彼女と、帰りを共にしたかったのは別に時間をなるべく共有したかったとか好意の延長線上に存在する気持ちを代弁したとかじゃない。そんな中高生らしい理由だったら、どれだけ気が楽だろうか。実のところは、もっと複雑で一言では済まされぬのっぴきならない事情から来たものだ。
あの旅行で彼女が突然泣いた訳を、教えてもらいたかった。それに、図書館で見たあの涙の意味も。
夏が終わってすぐ、最初のうちは彼女が気にしてないならそれでいいか、と思った。満足だった。でも、それだけじゃ取り返しのないことになるんじゃないかと一日また一日と日々を燃やすたび、何かが膨らんでいくのを感じた。のうのうと、臭い物には蓋をして生きていくとどうなるのか。それは、今までの僕が一番よく知っている。
放っておいていいはずがない。此の悪寒は、きっと確信に届く。
聞いておきたい。嫌われたっていい。間違いなく、彼女は夏ごろから、いやひょっとするともっとずっと前から何かに苦しんでいる。なのに、自分のことで一杯一杯のはずの彼女は、僕に優しさを分けてくれた。
だから、僕も何かで応えてあげたい。あの海で言ってくれた言葉を、そっくりそのまま彼女に返してあげたい。偶には思いのたけを、ため込んだ苦労を吐き出してもいいじゃないか。
誰でもいい、君の苦労を聞くのは。でも、誰もかれもが彼女のことを第一印象のまま見ている。君の苦労は、僕以外の誰も知らない。僕もそれが何なのかすら分からない。
君の口から教えてほしい。哲学ゾンビみたいに生きてきた僕が、人間らしく生きる第一歩。他人の言葉に、思いに、自分を重ねる。自分のことのように悲しんだり喜んだり。その一歩は、ほかの人じゃない。紛れもない君に手伝ってほしかった。
そしたら、僕も君も一石二鳥だから。
だから。
だから僕を、頼ってほしい。
「ダメだ。」
どうしても、キザなセリフで格好つけてしまう。もっと、単純で短くしないと。
本来なら今、彼女に伝えるはずだった言葉を反芻させる。
それならまだ、伝えなくてよかったのかもしれない。人を平然と傷つける今の僕には、その資格がないだろうから。
まだ痛む胸に手を当てて、何十回目かの下書きを頭の中でぐちゃぐちゃにした。
帰り道、独りだと暇に飽かして色々が頭の中をぐるぐる回る。答えのない答え探しに、へとへとになった僕は、家に着くとすぐにベッドめがけて飛び込んだ。
ベッドに俯せになると、そのうちに体は沈み込んで意識と一緒にまどろみの中に消えていった。
『どうして今日、彼女のシャボン玉を消さなかったの。』
誰かが囁いてくる。聞きなじみのないその声は、なぜだか親しく思えてきて、洗いざらい吐き出してしまおう、なんて変に強気になる。
「怖かったんだ。皆が血肉の通った生き物だと分かった途端に、僕が彼らを簡単に変えてしまえることが堪らなく。」
『Eちゃんのことは、いいの?それに、今更になって?』
「だって、しょうがないじゃないか。どっちも今まで知らなかったんだ。」
『そんな言い訳で、罪が消えるとでも?』
「それは…。」
『私を殺したのが、許されるとでも?』
声の主は肉薄してくる。妖しい息遣い、聞こえる心の音、やけに人間らしい女の子が目の前に立っていた。どこか、面影があるようでないようなその顔が、すぐにだれなのか、僕にはわかった。
彼女は初めて気持ちを殺した、あの時の女の子だった。其れもやけにリアルな質感で、あれきり会ったこともないのに成長した姿で、目の前に立っている。
彼女の幻影に比べれば、Eちゃんのあの服の方がよっぽど趣味が良い。
『ねぇ、答えてよ。』
その眼には、あるはずの瞳もなく、代わりにどこまでも真っ暗な闇が広がっていた。
『ねぇ、』
闇が僕を吞み込み、声が耳を貫いた。
『ねぇねぇねぇねぇねぇ』
「ねぇ、ご飯できたわよ。」
「わっ。」
目を覚ますと、母がお玉を片手に僕をコツンと叩いていた。
「随分魘されてたけど、大丈夫?」
全身には、纏わりついてくる嫌な汗をかいている。詰まらせていた、息を吐く。
「初秋に頭から布団かぶるなんて。そりゃ汗の一つも掻くわよ。とりあえず、先にシャワーでも浴びてきたら。」
「そうする。」
母に促されて、階段を下りた。
「あっ、そういえば。」
寝癖を正し乍ら、振り返る。
母は、思い当たりのない微笑みを向ける。
「やっぱり、なんでもないわ。」
「なんだよそれ。」
「そうだ。あんたが行くんなら今年は、文化祭行かせてもらおうかしら。」
「ん。」
「あんたのクラスは、何やるの。」
「秘密。」
「まぁ、いいわ。勝手に探すから。」
「ん。」
階段を下りながら、さっきの母との問答を少し意識する。全く似ても似つかないような僕と母。そんな母から、どうして僕が生まれたんだろうと、悲しくなる。遺伝子がどうだかは関係なさそうだし。ブクブクと、浴槽で泡を立ててみたけれどその答えがポッと浮かぶことは無かった。
それから、今度はしっかりと支度をしてから床に就いた。寝付くまでに思いのほか時間がかかったのは、きっともう一回、あの夢を見るのが怖かったからだろう。動悸の激しい心中と闘いながら、楽しいことを浮かべて何とか眠りについた。明日のことを思い浮かべると余計に胸が疼いたのは、きっと何でもないことのように思う。
良くある話だ。
まだ漂うシャボン玉に、少しの違和感も感じなかった小さな頃、僕のクラスにはいじめがあった。いじめっていうのは癌に似ていて、露見した時にはもう取り返しのつかないことになっていることが多い。まさしくその通りで、ただ給食を食べるのが遅いだとか、かけっこが遅いだとか、そんな他愛もない理由から始まったそれは日に日にエスカレートしていって、僕の気づいた時にはもうだれも止められないくらいに大きくなっていた。
その子はよく本を読む子だった。図書館に行くと毎回、サクランボみたいな二つの水玉の髪留めを後ろにつけてタイトルも子供には読めないような難しい本を読んでは、パッと笑ったり、とっても悲しそうな顔をしたり、そんな彼女を遠目から眺めていたのをよく覚えている。
話しかけたことは一度も無かった。ただ、その子のシャボン玉は純粋な子供たちの中でもとびぬけてきれいで、何時の日か話したいな、と思っていた。
別れは、突然にやってきた。
帰りの会になると、先生がその子を黒板の前に呼び出して言った。
「〇〇ちゃんは、明日引っ越すことになった。皆悲しいとは思うが、今日はちゃんと別れの挨拶をしてあげなさい。」
先生の言葉に、周りを見回すと幼いながらに疑問に思った。
どうして、皆悲しそうな顔をしているのに、汚い色をしたシャボンが周りにはたくさんあるんだろうって。今なら、身に染みるほど分かる。
それで、いつものように放課後になって図書館に向かうと、いつものようには女の子はいなかった。不思議に思って、辺りを探すと悲し気なシャボン玉がいくつもいくつも、右から左へ流れていく。濃蒼に彩られたそのシャボンに見惚れて出所に向かうと、雨も降っていないのにびしょびしょになっているその女の子がいた。
何も言わない僕に、彼女はやっと気づくと
「悲しいの。辛いの。」
其れだけ言って、又泣き出した。藍色のシャボン玉は、僕が集めていたどのビー玉よりもきれいだった。
「悲しいの?」
その子の言葉を借りてみても、その子の気持ちが僕に伝播することは無かった。
「うん。私のことをいじめるあの子たちは引っ越してもずっとずっと、わたしにつきまっとてくるの。きっとどれだけ楽しく生きようと思っても忘れた頃に、思い出せって。最近は、ゆめにも出るようになったの。」
「くるしい?」
「うん、すっごく。もし、この気持ちが忘れられたらな。そうしたらずっと、ずっと幸せなのに。」
「なら、それ、僕にちょうだいよ。」
一石二鳥。
藍色のシャボンを手に取って、彼女の前にもっていく。こんなにきれいなものを要らないというのだから、もったいないし貰っておこう。それで、ビー玉入れに入れて僕の宝物にするんだ。食べるのもいいかもしれない。このふわふわは、きっとおいしいだろうから。まだ、それが何かすらも分からなかった僕は、女の子の、もらって。という言葉に一層にんまり笑って、そのシャボンをポケットに入れようとした。興味の中には、ほんの少しだけの好意もあった。彼女が、また綺麗に笑ったり怒ったりできるのなら、こいつは僕が貰ってあげようって。
この時から。
この時、この瞬間から僕の周りをうろつくビー玉みたいなものが本当は何なのか、そして周りを漂う色の意味するものがなんなのかを知った。周りの目を訝しく思っていたのも、多分彼女がくれたものだ。
当然シャボン玉は小さなポケットに入るわけもなく、家に持ち帰れないなと幼いながらに悟った僕は食べてしまうことにした。口の前まで持っていくともうシャボンは動くのをやめて、その場にうずくまっていた。だから、僕はそれを口に入れた。
奥歯で噛むと、シャボン玉は当然綺麗霧散に口腔で弾けて、唾液の出るくらい苦い味がした。
瞬間、さっきまで泣いていた女の子は突然に、僕を突き飛ばした。
「どうして。どうして、私は引っ越しなんてしなくちゃいけないの。悲しいことなんて一つもないのに。貴方がとったのね。ねぇどうして、返してよ。私の楽しい記憶を、取らないでよ。」
綺麗な宝物が弾けたのを、確認する暇もなく彼女は僕の胸ぐらをつかんだ。
「ねぇ、ねぇ、ねぇ!返して!返して!」
喚く彼女の後ろには、さっきのと同じ色のシャボン玉が漂っている。
ほら、そこにあるんだ。返すから、その手をどけてよ。
何かでぐしゃぐしゃになった視界のなかで、彼女にそう目いっぱい叫ぶけれど、嗚咽が邪魔をしてくる。何も言えない僕に、先生が来るまで彼女はずっと、返して、どうして、と叫んだ。
最後の最後まで、僕は彼女に口を開くことは出来なかった。
だから、僕と彼女の話はこれでおしまい。
簡単に、ちょうだいなんて言ってしまったばかりに僕は、その日から彼女のことを殺してしまったように思う。
それから、僕は人に触れるのが堪らなく怖くなって、寄り付く芽はなるべく早く摘んで、他人には遠ざける納得のいく理由を自分の中に作って生きていた。それで、彼女からもらった都合のいい先入観を振りかざして、持ってもいないトラウマを使ってもっともらしい理由を作って殻に閉じこもっていた。
彼女に会うまでは。
一つ消したところで、屁にも思わない大軍を引き連れて僕の前に現れた彼女は僕にいろんな世界を教えてくれた。有り余るくらいにたくさんを持った彼女といれば、僕が間違っても君を消してしまうことはないと、安心する事が出来た。
けれど。
もらったそのシャボンは、忘れた頃に出てくる悪夢になった。
今も、そう。燈昌さんとの日々を僕の中に刻んでいくたびにその根っこにあるこれが、騒めきだして告げる。忘れるな、と。僕の罪を、消したくても消すことはできない過ちを。
「ようこそ、真実の館へ。」
やっと耳に馴染んできた何度目かの定型文を、彼女がまた新しいお客さんに放った。こんな中二感満載の恥ずかしい名前を後ろ手にあるお化け屋敷に付けたのは、紛れもなくEちゃんだ。
ズキリ。
んんっと喉を鳴らす。なるたけ声を低くしたいときにはこうすればうまくいくと、やっと身に着いた何十回目の教訓を遺憾なく行使する。
「ここでは、まずご入場頂く前にお客様にいくつかの質問をさせていただいております。よろしいですか。」
「どうぞ。」「なんか、めっちゃっぽいな。」
「有難うございます。それでは、こちらの椅子に座って水晶をご覧ください。」
そう促して、僕もレンズ越しに水晶に目を向ける、フリをする。実際に見ているのは今目の前に座っている客とその周り。衣装を作ってもらうときに視線が切れるものを要望したのが功を奏している。
目の前のカップルに漂っているシャボンは、類まれで独特なものだった。座っている女の人の方には、純粋な喜びが感じられる。シャボン玉は一人につき、一度に幾つも見えるようになったはずだけれど、その人から感じられるのはただただ嬉しいという気持ちだけ。椅子に座るだけで漂ってくるその人の幸せを脳漿でかみ砕くだけで、なんだかこっちまで嬉しくなってくる。
けれど、男の人の方には逸楽の中に少しの焦りと、それから苦痛が読み取れる。彼女はこんなにも楽しそうなのに、彼はいったい何が不満なんだろうか。
どうしてか。それは、分からない。
分からなくても、何とかはなる。だって、言葉は発された時点で僕だけのものじゃなくなるから。受け取り手によって様々に色を変えて、都合のいいように心に刺さる鍵みたいなものだから。
「そちらの殿方は、何をそんなに苦しんでいらっしゃるのでしょうか。苦悶の表情が見て取れます。」
「は?」
明らかに、焦燥で塗りたくられたような声音で質問を質問で返す男の人に続けて捲し立てる。
「それに加えて何をそんなに焦っていらっしゃるのですか。まるで、この女性といるから生まれてくるみたいです。」
「だから、何がだよ。」
何がって、もう言う必要はない。
目は泳ぎ、額には汗が滲んでいる。男性は誰が見ても分かるような動揺を内から外に造り上げた。何故そうなったかはわからない。分からないけれど僕の言葉は彼にとっておあつらえ向きだったようで、余裕や喜びとは無縁の表情で此方を窺ってくる。僕もそうだが、人は突然に思ってもみないところから正鵠を射られるとうまく対応できないように作られている。
「それは、私には解りかねます。けれどここは真実の館。この先に、きっと答えはあるでしょう。道程の中、どれだけ辛くても恐ろしくても貴方たちは進まねばなりません。ほんの少しでも、このライトが貴方たちの役に立つことを祈っています。」
引き出しに忍ばせていたライトを二人分取り出すと、無機質なグローブの上に乗せて女性に渡した。
嫌がる男性に、兎に角行ってみようという女性。そこには先ほどまで形造られていた、亀鑑の男女の姿はなかった。
「良い旅を。」
暗闇の中に鬼を見た女性と、男性、二人の背を、何とはなしに見送った。
そこからお化け屋敷は、阿鼻叫喚の巷と化した。どれだけ本格的とはいっても所詮は何部屋かの教室を段ボールやら何やらで改築したに過ぎないハリボテでは、彼の声を掻き消すことは出来ないらしい。防音もへったくれもない暗室で叫び、何かに必死になって謝罪している声が聞こえてくる。
「悪かった。○○、出来心だったんだよ。俺が悪かった。ごめん、ごめん。」
僕と、隣に座る彼女にとっては直ぐのことだったが、二人にとっては恐らく想像つかないくらいの永い旅路を経て、三棟ほど離れた教室の端から廊下に顔を出した。泣きながら縋りつく男性に、苦虫を咀嚼したような顔つきでそれを引きはがす女性。極めつけに、「最低」の二文字を叩きつけると女性は男性を置いてどこかに行ってしまった。
「凄い、ですね、このお化け屋敷は。私なら絶対に入りたくありません。」
「ホントに…、どうしたら大の大人が泣くくらいのお化け屋敷を作れるんだろう。」
そろそろ両手に収まらなくなるくらいの、客が恐怖に悶える姿を見て今着ている黒衣に氷を入れられたような心地になって身震いした。この調子だと僕と彼女のアナウンスも、意味をなさないんじゃないかと思えてくる。彼女も同じ心地のようで、体をブルッと震わせた。それを、始終見ていた僕に気づくとバツが悪そうに眼をそらして、あはは、と笑った。
「そういえば、須藤さんの言葉であの男の人は、上を下へと酷く動揺されていました。図星でもつかれなければ、人はあそこまでなることはありません。どうやって、あの方の考えてることを言い当てたんですか。」
「いや、全然分からなかった。これぽっちも。でも、何となくだけどあの人が焦ってるのだけは分かって鎌をかけたら…、でもあんなに動揺されるとは思ってなかったよ。」
「お得意の心理学で?」
「お得意の心理学で。」
へぇ、と妖しく疑ってくる少女を適当にいなす。
彼女が、この話題についてよく突っかかってくるのも無理はなかった。親密にしてきたはずの人間がいきなり、今まで見たこともない特技をひけらかし始めたのだ。もし僕なら、絶対その人に対して疑心暗鬼になると思う。でも、彼女はそんな小さなこと、と気にも留めず今もこうして楽し気に疑りをかけてくる。太陽の前には、何通りか準備していた言い訳も、誤魔化しも、見透かされてしまうみたいで意味をなさないらしく、本当にやり辛いことこのうえない。
「もしかして、私が今考えていることも分かったりするのでしょうか。」
マスクの恩恵にあやかって、見るともなしに彼女に目を向ける。
「いや、残念ながら。」
いつも通り見えるのは、たくさんの楽し気なシャボンに虹色のシャボン、そんな明るい色に照らされた彼女に陰る少しの悲しい色をしたシャボン玉。皆目見当もつかない彼女の心境に、早々と降参の意思を示した。
分からない旨を心底残念に伝えると彼女は心底嬉しそうに、良かったです、と頬笑んだ。それを見て再三うなだれた。
うなだれた僕は、差し詰めオペに行き詰まる医者にでも見えたらしく彼女が糸を垂らした。
「そういえば、須藤さん。好きなものは見つかりましたか?」
「どうしてそんな質問、突然するの。」
先ほどの男性ほどではないが、声音に動揺が含まれてしまっている。こうやって弱みを見せたら、もういつもの調子で彼女に実権を握られて会話は彼女の掌の上で転がされる。
「ほら、お客さんが来るかもしれないしこみ入った話はまた後に。」
「そろそろお昼ごはんの時間ですね。お客さんも廊下には見えませんしまだ大丈夫だと思いますよ。」
むぅ。掌から零れ落ちるための努力は、何時もの通り虚しく砕けた。
「それに、須藤さんは言っていました。初めて会った時、楽しいことや趣味がないって。」
「言った覚えはないけど。」
「いえ、ほらそんな雰囲気だったじゃないですか。」
どんな雰囲気だろう。身に覚えのない哀愁を思い出そうとしたところで思い出せるはずもなく、言い訳探しに戻ることにする。
「それにそれに、一度聞いたのです。二度三度と、貴方の好きなものが見つかるまで問い続けるのは、私の義務です。それにそれにそれに、私が知らないのはあなただけですから。」
根拠も何もあったものではないが、そこまで言われてしまうと答えない、というのも虫が悪い。だから、また何時もの通り目を爛々と輝かせる彼女の質問に対する答え探しを始めることにした。悲しいことに、客足が少ないのも事実なようで会話が中断されることは無かった。
好きなもの…。初めて聞かれた時とは、また違った気持ちが頬をなぜる。嬉しくて、少しだけ恥ずかしいこの気持ちの名前はなんというのだろうか。
脱線した思考に、いかんいかん、と頭を振った。
好きなもの…。初めて聞かれたあの時から一度も考えたことは無かった。まるであの日からの一日一日をなぞるように自分の今までしてきたことを思い出し始める。
読書、は最近しなくなった。学校に来れば暇な時間などなく、隣の誰かさんに振りまわされているから、気づけばそんな時間失くなっていた。
ポエムは、できれば二度とごめんだ。自分を見つめなおすいい機会を彼女には与えてもらったし、この大敗の末に起こった行事を通して、素敵な考え方も貰った。でも、如何せんあまりにも恥ずかしすぎる。自分を見つめなおすにしても、もっと他にうまいやりようがあると思う。
そうだ、旅行は。今までそういった類の出掛で感じたことは無かったが、あの時に見た海はまたみてもいいかな、と思った。彼女にとっては、思い出したくない過去なのかもしれないけれど、またいつかその蟠りが潰えた後に今度は僕から誘ってみてもいいかもしれない。
なんだ、彼女ばっかりじゃないか。
今もこうして、一人では絶対にしない思い出探しに花を咲かすことが出来るのは誰のおかげかと目を遣る。到底誰かは分からない衣装に身を包み、片目だけで此方を見つめるその人に自然と笑みがこぼれるのは、こんな奇想天外な状況でも嫌な気がしないのは。
そうだ、見つけた。
君といる時間。君と一緒にいられるこの時間が堪らなく僕は愛しいんだ。
「まぁ。」
顔を上げると衣装には到底似合わしくない声で驚いて、口元を手で隠した。
最初は、何をしているんだろうと首を傾げた。でも、段々と彼女から出るシャボン玉に要領を得始めた。全く、どうしてこうも調子の悪いところで悪癖が顔を出すんだろう。気づいた途端にお互い目をそらした。それから二人のシャボン玉が何とも言えない空気を醸し出して、本能のように前を向く事が出来なくなってしまった。
嘘は、言っていない。けれどそれが幸か不幸か、言い訳の言葉さえも思いつくことが出来なくなって何とも言えない沈黙に、時間だけが過ぎていく。
せめてもの抵抗に息を大きく吸い込んで、過ぎ去る時間に縋りつこうとするけれど無味無臭の筈の空気は甘くて、酸っぱくてむせてしまった。
「どしたの、そんなしんみりして。」
静寂を切り裂いてくれたのは、二人のうちどちらでもない。後ろ手の暗幕から、ひょこと顔を出した鬼の面をかぶっているA君だった。
「江崎ちゃんが、二人で昼ご飯でも食べてこいってさ。この時間帯なら、あんましお客さんも来ないだろうしここは俺と坂東に任せて行ってきな。」
ズキリ。
でも、という彼女に、いいからいいからとA君は半ば強引に席を変わった。
「それなら。」
と、僕たちはお言葉に甘えて校内を歩いて回ることにした。
何時もより、倍くらい離れた二人の距離にお互い違和感を感じながら校内を、あてもなく歩く。彼女が左にそれれば僕もそちらについていき僕が右にそれれば彼女も右にずれたりと、付かず離れずの距離感が慣れてきたころになると、校内がいつもより幾倍も彩られていることに目がいった。
「綺、麗だね。」
天井に張り巡らされたアーチを、会話の種にしようと称賛した。
「そ、うですね。」
「う、ん。」
お互いのぎこちなさを埋めあうように気を使いあい、かえってそれが新たな軋轢を生みだす。いい加減このサイクルから抜け出さなければいけない。けれど、自分も周りと同じように浮ついていたことと、彼女へ告げた言葉を飲み込むのにはまだ時間がかかりそうだった。
「ほら、その、せっかく江崎さんと安達さんが言ってくれたことですし、何か食べたいものでも、ありますか。」
ズキリ。
どれだけ浮つき、空高く舞い上がっていようが、己に付いた閉じかけの傷は関係なしに開き始める。そして、その名前を聞くだけで天高く舞い上がったような気持ちは地面に引きずり降ろされた。
「焼きそばとか、どうかな。」
嫌に冷静になってしまった心を、ばれないよう隠してそう告げると、それは、い、いですね、とさっきまで僕の持っていたものを携えて彼女は言った。この心地に比べれば、さっきの方がどれだけ良かったろうと泣きそうになる想いもなんとか隠して、人だかりの中を進んだ。
「美味、しいですね。」
仮面を外して、適当なベンチに腰掛けると彼女が言った。
「うん。」
頷いてはみたけれど彼女の美味しいという、焼きそばは味がしなかった。それどころか、噛めば噛むほど苦虫を何度も咀嚼しているような気分になり堪らなくなって勢いよく飲みこんだ。
その後ろめたさに目をそらすと、何時かの手癖が顔を出して肩の半ばまで腕が上がってきている。其れで云うんだ。
忘れられれば、楽になれる。Eちゃんを傷つけたことが忘れられれば彼女に勢いで告げてしまったあの言葉にも、今こうして彼女と肩を並べていることにもなんら胸が痛むことは無い。すぐだ。頭を抑えればすぐに、この苦しみから解放される。
人を傷つけた汚い僕も、綺麗さっぱり傷一つついていない体に生まれ変わることができる。そうすれば、なんの都合の悪さも感じずに僕は堂々と生きる事が出来るようになる。
さぁ、さぁ、と腕は上がってくる。
其れだけは、ダメだ。そんな気持ちの悪いこと、今の僕にはできない。それに、絶対にしたくない。それがどれだけ罪深くて悲しいことか、今なら分かるから。
意識して、どこかの他人みたいになったその腕を下ろした。
「どうしたんですか。」
僕という生き物自体は、どうしようもなくポーカーフェイスが下手糞な人間みたいで、今彼女の抱いているものとは全く違った感情の片鱗が、どこかに零れてしまっていたらしい。加えて、彼女の大きな掌はそんな零れ落ちた感情を汲み取るのが恐ろしいくらいに得意らしく、その心配げな言葉に込められた真意にまた、泣きそうになる。こんなことなら、マスクをつけておけばよかった。
何でもないよ、とは言わなかった。顔に書いてあるものを、今更誤魔化したところで意味はないから。それに、謂えなかった。このまま身一つに背負ったモノを、誰にも言えないままでいつか爆発させるのが怖かったから。
ぼそり、と、それでも彼女に伝えようと言葉は紡がれる。
「何とも、ないような言葉で、人を傷つけてしまったんだ。それで、その人の面影を見る度に胸が痛くなって、自分はこんなに醜い人間だ、と君の隣にいるのが堪らなく辛くなって。」
世に吐き出した言葉の一つ一つが、刃物になって僕に突き刺さる。
「続けてください。」
それでも、話すことをやめないのは彼女が怒らず驕らず聞いてくれているからだった。
「僕は、僕が特別な人間だと思っていたんだ。人を平気で傷つけるモノを見ながら僕はこうはならない。僕なら、人の気持ちを常に考えて、人を傷つけることなんて絶対にない、って。でも、違った。いざ、少しだけ自分らしさを出して生活していこうと思ったら、自分はしない、とあれだけ固く誓った矢先に人を、いとも簡単に傷つけてしまった。」
感情のベクトルがあちらこちらに進んでいってその一つが、彼女に当たった。
「分からないんだ。これから僕がどうすればいいのか。謝りはしたけど、でも、僕もその人も心の傷が、完全にいえたわけじゃない。それどころか、日に日に悪化していって、今こうしているだけでも後ろ指をさされているみたいで、それが、たまらなく、辛くて。それに、人を平然と傷つけてしまったことが許せなくって。」
いつか彼女の悩みを聞いてあげたい、という僕の願いが叶うのは、まだまだ先のことのように思える。今、こうして親身になって聞いてくれている彼女にはいつまでたっても勝てる気がしなかった。
「ぼくは、僕はどうすればいいのかな、」
マスクを外した彼女を見やると、一度大きく深呼吸をしていた。
スー、ハー。
「おバカさんですね。貴方は。」
息が詰まった。
「私が、あれやこれやと乙女心を冷や冷やさせていた時にそんなことを考えているとは、思いもしませんでした。…。以前から知っていましたがやっぱり貴方は、とても、とっても純粋な方です。ドを通り越して、おがつくくらいの生真面目さです。それに、誰も傷つけたくはなく、誰にも傷つけられたくはない、というガラスのハートもお持ちのようです。」
クスッと笑う彼女に、けれど嫌な気がしないのは僕のことを馬鹿にしているわけではなく、親しみとそれに通ずる何かを込めて言葉を発しているからで、寧ろその罵り言葉は清々しいとさえ思えてくる。
其れだけで話が終わるわけもなく、また一呼吸を置いて、
「馬鹿、とは言いましたが実は、私もかなりのおバカなんです。なので、貴方と同じおバカが貴方に思ったことを話してもいいですか。」
「うん。お願いしても、いいかな。」
はい、と笑んで彼女は続けた。
その娘が立ち上がった反動で、ベンチからはふたつの太陽がまぶしいくらいに輝いて見えた。
「私は、貴方のそんな考え方が羨ましいです。人は、生きていれば必ず誰かを傷つけてしまいます。それは、どうしようもないことなんです。私たちは、みな違う人間ですべてを分かりあうことなんて出来ないですから。
けれど、私たちくらいの年になると人は、生活の中で貴方が作ったような小さな小さな傷なんて、もう気にも留めなくなっていくんです。気にしても無駄だと気にも留めずに、何事も無かったかのようにお互いふるまいます。だからって、それが許されることでもありません。人と人とがかかわる中での正解でもありません。けれど、めんどくささで隠した方が、よっぽど楽なんです。一々気を使わなくて済むし、疲れなくて済む。他人に期待しないで済みますし、裏切られることもない。生活の上で自然と身につく、エゴという名の処世術です。
だから、良いわけがないと思っているからこそ、そんな些細なことにも、本来感じるはずの面倒くささを微塵も感じずに胸を痛めることのできる貴方は、やっぱり素敵だと思います。なくしてはいけないものを、何処にも落とすことなく今の今まで持っている。人は、そんな特異な貴方を馬鹿だというでしょう。でも、それは羨ましいんです、綺麗であろうとすることが。誰よりも、何よりも誇るべきものなんです。」
罵られて、諭されて、褒められて、よくわからない気持ちになる。けれど、肝心な答えを彼女は教えてはくれなかった。
「人を傷つけることによって傷つく貴方は、正しいです。そして、そんな些細な傷を、胸を痛めるほどの傷だと思える貴方は素敵です。だから、あともう一歩。そこからどうすればいいかは、私の口からは言いません。私が言ったらきっと、あなたはバカではなくなってしまいます。ひょっとしたら、貴方の言う、皆のような人間になってしまうかもしれません。それにどうして気づけなかったんだと、後悔するでしょうから。
私にあんな素敵な言葉をくれるくらいです。これくらい、素敵で馬鹿な貴方ならきっと一人でも答えを出せると、私は信じています。鹿を、馬だと言い通してください。」
「有難う、素敵なおバカさん。」
僕と彼女の間に漂うシャボン玉が余りにもおあつらえ向きなので、恥ずかしくなって言葉を濁した。それに、なんの恥ずかしげも、誤魔化しもなく自分の想いを洗いざらい全て伝えてくれる彼女が余りにもかっこよく見えた事を悟られないようにしたかった。
「何おぅ、言うようになったじゃないですか!」
でも。
「ありがとう。」
「へ…。」
「僕一人じゃ、そんなこと思いもつけなかったから。だから、素敵な考えをありがとう。」
喉の奥の方に詰まっていた言葉は、やっと出てきてくれた。
詰まっていたのにその言葉を吐いた瞬間、さっきまで取り込んでいた酸素がいきなり吸いづらくなったのはどうしてかと彼女を見ると、彼女も同じように張り詰めた空気を吸うので精一杯、という感じだった。
それから、直ぐに又何か誤魔化すための言葉を考えないといけない雰囲気に変わってあれやこれや、と考えていたら、今度は彼女が笑いだして僕らの空気を濁した。その濁った空気は、吸い込むと僕も何だか笑えてくるものがあって、しばらく二人でツボにはまったように笑っていた。多分だけど僕のツボは一人ではなく、二人が合わせて混濁させた酸素が、さっきよりも吸いやすいことにあったんじゃないかと思う。
最後に少し頬を染めてニコッと笑う彼女に、ほんの少しだけ、自分が誇らしくなって、さっきの絶望が嘘のように僕も自然と笑う事が出来た。彼女の恐らく初めて使った少し汚い言葉も、それを覆い隠すくらいの素敵な言葉たちに比べたらそんなこと、と気に留まらなかった。
「おバカさん。」
少女のぼそりと吐き出した最後の言葉は、少年に届くことは無かった。
さて、そろそろ行きましょうか、とマスクをかぶる彼女につられて僕もマスクをかぶった。カラスのくちばしを模した仮面は先ほどまでとは、また違う原因で泣きそうになった顔を隠すのにはあまりにも便利で、悟られることなく彼女の隣を歩く事が出来た。
それに、八方ふさがりでどうしようもなかった悩みは、九方向目の上に向かって必ず何とかする、という決意に変わった。言葉一つで変えられてしまうあまりの単純さ(バカさ)に、自分でも笑ってしまいそうになるけれど、立ち止ってみると、下を向いてずっとくよくよしているよりはマシだ、と今まで見えなかった背中に、張り付くシャボンの色が物語っている気がして再び僕は、その隣を歩こうと思った。
彼女の言葉だからこそ、自分のことのように突き刺さったのだと気づけたのは、それから少し先のことだった。
あの旅行で彼女が突然泣いた訳を、教えてもらいたかった。それに、図書館で見たあの涙の意味も。
夏が終わってすぐ、最初のうちは彼女が気にしてないならそれでいいか、と思った。満足だった。でも、それだけじゃ取り返しのないことになるんじゃないかと一日また一日と日々を燃やすたび、何かが膨らんでいくのを感じた。のうのうと、臭い物には蓋をして生きていくとどうなるのか。それは、今までの僕が一番よく知っている。
放っておいていいはずがない。此の悪寒は、きっと確信に届く。
聞いておきたい。嫌われたっていい。間違いなく、彼女は夏ごろから、いやひょっとするともっとずっと前から何かに苦しんでいる。なのに、自分のことで一杯一杯のはずの彼女は、僕に優しさを分けてくれた。
だから、僕も何かで応えてあげたい。あの海で言ってくれた言葉を、そっくりそのまま彼女に返してあげたい。偶には思いのたけを、ため込んだ苦労を吐き出してもいいじゃないか。
誰でもいい、君の苦労を聞くのは。でも、誰もかれもが彼女のことを第一印象のまま見ている。君の苦労は、僕以外の誰も知らない。僕もそれが何なのかすら分からない。
君の口から教えてほしい。哲学ゾンビみたいに生きてきた僕が、人間らしく生きる第一歩。他人の言葉に、思いに、自分を重ねる。自分のことのように悲しんだり喜んだり。その一歩は、ほかの人じゃない。紛れもない君に手伝ってほしかった。
そしたら、僕も君も一石二鳥だから。
だから。
だから僕を、頼ってほしい。
「ダメだ。」
どうしても、キザなセリフで格好つけてしまう。もっと、単純で短くしないと。
本来なら今、彼女に伝えるはずだった言葉を反芻させる。
それならまだ、伝えなくてよかったのかもしれない。人を平然と傷つける今の僕には、その資格がないだろうから。
まだ痛む胸に手を当てて、何十回目かの下書きを頭の中でぐちゃぐちゃにした。
帰り道、独りだと暇に飽かして色々が頭の中をぐるぐる回る。答えのない答え探しに、へとへとになった僕は、家に着くとすぐにベッドめがけて飛び込んだ。
ベッドに俯せになると、そのうちに体は沈み込んで意識と一緒にまどろみの中に消えていった。
『どうして今日、彼女のシャボン玉を消さなかったの。』
誰かが囁いてくる。聞きなじみのないその声は、なぜだか親しく思えてきて、洗いざらい吐き出してしまおう、なんて変に強気になる。
「怖かったんだ。皆が血肉の通った生き物だと分かった途端に、僕が彼らを簡単に変えてしまえることが堪らなく。」
『Eちゃんのことは、いいの?それに、今更になって?』
「だって、しょうがないじゃないか。どっちも今まで知らなかったんだ。」
『そんな言い訳で、罪が消えるとでも?』
「それは…。」
『私を殺したのが、許されるとでも?』
声の主は肉薄してくる。妖しい息遣い、聞こえる心の音、やけに人間らしい女の子が目の前に立っていた。どこか、面影があるようでないようなその顔が、すぐにだれなのか、僕にはわかった。
彼女は初めて気持ちを殺した、あの時の女の子だった。其れもやけにリアルな質感で、あれきり会ったこともないのに成長した姿で、目の前に立っている。
彼女の幻影に比べれば、Eちゃんのあの服の方がよっぽど趣味が良い。
『ねぇ、答えてよ。』
その眼には、あるはずの瞳もなく、代わりにどこまでも真っ暗な闇が広がっていた。
『ねぇ、』
闇が僕を吞み込み、声が耳を貫いた。
『ねぇねぇねぇねぇねぇ』
「ねぇ、ご飯できたわよ。」
「わっ。」
目を覚ますと、母がお玉を片手に僕をコツンと叩いていた。
「随分魘されてたけど、大丈夫?」
全身には、纏わりついてくる嫌な汗をかいている。詰まらせていた、息を吐く。
「初秋に頭から布団かぶるなんて。そりゃ汗の一つも掻くわよ。とりあえず、先にシャワーでも浴びてきたら。」
「そうする。」
母に促されて、階段を下りた。
「あっ、そういえば。」
寝癖を正し乍ら、振り返る。
母は、思い当たりのない微笑みを向ける。
「やっぱり、なんでもないわ。」
「なんだよそれ。」
「そうだ。あんたが行くんなら今年は、文化祭行かせてもらおうかしら。」
「ん。」
「あんたのクラスは、何やるの。」
「秘密。」
「まぁ、いいわ。勝手に探すから。」
「ん。」
階段を下りながら、さっきの母との問答を少し意識する。全く似ても似つかないような僕と母。そんな母から、どうして僕が生まれたんだろうと、悲しくなる。遺伝子がどうだかは関係なさそうだし。ブクブクと、浴槽で泡を立ててみたけれどその答えがポッと浮かぶことは無かった。
それから、今度はしっかりと支度をしてから床に就いた。寝付くまでに思いのほか時間がかかったのは、きっともう一回、あの夢を見るのが怖かったからだろう。動悸の激しい心中と闘いながら、楽しいことを浮かべて何とか眠りについた。明日のことを思い浮かべると余計に胸が疼いたのは、きっと何でもないことのように思う。
良くある話だ。
まだ漂うシャボン玉に、少しの違和感も感じなかった小さな頃、僕のクラスにはいじめがあった。いじめっていうのは癌に似ていて、露見した時にはもう取り返しのつかないことになっていることが多い。まさしくその通りで、ただ給食を食べるのが遅いだとか、かけっこが遅いだとか、そんな他愛もない理由から始まったそれは日に日にエスカレートしていって、僕の気づいた時にはもうだれも止められないくらいに大きくなっていた。
その子はよく本を読む子だった。図書館に行くと毎回、サクランボみたいな二つの水玉の髪留めを後ろにつけてタイトルも子供には読めないような難しい本を読んでは、パッと笑ったり、とっても悲しそうな顔をしたり、そんな彼女を遠目から眺めていたのをよく覚えている。
話しかけたことは一度も無かった。ただ、その子のシャボン玉は純粋な子供たちの中でもとびぬけてきれいで、何時の日か話したいな、と思っていた。
別れは、突然にやってきた。
帰りの会になると、先生がその子を黒板の前に呼び出して言った。
「〇〇ちゃんは、明日引っ越すことになった。皆悲しいとは思うが、今日はちゃんと別れの挨拶をしてあげなさい。」
先生の言葉に、周りを見回すと幼いながらに疑問に思った。
どうして、皆悲しそうな顔をしているのに、汚い色をしたシャボンが周りにはたくさんあるんだろうって。今なら、身に染みるほど分かる。
それで、いつものように放課後になって図書館に向かうと、いつものようには女の子はいなかった。不思議に思って、辺りを探すと悲し気なシャボン玉がいくつもいくつも、右から左へ流れていく。濃蒼に彩られたそのシャボンに見惚れて出所に向かうと、雨も降っていないのにびしょびしょになっているその女の子がいた。
何も言わない僕に、彼女はやっと気づくと
「悲しいの。辛いの。」
其れだけ言って、又泣き出した。藍色のシャボン玉は、僕が集めていたどのビー玉よりもきれいだった。
「悲しいの?」
その子の言葉を借りてみても、その子の気持ちが僕に伝播することは無かった。
「うん。私のことをいじめるあの子たちは引っ越してもずっとずっと、わたしにつきまっとてくるの。きっとどれだけ楽しく生きようと思っても忘れた頃に、思い出せって。最近は、ゆめにも出るようになったの。」
「くるしい?」
「うん、すっごく。もし、この気持ちが忘れられたらな。そうしたらずっと、ずっと幸せなのに。」
「なら、それ、僕にちょうだいよ。」
一石二鳥。
藍色のシャボンを手に取って、彼女の前にもっていく。こんなにきれいなものを要らないというのだから、もったいないし貰っておこう。それで、ビー玉入れに入れて僕の宝物にするんだ。食べるのもいいかもしれない。このふわふわは、きっとおいしいだろうから。まだ、それが何かすらも分からなかった僕は、女の子の、もらって。という言葉に一層にんまり笑って、そのシャボンをポケットに入れようとした。興味の中には、ほんの少しだけの好意もあった。彼女が、また綺麗に笑ったり怒ったりできるのなら、こいつは僕が貰ってあげようって。
この時から。
この時、この瞬間から僕の周りをうろつくビー玉みたいなものが本当は何なのか、そして周りを漂う色の意味するものがなんなのかを知った。周りの目を訝しく思っていたのも、多分彼女がくれたものだ。
当然シャボン玉は小さなポケットに入るわけもなく、家に持ち帰れないなと幼いながらに悟った僕は食べてしまうことにした。口の前まで持っていくともうシャボンは動くのをやめて、その場にうずくまっていた。だから、僕はそれを口に入れた。
奥歯で噛むと、シャボン玉は当然綺麗霧散に口腔で弾けて、唾液の出るくらい苦い味がした。
瞬間、さっきまで泣いていた女の子は突然に、僕を突き飛ばした。
「どうして。どうして、私は引っ越しなんてしなくちゃいけないの。悲しいことなんて一つもないのに。貴方がとったのね。ねぇどうして、返してよ。私の楽しい記憶を、取らないでよ。」
綺麗な宝物が弾けたのを、確認する暇もなく彼女は僕の胸ぐらをつかんだ。
「ねぇ、ねぇ、ねぇ!返して!返して!」
喚く彼女の後ろには、さっきのと同じ色のシャボン玉が漂っている。
ほら、そこにあるんだ。返すから、その手をどけてよ。
何かでぐしゃぐしゃになった視界のなかで、彼女にそう目いっぱい叫ぶけれど、嗚咽が邪魔をしてくる。何も言えない僕に、先生が来るまで彼女はずっと、返して、どうして、と叫んだ。
最後の最後まで、僕は彼女に口を開くことは出来なかった。
だから、僕と彼女の話はこれでおしまい。
簡単に、ちょうだいなんて言ってしまったばかりに僕は、その日から彼女のことを殺してしまったように思う。
それから、僕は人に触れるのが堪らなく怖くなって、寄り付く芽はなるべく早く摘んで、他人には遠ざける納得のいく理由を自分の中に作って生きていた。それで、彼女からもらった都合のいい先入観を振りかざして、持ってもいないトラウマを使ってもっともらしい理由を作って殻に閉じこもっていた。
彼女に会うまでは。
一つ消したところで、屁にも思わない大軍を引き連れて僕の前に現れた彼女は僕にいろんな世界を教えてくれた。有り余るくらいにたくさんを持った彼女といれば、僕が間違っても君を消してしまうことはないと、安心する事が出来た。
けれど。
もらったそのシャボンは、忘れた頃に出てくる悪夢になった。
今も、そう。燈昌さんとの日々を僕の中に刻んでいくたびにその根っこにあるこれが、騒めきだして告げる。忘れるな、と。僕の罪を、消したくても消すことはできない過ちを。
「ようこそ、真実の館へ。」
やっと耳に馴染んできた何度目かの定型文を、彼女がまた新しいお客さんに放った。こんな中二感満載の恥ずかしい名前を後ろ手にあるお化け屋敷に付けたのは、紛れもなくEちゃんだ。
ズキリ。
んんっと喉を鳴らす。なるたけ声を低くしたいときにはこうすればうまくいくと、やっと身に着いた何十回目の教訓を遺憾なく行使する。
「ここでは、まずご入場頂く前にお客様にいくつかの質問をさせていただいております。よろしいですか。」
「どうぞ。」「なんか、めっちゃっぽいな。」
「有難うございます。それでは、こちらの椅子に座って水晶をご覧ください。」
そう促して、僕もレンズ越しに水晶に目を向ける、フリをする。実際に見ているのは今目の前に座っている客とその周り。衣装を作ってもらうときに視線が切れるものを要望したのが功を奏している。
目の前のカップルに漂っているシャボンは、類まれで独特なものだった。座っている女の人の方には、純粋な喜びが感じられる。シャボン玉は一人につき、一度に幾つも見えるようになったはずだけれど、その人から感じられるのはただただ嬉しいという気持ちだけ。椅子に座るだけで漂ってくるその人の幸せを脳漿でかみ砕くだけで、なんだかこっちまで嬉しくなってくる。
けれど、男の人の方には逸楽の中に少しの焦りと、それから苦痛が読み取れる。彼女はこんなにも楽しそうなのに、彼はいったい何が不満なんだろうか。
どうしてか。それは、分からない。
分からなくても、何とかはなる。だって、言葉は発された時点で僕だけのものじゃなくなるから。受け取り手によって様々に色を変えて、都合のいいように心に刺さる鍵みたいなものだから。
「そちらの殿方は、何をそんなに苦しんでいらっしゃるのでしょうか。苦悶の表情が見て取れます。」
「は?」
明らかに、焦燥で塗りたくられたような声音で質問を質問で返す男の人に続けて捲し立てる。
「それに加えて何をそんなに焦っていらっしゃるのですか。まるで、この女性といるから生まれてくるみたいです。」
「だから、何がだよ。」
何がって、もう言う必要はない。
目は泳ぎ、額には汗が滲んでいる。男性は誰が見ても分かるような動揺を内から外に造り上げた。何故そうなったかはわからない。分からないけれど僕の言葉は彼にとっておあつらえ向きだったようで、余裕や喜びとは無縁の表情で此方を窺ってくる。僕もそうだが、人は突然に思ってもみないところから正鵠を射られるとうまく対応できないように作られている。
「それは、私には解りかねます。けれどここは真実の館。この先に、きっと答えはあるでしょう。道程の中、どれだけ辛くても恐ろしくても貴方たちは進まねばなりません。ほんの少しでも、このライトが貴方たちの役に立つことを祈っています。」
引き出しに忍ばせていたライトを二人分取り出すと、無機質なグローブの上に乗せて女性に渡した。
嫌がる男性に、兎に角行ってみようという女性。そこには先ほどまで形造られていた、亀鑑の男女の姿はなかった。
「良い旅を。」
暗闇の中に鬼を見た女性と、男性、二人の背を、何とはなしに見送った。
そこからお化け屋敷は、阿鼻叫喚の巷と化した。どれだけ本格的とはいっても所詮は何部屋かの教室を段ボールやら何やらで改築したに過ぎないハリボテでは、彼の声を掻き消すことは出来ないらしい。防音もへったくれもない暗室で叫び、何かに必死になって謝罪している声が聞こえてくる。
「悪かった。○○、出来心だったんだよ。俺が悪かった。ごめん、ごめん。」
僕と、隣に座る彼女にとっては直ぐのことだったが、二人にとっては恐らく想像つかないくらいの永い旅路を経て、三棟ほど離れた教室の端から廊下に顔を出した。泣きながら縋りつく男性に、苦虫を咀嚼したような顔つきでそれを引きはがす女性。極めつけに、「最低」の二文字を叩きつけると女性は男性を置いてどこかに行ってしまった。
「凄い、ですね、このお化け屋敷は。私なら絶対に入りたくありません。」
「ホントに…、どうしたら大の大人が泣くくらいのお化け屋敷を作れるんだろう。」
そろそろ両手に収まらなくなるくらいの、客が恐怖に悶える姿を見て今着ている黒衣に氷を入れられたような心地になって身震いした。この調子だと僕と彼女のアナウンスも、意味をなさないんじゃないかと思えてくる。彼女も同じ心地のようで、体をブルッと震わせた。それを、始終見ていた僕に気づくとバツが悪そうに眼をそらして、あはは、と笑った。
「そういえば、須藤さんの言葉であの男の人は、上を下へと酷く動揺されていました。図星でもつかれなければ、人はあそこまでなることはありません。どうやって、あの方の考えてることを言い当てたんですか。」
「いや、全然分からなかった。これぽっちも。でも、何となくだけどあの人が焦ってるのだけは分かって鎌をかけたら…、でもあんなに動揺されるとは思ってなかったよ。」
「お得意の心理学で?」
「お得意の心理学で。」
へぇ、と妖しく疑ってくる少女を適当にいなす。
彼女が、この話題についてよく突っかかってくるのも無理はなかった。親密にしてきたはずの人間がいきなり、今まで見たこともない特技をひけらかし始めたのだ。もし僕なら、絶対その人に対して疑心暗鬼になると思う。でも、彼女はそんな小さなこと、と気にも留めず今もこうして楽し気に疑りをかけてくる。太陽の前には、何通りか準備していた言い訳も、誤魔化しも、見透かされてしまうみたいで意味をなさないらしく、本当にやり辛いことこのうえない。
「もしかして、私が今考えていることも分かったりするのでしょうか。」
マスクの恩恵にあやかって、見るともなしに彼女に目を向ける。
「いや、残念ながら。」
いつも通り見えるのは、たくさんの楽し気なシャボンに虹色のシャボン、そんな明るい色に照らされた彼女に陰る少しの悲しい色をしたシャボン玉。皆目見当もつかない彼女の心境に、早々と降参の意思を示した。
分からない旨を心底残念に伝えると彼女は心底嬉しそうに、良かったです、と頬笑んだ。それを見て再三うなだれた。
うなだれた僕は、差し詰めオペに行き詰まる医者にでも見えたらしく彼女が糸を垂らした。
「そういえば、須藤さん。好きなものは見つかりましたか?」
「どうしてそんな質問、突然するの。」
先ほどの男性ほどではないが、声音に動揺が含まれてしまっている。こうやって弱みを見せたら、もういつもの調子で彼女に実権を握られて会話は彼女の掌の上で転がされる。
「ほら、お客さんが来るかもしれないしこみ入った話はまた後に。」
「そろそろお昼ごはんの時間ですね。お客さんも廊下には見えませんしまだ大丈夫だと思いますよ。」
むぅ。掌から零れ落ちるための努力は、何時もの通り虚しく砕けた。
「それに、須藤さんは言っていました。初めて会った時、楽しいことや趣味がないって。」
「言った覚えはないけど。」
「いえ、ほらそんな雰囲気だったじゃないですか。」
どんな雰囲気だろう。身に覚えのない哀愁を思い出そうとしたところで思い出せるはずもなく、言い訳探しに戻ることにする。
「それにそれに、一度聞いたのです。二度三度と、貴方の好きなものが見つかるまで問い続けるのは、私の義務です。それにそれにそれに、私が知らないのはあなただけですから。」
根拠も何もあったものではないが、そこまで言われてしまうと答えない、というのも虫が悪い。だから、また何時もの通り目を爛々と輝かせる彼女の質問に対する答え探しを始めることにした。悲しいことに、客足が少ないのも事実なようで会話が中断されることは無かった。
好きなもの…。初めて聞かれた時とは、また違った気持ちが頬をなぜる。嬉しくて、少しだけ恥ずかしいこの気持ちの名前はなんというのだろうか。
脱線した思考に、いかんいかん、と頭を振った。
好きなもの…。初めて聞かれたあの時から一度も考えたことは無かった。まるであの日からの一日一日をなぞるように自分の今までしてきたことを思い出し始める。
読書、は最近しなくなった。学校に来れば暇な時間などなく、隣の誰かさんに振りまわされているから、気づけばそんな時間失くなっていた。
ポエムは、できれば二度とごめんだ。自分を見つめなおすいい機会を彼女には与えてもらったし、この大敗の末に起こった行事を通して、素敵な考え方も貰った。でも、如何せんあまりにも恥ずかしすぎる。自分を見つめなおすにしても、もっと他にうまいやりようがあると思う。
そうだ、旅行は。今までそういった類の出掛で感じたことは無かったが、あの時に見た海はまたみてもいいかな、と思った。彼女にとっては、思い出したくない過去なのかもしれないけれど、またいつかその蟠りが潰えた後に今度は僕から誘ってみてもいいかもしれない。
なんだ、彼女ばっかりじゃないか。
今もこうして、一人では絶対にしない思い出探しに花を咲かすことが出来るのは誰のおかげかと目を遣る。到底誰かは分からない衣装に身を包み、片目だけで此方を見つめるその人に自然と笑みがこぼれるのは、こんな奇想天外な状況でも嫌な気がしないのは。
そうだ、見つけた。
君といる時間。君と一緒にいられるこの時間が堪らなく僕は愛しいんだ。
「まぁ。」
顔を上げると衣装には到底似合わしくない声で驚いて、口元を手で隠した。
最初は、何をしているんだろうと首を傾げた。でも、段々と彼女から出るシャボン玉に要領を得始めた。全く、どうしてこうも調子の悪いところで悪癖が顔を出すんだろう。気づいた途端にお互い目をそらした。それから二人のシャボン玉が何とも言えない空気を醸し出して、本能のように前を向く事が出来なくなってしまった。
嘘は、言っていない。けれどそれが幸か不幸か、言い訳の言葉さえも思いつくことが出来なくなって何とも言えない沈黙に、時間だけが過ぎていく。
せめてもの抵抗に息を大きく吸い込んで、過ぎ去る時間に縋りつこうとするけれど無味無臭の筈の空気は甘くて、酸っぱくてむせてしまった。
「どしたの、そんなしんみりして。」
静寂を切り裂いてくれたのは、二人のうちどちらでもない。後ろ手の暗幕から、ひょこと顔を出した鬼の面をかぶっているA君だった。
「江崎ちゃんが、二人で昼ご飯でも食べてこいってさ。この時間帯なら、あんましお客さんも来ないだろうしここは俺と坂東に任せて行ってきな。」
ズキリ。
でも、という彼女に、いいからいいからとA君は半ば強引に席を変わった。
「それなら。」
と、僕たちはお言葉に甘えて校内を歩いて回ることにした。
何時もより、倍くらい離れた二人の距離にお互い違和感を感じながら校内を、あてもなく歩く。彼女が左にそれれば僕もそちらについていき僕が右にそれれば彼女も右にずれたりと、付かず離れずの距離感が慣れてきたころになると、校内がいつもより幾倍も彩られていることに目がいった。
「綺、麗だね。」
天井に張り巡らされたアーチを、会話の種にしようと称賛した。
「そ、うですね。」
「う、ん。」
お互いのぎこちなさを埋めあうように気を使いあい、かえってそれが新たな軋轢を生みだす。いい加減このサイクルから抜け出さなければいけない。けれど、自分も周りと同じように浮ついていたことと、彼女へ告げた言葉を飲み込むのにはまだ時間がかかりそうだった。
「ほら、その、せっかく江崎さんと安達さんが言ってくれたことですし、何か食べたいものでも、ありますか。」
ズキリ。
どれだけ浮つき、空高く舞い上がっていようが、己に付いた閉じかけの傷は関係なしに開き始める。そして、その名前を聞くだけで天高く舞い上がったような気持ちは地面に引きずり降ろされた。
「焼きそばとか、どうかな。」
嫌に冷静になってしまった心を、ばれないよう隠してそう告げると、それは、い、いですね、とさっきまで僕の持っていたものを携えて彼女は言った。この心地に比べれば、さっきの方がどれだけ良かったろうと泣きそうになる想いもなんとか隠して、人だかりの中を進んだ。
「美味、しいですね。」
仮面を外して、適当なベンチに腰掛けると彼女が言った。
「うん。」
頷いてはみたけれど彼女の美味しいという、焼きそばは味がしなかった。それどころか、噛めば噛むほど苦虫を何度も咀嚼しているような気分になり堪らなくなって勢いよく飲みこんだ。
その後ろめたさに目をそらすと、何時かの手癖が顔を出して肩の半ばまで腕が上がってきている。其れで云うんだ。
忘れられれば、楽になれる。Eちゃんを傷つけたことが忘れられれば彼女に勢いで告げてしまったあの言葉にも、今こうして彼女と肩を並べていることにもなんら胸が痛むことは無い。すぐだ。頭を抑えればすぐに、この苦しみから解放される。
人を傷つけた汚い僕も、綺麗さっぱり傷一つついていない体に生まれ変わることができる。そうすれば、なんの都合の悪さも感じずに僕は堂々と生きる事が出来るようになる。
さぁ、さぁ、と腕は上がってくる。
其れだけは、ダメだ。そんな気持ちの悪いこと、今の僕にはできない。それに、絶対にしたくない。それがどれだけ罪深くて悲しいことか、今なら分かるから。
意識して、どこかの他人みたいになったその腕を下ろした。
「どうしたんですか。」
僕という生き物自体は、どうしようもなくポーカーフェイスが下手糞な人間みたいで、今彼女の抱いているものとは全く違った感情の片鱗が、どこかに零れてしまっていたらしい。加えて、彼女の大きな掌はそんな零れ落ちた感情を汲み取るのが恐ろしいくらいに得意らしく、その心配げな言葉に込められた真意にまた、泣きそうになる。こんなことなら、マスクをつけておけばよかった。
何でもないよ、とは言わなかった。顔に書いてあるものを、今更誤魔化したところで意味はないから。それに、謂えなかった。このまま身一つに背負ったモノを、誰にも言えないままでいつか爆発させるのが怖かったから。
ぼそり、と、それでも彼女に伝えようと言葉は紡がれる。
「何とも、ないような言葉で、人を傷つけてしまったんだ。それで、その人の面影を見る度に胸が痛くなって、自分はこんなに醜い人間だ、と君の隣にいるのが堪らなく辛くなって。」
世に吐き出した言葉の一つ一つが、刃物になって僕に突き刺さる。
「続けてください。」
それでも、話すことをやめないのは彼女が怒らず驕らず聞いてくれているからだった。
「僕は、僕が特別な人間だと思っていたんだ。人を平気で傷つけるモノを見ながら僕はこうはならない。僕なら、人の気持ちを常に考えて、人を傷つけることなんて絶対にない、って。でも、違った。いざ、少しだけ自分らしさを出して生活していこうと思ったら、自分はしない、とあれだけ固く誓った矢先に人を、いとも簡単に傷つけてしまった。」
感情のベクトルがあちらこちらに進んでいってその一つが、彼女に当たった。
「分からないんだ。これから僕がどうすればいいのか。謝りはしたけど、でも、僕もその人も心の傷が、完全にいえたわけじゃない。それどころか、日に日に悪化していって、今こうしているだけでも後ろ指をさされているみたいで、それが、たまらなく、辛くて。それに、人を平然と傷つけてしまったことが許せなくって。」
いつか彼女の悩みを聞いてあげたい、という僕の願いが叶うのは、まだまだ先のことのように思える。今、こうして親身になって聞いてくれている彼女にはいつまでたっても勝てる気がしなかった。
「ぼくは、僕はどうすればいいのかな、」
マスクを外した彼女を見やると、一度大きく深呼吸をしていた。
スー、ハー。
「おバカさんですね。貴方は。」
息が詰まった。
「私が、あれやこれやと乙女心を冷や冷やさせていた時にそんなことを考えているとは、思いもしませんでした。…。以前から知っていましたがやっぱり貴方は、とても、とっても純粋な方です。ドを通り越して、おがつくくらいの生真面目さです。それに、誰も傷つけたくはなく、誰にも傷つけられたくはない、というガラスのハートもお持ちのようです。」
クスッと笑う彼女に、けれど嫌な気がしないのは僕のことを馬鹿にしているわけではなく、親しみとそれに通ずる何かを込めて言葉を発しているからで、寧ろその罵り言葉は清々しいとさえ思えてくる。
其れだけで話が終わるわけもなく、また一呼吸を置いて、
「馬鹿、とは言いましたが実は、私もかなりのおバカなんです。なので、貴方と同じおバカが貴方に思ったことを話してもいいですか。」
「うん。お願いしても、いいかな。」
はい、と笑んで彼女は続けた。
その娘が立ち上がった反動で、ベンチからはふたつの太陽がまぶしいくらいに輝いて見えた。
「私は、貴方のそんな考え方が羨ましいです。人は、生きていれば必ず誰かを傷つけてしまいます。それは、どうしようもないことなんです。私たちは、みな違う人間ですべてを分かりあうことなんて出来ないですから。
けれど、私たちくらいの年になると人は、生活の中で貴方が作ったような小さな小さな傷なんて、もう気にも留めなくなっていくんです。気にしても無駄だと気にも留めずに、何事も無かったかのようにお互いふるまいます。だからって、それが許されることでもありません。人と人とがかかわる中での正解でもありません。けれど、めんどくささで隠した方が、よっぽど楽なんです。一々気を使わなくて済むし、疲れなくて済む。他人に期待しないで済みますし、裏切られることもない。生活の上で自然と身につく、エゴという名の処世術です。
だから、良いわけがないと思っているからこそ、そんな些細なことにも、本来感じるはずの面倒くささを微塵も感じずに胸を痛めることのできる貴方は、やっぱり素敵だと思います。なくしてはいけないものを、何処にも落とすことなく今の今まで持っている。人は、そんな特異な貴方を馬鹿だというでしょう。でも、それは羨ましいんです、綺麗であろうとすることが。誰よりも、何よりも誇るべきものなんです。」
罵られて、諭されて、褒められて、よくわからない気持ちになる。けれど、肝心な答えを彼女は教えてはくれなかった。
「人を傷つけることによって傷つく貴方は、正しいです。そして、そんな些細な傷を、胸を痛めるほどの傷だと思える貴方は素敵です。だから、あともう一歩。そこからどうすればいいかは、私の口からは言いません。私が言ったらきっと、あなたはバカではなくなってしまいます。ひょっとしたら、貴方の言う、皆のような人間になってしまうかもしれません。それにどうして気づけなかったんだと、後悔するでしょうから。
私にあんな素敵な言葉をくれるくらいです。これくらい、素敵で馬鹿な貴方ならきっと一人でも答えを出せると、私は信じています。鹿を、馬だと言い通してください。」
「有難う、素敵なおバカさん。」
僕と彼女の間に漂うシャボン玉が余りにもおあつらえ向きなので、恥ずかしくなって言葉を濁した。それに、なんの恥ずかしげも、誤魔化しもなく自分の想いを洗いざらい全て伝えてくれる彼女が余りにもかっこよく見えた事を悟られないようにしたかった。
「何おぅ、言うようになったじゃないですか!」
でも。
「ありがとう。」
「へ…。」
「僕一人じゃ、そんなこと思いもつけなかったから。だから、素敵な考えをありがとう。」
喉の奥の方に詰まっていた言葉は、やっと出てきてくれた。
詰まっていたのにその言葉を吐いた瞬間、さっきまで取り込んでいた酸素がいきなり吸いづらくなったのはどうしてかと彼女を見ると、彼女も同じように張り詰めた空気を吸うので精一杯、という感じだった。
それから、直ぐに又何か誤魔化すための言葉を考えないといけない雰囲気に変わってあれやこれや、と考えていたら、今度は彼女が笑いだして僕らの空気を濁した。その濁った空気は、吸い込むと僕も何だか笑えてくるものがあって、しばらく二人でツボにはまったように笑っていた。多分だけど僕のツボは一人ではなく、二人が合わせて混濁させた酸素が、さっきよりも吸いやすいことにあったんじゃないかと思う。
最後に少し頬を染めてニコッと笑う彼女に、ほんの少しだけ、自分が誇らしくなって、さっきの絶望が嘘のように僕も自然と笑う事が出来た。彼女の恐らく初めて使った少し汚い言葉も、それを覆い隠すくらいの素敵な言葉たちに比べたらそんなこと、と気に留まらなかった。
「おバカさん。」
少女のぼそりと吐き出した最後の言葉は、少年に届くことは無かった。
さて、そろそろ行きましょうか、とマスクをかぶる彼女につられて僕もマスクをかぶった。カラスのくちばしを模した仮面は先ほどまでとは、また違う原因で泣きそうになった顔を隠すのにはあまりにも便利で、悟られることなく彼女の隣を歩く事が出来た。
それに、八方ふさがりでどうしようもなかった悩みは、九方向目の上に向かって必ず何とかする、という決意に変わった。言葉一つで変えられてしまうあまりの単純さ(バカさ)に、自分でも笑ってしまいそうになるけれど、立ち止ってみると、下を向いてずっとくよくよしているよりはマシだ、と今まで見えなかった背中に、張り付くシャボンの色が物語っている気がして再び僕は、その隣を歩こうと思った。
彼女の言葉だからこそ、自分のことのように突き刺さったのだと気づけたのは、それから少し先のことだった。