俺は基本、図書室にこもってる。
友達がいない、わけではない。本が好き、というわけでもまったくない。
理由は至極単純で、新学期が始まると同時に行われた委員会の担当を決める時に、見事じゃん負けで図書委員に選ばれてしまったのだ。確率は三二分の一。あの日もし宝くじでも買っていたら、俺は今頃億万長者になっていたんじゃないかって今でも思う。
そんなことを思いながら、藤川学はつまらなさそうに図書室のカウンターで肘をついていた。視界に映るのは、いかにも勤勉真面目という言葉がピッタリの眼鏡をかけた静かそうな男子や、これまた勤勉真面目という言葉がピッタリの堅物な女子。その他にも、寝てるやつもいれば、勝手に漫画を持ち込んで読んでるやつもいる。それに隅っこで座ってるあいつ……、図書室でイヤホン禁止だから。
「たく……」と声を漏らすも、特に注意はしに行かない。そして、注意をしに行こうとする他の図書委員もいない。
本来、図書委員なるものは各クラスから一人ずつ選出される。つまりうちの学校は各学年五クラスだから、単純に計算したら十五名の組織からなるはずだ。が、三年になると一応は進学校なので、委員会活動は除外される。そうなると、一〇人で運営することになるのだけれど、何故か二年生でまともに活動しているのは俺とあと一人だけ。他のクラスの連中はサッカー部に所属していて、今年は本気で全国大会を目指すということで、放課後の委員会活動にはこないのだ。しかも、一年の奴らも半分以上はサッカー部に所属していて、これはもう組織的な陰謀を感じる。
「ぜったい誰か仕組んだだろ、この状況……」
コンと頭をカウンターにつけて、俺は苛立ちを込めて呟いた。委員会活動が始まって早一ヶ月が経つが、ほとんど毎日のように図書室にこもっているせいで、すでにゲロを吐きそうだった。今のところまともに放課後に姿を見せたメンバーは、一年の仲良し女子三人組と……
「こら、サボり」
突然鼓膜に届いた声とともに、後頭部に鋭いものが刺さった。その拍子に、「イタッ!」と慌てて顔を上げる。真っ先に目に入ってきたのは、貸し出し中の文庫本。どうやらこれが凶器のようだ。
何すんだよ、と声を強めて相手を睨めば、見慣れた顔も目を細めてきた。
「何すんだよ、じゃないわよ。サボってないでちゃんと図書委員の仕事やってよね」
そう言ってカウンターの中に入ってきたのは、高山彩明。俺と同じ二年で、この委員の長をやっている。ちなみに、中学からの同級生だ。おそらく彼女を一度でも見たことがある人は、みな心の中で思うだろう。「ああ、生徒会やってそうだね」とか、「勉強できそうだね」とか。ピシっと括った黒髪に、赤いフレームの眼鏡。ノーメイク、ノーライフと主張するクラスの派手な女子とは違い、素肌丸出しの顔。それでも中身は、そんじゃそこらのギャルなんかよりよっぽど凶暴だ。
俺は彼女のことを、心の中で『真面目系ティラノサウルス』と勝手に呼んでいる。
「お前の方こそ遅れて来てるじゃん」
「私は先生に用事頼まれてたから遅れたの」
「……」
まるで先生に用事を頼まれることが優等生の証拠だと言わんばかりに、ドヤ顔で彼女が言った。そのついでに赤いフレームの眼鏡をくいっとあげる。
「どーせ藤川のことだから、仕事もせずに女子ばっか見てたんでしょ」
 よいしょと自分の隣に腰掛ける高山は、そのガードが固そうな見た目とは裏腹に、軽快に軽率なことを言ってきた。その言葉に俺はあからさまにため息を漏らす。
「だいたい……」
こんな場所に可愛い子なんて来るはずないだろ、と続けざまに危うく言いそうになり、思わず口を噤んだ。つい最近無意識に同じ言葉を呟いてしまい、非常に強烈なアッパーを食らったばかり。あれを二発も食らうなんて、まっぴらごめんだ。すると相手はガサゴソと鞄の中を漁り始めたかと思うと、その右手を勢いよく突き出してきた。
「じゃじゃーん! どう? このハイセンスな仕上がり」
そう言って目の前に突き出されたのは、細い二枚の紙。どちらも同じデザインで、猫なのか狸なのかわからない奇妙な生物が描かれている。
何のおふだだよ、と尋ねる前に、上機嫌な相手が先に答えを教えてくれた。
「いやー、やっと完成したんだからオリジナルの『栞』。印刷するのに無駄に時間かかちゃって」
「は? 何それ?」
思わず動揺と疑問を混ぜこぜにした自分の声に、相手はすかさず口を開く。
「何それって、図書委員ならオリジナルの栞くらい必要でしょ。『これが私の人生を変えた一冊!』って本に出会ったとき、あんた何を挟むつもりなのよ」
「何挟むって言われても……」
そんなサンドイッチの具材みたいに問われても、本に挟むもんなんてレパートリーはないだろう。そう告げようと唇を開いた時、蓋をするかのように相手の声がすかさず鼓膜を揺さぶる。
「ハイハイつべこべ言わずあんたも受け取る。栞は本の御守りなんだから」
「げっ、いらないってこんなの……それに俺は本を読まな……」
「あ?」とヤンキーまがいの声がすぐに返ってきて、俺は慌てて言葉を止めた。そうだ。目の前の相手は大の本好き。それゆえ自ら立候補した図書委員で、しかも長。彼女の前で本を侮辱することは、それはつまり、死を意味する。
建前の『ありがとう』さえ言うことが出来ず、俺は諦めたようにため息をつくと変な栞を受け取る。それでも相手は受け取っただけでも満足したのか、「よしっ」と謎の気合いを発した。
「それじゃあみんなにも配ってきますか」
「は? 何言ってんの?」
再びよいしょと言って立ち上がる高山に、思わず目を丸くする。
「何言ってんのって、だからこの栞をみんなに配ってくるのよ」
「配ってくるって、まさか……サッカー部まで行くつもりなのか?」
ありえないという表情で見つめるも、「だってあそこが一番図書委員多いでしょ」とまさかの返答。……もう、好きにしてくれ。
呆れて言葉を失う自分をよそに、「じゃ、あとはヨロシク!」と彼女は急いでカウンターを出て行こうとする。
「あとはヨロシクって……図書委員の仕事はどうすんだよ?」
「え? あんたがいるじゃん」
「……」
じゃね、と勢いよくカウンターを飛び出していく高山の後ろ姿を見つめながら、俺は今日一番のため息をついた。あそこまでいくと、責任感が強すぎるのか無いのかもうわからない。そんなことを思う自分を、栞に描かれた変な生き物が見つめていた。

結局、図書室が閉まる十八時になっても図書委員の長は帰ってこなかった。イノシシよりも真っ直ぐに突撃する彼女のことだ。たぶん、サッカー部全員が受け取るまでは戻ってくることはないだろう。しかも、こんな日に限って途中でやってきた一年生の女の子たちも、「塾があります」と言ってすでに帰ってしまった。
「結局俺ひとりかよ……」
目の前のテーブルに残っている数人の生徒を見つめながらボソリと呟いた。本が嫌いなのもそうだが、何かとこんな形で仕事を押し付けられることも、図書委員というポジションを早く投げ捨てたい理由の一つだ。
はあ、と何回ついたかわからないため息を合図にのっそりと立ち上がると、「もう図書室を閉めます」という言葉を配りにいく。図書室なので、やいのやいの言わなくても素直に帰ってくれる生徒ばかりなので、そこは唯一ありがたいところ。これがコンビニの前でたむろするヤンキーとなれば、俺は一日でも早くこの仕事を逃げ出していただろう。
最後の男子生徒が図書室を出ていくのを見届け、俺は扉に鍵を閉めた。べつに誰か入ってきたところで追い返せばいい話しだけなのだが、こうすることで『自分だけの時間』を手に入れたような気持ちになるのは、わりと根暗ということなのだろうか。
そんな疑問を頭の片隅で思い、自嘲じみた苦笑いを浮かべると、本日最後の図書委員の仕事をするために本棚へと向かった。ここの現場監督である以上、乱れた本は綺麗にして帰らないといけない。
「誰だよこんな戻し方したやつ……」
満員電車のように無理やり押し込められた哀れなハードカバーを見て、思わず声が漏れる。右手に力を込めて取り出そうにも、「ボンドで引っ付けられていますか?」と聞きたくなるほど固い。
 誰もいないことにをいいことに、「ふぬぬ!」と図書室で気合いの声を発しながら力を入れて引き抜こうとすると、突然右腕がポンっと軽くなった。その拍子に、掴んでいた本は息をするかのようにその姿を現し、俺はといえば、息を止めたくなるほどの勢いで後ろの本棚に頭をぶつける。「痛い!」と声を上げる間も無く、バラバラと雪崩のように大量の本が落ちてきて、思わずそのまま尻餅をついた。
「……」
 後頭部に痛みを感じながら、頭の上にまで本を乗せて呆然とする。たぶん今の自分を見たら、きっと漫画のシーンにでも出てきそうなくらい情けない格好をしているのだろう。
 図書委員として、本を大切に扱おうとした結果、恩を仇にして返されてしまった。どうやら自分が本嫌い、図書委員嫌いというのは彼らには筒抜けのようだ。
「あーあ、めんどくせ……」
こんなことになるなら、圧迫死しそうな本なんて助けなきゃ良かった。そんな後悔を胸に抱えながら、力なく立ち上がって前に屈むと、自業自得で増やしてしまった仕事に取り掛かる。
これはそう……本棚の整理に繋がる! なんてポジション思考に切り替えようとするも、うんざりしている気持ちの方が勝ってしまうようで、なかなか気が乗らない。それに俺は、生まれてこのかたマイナス思考だ。
 さっさと片付けて、今日は早く帰ろう。
 そんなことを思い散らばった本を一冊ずつ拾っていた時、ふと伸ばした右手の先に奇妙な本があることに気づいた。それはちょうど文庫本ぐらいのサイズで、裏を向いているのか、真っ白でなにも書かれていない。「おかしいな」と声を漏らしつつその本を手に取りひっくり返すと、これまた何も書かれていない。ついでに背表紙には、タイトルさえもない。
「なんだこれ?」
思わずひとり言を呟いて、俺はその本をめくった。すると中には文字が書かれている。……しかも、なぜか手書きで。
「え?」
謎が謎を呼ぶように、突如目の前に現れた本に、俺は興味をそそられた。中途半端なページを開いてしまった両手を再び動かし、最初のページに戻ってみる。するとタイトルはないが、真っ白なページに作家名らしきものがぽつんと左下に記載されている。
「……糸織?」
聞いたことないな。っというより、本なんてまったく読まないので作家の名前なんて誰もわからない。まして、個人的に書かれた本の作者がわかるような超能力だって持ってない。
 それでも手にした本をすぐに棚に戻さなかったのは、立派な図書室になぜこんな幼稚くさいものが紛れ込んでいるのか気になったからだ。しかも、少し丸みがかった文字の雰囲気を見る限り、これはおそらく、女子の字。もしかして……日記か?
「どれどれ……」とスカートを覗き込むような後ろめたさも心のどこかで感じながら、俺は次のページをゆっくりとめくってみた。が、そこには日付なんて書かれておらず、いかにも小説風な文書から始まっている。
「なんだ、日記じゃないのか」
おみくじで大吉を期待して小吉を引いてしまった気分になるも、そのまま視線で文書を追っていく。やっぱりこれは小説のようで、文字を追うごとに物語が進んでいく。
「……」
床に散らばっている本がまだあることも忘れ、俺は片手に持った本と一緒に、誰もいなくなったテーブルへと向かった。そして椅子に腰掛ける。ふわりと窓から吹いた風を頬に感じながら、いつの間にか自分の意識は目の前に開かれた物語の世界へと入っていた。
それはこんな物語だった。
 主人公は高校二年生の男の子で、彼は常に成績優秀で実家はなかなかの名家。父親は大企業の社長をしていて、彼もゆくゆくはその跡を継ぐことになっていた。が、人生の進路をがんじがらめにされていた彼は、そんな現実にうんざりする。そんな彼の前に、ある日転校生がやってくる。女子高生の姿をしている彼女の正体は実は織姫で、その女の子は何かと主人公の男の子に絡んでいく。最初は嫌がる彼だったか、天真爛漫で自分の心に素直な彼女に次第に惹かれていく。しかし彼女はある日突然姿を消してしまい……
「……あれ?」
 めくったページが真っ白だったことに、俺は思わず声を漏らした。どうやら、途中までしか書かれていないようだ。
「飽きたのかな」とぼそりと呟くと、両手を上げて曲がった背中をまっすぐ伸ばす。久しぶりに文章を読んだせいか、疲れ切った脳みそが悲鳴の代わりに眠気を誘ってきた。「ふわぁ」と俺は大きくあくびをすると、テーブルに頭を伏せた。反射的に、早くも瞼が重くなる。
 ちょっとぐらいなら大丈夫だろう。
 そう思った俺は、閉じたばかりの本を枕にすると、今度は夢の世界へと足を踏み入れていった。

「こんなところで寝てたら風邪ひくよ」
夢の中で、声が聞こえた。優しく、耳を撫でるような声。
 ああそうか……俺はたぶん、夢の中で彼女ができたんだ。中学の頃から念願だった彼女が。一体どんな子だろう……いったい、どんな……
 まるで夢の中の人物を探すようにうっすらと瞼をあけると、あたりはいつの間にか薄暗くなっていた。
 やばい、寝すぎた! と思って顔をあげようとした瞬間、夢の中で聞いたはずの声が再び鼓膜に届いた。
「ね、何読んでたの?」
「え?」
思わず肩がビクリと震えた。中途半端に上げた頭を前に向けると、色濃くなった夕暮の中で、チェックのスカートがふわりと揺れた。驚いた俺は、慌てて顔を上げる。見慣れたシャツに、見慣れたリボン。そして……
……誰?
ふと目が合った相手は、見慣れた制服を着た、知らない女の子だった。夕焼けを反射して真紅色に輝く艶やかな黒髪。同じように、ほっそりとした腕と足もその輪郭を赤く染めている。優しく何もかも包んでくれそうな大きな瞳に、すっと通った鼻筋。はっきり言って、誰がどう見てもかなり可愛い部類に入るだろう。
寝起きに不意を突かれてしまい、情けないことに口をパクパクとさせることが精一杯だった。そんな自分を見て、相手は指先を唇に当てるとクスリと笑う。
「ね、その本は?」
彼女は再び同じ台詞を言った。その言葉に、俺は慌てて手元を見る。そこには、ついさっき見つけた謎の本。しかもその横には、いつの間にポケットから逃げ出していたのか、高山からもらった珍獣が描かれた栞まで飛び出していた。
「こ、これは……」と言いながら慌てて栞を本に隠すと、急いで近くに置いていた鞄へとしまった。こんなアイドルみたいな見知らぬ女子生徒に、得体の知れない本を見せる勇気はない……っというより、ほんとに誰?
そんなことを思いながらも、自分の両目は突如現れたその女の子に釘付けだった。相手は無邪気な笑顔を浮かべたまま、こちらの答えを待っているようだ。
「これは、その……さっき偶然見つけただけで……ちょ、ちょっと気になって読んでただけです」
 最近やっと日本語を覚えました、といわんばりのぎこちない口調で俺は言った。相手はそんな自分を見てクスクスと笑っている。そんな姿も可愛くて、俺は思わず見惚れてしまう。すると相手は「ふーん」と声を漏らすと、ぐいっと顔を近づけてきた。
「どんな本だった? 面白かった?」
 夕暮れ色に輝く瞳が、自分の顔を映した。そのあまりの近さに驚いてしまい、俺は慌てて後ろに下がった。胸の中では、心臓が激しく飛び跳ねている。
「い、いやこれは本っていうか、誰かが書いたやつで、小説みたいな小説で……」
 ダメだ。まったくうまく話せない。寝起きということもあるのか、思った以上に頭も口も回らない。それでも相手は機嫌を損ねるどころか楽しそうに肩を震わせている。
「君って面白いね。名前は……」
 そう言いながら彼女がチラリと壁にかかった時計を見た時、「あっ」と突然声を発した。
「いけない。そろそろ戻らないと」
 呆気にとられたまま固まっている自分の前で彼女はそう呟くと、くるりと身体の向きを変えて扉まで向かっていく。ちょっと! と声をかけようにも、恥ずかしい感情が喉の奥に詰まり、言葉が出てこない。すると扉に触れた彼女が、チラリとこちらを振り返った。その視線に、思わずドクンと胸が高鳴る。
「またね!」
ニコリと笑って彼女はそう言うと、そのまま扉を開けて黄昏色に染まった廊下へと消えていった。再び訪れた静寂の中、俺はただ呆然と彼女が閉めていった扉を見つめる。
……誰だったんだ?
頭の中の疑問符に答えを見つけようと、俺は自分が知っている女子生徒の顔を思い浮かべた。何なら学年違いでも可愛いと噂される人たちを思い浮かべてみる。でも、どれもヒットしない。
「もしかして転校生なのかな……」
ぼそりとそんなことを呟いた時、再び扉の向こうから足音が聞こえてきた。
 もしかして! と高鳴る感情に突き動かされて思わず立ち上がると、今度は目の前で荒々しく扉が開いた。
「ちょっと藤川! あんたさっき鍵しめてたでしょ!」
「ひっ!」
先ほどの美しい美女の登場を期待したが、現れたのは赤い眼鏡をかけた野獣だった。見えないツノを尖らしながら、相手はドスドスとこちらに向かって力強く歩いてくる。
「あんたのせいで私まで帰れなかったんだからね! いったいどう責任取ってくれんのよ!」
ドン! とテーブルの上に右手をつき、野獣が叫ぶ。「ご、ごめん」と、とりあえず両手を合わせて頭を下げる。が、もちろん彼女の機嫌は直らない。そんな相手に怯えながらも、俺は恐る恐る口を開いた。
「あのさ……ここに来る時、誰か女の子見なかった?」
「は?」
 絶対零度。そんな冷めた視線を向けられて、思わず「ひっ」と声が漏れそうになる。
「そんな人見てないわよ」
 冷たい口調で彼女はそう言うと本棚の方へと歩いてく。そしてしゃがみ込むと、「あーもう床に本散らばってるじゃん!」と吠え始めた。
「おかしいな……さっきまでここにいたはずなんだけど……」
 一人騒いでいる彼女のことはよそに、俺は頭をかきながらぼそりと呟いた。すると突然静かになった高山がすっと立ち上がる。そしてゆっくりとこちらを振り返ってきた。
「あんたもしかして……図書委員の責任者である私を追い出して、ここでふしだらなことしてたわけじゃないわよね?」
「はい?」
 急にあらぬ疑いをかけられてしまい、思わず声が裏返る。それが余計にいけなかったのか、相手は眉間の皺をさらに深めた。「ちが……」と慌てて口を開こうとするも、先に野獣の咆哮が鼓膜を揺さぶる。
「やっぱりそうなのね! 通りで床に本が散らばってると思ったわ! 帰りなさい。今すぐに、この聖域から立ち去りなさい!」
バシンとビンタでもされそうな勢いで高山が迫って来たので、俺は慌てて鞄を抱きかかえると、泥棒のように急いで図書室を飛び出した。猛ダッシュで階段を降りていると頭上から、「この変態野郎!」と何ともまあ下品な声が響いてくる。
「あいつほんとに女子かよ……」
 本人の前では絶対に言えない言葉を呟き、俺は校舎を出ると、誰もいないグラウンドを一人虚しく歩いた。

「ないないない! ぜーったい見間違いだって」
「どうせ藤川がまたエロい夢見て寝ぼけてただけだろ」
ポテトとハンバーガーが乗ったトレーを挟み、向かい合った相手二人が呆れた口調で言ってきた。「何だよ二人揃って……」と唇を尖らせると、優しさのカケラもない友人の言葉が再び耳に届く。
「だいたい何だよそのバカみたいな話し。誰もいない図書室で寝てたら、いつの間にか可愛い子が目の前に現れて、自分に微笑みかけてくれたって? ラノベの主人公でも狙ってるのかお前」
「お前こそバカなこと言うなよ宮野。だいたい俺は本は嫌いだ」
「なのにいつも図書室に封印されてるなんて、お前ほんとついてないよな」
そう言ってあむっとハンバーガーを頬張る樋口。ふくよかな頬の輪郭とその姿があまりにもマッチし過ぎていて、胸の中の怒りがほんの少しだけ萎む。話しの話題になっているのは、もちろん先日起こったあの図書室の出来事。たまたま今日は図書委員の後輩の女の子たちが、「この前途中で帰ってしまったので」と代わりに仕事をやってくれることになり、久しぶりに自由の身となった俺は、学校の帰りにこうやって樋口たちとマックにまでやってきたのだが……
「お前がいつも『彼女がほしいほしい』みたいなことばっかり考えてるからそんな幻覚見るんだって」
「だから幻覚じゃなくてマジでこの目で見たんだって! ちゃんと話しもしたし……」
っとまあこんな感じで、さっきから必死になって説明をしているわけだが、相手は一向に信じてくれる気配なし。コイツらとは一年の頃から一緒にいるけど、友達の定義について、もう一度深く考え直す必要がありそうだ。
「話したって言っても、たまたま見つけた変な本のこと聞かれただけだろ? それ別に話したって言わないじゃん」
冷静な顔をして宮野はそう言うと、左手でポテトをつまみ取る。樋口とは対照的で、彼の身体もポテトに負けず劣らず細い。ガリガリというほどではないけれど、よくクラスの女子たちから、「宮野くんって細いから羨ましい!」と謎の羨望を送られている。それと、眼鏡をかけて知的に見えるところと、チクチクと痛いところを突いてくるところが高山とちょっと重なる。
「あ、それかお前。図書委員担当の松山先生のこと見間違えたんじゃないのか?」
「樋口……お前もバカなこと言うなって。いくら寝ぼけてたとしても、女子と五十のおばさん間違えないって!」
「お前のことだからわかんないぞ。時間も時間だったし、暗い中で見たからそう見えたのかも」
 それじゃあもうおばさんじゃなくて幽霊だろ。俺はそんな言葉を頭に思い浮かべるも、あえて口に出すほどの気力は残っていなかった。おそらくこの調子だと、何を言ってもこの二人は信じてくれないだろう。
 はあ、とため息をつくと、黙ってコーラを飲んでいた宮野がストローから口を離した。
「それに、もし本当にそんな可愛い子がうちの学校にいるとしたら、五組の草間が放っておかないだろ」
 その言葉に同意するかのように、今度はポテトを口に詰め込んだ樋口がうんうんと頷く。
 草間純也。
 宮野と同じ中学校だった草間は、イケメン男子として有名だ。が、その素行の悪さも負けず劣らず有名。よく授業はサボっているし、喧嘩が強いからといって、同じようなタイプの人間を引き連れてはいたるところでたむろしている。しかも可愛い女子がいれば学年問わず手を出そうとするのでかなりタチが悪い。まさに、俺とは正反対の人間なのだ。
「そういや宮野って草間と仲良いんだよな?」
 樋口がノンストップで口にポテトを詰め込みながら言った。
「別に仲良いわけじゃないよ。顔合わせば話す程度だ」
「だったら藤川が言ってる女の子がいるかどうか聞いてみればいいんじゃないか?」
「それはダメだ!」
 二人の会話を遮るように俺は言った。そんな自分を見て、「え?」と友人たちがきょとんとした表情を浮かべる。
「もしあんなやつに聞いてあの子と関わりを持とうなんて思われたら俺は嫌だ」
「……」
 何言ってんの? と言わんばかりの呆れた顔を見せつけてくる二人に、俺はゴホンとわざとらしく咳払いをする。一瞬の出来事であったとはいえ、自分なんかに微笑みかけてくれたあの天使のような人を、汚れた人間に渡すわけにはいかない。
 そんなことを思って一人憤っている自分に、目の前の二人はため息をつく。
「……やっぱ馬鹿だろ、お前」

「ほんとあいつら、優しさのカケラもないよな……」
マックの帰り、すっかりと暗くなった夜道を歩きながら俺は呟いた。頭上からは頼りない街灯が、自分の足元を照らしている。
結局、樋口と宮野には散々力説したものの、最後の最後まで信じてくれることはなかった。まあ確かに、自分が逆の立場だったらこういった話しは信じないか、あるいは笑いのネタとして聞く程度だろう。
「でもなぁ……」
たしかに俺はあの人と話しもしたし、顔だって覚えてる。だから、寝ぼけていたわけじゃない……はず。
いくら自信があるとはいえ、あれだけ樋口たちに否定されるとなんだか心が揺れてくる。確固たる自信を持っていつもズカズカ意見をぶつけてくる高山と違って、俺は他人の意見に影響されやすいのだ。
一人そんなことを思って自嘲じみた苦笑いを浮かべていた時、ふと目の前の歩道橋の上を歩く人影がチラリと見えた。ふありと夜風になびいた黒髪と同じ高校の制服姿に、図書室で見たあの光景が一瞬フラッシュバックする。
あの人だ!
直感的にそう思った俺は、ほとんど意識する間もなく駆け出した。もう一度会いたいと思う気持ちがそうさせるのか、見れば見るほどその後ろ姿はあの人のように思えてくる。
通行人にぶつかって、「いてーな!」と怒られながらも、俺は気にせず走り続けた。歩道橋までたどり着き、一段飛ばしで階段を駆け上がる。普段は何とも思わない階段が、こんな時に限ってやけに長く感じる。
はあはあと息を切らして上がり切ってみれば、すでに彼女の姿はなかった。もう向こう側に降りたのだろう。階段を降りれば一本道。さっき見かけたばかりなので、まだ会えるはずだ。
期待する心が、心臓を激しく揺らす。誰もいない歩道橋の上を走り抜けると、俺は階段の方へと身体を向けた。
「……あれ?」
視界の先、薄暗い階段にも、その先に続く夜道にも彼女の姿はなかった。それどころか、人っ子ひとりいない。
「おかしいな……」
 俺は息を整えながらゆっくりと階段を降りていく。最後の一段を降りて、ぐっと前方に視線を向けるも、やっぱり彼女の姿はない。
 もしかして見間違いなのかな、と首を傾げるも、何か腑に落ちない。でも……
 こんな話しをまた樋口たちにすれば、きっと笑われるだろう。
 そんなことを思い、自嘲気味に口端をあげる自分の頬を夜風が撫でる。なぜかそれがやけに虚しく感じてしまい、俺は足早に自分の家を目指した。