そういえば入院って初めてだ、と馬鹿みたいなことを思った。
可動式のベッドのコントローラーを意味もなく操作すると、背もたれの部分が持ち上がったり、平らになったりする。
ちょうどいい角度を探して何度か上下させているうちに、そんなものないということに気がついた。自分の体じゃないから、どれくらいがちょうどいいのか、よくわからない。
薄緑色のカーテンが風もないのにかすかに揺れている。左側からエアコンのうなり声。廊下を歩く、ぺたぺたというスリッパの音。トイレが近いせいで、水道の音がしょっちゅう響いてくるけど、いい加減この環境にも慣れてきた。
現実を受け入れつつある。
というか、現実に侵食されつつある感じだった。
抵抗はしている。寝て起きて目が覚めれば、夢だったことになるんじゃないかと思っている。この数時間で百回はそう思って、けれど眠れたのはわずかに三回だった。
三回とも、目覚めと同時に私は失望を覚えた。眠るしかやることがなくて、どんどん眠りは浅くなっていく。
今日はきっと、夜が長い。まだ昼なのに。
窓の外には、夏の空が広がっている。
青い。青いけど、灰色に見える。
背の高いビルがたくさん見える。家の近所から、こんなビルは見えない。
病室の窓は開けられないけれど、下の方から蝉の鳴き声が確かに聞こえてくる。うるさい。
隣のベッドからうめき声がして、私はびくっと振り向いた。四人部屋の病室には他に二人の患者が寝ているらしい。どういう症状なのか、私は知らない。
隣の人はいつも寝苦しそうにしている。向かい側は静かだ。カーテンはいつも閉め切っているから、姿は見たことがない。
「和佳。入るぞ」
と声がした。二秒くらいして、カーテンの外側から誰かが私を呼んだのだと気がついて「ハイ」と小さく返事した。
ぬっと顔を覗かせたのは、この一週間でやっと少し見慣れた顔。和佳の、お父さんだ。
「どうだ、具合は」
「ウン……」
私は曖昧に返事をした。実際、曖昧だった。
話に聞いた症状は脳震盪、右上腕骨折、その他打撲など。腕は動かないし、脳震盪のことはよくわからない。というか、それ以上に深刻な事象が起きているせいで、いまいち現実感が湧かない。
和佳のお父さんは、ベッド脇の丸椅子に座ったが、私とは微妙に目を合わせないまま、いつもと同じ問答を繰り返した。
「腕、動くのか?」
「ウウン」
「頭は? クラクラしたりしないのか?」
「ウン」
「何か必要なものあるか」
「へいき」
そこでふっと、彼は思い出したようにこう言った。
「ああ、そうだスマホな、データ復旧できるかもしれないそうだ」
「……そっか」
和佳のお父さんは、ため息をついた。疲労の強く滲んだ声音だと思った。
この人は、いつもスーツで来る。いつも昼に来る。きっと昼休みを潰してきている。そこしか時間が取れないほど、忙しいのかもしれない。それでも、来る。
父親なんだな、と思う。他人事みたいに思う。実際他人事だと思う。
「明日は由佳が来るから」
由佳、というのは和佳の妹だった。妹がいるのを初めて知った。
こないだ初めて会った。あんまり和佳には似ていない。でもしっかり者そうだった。中学生くらい? 微妙に、私のことを苦手そうに見ていた。
お父さんもそうだけど、どうして私の目を見ないんだろう。着替えとか、必要なものを持ってきてくれるけど、あまり話は弾まなかった。
和佳のお母さんは、まだ一度も来ていない。
和佳のお父さんが病室を出ていく。
私は立ち上がって、窓ガラスに自分の顔を映す。紛れもない森宮和佳の顔が、そこにある。
可動式のベッドのコントローラーを意味もなく操作すると、背もたれの部分が持ち上がったり、平らになったりする。
ちょうどいい角度を探して何度か上下させているうちに、そんなものないということに気がついた。自分の体じゃないから、どれくらいがちょうどいいのか、よくわからない。
薄緑色のカーテンが風もないのにかすかに揺れている。左側からエアコンのうなり声。廊下を歩く、ぺたぺたというスリッパの音。トイレが近いせいで、水道の音がしょっちゅう響いてくるけど、いい加減この環境にも慣れてきた。
現実を受け入れつつある。
というか、現実に侵食されつつある感じだった。
抵抗はしている。寝て起きて目が覚めれば、夢だったことになるんじゃないかと思っている。この数時間で百回はそう思って、けれど眠れたのはわずかに三回だった。
三回とも、目覚めと同時に私は失望を覚えた。眠るしかやることがなくて、どんどん眠りは浅くなっていく。
今日はきっと、夜が長い。まだ昼なのに。
窓の外には、夏の空が広がっている。
青い。青いけど、灰色に見える。
背の高いビルがたくさん見える。家の近所から、こんなビルは見えない。
病室の窓は開けられないけれど、下の方から蝉の鳴き声が確かに聞こえてくる。うるさい。
隣のベッドからうめき声がして、私はびくっと振り向いた。四人部屋の病室には他に二人の患者が寝ているらしい。どういう症状なのか、私は知らない。
隣の人はいつも寝苦しそうにしている。向かい側は静かだ。カーテンはいつも閉め切っているから、姿は見たことがない。
「和佳。入るぞ」
と声がした。二秒くらいして、カーテンの外側から誰かが私を呼んだのだと気がついて「ハイ」と小さく返事した。
ぬっと顔を覗かせたのは、この一週間でやっと少し見慣れた顔。和佳の、お父さんだ。
「どうだ、具合は」
「ウン……」
私は曖昧に返事をした。実際、曖昧だった。
話に聞いた症状は脳震盪、右上腕骨折、その他打撲など。腕は動かないし、脳震盪のことはよくわからない。というか、それ以上に深刻な事象が起きているせいで、いまいち現実感が湧かない。
和佳のお父さんは、ベッド脇の丸椅子に座ったが、私とは微妙に目を合わせないまま、いつもと同じ問答を繰り返した。
「腕、動くのか?」
「ウウン」
「頭は? クラクラしたりしないのか?」
「ウン」
「何か必要なものあるか」
「へいき」
そこでふっと、彼は思い出したようにこう言った。
「ああ、そうだスマホな、データ復旧できるかもしれないそうだ」
「……そっか」
和佳のお父さんは、ため息をついた。疲労の強く滲んだ声音だと思った。
この人は、いつもスーツで来る。いつも昼に来る。きっと昼休みを潰してきている。そこしか時間が取れないほど、忙しいのかもしれない。それでも、来る。
父親なんだな、と思う。他人事みたいに思う。実際他人事だと思う。
「明日は由佳が来るから」
由佳、というのは和佳の妹だった。妹がいるのを初めて知った。
こないだ初めて会った。あんまり和佳には似ていない。でもしっかり者そうだった。中学生くらい? 微妙に、私のことを苦手そうに見ていた。
お父さんもそうだけど、どうして私の目を見ないんだろう。着替えとか、必要なものを持ってきてくれるけど、あまり話は弾まなかった。
和佳のお母さんは、まだ一度も来ていない。
和佳のお父さんが病室を出ていく。
私は立ち上がって、窓ガラスに自分の顔を映す。紛れもない森宮和佳の顔が、そこにある。