれている。大人の男の人と、女の人。それから、若い男の子が一人……。
ストレッチャーに縋りついている女性の横顔に、見覚えがあった。
「……お母さん?」
見間違いかと思ったけど、間違いない。母だった。
なんでお母さんがこんなところに?
じゃああれは、お父さん?
……誰? 誰が亡くなったの?
うちは一人っ子だ。
おじいちゃんか、おばあちゃん?
でも、じゃあ、その男の子は誰?
ふっと男の子の顔が見えて、私の心臓は早鐘のように打った。
秀だった。
普段、頭の回転ははやいほうじゃない。
でもそのときばかりは、頭の中で、一瞬にして足し算と引き算が行われた。計算結果が出た瞬間、私は駆けだして、ストレッチャーにしがみついた。看護師の静止も聞かず、仏様の頭まで覆われたシーツをがばっと剥がす。
「……私?」