階段を上がると、今までにないくらいの長蛇が出来上がっていた。さっきまでは冷房も通って涼しかったのに、最後の一段を上り終えた瞬間溢れる人の波に、額には汗が滲み始める。正直、今の今まで彼女との談話を何度も何度も頭の中で繰り返しては、その中から僕なりに頑張って答え探しをしていたのでこの蛇がどこに続くのか、はたまた何を意味しているのかなんて、蚊帳の外だった。
 二人で歩くにはいささか狭くなった廊下を彼女の後ろに続いて、しばらく歩くとお化け屋敷の入り口に戻る。すると、僕らの座っていたところでA君とBちゃんが抜け殻のように腰を据えてその流れをせき止めていた。その瞬間に、この人だかりが何のためにあるのかやっと気づいた。
 氾濫する人の流れに押し流されないよう、『休憩中』という、紙に書かれたたったの三文字が辛うじて堤防の役割を図っている。僕ら二人を見ると、その抜け殻に生気が宿ったように決壊寸前の防波堤を、A君は取り去った。
「あ、頭痛君!やっと来た!」
「遅いよことなかれ主義君!」
「元、だよ。というか、」
「一体全体この人だかりは何ですか?」
「あぁ、これは、ほら、須藤のあれさ、凄いだろ。だから午前のお客さんが心を読まれただのなんだのって声高に吹聴して、あとは、まぁ、時間が経てばこの通りってわけ。皆、須藤ありきのお化け屋敷のために来たから、こうして首を長くして待ってるのよ。」 
 廊下の端までできた長蛇の列を、レンズ越しに端から端まで眺める。
 なんだそれ。確かに田舎の学祭にしては人の多いのは、二回目にしては一回目の経験で事前に聞いていた。でも、ここまで多いなんて聞いてない。現実逃避にかまけるためにおんぼろの学校が崩れないかとかそんなことを考える。そうしてもう一度目の前の列を見てみても、幻は消えてはくれない。誰のとも分からない飽和したシャボン玉に、又息が詰まりそうになる。
「それは、とっても凄いですね!」
「ホントホント、ほら須藤、早く座ってくれ。俺には荷が重いからさ。」
 重いなら座っていたらいいのに、ムンクの叫びみたいな悍ましいマスクで云われても、説得力はない。それに、僕はそんな器じゃない。A君の明け渡した席は、酷く大きく、重たく見えて別に座ろうとしたわけでもないのに視界に入れるだけで足がすくんだ。
 自分の作り出した景色に、実感が湧かずまだ一歩を踏み出せないでいる僕を、引っ張ってくれるのは何時も誰かで、いつも僕のものではないその力で、こうして手を取られるんだ。
「ほら、行きますよ。」
 黒皮の手袋をつけ忘れていたのが功を奏して、唯一抜けることのない人間味を残した手をその誰かさんに、ガッチリと捕まれる。まだ、できればこのまま攻めあぐねていたい僕に反して、無理やり引っ張っているその腕を不思議な力で引きはがせないのは、抗体が出来上がる前に毒が完全に回り切ってしまっていたからだろう。もう、何もかもが遅い。完全に変えられてしまった他人のような、僕のその腕に力を込める。
 反動で振り返る彼女に、伝わるはずのない笑顔を向けた。
「大丈夫、もう、自分で行けるから。」
 生まれ変わった心地になってもまだ痛む傷は、無くさないようにしっかりと抱えたままで。
 それでも途中ではぐれそうになったシャボン玉を、手で掬ったら、それは僕のものではなかった。誰のとも分からない、その哀色のシャボン玉は、此処にいる誰かのもの。彼女のものかもしれないし、A君、B君のものかもしれない。それに、長蛇を築く有象無象の内の一人のものかも知れない。うやむやになって漂う悲しみは、もう誰のものでもない。
 そうだ。僕だけじゃない。心にこびりついて、離れないでいる傷はきっと「皆」が持っているもので、何もしないままでは消えてくれないのも僕だけじゃない。でも、それでも皆顔には出さない。今こうして、心待ちにしている人間のどれだけが実際には心に落ち度があるのか、それは僕しか知らない。心はここには出せないから、隠したままで、でも自分には隠せないままで、それがどれだけ辛いのか、もう、分からないし分かりたくもない。
 それは、僕にはできない。誰にも悟られることなく傷を作り、隠して、まだその傷がかさぶたを作っているうちに傷を重ねて、そして跡になって、化膿して、綺麗だった肌は膨らんで、ずぶずぶになってその繰り返しで大きくなって、それが段々と人の形を作っていくだなんて、僕は、認めない。
 席に着く。深呼吸する。今考えているのは、僕にしかできない事。
 傷は、僕にもある。昨日、生まれてきっと恐らく初めてできた。まるであの時の初恋みたいに、きっとこれはずっと忘れられないものだ。これから先にも消えるモノじゃない。
 でも、それは隠すべきものじゃない。自分の中で腐らせて、混ぜ合わせてやがて毒になるべきものじゃない。
 ほら、貴方もそんな傷の一つや二つあるはずだ。さっきまで、動くことのなかった列は一歩、また一歩と進みだす。
「大変、お待たせいたしました。其れではまず、こちらにお座りください。」
 今日くらいは、誰にも見せられないような恥辱にまみれたその傷を、誰とも分からない誰かには見せてもいいんじゃないだろうか。

 色々な人がいた。
 悲しいことなんて一つもない、自分自身を喜びで包んだ人。何時かについた傷を、自分でも気づかないうちに引きずり続けている人。どうにもならないことを、どうにもできないままに生きている人。それを隠す人、隠さない人。それに、まだ起きていない未来に、不安を感じている人。
 僕は、心は読めない。見えるのはシャボン玉だけで、全知全能でもない。でも、僕があれだけ恐れていた人という生き物は、余りにも弱く、そして自分を少しでも分かってくれるような人には、直ぐに寄り掛かりたがる依存性の高い存在らしく、彼らの抱えているものを微々たる力でほんの少し、透かすだけであとは自分から、その傷の全てを話してくれた。
 僕の一生分に近い人を一日で捌く内に、分かったことが二つだけ。
 それは、皆が皆持っているシャボン玉が単色ではないという事。
 そして、シャボン玉の度合いでその感情が何時生まれたものなのか、その大体がわかるという事。
 先ほどまで、楽し気な明るいシャボン玉は至る所を跳ねては弾み、まるで生き物のように休む暇なく僕の周りを漂っていた。でも、僕らのお化け屋敷のために生まれたわけじゃない気持ち達は、何処か元気がなく沈みがちになっていたり、その人の後ろに隠れて見えないようになっていたりした。それを見つけるのは、至難の業だった。
 でも、取りあえずは、今日は終わり。立てかけていた看板も締まって、席を立つ。
「お疲れ様です。」
 ふぅ、と一息ついて人から生まれた熱を手のひらで拭う。
「あぁ、お疲れ様。」
 釣られて僕も、一つ、息が漏れる。疲れたのは、僕だけじゃない。隣に座るミイラも、毎回ロボットみたいに同じ単語の羅列を次、又次となだれ込む客に話していたんだ、疲れていないわけがない。それなのに、マスクを脱いだ途端、清涼飲料水のCMに出てきそうな軽やかな笑みを浮かべてそんな言葉を告げるので、つられて自然と唇が綻ぶ。
 それに、疲れているのは僕等だけじゃない。客を後ろの暗幕に流すたびに聞こえてくる悲鳴は、果たして誰のものなのか、人の多さに途中から心配になるくらいだった。
「「お疲れ様ー。」」
 皆、うまい具合に教室の隙間を塗って出てきては、廊下で労いの言葉をかけあっている。
 疲労も相まって、廊下は死屍累々、百鬼夜行の一つでも作れそうな凄みが滲み出ている。
「いやー、頭痛君のおかげか、所為かは置いといて、こんなに人が来るなんて思わなかったよ。」「ね、楽しかったよ。」「疲れた!」「これ明日もやんの…。」「文句言うなって。」「人多すぎ。」「楽しすぎ。」
 会話の端々が耳に刺さる。単純な好意を向けられたり、畏敬を向けられたりするのはどれだけ経ってもなれないもので、僕はまだ、僕のマスクを取れない。
「いや、皆のお化け屋敷あってこそだよ。」
 名声嘖々たる人を見るようなクラスの目を、そんな言葉でうやむやにする。実際、その通りだと思って出た僕の言葉は、思いのほか皆にも突き刺さった。
 それで、僕も皆も恥ずかしくなって、クラスでは仲良し同士で小突きあいをしたり、褒めたたえあったり、そんな朗らかな雰囲気が、廊下を覆いつくしている。
「マスク、暑くないですか。」
 確かに、言われてみればそうだなと思ってマスクを取ると、途端に何もかもがさっきよりもはっきりと映るようになって、芽生えた気持ちが生まれ変わったみたいに膨れあがっていく。
 これで終わりという安堵と、それからこれで終わりなのか、という虚しさ、忙しかった気持ち、それに楽しかったという気持ちと、今まで味わったことのない心地のいい疲労感。
 僕は、楽しんでいた。皆とおんなじクラスの一員になって、よく分からないを楽しんでいた。
「なんだか、今までにないくらいにいい顔ですね。」
「それって、どういうことよ。」
 そうは言うけど、彼女の言いたいことも何となくわかって、何時もの誰かみたいに笑みがこぼれた。僕は、知らないうちに、分かり合えないと思っていた皆の一人になって、皆と呼ばれるようになっていた。
 だから、波にのまれて、僕も有頂天になっていた。
 だから、直ぐに気づけなかった。
 足元を、気づかれないようころころと転がる石みたいな哀色のシャボン玉に。
 これは、僕のものではない。僕の傷はずっと見えるところにある。それに、目の前の彼女のものでもない。彼女のは、もっと生き生きとしていてすぐに生まれては消えていくから。
 じゃあ、いったい誰のものなんだろう。
「すみません、不思議な余興があると聞いて、来たんですけど。」
 彼女とは反対の頭の後ろの方から聞こえてくる声に、振り向いた。
「ごめんなさい。今日はもう、しゅうりょうしたん」
 振り返ったら直ぐに、頬っぺたをつねりたくなった。これが、夢なのかどうか確かめるために。今、目の前に映る光景のすべてが余りにもおかしくって、笑えてくる。
 でも声は出てきてくれないから、こひゅーという呼吸音だけが漏れた。
「いえ、違います。人を探していて。須藤、という名前の方はいらっしゃいますか。」
 正面には、昨日出会った少女が立っていた。
 髪を後ろで束ねて、それから無い筈の、蒼の瞳を両手に携えて。
「お知合いですか。」
 隣にぴょこと、無邪気に構える彼女に返事をすることも出来ず、ただ茫然と立ち尽くしていた。
 如何してここに。何で。何故。どうして。その言葉の一つも、目の前の女性にかけることは出来ない。代わりに、ありったけでその青を見つめることしかできない。
 そのうち進まない会話に耐えかねて、隣の彼女がふくれっ面をしだす。
「ねぇ、須藤さん、どうかしたんですか。」
 その言葉を聞いた途端、目の前の女性は頸木から解き放たれたみたいに目を見開いて僕を見た。僕も、今までにないくらい眦を熱くさせて、その子を見る。
 何処までも悲しい闇の広がったその眼に映る僕も、この世の悲しみを全部貰ったような顔をしていた。
 逃げちゃダメだと思った。逃げる事だけは、してはいけないと。
 でも、逃げない以外に何ができるわけでもなかった。
 蛙みたいになっていた全身がしびれを切らし、やっと自由になり始めた僕の腕でその闇に、手を伸ばす。
 何のためにか、分からない。決して、怖いもの見たさじゃない。
 その子を見ているだけで、手を伸ばすだけで、ずっとずっと昔に閉じたはずの大きな傷がズクズクと疼き始めて、沸騰したみたいに熱を帯び始める。
 あと少し。
 彼女に近づくたびに、傷口の奥の奥に手を伸ばしている感覚に陥る。
 そして、指先が、可愛らしいおさげの女の子の肩に触れた途端、遠い昔の傷は、今できたみたいに、綺麗さっぱりぱっくりと完全に開いた。幻肢痛だと思ったが違った。
 ズキズキ。ナイフで刺されても、きっとここまで痛くはないんじゃないか。名前も知らない刺し傷に、届きかけた腕をキュッとひっこめてしまった。
 それが引き金になって、その女の子は踵を返して走り出した。
「まっ…。」
 ズキズキ。昨日つけたものとは比べられないくらいの痛みに胸を抑える。一瞬目をそらしただけなのに、前を向きなおすともう後ろ姿は遥か遠くに見える。
 やっぱり、何も変わらない。変わったつもりでいても、そう簡単には何も変えられない。
 駄目なんだ。いつもこうなる。これが、ぼくだ。
「行ってください。」
 自分ではない誰かの声が、ズブズブと傷口をこねくり回す。
 痛い。その声は諦めて楽になろうとしていた僕の目を覚ますには十分だった。
「一人で、歩けるんでしょう!」
 その一言は耳にキンキンと響いて、頭をガンガンと鳴らした。それから、金属が共鳴したみたいになって、体に染み渡ってから完全に、目が覚めた。知らないくせに強い言葉をつかえるのは、なんだか彼女らしいなと思った。
 気づいた時には、自分の意志で走り出していた。右、左と脚はたどり着くために一切の余力も残さずにかけ続ける。本気で走るのなんて、もう何年もしていない気がする。胸の横は、ドッドッ、と五月蠅いくらいに喚き、胸からはドクドクと絶え間なく何かが流れ出ている。いや、何年も前じゃない。あの時以来か。なんだ、結構最近じゃないか。
 でも、彼女抜きではこれが初めてだった。
「待っ、て。」
 追いつくには、些か遠すぎたその距離は、何故かあっという間に縮まった。きっと不思議な力でも働いたんだろう。女の子の指をつかんで、呼吸を整えてと、すべきことは沢山ある。
「もし、かして、あの、ときの、ずっと、ずっとむかしの、」
 荒ぶる肺を、頑張って沈めてみても出せたのはそんな情けない声だけ。でも、ただ見送るよりは幾分もマシなその選択に、自然と声は続く。
「お、ぼえて、るの。」
 夢の答え合わせをするのが、あほらしく思えて、何か他の言葉を考えていると、ぼたりぼたり、と音が聞こえてくる。最初はシャボン玉かと思った。でも、地面に落ちたくらいじゃ人の泡は消えない。その正体に気づくのと、女の子の声が出てきたのはほぼ一緒だった。
「ごめん、なさ、い。」
 寄り掛かる場所を探している彼女に、まだ宿り木になるには些か重荷な僕は、何もできないまま、手を掴んで泣き止むのを待った。僕も、理由はどこから降ってきたかは分からないけど、泣きそうになるのを、こらえるので必死だった。
 仮に今、二人で人を作るならどっちが何画目かはきっと専門家にも分からないな、なんて泣きそうになりながら考える事じゃないなと思った。

「はい、これ。」
「あ、りがとう。」
 適当なベンチに腰掛けて、自販機で買った適当なジュースを彼女に渡した。
「口に合えばいいけど、それ炭酸結構きついから。」
「う、ん。」
 キャップを開けて、こきゅこきゅとのどを潤す女の子を見て安心する。
「それで、さ。どうしてここに。」
 問いかけに、いろはにほへとを一人で云い切れそうな口の形を繰り返してから、やがて形が定まる。
「わ、私、貴方に酷いことをしたとずっと、ずっと思ってたの。」
 震える唇に、既視感を感じて強がって見せる。きっと答えは、そうじゃないけどそうしてあげることが、彼女のためになるかなと思って。
「酷いことって、そんな昔の話、気にしちゃいないよ。」
 嘘。
 いままで、言葉を紡ぐのにやっとだった癖にそれだけは譲れないと、彼女は僕をねめつけた。その瞳にうつる僕までが、僕をにらんでいるみたいで、味方は誰もいない。直ぐに取り乱したことを認めると、続けた。
「な、なんとなくだけど、わかるの。あの時から、今の今まで、ずっとずっと私の作った傷を開かないように必死になっている須藤君が、」
 図星だった。
「だから、謝らないとって思って。でも、いざ貴方を目にすると、私、どうしたらいいのかわからなくなって。それで。」
「走り出した、と。」
「うん。」
「でも、謝っても貴方の傷は亡くならないし、謝るだけでは、ないと思うしでもそれだと、言葉だけじゃ私何もできなくて。よくわからないまま、気づけばこの年になって。でもそれじゃ、ダメだと思って。それで、去年ここに来たの。何となくだけど、私の一欠片がね、此処にいる気がして。」
「うん。」
 苗字も名も知らない君は一体今、何を考えているのだろう。
 僕の目の前にいきなり現れて、それで、心に決めていた謝罪が喉から這い出ることもなく、ただ僕にどうすればいいのか分からないと言った。それで、謝るだけでは駄目だと。
 普通の人間なら、まず彼女に異和を唱えるだろう。なら、どうして来たんだとか、失礼だろう、とか。でも、生憎僕も、違和を唱えられる側の人間らしく、いざお互いにお互いを認識した途端に謝るだけではダメだと、でもそれだとどうしようもないと、気持ちになり切れていない生まれたばかりの感情が目の前を同じように駆け回るのを感じた。そして、そんな弱い生き物を気持ちという強い言葉で、殺したくはなかった。
「でも、貴方はいなかった。それが、悲しかった。とても、とっても。私も貴方も、これを後一年続けなきゃいけないのかって。」
「うん。」
 虫みたいに体を震わせて、言いたくはなくでも言おうとしなければいけない何かを紡ごうとしているのだろうか。
「だから、今年になって、不思議なお化け屋敷があるって聞いて、それでいてもたってもいられなくなって、そしたら貴方を見つけて。」
「うん。」
「だから、だから。」
「ごめん。」
「へ。」
 この言葉は絶対にその子よりも先に、言わなきゃいけないと思った。あてずっぽうでも、投げやりになったわけでもない。ただもう、謝るだけではどうしようもない中で、先に謝るならまず、僕の方からだと思った。
「ごめん。僕が、あの時軽はずみにあんなことしていなければ、こんなことにはならなかったんだ。ほんとに、ごめん。」
違う。
 つらつらとほくそ笑んでは出てきた後ろ指は、そんな短い言葉で「叩き」切られた。
「違う、私も貴方に消してほしいって頼んじゃったから。あんな簡単な言葉で。それも、私なのに。それに、何も悪くないあなたにまで当たって。ごめんなさい。」
 二人で終わりの見えない謝り合戦を繰り返すごとに、不謹慎にも段々と胸の奥の方がこそばゆくなってくる。気づけばあんなに痛かった胸も、かさぶたみたいになってむず痒いだけだった。
「ほんとに、いいんだ。何もできないって言ってたけどこうして目の前に来てくれただけで、僕は嬉しいし、確かに傷は亡くなったわけじゃないけど、でも、なんだか今はむず痒いから。」
「でも、きっとあなたは今まで。」
「それは、君もきっと同じだろ。それに今は、そんな自分が、昔にいたんだって思えるのも大切かなって。」
 ね、と促す僕に初めて彼女は、笑った。
 それが堪らなくぎこちなくて、恥ずかしくて、お互い鏡みたいになった。鏡みたいになったから、彼女もその傷がむず痒くて何とも言えない気持ちになっているのが分かった。
 それは、独りで謝るだけでは見えないものなんだと、僕は知った。
 唯一僕を知っている、名前も知らない彼女と、ポツリポツリ、二人にしかできないいろんな話をした。
 引っ越した先が都会で色々大変だったとか、読んだことのない本に既視感を覚えたりだとか、実は別れて直ぐ後に、消えた思い出は元に戻っただとか、そんな色々を彼女から聞いた。僕は、言わなくても何となくばれているだろうから二つの太陽の話をした。それに、最近色々な新しいものが世界を満たしていることとか、普通に話せば到底信じられないような摩訶不思議なシャボン玉のことを話した。
 彼女は、僕が太陽の話をするときも、彼女を奪ったシャボン玉の話をするときも、まるで自分のことのように楽しそうに聞いてくれた。逆もまた然りで、僕も自分のことみたいに彼女の話を聞いた。何となく、お互いに、お互いがそうなるんじゃないかと分かっていた。
 それに遠くに離れていて、今まで分からなかったけれど目の前のその女の子は、本当に僕の鏡みたいだった。
「それで、その太陽さんのこと、好きなんだ。」
「いやち…、うん。多分、そうかもしれない。だから力になってあげたくて。」
 言い訳をしても全部を全部見透かされている気がして、素直に認めることにした。認めてみると、少し自分が見えてきたような、靄が退いてやっと日の目を浴びる事が出来たような、どうしようもないくらいに傷じゃ無い体でもない何処かが一層かゆくなって、それで思い出した。
「それで云うと小さいころ僕は、君のことが好きだったのかもしれない。」
 昔にも、似たように胸の痒くなったのを覚えている。それは、熱心に本を読んでいるこの子を見ていた時。
 もともと何も、持ってはいないし別に亡くしたわけではないのに言い切ったら喪失感が、喉元を通り抜けた。
「だから、私のことずっと見てたのね。」
「うん、でも、どうしてそれを。」
「あんな大胆に、気づかないわけないでしょ。それに、私も、見てたから。」
「そう。」
 哀惜が襲った。ずっと昔のことなのに、今起きたみたいに悲しくなって、決して心地よく無くて、でも手離したくは無くて、この少しの苦しみもきっと何かのためになる、そう感じてその缶詰の中身をなんとか飲み込んだ。もし、ならなかったとしても、それはそれでいいんじゃないか、とも思えた。
 もうすっかり色あせたシャボン玉が、ころころと僕らの周りを転がっている。色は抜けきったわけではない。まだ少し、色素を残している。きっと、これから何年、下手したら何十年もかけて、この色を透明にするため、希釈し続けるのだろう。
「その悲しみは、消さなくても大丈夫?」
 そんなやぼったい質問に、一層唇を深めて
「いらない。消したら、私じゃなくなっちゃうから。」
 その笑顔も、何もかも、もう二度とは見れない気がして、涙が出そうになった。彼女も、その笑顔の中に少しの悲しみがあった。まるで、もう一人の僕が消えてなくなってしまったみたいな、僕の中の誰かが、消えてしまったみたいな。
「本当に、有難う。遠出してきたからそろそろ行かないと。」
 ペットボトルのキャップを締めて、彼女が立ち上がった。
「また、会えるかな。」
「ううん。多分、もう、会えることは無いと思う。」
 その答えも、何となくわかっていた。
 「彼女」と会うことも、「僕」が出会うことはもう、無いと。彼女の色あせたシャボンみたいに、僕の中の彼女は、役目を終えたともう消え始めている。
「そうだね。」
 知っている。だから、今がより一層輝くことも。太陽が、沈みかけなのにこんなに眩しいのも、もうこの景色を二度とは見れないからだ。
「うん、じゃあ、」
「バイバイ、私。」「さよなら、僕。」
 落陽に照らされた僕と彼女は、自分ともう一人に、さようならを言った。もう会うことのないものを意味するこの言葉は、裏腹になかなか頭の中から消えてはくれなくて、いっそどうせならずっと忘れられないようにしようと、影送りが出来るくらい彼女の後姿を目に焼き付けた。
 僕の中の毒は、完全に抗体の前に無力になって、薄れていった。長らく共にしたのもあって、毒の癖に無色になってもまだ残っているそいつはぽっかりと住み着いていた場所に穴を開けた。焼き付けたほんの小さな景色をあまりに大きすぎるその穴に張り付けて、しばらく立っていた。貼り付けるのに手間取って、なかなか直ぐに歩こうとは、ならなかった。

「あの子、誰だったの。」
「もしかして、彼女とか。」
「いや、そんなじゃないよ。」
 刻々と、過去になっていくその子のせいで、視界は余りに明るくなりすぎて逆に不明瞭になった。でも、直ぐにその明るさにも慣れてきて恋しくなった。僕らのような愚かしい人間というものは、きっといつか、大切なものも色あせて消えていく。幸せの蓋にもぽっかり穴が開いている。だから、今は頭の中にしかいない靄も何時か忘れてしまうんだろう。それが、たまらなく胸を焦がすような気持になって、皆のいる廊下越しから落ちかけの太陽を見た。
 今なら、分かる。人が正反対のものに惹かれるのも、だから恒久の太陽がこんなに美しいのも。
「Eちゃん。」
「何?」
 深呼吸する。まだ彼女の残っているうちに。僕も、彼女のように。
「ちょっといいかな。」