長屋浪人暇人日記~月と星の輝く夜に~

長屋の木戸門をくぐると、月星丸はすぐにおばちゃんたちに囲まれた。

「あらあらどうした? 手当てしてあげるからちょっとこっちに来なよ!」

仕事の手を止めて、複数の女どもに囲まれる。

騒ぎを聞きつけた他の長屋の住人も顔を出した。

「千さんに助けてもらったのかい? よかったねぇ」

月星丸は黙ってうなずいた。

そのまま野次馬どもに囲まれて、されたいように手当てをされている。

あれこれと話しかけられる住人からの慰めやねぎらいの言葉に、ついに月星丸は微笑んだ。

「笑ってる場合か! さっさと飯にしろ!」

俺がそういうと、月星丸は皆に礼を言って笑顔で手を振った。

その場にいた全員が手を振り返す。

その様子に、俺はまた痛む頭を抱えた。

部屋に戻った月星丸は、うれしそうに鼻歌を歌いながら漬け物を切っている。

櫃に移した冷や飯を茶碗によそうと、先に膳を俺に差し出した。

「俺も食っていいか?」

「あぁいいよ!」

俺は怒鳴るように答えておいてから、出された飯を勢いよくかき込む。

月星丸は自分の茶碗を膳に乗せて居間にあがると、うれしそうに飯を口にした。

「お前、生まれはどこだ?」

先に平らげた俺は、ゆっくりと白飯を食む月星丸に目をやる。

「この世のどこかだ」

彼は静かに米を嚙んでいた。

「聞かぬのではなかったのか?」

「あぁそうだったな、忘れてたよ!」

俺は降参のため息をつくと、ごろりと横になって背を向けた。

それ以来、気がつけばすっかり長屋に馴染んだ月星丸は、起床から就寝まで実に規則正しく健康的な生活を送り、それを不規則きわまりなかった俺にまで強いた。

日の出とともに起き上がり、井戸端で女に混じり飯炊きの準備をすると、笠を編む俺の姿を飽きることなくながめている。

「おい、月星丸! ちょいとそこまで、よもぎをとりに行かないか?」

近頃にいたっては、仲の悪かったはずの長屋の子どもまでが、遊びに誘いにやってくる。

うれしそうに俺を振り返り許可を求める月星丸に、俺は完全に負けを認めた。

「勝手にしやがれ」

「じゃあな千さん、日暮れまでにはちゃんと連れて帰ってくるからよ」

うれしそうに仲間と駆けだしていく背を見送って、俺は編みかけの笠を放り出した。

月星丸が来て何日が経った? 

結局あいつに流されているのは、俺自身のような気がする。

奴が本当に望むのなら、まぁここにいたって構わない。

一緒に住むのはゴメンこうむるが、この長屋にも他に空いている部屋がないわけでもない。

大屋である万屋に頼めば、ここでなくてもどこかに住む場所の手はずは整えてくれるだろう。

だけど、それでいいのか? 

ぐるぐるといくら考えをめぐらせても、答えは出ないし、奴にも出て行くつもりはない。

どうしよう、どうしようか。

俺自身はどうしたいのか、久しぶりに一人になった今、よくよく考えてみる。

まぁ俺としては、今の生活は悪くないと思っている。

特に気を使うこともなければ困ることもない。

奴は長屋の住民ともすっかり打ち解けている。

月星丸は控えめで地味な性格だが、意外なところで根性がありしぶとい。

そのしぶとさが、自分の家に戻りたくないがための振る舞いであることは、分かる。

俺は寝返りをうった。

本当に奴は戻らないつもりなんだろうか、このまま逃げ切るつもりでいるのか。

どう見ても良家の坊ちゃんであることは間違いなく、俺にはいつか必ず迎えが来るように思う。

だとしたら……。

俺は起き上がった。

つかの間の自由を謳歌している間ぐらい、好きにさせてやるべきなのか、それともこれ以上の情がわく前に帰してしまった方がいいのか。

長屋の皆だけではなく俺自身も月星丸に対して……。

俺は慌てて頭を横に振った。

何を考えているんだ、万屋の裏家業を引き受けている以上、俺だっていつどこでどうなるか分からない身だ。

最期をみとってくれる人間は、万屋だけでいい。

放り投げた作りかけの笠を、もう一度手に取る。

出来上がった笠が、部屋の隅に積み上がっていた。

そろそろまた、売りに行かないといけねぇな。

今度はちゃんと、俺も一緒について歩こう。

編み笠の材料であるヒデの束を手に取る。

それを交互にならべて組み合わせると、俺は次の笠を編み始めた。

がらりと入り口の戸が開く。

「ただいま!」

月星丸がよもぎの束をつかんで戻ってきた。

「おう、案外早かったな」

「うん、もう他のやつらが摘み取っていった後だったから、あんまり残ってなかったんだ」

月星丸が一緒に出かけた長屋の子どもたちの話しを延々と始めるのを、俺は黙ってうんうんと聞いている。

にぎやかになったもんだ。

今までどうやってここで暮らしていたのか、そんなことさえ思い出せなくなっているような気がする。

ふいに、月星丸のおしゃべりが止まった。

「なぁ、俺にも笠の作り方を教えてくれよ」

土間からようやくわらじをぬいで居間にあがり、俺のすぐ隣で手元をのぞき込む。

「俺も編んでみたい!」

俺は腰を軽く浮かせて場所を譲ってやった。

月星丸はうれしそうに、編みかけの笠を手にとる。

「これを順番に通してくのか?」

「そうだ」

ずっと俺の手元を見ていただけのことはある。

見よう見まねながら、編み方は覚えていたようだ。

ふと月星丸の胸元に目をやる。

体には、きつくさらしが巻いてあった。

「てめぇ、まださらし巻いてやがんのか」

そういえば、最初に出会った頃からずっとだな。

「怪我でもしてんのか? ちょっと見せてみろ」

月星丸の襟元に指をかけ、胸元を開く。

「な、やめろ!」

「いいから見せてみろ」

俺はさらしの結び目をほどいた。

「深い傷でもあるなら、今日採ってきたよもぎ汁を塗り込めば多少の傷跡も……」

揺るんださらしがはらりと滑り落ち、月星丸は背を丸めて縮こまる。

白い肌に華奢な肩、わずかにふくらんだ胸元が、女の体そのものだった。

俺はそれに気づき、ひっくり返って後ろに飛び退く。

「お前、女だったのか!」

「何だよ、今まで気づいてなかったのかよ」

とたんに俺の息は苦しくなり、心拍数が急上昇を始める。

動悸息切れめまい等々が、全部まとめて襲いかかってきた。

「出て行け!」

「は?」

月星丸は恥ずかしげもなく、胸のさらしをまき直す。

「今すぐここを出て行け!」

「今さらなに言ってんだ」

「今さら何だよ!」

そう叫ぶ俺の全身には、脂汗がにじみ出している。

「お前が女と知った以上、ここにおいておくわけにはいかねぇ、さっさと出て行け!」

「女と知った方が、都合がよくはないのか?」

月星丸は両膝をついて、俺ににじり寄った。

「女だと知られれば馬鹿にされると思った。だから男の格好で逃げた。もちろん変装の意味もある。このまま男の格好で、ここにおかせてくれ」

鼻先でそうつぶやく月星丸の息が、顔にかかった。

俺はとっさに両手で口を押さえる。

嗚咽が喉元まで押し寄せた。

このままでは絶対に吐く。

「ダメだ」

「なんでだよ!」

朦朧とする意識の中で、土間に下りて一息つく。

俺は柄杓の水を飲み干した。

「男一人暮らしの家に、女なんかおいておけるか。今すぐ出て行け」

胸の鼓動が鳴り止まない。

呼吸が乱れているのを、悟られないようにするだけでも精一杯だ。

月星丸が体を動かす衣擦れの音は聞こえても、背を向けているからどうしているのか様子も分からない。

出て行くなら、戸口は俺の目の前だ。

「嫌だ。今まで通りにしておいてくれたら、それでいいじゃないか。邪魔はしないし、迷惑もかけない。女扱いしなくてもいい。だからここにおいてくれ」

吐き気に襲われている俺には、後ろを振り返ることもできない。

激しいめまいに、このまま立っているのだけでもやっとのことだ。

「邪魔だ。どけ」

月星丸に顔を見られないように居間にあがる。

すぐにでも気絶して倒れそうな体を、背を向けて横になった。

「なんだよ! なんで女だと分かったとたんに追い出すんだよ! あんたもやっぱり、女より男の子がほしかったんだ!」

「あぁ、なるほどそういうことか。家の跡目に弟でも生まれて、追い出されたのか」

月星丸からの返事はない。

激しいめまいと吐き気に襲われながら、俺はなんとか呼吸を整える。

「ここの長屋が気に入ってるなら、隣の千代さんか、お富美さんのところへいけ。俺が話しをつけておいてやる」

一緒に暮らすのだけは勘弁だ。俺の身がもたない。

「俺はもう、男として生きるって決めたんだ」

これ以上女としゃべっていたら、本当に気を失いそうだ。

俺はぐったりとした体で仰向けになった。

「やかましいわ。お前なんぞ、男の端くれにも……」

月星丸が上からのぞき込む。

「どうした千さん、具合でも悪いのか?」

女と分かった月星丸と目が合った瞬間、俺は気を失った。
それから奴がどうしていたのか、俺は気を失っていたから知らない。

気がつけば、俺の上には布団が掛けられ、額には濡れた手ぬぐいが乗っている。

「やぁ、気がついたか?」

月星丸はうれしそうな顔で微笑みかけた。

「びっくりしたぞ、急に倒れるんだもん。腹は減ってないか? 俺もまだ飯を食ってないんだ」

近寄ろうとするので、慌てて飛び起きて背中を壁にぶつける。

「どうした?」

そう聞かれても、俺には答えることが出来ない。

ずり落ちてきた手ぬぐいで顔を拭いてごまかす。

「そこから一歩でも近づいてみろ、すぐに叩き斬るからな」

月星丸の表情が、ムッと変化した。

「分かったよ。俺は今まで通り千さんとの関係を変えるつもりはないから。千さんも今まで通り、普通にしておいてくれればそれでいい」

月星丸は、俺の茶碗に飯をよそった。

「追っ手の目も誤魔化したいんだ。俺は男の格好のままでここに居座るからな」

茶碗を差し出されても、受け取った時に手が触れそうで怖い。

「なんだよ、さっさと受け取れ」

膳の上に椀が置かれて、ようやく俺は安心してそれを持つことが出来る。

気分を害したのか、奴は自分の飯をあっという間に平らげた。

「じゃ、先に寝るよ。おやすみ」

狭い長屋で、居間の出入り口側で寝られたら、俺は外に出られないじゃないか。

茶碗と箸を持ったまま固まった俺に、月星丸はフンと鼻息をひとつならして背を向けた。

翌日から、俺の生き地獄が始まった。

朝起きれば目の前に女がいる。

壁に張り付いて息をするのが精一杯の状況だ。

話しかけられても、もう何を言っているのかよく聞き取れないし、答えられない。

何を言われても上の空で返す。

それだけでも心臓が爆発しそうだ。

月星丸は完全に俺に避けられているにもかかわらず、態度を変えようとしない。

イラついてはいるけれど。

奴が背を向けた隙に、部屋の外へ飛び出した。

長屋の木戸門を抜けて、俺はようやく一息つく。

参った。

参ったとはまさにこのことだ。

月星丸が女と知ってからは夜も落ち着いて眠れない。

睡眠不足で足元もおぼつかず、ズキズキと頭も痛む。

俺はようやくたどりついた草の茂る土手の上に横になると、久しぶりに安心して目を閉じた。

外へ飛び出して避難してきたものの、結局することは何もなく身の置き場もない。

いつもの飯屋で飯を食い、銭湯に行って暇をつぶし、たまたま通りかかった寺の境内でやっていた芸者の見世物をぼんやりとながめる。

そうしてようやく、日が傾き始め辺りが暗くなってきた。

俺はため息をつく。

そろそろ家に帰らなくてはいけない時間だ。

精一杯帰宅が遅くなるように、町境の木戸門だけはくぐっておいて、後は道ばたに座っている。

暮れかけた通りを急ぎ足で過ぎる人々は、イラついて不機嫌な浪人の相手など、するわけもなかった。

十分に日が暮れ、月も昇った。

俺はようやく重い腰をあげると、長屋へと戻る。

寝ている月星丸に気づかれぬよう、そっと引き戸を開けて中をのぞき込む。

こいつはまた土間側の方で寝てやがる。

俺は気づかれぬようにそっと居間に上がると、寝ている月星丸の足元を息を殺してまたいだ。

「おかえり」

ビクリとして振り返ると、月星丸は布団の上に起き上がっていた。

明かりをつける。

「なぜそんなにも避ける。それほど俺が嫌か」

いつまでも逃げていても仕方がない。

俺は腹を決めると、どかりとそこに腰をおろした。

「頼むから出て行ってくれ」

「上手くやってると思ってた。俺は、少しはあんたに気に入られてると、そう思ってた」

月星丸はうつむいた。

深いため息をつく。

俺だってそう思ってたよ。

「騙しやがって。女だと最初から分かっていたら、こんなことにはならなかった」

「俺はもう女は捨てたんだ! 男だと思って見てくれ!」

「女だろ!」

「なんで男だとよくて、女だとダメなんだ!」

月星丸はうずくまり膝を抱えた。

「女に生まれたくて生まれてきたわけじゃない。かといって男に生まれたかったわけでもないけど」

灯りに照らされる月星丸の横顔が、苦しげに揺れる。

「俺は俺自身になりたくて外に出た。あそこじゃ人を見るのは全て男か女か、どこの生まれで誰の子か、そんなことばかりでその人自身に興味のある人間なんて一人もいなかった。俺は一度でいいから自由になってみたくて、死ぬ気で外に抜け出したんだ」

月星丸が、俺を見上げる。

「あんたに嫌われてんのなら、もうこの世に未練はない。どうせ死ぬなら、あんたの手で斬ってくれ」

月星丸がにじり寄る。

俺は恐怖にかられ、ビクリとして思わず刀を抜いた。

そこまでされて近づこうという者はいない。

動かなくなった奴の目の前に、俺は抜いた刀を突き立てた。

「俺が嫌いなのは女であって、お前ではない」

「どういうことだよ」

「俺は、俺はなぁ……」

呼吸が荒い。

息を整える。

こんなことを自分から誰かに言うのは生まれて初めてだ。

「女が苦手なんだよ!」

四つん這いになったままの月星丸が俺を見上げる。

俺は額に浮かんだ汗をぬぐった。

言ってしまってよかったのか悪かったのか、もうどうにでもなるようになるしかない。

「俺が嫌いなんじゃなくて、女が嫌いなのか?」

「女なんて、くそ食らえだ」

「悪い思い出でもあるのか? こっぴどく振られたとか?」

騒ぐ心臓の鼓動の方が大きくて、まともに会話している場合じゃない。

「女なんて、ロクなもんじゃねぇ」

それを聞いた月星丸は盛大に笑った。

「なんだよ千さん、そんなことか。千さんが女嫌いとは思わなかったな」

月星丸は、にこにことうれしそうに座り直す。

「大丈夫だよ、俺は千さんに女として悪いことはしない。なんならついでに、その女嫌いを俺が直してやるよ」

奴は布団にもぐり込んだ。

「だから出ていったりしないで、ちゃんとここにいろ。ここはあんたのうちだろ?」

月星丸は、平気で寝転がって背を向ける。

「なんだよ、そんなことか。安心した」

こいつには、コトの重大さが分かっていない。

この俺の女嫌いの程度を理解できるような奴は、そうはこの世にいないのだ。

俺はまた深い深いため息をつく。

この病だけは治らない。

俺は行き場のない背を壁にあずけたまま、一夜を過ごした。
翌朝ふと気がつくと、俺はそのまま眠っていたようだった。

月星丸は起き上がって飯の支度を始めている。

部屋を出て外をのぞいてみると、井戸端で長屋の女どもと話しをしていた。

「そうかい、千さん帰って来たのか。よかったねぇ」

「女が苦手だっていうんだ」

月星丸がそう言うと、女どもは一斉に笑った。

「あの人、ここに来てから何年かになるけど、一度も女を連れ込んだことがないんだよ」

「だからって、男を連れ込むわけでもないしねぇ」

「そこは皆が誉めてたんだ」

米を研ぐ音に混じって、ころころとした笑い声が響く。

「女が苦手ってことは、何となく分かってたよ。だってうちらみたいなのにも、えらくよそよそしいからねぇ」

「大屋の万屋萬平さんも、いい人を長屋の用心棒に選んだもんだって感心したよ」

「だからお月ちゃんがここに来た時、驚いたんだ」

「俺が女だって、すぐに分かるよな?」

「千さんはほら、本当に女を知らないからねぇ」

俺は苦虫をかみつぶす。

だから女は苦手なんだ。

「だからお月ちゃんみたいな子なら、千さんにはちょうどいいのかなって皆で話しててさ」

「そうだよ。あんたが千さんの女嫌いを治してやんな」

「うん」

月星丸は、釜を抱えて立ち上がった。

振り返った俺と目が合う。

「あ、千さん。起きてたのか?」

「さっさと飯にしやがれ!」

そう言って俺はぴしゃりと戸口を閉めた。

井戸端の女どもは笑う。

「分かったよ、すぐに飯にするよ」

月星丸はかまどに火をおこした。

俺は奴に背を向け壁に向いたまま、飯炊きの手伝いもせずにただ座っている。

奴が女と知らぬまでは、手伝ってやっていたのに。

そう思うと罪悪感もわいてくるが、同じ部屋で息をしていることさえ精一杯の俺には、どうしようもない。

「出来たよ。あんたが笠編みを教えられないから、飯を食ったら宗さんのところに教わりに行ってくる」

膳におかれた白飯の、いいにおいが漂ってくる。

月星丸は俺の背中を見ながら食べ終わると、部屋を出て行った。

ようやく解けた緊張感に、俺はどっと疲れに襲われる。

月星丸が嫌いなわけじゃない。

俺はただ、女が死ぬほど嫌いなだけだ。

飯を食べ終わると、とたんにすることが何もなくなる。

月星丸の編んだ笠はどれも隙間だらけで、到底売り物にはならない。

日銭を稼ぐためには仕事をしなければならないが、材料のヒデは全部奴が持って行ってしまった。

途方に暮れる。

途方に暮れるとは、まさにこのことだ。

またため息をついた瞬間、長屋の戸口が開いた。

「大丈夫だよ、千さんだって悪い人じゃないからさ」

入ってきたのは、月星丸と笠編みを習いにいくと言っていた家具職人の宗さんだった。

「おや、千さん、いたのかい?」

にやにやと笑う宗さんの顔に、ますます嫌気がさす。

「うちの奴が世話になったな」

「ほら聞いたかい? 『うちの奴』だってよ」

真っ赤になった月星丸を見て、宗さんは盛大に笑った。

「千さんも、これを機にその困った病気を治しておきな」

編み上がった笠を置いて、宗さんが出て行く。

月星丸と二人きりにされた俺は、また胸が騒ぎ出した。

「ちゃんと教わって、笠を編んだんだ」

差し出されたそれは、とても上出来と言えるような代物ではなかった。

「そうか、よく出来てるじゃねぇか」

隙間だらけで、とてもかぶれたものじゃない。

「売りに行けそうか?」

「これは記念にとっておけ」

俺は奪うようにそれを取り上げると、壁に引っかけた。

「だいぶ上手くなっただろ? 明日は笠を売りに行こう。一緒に行くのが嫌なら、俺が一人で行ってくるから」

「もう少し、数を作ってからだ」

そう言って俺は、覚悟を決めて腰を下ろした。

「飯の支度をしてくれ。俺がやると途中で倒れそうになるんだ」

「分かった」

月星丸は土間に下りる。

「明日は俺が笠の作り方を教えてやる」

「うん!」

振り返ったその満面の笑みに、俺の心臓は一瞬間、一時停止したようだった。

翌日から、俺は約束通り笠の編み方を月星丸に教えた。

「そんな離れたところから口だけで説明されたって、分っかんねぇよ!」

「やかましいわ! それ以上近づいたら、俺はこっから出て行くからな!」

止まらない脂汗とめまいに襲われながら、こっちは必死に耐えているんだ。

これ以上のことを俺に望むな!

「それで、最後はきゅっと締めるんだ」

「うまく出来ないって」

ゆるんでバラバラになりそうなヒデの束と、月星丸は格闘している。

「端をちゃんを押さえろ」

「千さんが押さえててくれよ」

「出来るかバカ!」

「なんでだよ」

立ち上がろうとしたのか、わずかに体を浮かせた月星丸の動きに、俺は全身全霊で驚く。

「ひいぃ!」

その勢いで、手を離してしまった俺の作りかけの笠が、バラバラになってしまった。

「あはは、千さんもざまぁねぇな」

月星丸が笑うのを、俺は歯がみしながら聞いている。

「テメェが笑っていられるのも、今のうちだけだからな」

「そいつは楽しみだ」

ようやく出来上がった笠を担いで、売りに歩く。

天秤棒は俺が担いで、売り子は月星丸だ。

「笠や~、笠はいらんかね!」

月星丸の愛想のいい顔と愛嬌で、俺が一人で売る三倍の早さで、あっという間に笠が売れていく。

全てを売り終わったあとで、月星丸は俺を見上げた。

「なぁ、久しぶりに一緒に飯屋でも行かねぇか?」

「まぁ、いいだろう」

俺たちの事情をよく知った飯屋の女将は、にやにや笑いながら飯を出す。

月星丸がここに来てよかったことは、俺が他の女と口をきかなくても済むようになったことだ。

俺の代わりに全部こいつが用事を済ます。

出された飯を一緒に食いながら、月星丸が尋ねた。

「俺も少しは、役に立ってるか?」

「……。あぁ、そうみたいだな」

狭い長屋に二人で寝るには、危険が大きすぎる。

うっかり寝返りでもして体が触れようものなら、俺はきっと二度と目を覚ますことはないだろう。

夜中に出入りすることもあるから、土間を塞ぐ形で横になるのではなく、縦になって寝るように布団の敷き方を変える。

土間に足を向けて並べた布団の間には、仕切りを立てた。

「千さん、これじゃあ北枕になっちまうよ」

「そんなことより俺の命の方が大事だ」

今夜は久しぶりに万屋の裏仕事に呼ばれている。

こいつをそこに巻き込むつもりはないから、これでいい。

「明日は千代さんのところの子どもたちと、釣りに行く約束をしているのだろう?」

「うん」

「さっさと寝ろ」

「おやすみ」

しばらくすると、すぐに寝息が聞こえてくる。

俺はそっと部屋を抜け出した。

静かな夜の町を、万屋に向かって歩く。

人気のない裏口の戸を叩いて合図を送ると、そっと通用口が開いた。

「あまり遠出はしたくない」

通された部屋で待っていた萬平を見かけるやいなや、俺はそう答える。

「おや、そんなことをおっしゃるとはお珍しいですね」

「家を長く空けるわけにはいかぬ事情ができたのだ」

座布団に座ると、萬平は用意していた紙を俺に手渡した。

「人探しの依頼です」

そこには齢十五と書かれた、柔らかな顔立ちの少年の似顔絵が描かれていた。

「この近辺で見かけたとの噂があるようなのですが、どうしても見つからないとのことで依頼がございました。手練れの浪人風の男が連れ添っているようでございます」

「そいつが供についているということか」

「分かりません」

萬平はふくさにに包んだ小判を三枚、俺の前に置く。

「これは先方からの手付け金にございます」

「ずいぶんと羽振りがよいのだな」

「よほど大切なお方なのでしょう。早ければ早いほど、お礼ははずんでいただけるそうでございますよ」

「なるほどな」

俺は渡された似顔絵をもう一度見る。

「して、この者の名は?」

「お伺いしておりません」

「依頼主はどんな奴だ」

「そんなこと、今までお聞きになったことはございませんでしょう?」

萬平はうっすらと笑みを浮かべる。

確かにそうだ。

確かにそうなのだけれども。

「では、よろしくお願いしましたよ」

「承知した」

俺は月星丸の似顔絵が描かれた紙を、懐にしまった。
朝が来て、俺はかまどに火をくべる。

月星丸が起き出す前に、その火の中に手配書を入れて燃やした。

「あれ? 千さん、今朝は早かったね」

「まだ寝てろ。飯は俺が用意する」

米を炊いて、月星丸の好きな豆腐のみそ汁を作る。

向かい合って一緒に飯を食べた。

「どこへ釣りに行くんだ?」

「すぐ近くの柳瀬川だよ。鯉がいるって言うからさ」

「今まで、釣りをしたことはあるのか?」

俺は切った漬け物を口に運ぶ。

「庭の池で他の者が放した鯉を釣るんだ。釣れなかったら網ですくってさ。俺は見ているだけでやらせてはもらえなかったけど。川に釣りに行くのは初めてだ」

「そいつはよかったな」

「ドジョウもすくいたいっていったら、吉之助が教えてやるって!」

月星丸は、うれしそうに話している。

「ドジョウって、釣るんじゃなくてすくうんだな! あんなちっこい魚釣れるのかって聞いたら、そうじゃないって笑うんだ」

「すくうならそこのザルも持って行け。俺も行こう」

「本当に?」

月星丸は目を輝かせた。

「俺も釣りは久しぶりだ」

月星丸のにっこりと笑ったその笑顔に、今日はあまり心臓が痛まないのは、別のことを考えているからだろう。

じゃなきゃ、子ども同士の釣りになど、ついていくわけがない。

案の定、俺も行くと言ったら、長屋の子どもたちは全員首をかしげた。

「なんだよ千さん、暇なのか? 遊んでていいのかよ」

「うるさい、たまにはいいだろ」

五、六人の子どもたちと連れだって、川に向かう。

もしかしたら、今のこの状況も、どこかで月星丸を探す追っ手に見られているのかもしれないな。

水際から離れた土手に腰を下ろす。

子どもたちに混じって、月星丸は釣りを始めた。

見よう見まねで竿を手に取り、教わりながら釣り糸を垂らす。

依頼人の都合など知ったこっちゃねぇ。

仕事として請け負ったからには、ちゃんとやる。

後のことは、俺には関係ない。

月星丸は、帰らなければならない。

女のくせに男の格好をして、いつまでもいるわけにはいかない。

いつかはちゃんと偽りの姿ではなく自分に戻らなければ、辛くなるのは本人自身だ。

子どもの一人が大きな鯉を釣り上げた。

暴れるその重みに耐えかねて竹竿がしなる。

折れそうになる竿を押さえている間に、鯉はつるりと逃げ出した。

小さな子どもたちの間に混じって、一段背の高い月星丸も、一緒に川面をのぞき込む。

町人の子どもなら、とっくに仕事を持っている年頃だ。

自分より遙かに小さな子どもたちと一緒に、釣り糸を垂らしている。

やがて釣れない釣りに飽きて遊び始めた子どもがでてきた。

川に入って水を跳ねさせ遊んでいるから、あれではもう釣れるものも釣れまい。

「千さん、鯉が釣れたのに逃げられたの、見てた?」

「あぁ、見てたよ」

「釣りって、案外難しいんだな。もっと簡単に釣れるものだと思ってた」

十五か。

女なら、嫁に行ってもおかしくない年頃だ。

元服を済ませていないのなら、それもどうするつもりなのだろうか。

早々に川遊びにも飽きた子どもたちは、それぞれにザルを持ち川に入った。

彼らにとってはここからが本番だ。

釣りなんかするより、ドジョウをすくっている方がよほど楽しい。

わらじを脱ぎ着物の裾を膝上までめくりあげて、月星丸は十にも満たぬ子どもたちと川に入る。

幼い子どもたちに指示を受けながら、泥の中にザルを突っ込んだ。

あまり深く突っ込みすぎたのか、引き上げきれずに苦戦している。

やがて月星丸はひっくり返り、川の中に尻をついた。

それを見て子どもたちは笑う。

そうやって悪戦苦闘しながらも、すくった泥の中からドジョウとタニシをうれしそうに取り分けていた。

月星丸は顔を上げると、こちらに向かって大きく手を振る。

長屋にいるような身分でないことは明かだ。

もしこいつ自身が本当に、自分の置かれた立場から抜け出したいと思うなら、きちんとケリをつけさせなきゃな。

なにをどうするにしたって、話しはそれからだ。

「千さん、見て!」

桶に水を張って、採れたものを見せに走ってくる。

「小さなフナもすくえたんだ!」

水浸しになった着物から、柔らかな女性特有の体の線が浮かびあがっている。

俺は着ていた羽織を脱ぐと、月星丸の肩にかけた。

「寒くはねぇのか」

「うん、濡れちまったけど、大丈夫だ」

月星丸は、俺のすぐ横に腰を下ろした。

「みんなドジョウすくいが上手いな! 俺は最初、川の流れに足をとられて上手く出来なかったんだ。だけど、すぐに慣れたよ。川の底って、丸石でごろごろしてんだな。あれのおかげで上手く立てなくなるんだ」

「なぁ」

そう呼ぶと、月星丸はこちらを見上げた。

「お前はいつまでここにいるつもりだ」

それは月星丸にとって予想外の質問だったのだろう。

答えるのに少し時間が必要だった。

「なんだその話か」

怒った顔をぷいと横に向ける。

「あんたの女嫌いが治ったら出て行ってやるよ」

「元服はどうする」

「しない」

「いつまでも逃げてたって、仕方ねぇだろ」

月星丸はじっとしたままうつむいた。

「お前がここにいたいのなら、いてもいい。だけどそれは、ちゃんと自分の家と話をつけてきてからだ」

俺は土手に生えていた草を、ちぎっては放り投げる。

「それが出来ないっていうんなら、いつまでも置いとけねぇな」

「それは俺に出て行けと言っているのか」

「そうじゃない。話しをつけて来いと言っている」

「俺がその気になったら、自分で出て行くって前にも言ったよな」

月星丸は立ち上がると、肩にかけた羽織を脱ぎ捨てた。

とたんに体に張り付いた着物の線が鮮明に浮かび上がる。

「羽織は着ておけ!」

「あんたの羽織が濡れるじゃねぇか」

土手を駆け下り、再び子どもたちとドジョウをすくい始めた。

あいつは自分では男になったつもりでいるらしいが、橋の上からにやけた顔で見下ろす野郎どもの様子をみていると、それが許されないことは明かだ。

ため息をついて、頭を抱える。

ややこしい女を拾っちまったもんだ。

もう俺の手には負えない。

「おい、帰るぞ!」

「え~、まだ早いよ」

「うるさい、さっさと帰り支度をしろ!」

長屋に戻って、すくったドジョウを柳川鍋にして食べた。

「上手いな! 俺の料理がうまいのか、すくったドジョウがうまいのかどっちだろ」

「そりゃ、テメェで採ったドジョウだからだろ」

食べ終わって片付けの済んだ頃には、傾いた太陽が暮れかけていた。

宵闇がもうすぐ、このあたりにもやってくる。

「ちょいと今から出かけるか」

「今から? どこへ行くんだい?」

月星丸は、俺を見上げた。

「万屋に買い物だ」

「何を買うの?」

土間に下りた俺は、草履をはく。

「櫛の一つでも買ってやろうかと思ってな。まだ居座るつもりなら、いずれ必要になるだろ」

「俺も一緒に行く!」

草履を履き終わった俺が立ち上がると、月星丸は慌てて土間に下りた。

人気のなくなった通りに出ると、月星丸は俺の腕にしがみつく。

「おい、離れろ」

「大丈夫だよ、誰にも見られやしないって」

月星丸は俺を見上げると、にやりと笑った。

「なんだよ、千さんも随分俺に慣れたじゃねぇか。もう女が怖くなくなったか?」

「今だけは特別だ」

月星丸はうれしそうに笑った。

万屋に使いは出してある。

迎えも来ているはずだ。

「あまりいいものは、買ってやれねぇぞ」

「うん。千さんに買ってもらえるなら、なんだっていい」

その笑顔が、俺にはやけにまぶしく見えた。
月星丸を連れて、店じまいの始まった万屋の店先に立つ。

「萬平どのはおられるか。約束の品を受け取りにきた」

月星丸は疑う様子もなく、店に並べられた数々の品をながめている。

「ふむ、ここはなかなかの大店だな」

「おやおや、お褒めにあずかり光栄にございます」

どんな相手に対しても、絶対に腰の低さを崩さない萬平が奥から姿を現した。

月星丸の顔を見て、太く抜け目のない眉がぴくりと動く。

「ほほう。これはまた千之介さま、どちらでこのお方とお知り合いに?」

「話せば長い。また後だ」

萬平は静かな笑みをその顔に浮かべた。

「ご注文のあったお品は、今届いたばかりにございます。どうぞお二人とも、奥へおこし下さいませ」

萬平に案内されて、いつもとは違う客間に通される。

そこには月星丸を迎えにきた男二人が、隅に控えていた。

「月星丸さま! お探しいたしておりました」

男たちは深々と頭を下げた。

月星丸は一瞬丸く大きく見開いた目を、すぐに元の大きさに戻す。

「……そうか……、ご苦労であった」

裾の短いボロのくせに、長年のくせなのか長い振り袖を払うような仕草をしてから、座布団の上に腰を下ろす。

「苦しゅうない。帰宅する」

迎えに来た男は、もう一度丁寧に頭を下げた。

頑として帰ることを拒んでいた家の迎えを、毅然とした態度で申し受ける。

それを見た男たちは、安堵のため息をついた。

「万屋、そなたの評判には間違いがなかったようだな」

「ありがたきお言葉にございます」

萬平がひれ伏すから、俺も頭を下げておく。

「我々は、方々に手を尽くして、それはもう、月星丸さまを、お探しいたしておりました」

男たちは月星丸を振り返った。

月星丸はどこか遠いところを見ているようだ。迎えの二人は立ち上がる。

「では、月星丸さま、こちらへ」

能面のように、月星丸の表情が固まっている。

あれほどにぎやかでやかましかった月星丸が、まるでからくり人形のようだ。

動かす手足の幅さえも訓練され厳しくしつけられたたように、ぴったりと正確に動かした。

万屋の下女に案内されて、迎えの者と共に部屋を出て行く。

俺がじっと見つめているにも関わらず、月星丸は一度も目を合わそうとしない。

三人を見送ってから、萬平はやっと息を吐き出した。

「まったく、千之介さまにはいつも驚かされます。おかげで荷の重い仕事の依頼が、すぐに片付きました」

「それほど荷が重かったのか?」

「そうですよ。過分に圧力をかけられていましてね」

「どこの名家だ」

「聞いておりませんよ。それは尋ねる方が野暮というものです」

萬平は茶をすすった。

「よほど大切なお方だったのでしょうね」

そのわりには、あっさりしすぎているような気がする。

感謝の言葉も、感動の再会も何にもなしか。

騙すようにつれてきて、散々駄々をこねて暴れるかと思っていたのに。

俺は、刀の柄に手を置いて立ち上がった。

「おやおや、どこへ行かれるのですか?」

「それを確かめぬことには、納得がいかぬ」

俺はすっかり日の落ちた町の中で、月星丸を乗せた籠の後をつけ始めた。

あのケチな万屋に依頼してくるような連中だ。

相当な金を積んでいることは間違いない。

迎えもきちんとした使者をよこしている。

あいつがあれほど帰るのを拒んだ家とは、どんな家だ。

静かな夜の闇の中を、月星丸を乗せた籠がゆっくりと動いていく。

護衛は三人。

籠は案の定、大名たちの上屋敷が並ぶ町の方向へと向かっていた。

途中、籠の担ぎ手が変わる。

万屋で挨拶を交わした男たちは、そこで別の護衛二人と入れ替わった。

籠の行き先が変わる。

中に乗る月星丸に、行く先が分からなくなるよう、ぐるぐると無駄に路地を迂回しながら進む。

これでは、帰宅に向かっているのではなく、どこか別の場所へ誘拐しているようだ。

籠はついに、人里から離れた大きな川のほとりにやって来た。

担ぎ手と護衛の踏みしめる砂利の音が闇夜に響く。

籠はそこへ下ろされた。

供の者が担ぎ手に金を渡すと、彼らは逃げるように走り去る。

籠から出された月星丸は、むき出しの石の上に両膝をついて座らされた。

静かな夜だ。

抜かれた二本の刀が、鈍い光を放つ。

そのうちの一本が、月星丸の頭上に掲げられる。

振り下ろされるその瞬間、凶刃はカチンと小石に火花を散らした。

「何者!」

俺はすらりと刀を抜いた。

「どこの坊ちゃんかと思っていたら、随分な扱いだな。大金を積んで探しあてたわりには、もったいねぇことするじゃねぇか」

「今すぐここを立ち去れ!」

男が斬りかかってくる。

コイツらは途中で入れ替わった雇われのやくざ者どもだ。

一人目をバッサリと斬り捨てると、俺はすぐにもう一人を振り返った。

「今すぐここを立ち去るのならば、命だけは助けてやろう。ただし、この坊ちゃんは俺がもらい受ける」

男は俺との間合いを見計らっている。

そう簡単に引く気もなさそうだ。

「なに、望み通りこの坊ちゃんは、ここで斬り殺したことにすればいい。あんたらに迷惑はかけねぇ。俺はコイツを連れてすぐに江戸を出る。二度とあんたらの依頼主とコイツが顔を合わすことはねぇよ」

刃先を突き合わせて、にじり寄る。

とたん、月星丸が砂利を蹴って走り出した。

一目散に町の方へ向かって逃げ出す。

「おいコラ待て!」

俺とにらみ合っていた男は、すぐに月星丸を追いかけた。

俺が斬りつけた男も立ち上がり、ふらふらとその後を追う。

「くっそ、あの野郎!」

助けてやろうと思って出てきたのを、あいつにはそれが伝わらなかったのか? 

俺が本気であいつを売ったとでも思ったか。

刀を鞘に収めると、俺も逃げた月星丸の後を追った。
夜の町は人通りが少ないとはいえ、入りくんだ通りに身を隠す場所も多い。

「くっそ、何故逃げた!」

あのまま大人しくしていれば話しが早かったものを、どうしてこんなに手間をかけさせやがる。

とことん面倒くさい奴だ。

数人の男がまとまって走る足音が聞こえる。

俺はとっさに身を隠した。

何を話しているのかまでは聞こえないが、集まった男たちは二人ずつの組みになると、そこから四方に散っていく。

月星丸を探しているのは、俺だけではない。

やみくもに探し回っても、見つからないことは分かっている。

俺が奴を騙して万屋へ連れて行ったことで、敵方とつるんでいると思われたかもしれぬ。

そう思うと、俺の姿を見かけたところで、向こうから近寄ってくる公算も低い。

行く当てもない子どもが、駆け込むとするならどこだ? 

立ち止まって、息を整える。

町中を走り回る複数の足音に、ピリピリと耳をそばだてながら、俺はゆっくりと歩き出した。

あいつらが見つけるも一瞬先に、俺がみつければよい。

辺りににらみをきかせながら、慎重に町中を進む。

やがてたどり着いた橋の上で、万屋に月星丸を迎えに来ていた男の姿を見つけた。

これを逃す手はない。

「これはこれは、お探ししていた坊ちゃんを無事に届け終えて、一息ついたというところですかな?」

男は俺を振り返った。

その視線が、俺の思惑を探っている。

「まぁそういったところだ。そなたは?」

「ちょいと探し物をしていてね、見つけたと思ったら逃げていきやがったもんで、また振り出しでさぁ」

「そいつはお気の毒だな」

男は視線をはずした。

十分な間合いを取れる位置で、俺は立ち止まる。

「ところで、あんたらの探しているものは、なんだ」

「そんなものはない。もう見つかった」

俺はゆっくりと刀を引き抜く。

「ならばそいつを、ちょいと見せてもらおうか」

切っ先を向けて、正眼に構えた。

それを見ても、男は微動だにしない。

「悪いが今は手元になくてね」

「そいつは納得いかねぇなぁ!」

俺は男に斬りかかった。

抜かれた相手の刀は、予想よりわずかに早く強い。

俺は後ろに飛び退いた。

男に動揺や焦りの色は見られない。

「そなたが何者なのかはここでは詮索いたさん。だがこれ以上首を突っ込むとなると、話しは別だ」

男は中段に構えた。

俺はそれよりもわずかに剣先を下げる。

「どこのお坊ちゃんだか知らねぇが、なにも命までとることはあるまい。俺に預けてくれれば、あんたらに迷惑はかけねぇって言ってるんだ」

男が踏み込んだ。

上から斬りかかってくるのを、しっかりと受け止める。

「捨ておけ、そなたの人生に関わりのないことだ」

「もちろんそれは承知の上だ」

力で押しのける。

再びぶつかった二本の刃が、視線の間で火花を散らした。

「だけどまぁ、一度でも知っちまったもんはなかったことには出来ねぇだろう? あんまり人が死ぬところは、見たくねぇよなぁ」

ギリギリと刃と刃がかみ合う。

少しでも接点がずれれば、すぐに斬られる。

「そなたの相手をしている場合ではない」

「そんなさみしいこと、言うもんじゃねぇだろ?」

押しのけられるその手前で、後ろに飛び退く。

振り上げられた刀の下をくぐり抜け、背後に回る。

もう一度中段で向かい合った。

「これ以上邪魔立てすると、本気で許さん」

「望むところだ」

俺が刀を振り上げた、その時だった。

「葉山さま! 月星丸さまが見つかりました!」

斬りつける俺の刃の切っ先を、葉山と呼ばれた男はひらりとかわす。

「案内しろ」

「こちらです」

葉山は刀を鞘に収めた。

「おいコラ待て! まだ勝負はついてねぇぞ!」

月星丸確保の一報を受けてか、周囲に葉山の手下が集まってきた。

「そいつの相手はお前らに任す。手強いぞ、気をつけろ」

男の言葉を合図に、五本の刀が一斉に抜かれた。

その隙に、葉山は案内の男と走り出す。

「待て! 待てって言ってんだろこの野郎!」

斬りかかってくる仲間を、さっと二人ほど斬り倒す。

振り返った残りの三人は、刀を構えてはいるものの完全に及び腰だ。

「くそっ」

ここでこいつらの相手をしていれば、本当に月星丸が捕まってしまう。

俺は刀を鞘に収めた。

それを見た手下が叫ぶ。

「卑怯者! 神妙に勝負いたせ!」

「うるせぇ、お前らの相手にはならねぇよ!」

葉山の走り去った方向に向かって走り出す。

あいつに捕まる前に何とかしなければ。

夜廻りの笛が聞こえる。

あまり騒ぎを大きくしたくないのは、あいつらも同じはずだ。

二人組のお侍の姿が、今夜はやけに多い気がする。

声をひそめ辺りに鋭く目を光らせている様子は、いつもの遊び人どもの酔い歩きとは違う、異様な風景だ。

走りながらどれだけ耳をすませても、もめ事や騒ぎのような喧噪の気配はない。

葉山は本当に月星丸を見つけたのか? 

それとも、すでに捕らえたか? 

逃げ足の素早い奴だ。

どこかにうまく身を隠していれば助かるのだが。

立ち止まった四辻の中央でぐるりと辺りを見渡す。

夜の町はしんと静まりかえっていた。

今この瞬間にも、月星丸の命が危ういというのに。

気持ちだけが焦るばかりで、一向に埒が明かない。

俺は腕を組むと、ゆっくりと歩き出した。

葉山の手先なのか、時折角に立つお侍が俺をギロリとにらみつける。

俺は酒に酔ってふらふらと町をさまようふりをしながら、月星丸の姿を探していた。

依頼の仕事が終われば、その後は深入りしないのが鉄則だ。

確かに俺にしたところで、奴を追いかけて得することは何もない。

辻に立つ侍が俺を見ている。

立ち止まりはしない。

俺はただ歩いている。

万屋から受けた仕事は、月星丸を探すことであった。

その仕事は終わったのだ。

その後のことは気にすることはない。

あいつは自分が殺されると分かっていたから、帰りたくなかったのか。

逃げ回っていた奴の行動に、今なら何もかも合点がいく。

月星丸は、自分の身の置き場を求めてさまよっていたのだ。

俺は夜空を見上げた。

月星丸という妙にキラキラした名のわりには、今宵は雲に隠れて何も見えない。

途切れた切れ間から、わずかな星が見えるだけだ。

きっともう、葉山とかいう男に捕まったに違いない。

だとすれば、今頃はもうこの世の者ではないだろう。

どこの誰だか素姓は分からぬままであったが、もしかしたらその方がよかったのかもしれない。

俺は頭を激しく左右に振った。

もう考えるのはよそう。

萬平の言う通り、案じたところで何がどうなるわけでもない。

夜道を歩く。

いつもは静かな江戸の町が、今夜は落ち着きがない。

無数の足音と叫び声が、聞こえないはずの頭に響く。

「くそっ、あの野郎どこに逃げた」

夜道を急ぐお侍の姿を見かける。

ひそひそと人目を気にして交わしている言葉の数々。その声をたどりながら俺は夜道を歩く。

彼らのささやき声に導かれるようにやってきたのは、花街の近くだった。

この辺りは夜でも人の出入りが多く通りも明るい。

「やぁ、あんたまだいたのか」

妖光漂う町へと続く門の前に立っていたのは、葉山だった。
「そんな格好のままで遊びに来るなんて、えらい度胸だな」

この男は、裃姿の正装だ。

「女郎になんぞ興味はねぇ」

そう言うと、葉山はゆるりと柱に背を預けた。

「一仕事終わったんでね、帰る前に一杯くらいひっかけて帰ろうと思っただけだ。用がないなら、あんたもどうだ?」

「あの女をどうした」

葉山は笑った。

「裏家業の仕事人が、女に入れあげてちゃぁざまぁねぇな」

「殺ったのか」

「知らねーよ」

だるそうにうつむいて、にやりと笑った。

「仕事が終われば後のことは知らんぷりだ。そうだろ?」

「あんた、あの女の家の者じゃないのか」

この男は、何もかもに全く興味がないような顔をしている。

「おまえ、本当に何も知らないんだな。ま、だからいいのかも知れねぇな。気楽なご身分ってやつだ、うらやましいよ」

葉山はくるりと背を向けた。

「じゃあな、後のことは知らん。俺の仕事は終わった。それだけだ」

花街の巨大な門をくぐり、喧噪の中に消えていく。

「くそっ」

月星丸は、どうなった? 

葉山の下っ端らしきお侍も、そこに何人か来ていた。

そいつらを引っ張りだして吐かせるには、ここでは人の目が多すぎる。

「あ、お侍さま、先ほどは失礼いたしました!」

にっこにこの笑顔で、つい先ほど囲まれ、斬り合いを繰り広げたばかりの一人に揉み手で近寄る。

「いやーご苦労さまでした。今から一杯っすか? いいっすねぇ」

俺は懐から銭を取り出すと、両方の手の平にのせて神妙に差し出した。

「ま、これでどうか一杯やっておくんなせぇ」

三人の侍は、少しためらった様子を見せたが、それをしっかりと受け取った。

「さっきの坊ちゃんは、どう始末なさったんですか?」

「おい、『坊ちゃん』はどうしたかだってよ」

侍たちは笑った。俺も一緒に笑う。

「これそこの浪人、物騒なことを申す出ない。あの方は我々がきちんとしかるべき所におくり届ける手配になっておる。案ずるな」

「あぁ、左様でございましたか。それは大変申し訳ないのでございますが、こちらにもこちらの事情ってもんがございまして」

俺はクイと、顎の先で町の暗がりを指した。

「ちょっとお伺いしたいことがあるんですがね、いかがなもんでございましょう」

「お前にもお前なりの事情があるってことか」

ゴクリと唾を飲む音が聞こえる。

男たちは俺の顔色を窺いながらも、急に声をひそめ、仲間内だけで話しているフリを始めた。

「そういえば、あの坊ちゃんの見張りには誰を立てたっけ」

「葉山さまが指名した男だよ」

「三つ先の通りの馬屋の裏小屋だったよな」

「後で様子を見に行ってやるか」

「そうだな。あいつだけでは頼りない」

「どうする?」

「まぁ腹ごしらえが先だ」

「なるほど、それからでもよかろう」

男の一人がちらりと見上げる。

「じゃあ、そういうことで我々に話せることは何もない。早急に去られよ」

「あぁ、お邪魔して申し訳ございませんでしたね」

素直過ぎる言動に苦笑いしつつも、俺は教えられた馬小屋へと急ぐ。

家人が主人の娘を売ってどうする。

そうじゃなきゃ暗がりに連れ込んで一発ぐらい殴ってやってもよかったが、今はそんなことをしている場合ではない。

花街から離れたとたんに、静けさと宵闇が戻ってくる。

小さな用水路沿いの風車小屋が、その馬屋の裏小屋だった。

見張りらしき男が、道の外で眠りこけている。

俺は小屋の中をのぞき込んだ。

敷き藁やら大工道具みたいなものを保管してある倉庫だった。

そこに人の姿はない。

裏の戸がわずかに開いている。

「おい、起きろ!」

俺は門番の男を揺り起こした。

「中の坊ちゃんはどうした?」

男は本当に眠っていたのか、目をこすって起き上がる。

「んぁ? なんだお前」

「誰か来なかったのか? 捕らえた男はどうした?」

見張りのはずの男は、どうも頭がすっきりしていない。

「どうもこうもねぇよ、中に入ってるだろ」

まだ寝ぼけているのか、ぐずぐずとして動こうとしないばかりか、もう一度眠りにつこうとしている始末だ。

「このどこに捕らえてあると言うのだ、言ってみろ!」

俺は扉を開けた。

もぬけの空だ。その様子を見て、男はようやく事態を飲み込んだらしい。

「あれ? どこへ逃げやがった!」

俺は部屋の中央の柱に近寄り、月星丸の痕跡を調べる。

「この柱に結びつけてあったのか?」

「は? 何いってんだ、そんなこと葉山さまがするわけねぇ」

「騒がれないように、さるぐつわとかは?」

「お前は誰と勘違いしてるんだ? そんな乱暴するわけがないだろう」

その言葉に、俺の脳みそは混乱を始める。

「月星丸を捜してたんじゃないのか?」

「しーっ、お前さん声がでけぇよ」

男はびくびくと回りを見渡した。

「あー逃げられちまったのかなぁ、どうしよう。また叱られる」

「裏口のかんぬきは?」

「は? そんなもんがこの小屋にあるわけねぇ」

俺は痛む頭を抱えてため息をつく。

これじゃあまるで、逃がしてやったようなもんだ。

「あのお嬢ちゃんは、どこへ行った」

「あんたも雇われ人か?」

どうしてあの葉山という男は、こんな無能な男を意味のない見張りに立てたのだろう。

「俺に葉山さまの考えは分かんねぇよ。あのお人は性格がはっきりしていて、計算高いお方だからな。自分の分に合わないことは絶対になさらねぇ」

男は両腕を組んで一人で感心している。

「ま、あんたにもまだ汚い仕事が残ってんだろ。しょうがねぇよな、上手いことやんな」

俺はその男に背中を叩かれ、なぜか励まされた。

「下っ端仕事は、辛ぇよな」

俺が小屋を出ようとすると、男は手を振って見送ってくれる。

この男は、月星丸に逃げられたことを何とも思っていないのだろうか?

とりあえず、月星丸が捕らえられていたはずの小屋の裏口に立って辺りを見渡す。

ちっ、こんなことなら、さっきの葉山とやらと一緒に飲んでた方が、マシだったかもしれねぇな。

月星丸が一度捕らえられて、また逃げ出したとしたら、どこへ逃げる? 

普通は反対方向だよなぁ。

俺は後ろを振り返った。

ここからでも、花街の空だけは明るく瞬いているのが見える。

俺はその光に背を向けて歩き出した。

「おやこれは、こんなところでお会いするとは」

俺に声をかけてきたのは、提灯を手にした萬平だった。

酒のにおいがする。

「寄り合いでもあったのか」

「まぁそういうところでございます」

「あの子どもをみかけなかったか?」

「あの子どもとは?」

ほろ酔いの萬平がとぼける。

彼はくすりと笑った。

「さて、もうあなたには関係のないことでございましょう。私は知りませんよ。あなたも早く帰ってお休みなさい」

萬平はふらふらと歩き出した。

「依頼の仕事に深入りするなんて、この家業には御法度ですよ」

そんなことは言われなくても分かってるさ。

俺は舌を打ち鳴らす。

だけどどうしても気になっちまうもんは、仕方ねぇだろ。

月星丸の明るい笑顔と、迎えが来た時の表情をなくした固い面を思い出す。

例えどんな人間だったとしても、にこにこ笑って暮らしてる方がいいに決まってるよなぁ。

大金を積んで捜し出し、殺すのかと思えば、簡単に逃がす。

何がしたいのか分からない。

迎えに来た葉山は月星丸の家の者ではないということか? 

もしあの男がそうでないとすれば、本当の依頼主は誰だ? 

夜道をふらふらと彷徨う。

花街から離れるにつれ、ますます夜は静かに深くなっていく。

この辺りまでが限界か。

俺は町の外れに広がる原野をながめた。

もしかしたら、長屋に戻っているかもしれない。

俺にはもう、そう願うよりほかになかった。

くるりと背を向けて、また町の中心に向かって歩き出す。

ふいに闇夜を駆け抜ける足音が聞こえた。

俺は表通りに飛び出す。

ばったりと鉢合ったのは、河原で月星丸を斬り殺そうとしていた輩の一人だった。

「お前、あの坊ちゃんをどうした!」

俺が叫ぶと、男は立ち止まった。

「は? 坊ちゃん? おめぇさん、アレを坊ちゃんだと思ってんのか?」

俺はスラリと刀を抜いた。

「男に化けた女だ。そうと知っての所行か」

とたんに男は焦ったように、両手を胸の前で激しく振った。

「おいおい、勘弁してくれよ。あんたはどちら側に雇われたんだい? どっちに転んだって、そんなムキになるような話しでもないだろ」

この男は、どうやらある程度の事情には詳しいらしい。

俺は刀を鞘に収める。

「殺ったのか」

「まだだよ。あんたに邪魔されたんじゃねぇか」

男は呆れたようにため息をついた。

「まぁ、商売的にはこうやって逃げてくれた方が、儲かるのかもしれないけどな」

俺が横目でにらむと、男は肩をすくめた。

「もう適当なこと言って、誤魔化しとくのが一番かもな。俺もそろそろ引き上げようかと思ってた頃だ」

男は歩き出す。

俺も後に続いた。

「誰に雇われた」

「お前さん、正気か?」

男は腕を組み、俺を下から上へと見渡した。

「ははん、あんた、何にも知らされないでこの仕事を受けてんな」

「俺は誰からも仕事として受けてない」

とたんに男は、プッと吹き出して笑った。

「じゃあなんだ、人助けのつもりか? それともあのお嬢ちゃんに入れあげたか?」

男は笑い転げた。

「やめとけ、あんなお嬢さんはてめぇとは身分も家柄も違いすぎるよ。変な夢を見る前にさっさとあきらめな」

俺が立ち止まると、男は慌てて飛び退く。

「おおっと。こんなくだらない仕事で刀傷でももらってちゃあ、世話ないや。じゃあな、お前さんもあんまり深入りしてねぇで、さっさとキリをつけておいた方が、身の為だぜ」

足早に男は立ち去る。

そんなこと、お前らなんかに言われなくても重々承知の上ってもんだ。

俺はため息をつく。

関わるな、か、確かにそうだ。

そのままふらふらと町を彷徨い続けていたことに、俺は日が昇るのを見て気がついた。

疲れた足を引きずって、俺は万屋へと向かった。
店では数多くの丁稚や奉公人たちが、朝飯の支度を始めていた。

飯を炊く幸せなにおいがあたりに漂っている。

「邪魔するぞ」

俺は店先から勝手に上がり込むと、奥の部屋へと向かった。

「おやこれは千之介さま、そんなにお疲れになった様子でどうなさったのですか?」

早速萬平が現れる。

「わけなどない。そなたには関係のないことだ」

どかりと畳の上に腰を下ろすと、カラカラと萬平は笑った。

「おやおや、今日はこちらで朝を召し上がるおつもりですか? 申し訳ないのですが、別のお部屋に用意させましょう。どうぞこちらへ」

促されて、渋々と立ち上がる。

「どこへいくつもりだ」

大名屋敷に匹敵するような敷地の広さだ。

短い廊下でつながったあちこちに、細かい仕切りと小部屋がいくつもあり、迷宮のような作りになっている。

「失礼いたします」

萬平がそっと襖を引いた奥の部屋には、布団が敷かれていた。

そこから起き上がったのは、月星丸だった。

「おまえ! なぜここにいる!」

月星丸は、ぽかんと俺を見上げている。

「俺は一晩中お前を探し回ったんだぞ!」

勢いにまかせて、俺は襟元をつかみ引き寄せる。

「なぜ逃げた! 俺がお前を騙すとでも思ったか!」

「……、騙してここへ、連れてきたじゃないか」

「一晩中、どこをほっつき歩いてた!」

「俺だって大変な目にあってたんだ、必死で逃げてきたんだよ」

胸元が苦しいのか、月星丸は潤んだような目で俺を見上げた。

「一時の、夢を見ていたような気分だった。あのままあんたに殺されるなら、それでもいいと思った」

「ならなぜ逃げた?」

「……やっぱり、死にたくないと思ったからだ。最後に……あんたに裏切られた記憶のままで、殺されるのかと思うと、嫌になった」

月星丸の赤く潤んだ目が光る。

「あの後であんたに斬られるか、また引き渡されるくらいなら、助けて一緒に逃げようとしてくれた言葉を信じて、どこかで隠れてひっそりと生きようと思った」

襟元を握りしめる手が緩む。

「……なら逃げるな」

「仕方ないだろ、俺だって必死だったんだ」

月星丸の手が、襟をつかむ俺の手に触れた。

「苦しい、離して」

その柔らかな触覚に、俺は反射的に両手を上に上げる。

「なんだよ、そんなに触られるのが嫌か」

「うるせぇ、俺を殺す気か」

心臓がばくばくしている。

俺は月星丸から触れられないように、少し離れたところに座り直した。

「あんたの病気だって、まだ治ってないじゃないか」

すねた様に横を向いた奴の顔は、完全に少女そのものだ。

胸の動悸が収まらない。

何をどういわれようと、これだけは治らない。

「まぁまぁ、無事に再会出来てなによりでございました」

萬平は、にこにこしながら座っている。

「くそ、万屋、俺を謀ったな」

「おほほ、敵を騙すにはまず味方からということを、お忘れになりましたかな」

「いつからこんな手はずになってたんだ!」

「それは全くの偶然にございますよ」

萬平は言った。

「ちょいとした寄り合いの帰りに、偶然月星丸さまとばったりお会いしましてね。このまま運良く万屋までたどり着くことが出来れば、お助け申しますと言ったのです」

「あそこで萬平どのに出会っていなければ、今頃本当にどうなっていたのか分からない」

「それもこれも、月星丸さまが強運をお持ちのおかげでしょう」

「そなたには心から感謝する」

月星丸がそう言うと、萬平は笑った。

「なに、あそこで私と出会わなくても、この千之介さまが、あなたを必ず捜し出して助けてくれましたよ」

「やかましいわ!」

月星丸の顔が真っ赤になっている。

俺の顔もつられて赤い。

やはりこの万屋は苦手だ。

「で、こいつの正体は一体何者だ」

その言葉に、萬平はただ月星丸の前にひれ伏し深々と頭を下げただけだった。

月星丸は、ふぅとため息を漏らす。

「それを知れば、あんたも無事では済まなくなる」

「上等だ」

昨夜は風呂にも入れてもらえたのか、すっかり小ぎれいになった月星丸は、布団から出ると座り直した。

一つため息をつく。月星丸は、語り始めた。

「俺は、産まれたときから、すぐに死ぬか、殺されるものなんだと思っていた。だから、何もかもどうでもよかったし、いつ死んでも仕方ないと思っていた。だから何もかも好き勝手に振る舞ってきし、周りも何となくそうと知って許していた。それが当然と思えるような毎日だった。当たり前だったから、それで、俺自身もいいんだと思っていた」

月星丸は、そっとうつむく。

「だけど、元服の話しが出て、成人の日が近づいてきて、いよいよ俺の命もここまでだと覚悟したとき……、だから最後に、少しだけ自由になってみたいと思った」

少年と思っていた少女は、両手に顔を埋めた。

「思い切って出てみた外の世界が、何もかも珍しくて、楽しくて、俺はようやく自分が自分になれたような気がした。俺が今までの俺でなくなった時に、俺は初めて自分になれた。それで初めて、本気で死にたくないと思ったんだ」

白く細い手で涙をぬぐう。

「あの場所で、元服を迎えるまでに生き残れる者は、半数にも満たない。俺は間違いなく、いつの間にか消えていなくなる方の半分だ。だから、逃げてきた。これからも、俺が生きている限り、追っ手の数は絶えることはない。ここにこうして隠れていても、この先どうしていいのか、俺には分からないんだ」

一筋の涙が、月星丸の頬を伝って落ちる。

「どうか、今まで通り変わらず接してください。俺がそうしてほしいから。俺にはもう、それ以上のことは言えない」

俺はちらりと萬平に目をやった。

こんな話だけでは、中身が全く見えてこない。

だが萬平はかしこまって座っているだけで、何も付け加えて話そうとはしなかった。

ということは、俺だけが知らずにいろということか。

心の中で、こっそりとため息をつく。

まぁよい。

余計な算段をつけるのは得意じゃない。

いいように踊らされるなら、踊らされてみるのもまた一興。

「それで、どうしたいんだ?」

俺は月星丸を見る。

「あんたはこのままここに残りたいのか、どこか遠くへ逃げたいのか、それともいずれは戻りたいと思っているのか、それを決めてもらわぬことには、どうにもならぬ」

「決めたところでどうにかなるのか!」

「お前が余計なことを話したくないのなら、俺も聞かぬ。だがそうするのであれば、こちらもそれなりになることを忘れるな」

俺は月星丸を見下ろす。

「全てそなた次第だ」

出来ることと出来ぬことがある。

その選択肢を選ぶのは俺ではない。

「お前が何かを望むなら、俺は全力でそれを助けよう。けれど何も望まぬというのなら、助けなどそもそも必要あるまい。好きに暮らせ」

「俺はここで、あんたと一緒に暮らしたい!」

突然のそんな告白に、耳まで血が上りそうになるのを、俺は必死で押し返す。

「そりゃ無理だ」

「今、全力で助けるって言ったじゃないか!」

「やかましいわ、このクソ女」

「なんでだよ!」

「俺は女は嫌いだ」

月星丸は涙をたたえた目でにらみつける。

だがそんなことは知ったこっちゃあない。

「やい万屋、今度拾ったのはお前さんだ。どうするかはあんたが決めろ」

「では月星丸さま、いかがいたしましょう」

「俺は千之介と一緒に長屋で暮らす!」

「それは却下だ」

立ち上がり部屋を出て行こうとした俺を、万屋が引き留める。

「千之介どの、私から仕事の依頼でございます」

萬平はにこやかな表情を何一つ崩さす、俺を見上げる。

「月星丸さまの、身辺警護のご依頼です。しっかりとお守りください」

「ふざけるなよ、万屋!」

「まぁ千之介どの、何をおっしゃることやら。この万屋萬平の見立てに間違いはございません。この仕事、受けて損はございませんよ」

萬平は、満面の笑みを月星丸に向けた。

「では月星丸さま、護衛役にこの千之介をおつけいたします。どうかよしなにお願いいたしますよ」

萬平は月星丸に対して、諸手をついて頭を下げる。

「恩に着る、萬平どの!」

「ふざけるな、俺は知らん!」

部屋を出る。

後ろ手に閉めた障子の奥から声が聞こえてくる。

「待ってよ、千さん!」

「大丈夫ですよ、すぐに追いかけなさい」

その言葉通り、月星丸はすぐに飛び出してくると、大股で廊下を歩く俺の後を追ってくる。

「受けた仕事はちゃんとするんだろ!」

寝間着のままで駆け寄る月星丸の姿を見た瞬間に、俺の息が止まった。

「服を着てから出てこい!」

身支度が済むまで、俺はイライラしながら裏戸近くの縁に腰を下ろして待つ。

出てきた月星丸は、元のボロをまとった少年の姿になっていた。

「ほら、この格好なら千さんも平気だって」

「平気ではないが、まだましだ」

立ち上がり、先に歩く。

「俺も容赦しないぞ」

「うん」

俺と月星丸は、揃って裏口から外へ出た。

先が思いやられる。

どこまで、いつまで、このわがままにつき合えばいいものやら。

長屋に戻ると、何もしらない住人とその子どもたちが寄ってくる。

「おや、二人揃って朝から出かけてたのかい?」

「うん、ちょっとね」

月星丸は、うれしそうに井戸端で洗濯をするお富美さんの隣に座り込んだ。

「今日もさ、後で虎次郎と遊びに行っていいか? 河原で凧揚げしたいんだ」

「あぁいいよ。後で行くように伝えておくよ」

俺はため息をついてから、小さな我が家に戻る。

これから河原で凧揚げ? 

勘弁してくれ。

俺もつき合わすつもりか。

部屋の隅に布団を敷き直すと、そこへ横になった。

そういえば、昨夜は一睡もしていなかったことを思い出す。

外から聞こえるにぎやかな笑い声を尻目に、俺はすぐに眠りについた。
午後になってたたき起こされた俺は、宣言通り河原の土手に座って、凧揚げをする子どもたちの守りをさせられている。

「あんたの仕事も大変だな」

そして何よりも気に入らないのは、その横に座る葉山の存在だ。

「なぜお前がここにいる。誰に聞いた?」

「俺も逃げたお姫さんを探さなきゃならねぇ仕事があってねぇ。万屋に聞いたらここだって言うから、来てみただけだ」

くそ、万屋め。

どういう了見だ。

「姫さんか、まぁそうだろうよ。あんたはあいつの素姓を知ってるってことか」

「は?」

葉山はイラついたような視線を俺に向ける。

「貴様、正気か?」

そんなことを言われても答えようがないので、そのまま黙っておく。

葉山はため息をついた。

「あぁ、そうかい。いやはや俺はあんたがうらやましいよ」

葉山は草深い土手の上に、ごろりと横になった。

「まぁそいつをお望みってことなら、仕方ねぇよなぁ」

葉山は空を見上げる。

「あぁ、今日もいい天気だなぁ」

そう言って葉山は目を閉じた。

凧を手に土手を駆け上がってきた月星丸は、寝ている葉山を見て驚く。

「え? 千さんこの人って、あ、あの、大丈夫なの?」

「どうだかな」

葉山は寝たふりをしたまま動かなかった。

「千さんも、凧揚げ、する?」

「するわけねぇだろ」

「そ、そうかい?」

「もうちょっとしたら帰るぞ」

「うん」

月星丸が駆け下りて行った後で、葉山がくすくすと笑っている。

俺は深い深いため息をついた。

「お前も暇なら働けよ」

「俺が探してるのはお姫さんで、ガキじゃねぇ」

葉山はごろりと寝返りをうってから、本当に寝始めてしまった。

月星丸は他の子どものと絡まった凧糸をほどくのに、悪戦苦闘している。

俺にそれを手伝わせようと手招きしたが、そんなのは無視だ。

やがて喧嘩が始まり、物別れに終わる。

「もういいよ、千さん帰ろう」

切れた凧糸を引きずって土手を上がってきた月星丸は、ぷりぷりと怒っていた。

「あいつら、全く話しが分かんねぇ。喧嘩凧するんなら、ちゃんとしたやり方ってもんがあるだろ。糸が絡まったからっていきなり喧嘩だなんて、そんなの聞いてねぇっつーの」

「お前が糸をほどいてやれ」

河原では、破れた凧を手に子どもが泣いている。

月星丸以外の子どもたちは、みな幼い子を慰めていた。

「やだよ。あいつが悪い。千さんも見てただろ」

「てめーいくつだ。お前の歳じゃあ、他の子どもは皆もう働いている。仕事もしねぇくせに遊んでばっかで、ガキを泣かしてちゃあ世話ねぇな」

月星丸の表情が、ムッとした表情に変わった。

「どこのお姫さんだか知らねぇが、ここで暮らしたいのならそういうわけにはいかねぇ。世間には世間の成り立ちってもんがあるんだ。お前も今からそれを学ばなきゃなんねぇ」

泣き止んだ子どもたちが、仲間と共にこちらに近づいてくる。

「それが嫌なら、うちに帰りな」

「……だから、帰れねぇって言ってるのに……」

ぼそりとつぶやいた月星丸は、ぷいと背を向けた。

子どもたちは月星丸を囲んで、何かを言い始める。

奴は黙ってそれを聞いていた。

それでもいくらかして、自分の半分くらいしか背のない子どもたちと和解が成立したようだった。

一緒になってこちらに戻ってくる。

「仲直りしたのか」

「うん」

不機嫌な月星丸はそう答えた。

俺は寝転んだままの葉山を放って、子どもたちを連れ長屋に戻る。

月星丸は、すぐに飯の支度を始めた。

「お前、飯炊きは出来るんだな」

「これだけは覚えてたんだ。下女に混じってヘマをする俺を見て最初は笑ってたけど、ある程度出来るようになったらやめさせられた」

かまどに火をおこすのも、上手い。

「子どものころは分からなかった。下女に混じって色んな仕事をしてた。裁縫もするし掃除や片付けもやってた。部屋の皆がやってたから、そうすることが当たり前だと思ってた。その間に、俺のために呼ばれていたはずのお茶や書の先生は、他の女中たちに手習いを教えて、俺はそれを見ていただけだったけどな」

武家の娘なら、お茶や書の指導だけではなく、家事全般も厳しく仕込まれる。

単なる意地悪を受けていたのか、まだ家事が出来ないから手習いは早いと思われていたのか……。

俺はこいつのおかれていた環境に、頭をめぐらせる。

月星丸に任せた日は、いつもより食事も豪華だった。

「読み書きは出来るんだろ?」

「少しくらいなら」

月星丸はうつむいた。

「そういうことは、やってない。十を過ぎた頃からは、ただ座っているだけだったから」

「あぁ、本物のお姫さまだったんだな」

そういうことにしておこう。

ここでかつての嫌な出来事まで、わざわざ思い出す必要はない。

俺は焼いた魚の身を口に放り込んだ。

「そんな、いいもんじゃねぇよ」

月星丸は、ぼそりとつぶやいた。

食べ終わった食器をさっと片付けて、土間も掃く。家事は完璧だ。

「さぁ、もう寝るんだろ。仕切りを立てるよ」

灯りを消して、布団にもぐる。

「だけどさ、そうやって犬子どもみたいな仕事をさせられてたのも、悪くなかったかなって。ただ座って幻のように人の行き来を見ているだけよりも、自分で何もかも出来るって、凄いな」

「本当にただ座っているだけだったのか」

「うん」

衝立のむこうで、月星丸が笑っている。

「明日の飯の支度も俺がやるよ。誰かの役に立てるって、楽しいな」

「……そうか。じゃあ頼んだぞ」

天井についた馴染みの染みは、暗くなって目に見えずとも分かる。

月星丸は、やはり疎んじられていたのだろうな。

まぁ、そうじゃなきゃ抜け出してきたりしねぇか。

だけどそれじゃあやっぱり、こいつの立場は家出の期間が長くなればなるほど、もっと悪化しねぇか?

ごろりと寝返りをうった。

家出か。

そういえば俺も、家を出てきたまんまだなぁ。

帰らないと覚悟を決めて出てきた俺に、帰れと言う資格があるのだろうか。

そんなことを考えているうちに、いつのまにか眠っていた。