十の太陽と九の月を数えたある日、病室に秀がきた。
ちょうどそのとき、私は病室を出ていた。といってもちょっと離れていただけだ。
私の病室があるフロアは五階で、線路の近くに建つ入院病棟からの景色はさして素晴らしいとも言えなかったけれど、病室よりはましということに気がついてからはたまにロビーまで眺めにきている。
端っこのソファに座っているおばあちゃんがいて、いつも特徴的な蝶々の髪留めをしているのですぐにわかる。そこから数えて三つ目の椅子が私の定位置になっていた。
病室にはカレンダーがない。スマホも壊れたままだ。だから私は、今がいつなのかをよく知らない。夏なのは間違いない。
ガラス張りのロビーからは、都会の町並みが見下ろせる。といっても、ここより背の高いビルはたくさんあって、見下ろしているのかどうかは微妙だ。ここが東京なのかもわからない。
ひとしきり景色を眺めた後、病室へ戻ると、脇の椅子に秀が座ってスマホ見ていて、私はびくっと足を止めた。
「おう」
と、秀はぎこちなく笑った。なんだかひどい顔だった。昨日泣きでもしたのか、目元が少し腫れぼったい。でも顔はなんだか全体的に、以前より痩せた感じがする。
「……やつれたね」
何日かぶりに、私は自発的に声を発した。
何を言っているのか、自分でもわからないほどにしゃがれた声が出て、秀が苦笑いする。
「いいよ、無理にしゃべらなくて」
これお見舞い、と言って秀が焼き菓子らしきものをベッド脇に置いた。それから立ち尽くしたままの私を見上げて、
「なに立ってんだよ。病人は寝てろって」
私は促されるままにベッドに座る。
それからしばらく、何を喋るでもなく、時間が過ぎた。私は黙ってベッドのコントローラーをいじっていた。秀は仕切りカーテンの裾を意味もなく擦り合わせている。
私はそのとき、秀に話すべきかどうかを考えていた。自分が和佳ではなく、伊織であること。秀ならもしかして、信じてくれるだろうか。
だけどその前に、
「……伊織の葬儀、終わったよ」
ぽつりと、そう言われて、私は自分の中で心臓が大きく跳ねるのを感じた。
それは、和佳の心臓だ。今動揺したのは、私なんだろうか。それとも、和佳なんだろうか。
「クラスメイトとか、たくさんきてた。あいつ、友だち多かったから」
私は黙っている。
今まで、病室の外のことに思いが及んでいなかった。
でもそうか、大神伊織が死ぬということは、そういうことなんだ。伊織と繋がっていたすべての人との人間関係が、突然、すぱっと、すべて断ち切られるということなんだ。
ふっと、美羽の顔を思い出した。
走るよ、と約束したことを思い出した。
それからクラスのみんなの顔を思い浮かべた。中学の友だちの顔を思い浮かべた。親戚や、先生の顔を思い浮かべた。
ぽつり、と膝の上に熱い滴が落ちて、パジャマに小さく染みを作る。視界が一気に滲んで、何も見えなくなる。
泣いているのは本当に私なんだろうか。
私だとして、何に泣いているんだろう。
自分が死んだこと?
自分がここにいることを、誰も知らないこと?
それともただ単純に、秀にもらい泣きしただけ?
秀が泣いている気配は感じた。そっちを見ても滲んだ夏の青と、その中心に人影がぼんやりと見えるだけだったけれど、秀が泣いているのは確かにわかった。嗚咽も、啜り泣きも聞こえなかったけれど、確かにわかった。
涙って、蒸発して空気に染みるのかもしれない。
気を遣ったのか、いたたまれなかったのか、向かいと、右隣の人が立て続けに病室を出ていく気配がして、私は逆に少し冷静になった。ティッシュで涙を拭うとようやく視界が戻ってきて、そこには目を真っ赤にした秀がいる。
「大丈夫?」
私が気遣うのも違う気がしつつ、それでもおずおずと手を伸ばして、私は秀のごわごわした髪の毛に触れようとした。
「俺が伊織に頼んだんだ」
秀が吐き捨てるように呻いて、私はさっと手を引っ込めた。
「和佳が言いづらいこと、俺じゃなくて伊織になら話せるかもしれないからって。だからあの日、伊織は和佳を誘って出かけた」
秀が何を言いたいのか、私にはわかった。和佳にはわからなかったかもしれない。でも私にはわかる。
秀のせいじゃないよ、と言いたかった。
だけどなんとなく、和佳の体でそれを言うことは抵抗があった。大神伊織が言うのと、森宮和佳が言うのとでは、それはまったく違う意味を持つような気がした。
それでも、うなだれた秀を見ていると何か言わなければならないような気になって。
「……伊織だったら、」
言いかけて、その違和感に思わず口を閉じる。
伊織だったら?
和佳はそんな言葉、きっと使わない。
それにそれは仮定じゃない。伊織は私だ。私が、伊織だ。
秀が顔を上げる。私を見ている。いや、和佳を見ている。
「……ごめんな」
なぜ謝るのだろう。
私は結局、秀と和佳の間に何があったのかをよく知らないままだった。言う前に、あのトラックが突っ込んできた。
二人は喧嘩をしたのだろうか。それとも、ちょっとした言い争いなのか。気持ちのぶつかり合いなのか。なんとなく、察することはできる。
秀はきっと、寂しかったのだ。和佳が何かを抱えていたことは、今なら私にもわかる気がする。あの父親や、妹の態度……秀はそのことできっと、和佳に頼ってほしかった。だけど、和佳は頼らなかった。
だったらと、私に頼るように仕向けて、そして……。
言えない。
今の秀に、本当は自分が伊織だなんて、言えない。
「また、来るよ」
ぎこちない会話ばかり交わして、秀は帰っていった。
私はなにも言ってあげられなかったし、一度もきちんと目を合わせることができなかった。
ちょうどそのとき、私は病室を出ていた。といってもちょっと離れていただけだ。
私の病室があるフロアは五階で、線路の近くに建つ入院病棟からの景色はさして素晴らしいとも言えなかったけれど、病室よりはましということに気がついてからはたまにロビーまで眺めにきている。
端っこのソファに座っているおばあちゃんがいて、いつも特徴的な蝶々の髪留めをしているのですぐにわかる。そこから数えて三つ目の椅子が私の定位置になっていた。
病室にはカレンダーがない。スマホも壊れたままだ。だから私は、今がいつなのかをよく知らない。夏なのは間違いない。
ガラス張りのロビーからは、都会の町並みが見下ろせる。といっても、ここより背の高いビルはたくさんあって、見下ろしているのかどうかは微妙だ。ここが東京なのかもわからない。
ひとしきり景色を眺めた後、病室へ戻ると、脇の椅子に秀が座ってスマホ見ていて、私はびくっと足を止めた。
「おう」
と、秀はぎこちなく笑った。なんだかひどい顔だった。昨日泣きでもしたのか、目元が少し腫れぼったい。でも顔はなんだか全体的に、以前より痩せた感じがする。
「……やつれたね」
何日かぶりに、私は自発的に声を発した。
何を言っているのか、自分でもわからないほどにしゃがれた声が出て、秀が苦笑いする。
「いいよ、無理にしゃべらなくて」
これお見舞い、と言って秀が焼き菓子らしきものをベッド脇に置いた。それから立ち尽くしたままの私を見上げて、
「なに立ってんだよ。病人は寝てろって」
私は促されるままにベッドに座る。
それからしばらく、何を喋るでもなく、時間が過ぎた。私は黙ってベッドのコントローラーをいじっていた。秀は仕切りカーテンの裾を意味もなく擦り合わせている。
私はそのとき、秀に話すべきかどうかを考えていた。自分が和佳ではなく、伊織であること。秀ならもしかして、信じてくれるだろうか。
だけどその前に、
「……伊織の葬儀、終わったよ」
ぽつりと、そう言われて、私は自分の中で心臓が大きく跳ねるのを感じた。
それは、和佳の心臓だ。今動揺したのは、私なんだろうか。それとも、和佳なんだろうか。
「クラスメイトとか、たくさんきてた。あいつ、友だち多かったから」
私は黙っている。
今まで、病室の外のことに思いが及んでいなかった。
でもそうか、大神伊織が死ぬということは、そういうことなんだ。伊織と繋がっていたすべての人との人間関係が、突然、すぱっと、すべて断ち切られるということなんだ。
ふっと、美羽の顔を思い出した。
走るよ、と約束したことを思い出した。
それからクラスのみんなの顔を思い浮かべた。中学の友だちの顔を思い浮かべた。親戚や、先生の顔を思い浮かべた。
ぽつり、と膝の上に熱い滴が落ちて、パジャマに小さく染みを作る。視界が一気に滲んで、何も見えなくなる。
泣いているのは本当に私なんだろうか。
私だとして、何に泣いているんだろう。
自分が死んだこと?
自分がここにいることを、誰も知らないこと?
それともただ単純に、秀にもらい泣きしただけ?
秀が泣いている気配は感じた。そっちを見ても滲んだ夏の青と、その中心に人影がぼんやりと見えるだけだったけれど、秀が泣いているのは確かにわかった。嗚咽も、啜り泣きも聞こえなかったけれど、確かにわかった。
涙って、蒸発して空気に染みるのかもしれない。
気を遣ったのか、いたたまれなかったのか、向かいと、右隣の人が立て続けに病室を出ていく気配がして、私は逆に少し冷静になった。ティッシュで涙を拭うとようやく視界が戻ってきて、そこには目を真っ赤にした秀がいる。
「大丈夫?」
私が気遣うのも違う気がしつつ、それでもおずおずと手を伸ばして、私は秀のごわごわした髪の毛に触れようとした。
「俺が伊織に頼んだんだ」
秀が吐き捨てるように呻いて、私はさっと手を引っ込めた。
「和佳が言いづらいこと、俺じゃなくて伊織になら話せるかもしれないからって。だからあの日、伊織は和佳を誘って出かけた」
秀が何を言いたいのか、私にはわかった。和佳にはわからなかったかもしれない。でも私にはわかる。
秀のせいじゃないよ、と言いたかった。
だけどなんとなく、和佳の体でそれを言うことは抵抗があった。大神伊織が言うのと、森宮和佳が言うのとでは、それはまったく違う意味を持つような気がした。
それでも、うなだれた秀を見ていると何か言わなければならないような気になって。
「……伊織だったら、」
言いかけて、その違和感に思わず口を閉じる。
伊織だったら?
和佳はそんな言葉、きっと使わない。
それにそれは仮定じゃない。伊織は私だ。私が、伊織だ。
秀が顔を上げる。私を見ている。いや、和佳を見ている。
「……ごめんな」
なぜ謝るのだろう。
私は結局、秀と和佳の間に何があったのかをよく知らないままだった。言う前に、あのトラックが突っ込んできた。
二人は喧嘩をしたのだろうか。それとも、ちょっとした言い争いなのか。気持ちのぶつかり合いなのか。なんとなく、察することはできる。
秀はきっと、寂しかったのだ。和佳が何かを抱えていたことは、今なら私にもわかる気がする。あの父親や、妹の態度……秀はそのことできっと、和佳に頼ってほしかった。だけど、和佳は頼らなかった。
だったらと、私に頼るように仕向けて、そして……。
言えない。
今の秀に、本当は自分が伊織だなんて、言えない。
「また、来るよ」
ぎこちない会話ばかり交わして、秀は帰っていった。
私はなにも言ってあげられなかったし、一度もきちんと目を合わせることができなかった。