透度に間違いがなければ、いや間違いなど無い。これは、彼女のものだ。
 あの日が簡単に瞼から剥がれ落ちて、目の前に不二の景色が現れる。
 棚から席を一望すると、やはりいるはずのその女の子は俯いて瞳を蒼で濡らしては泣いていた。その胸にはいつも肌身離さず持っているノートを握りしめている。何時かと酷似したその光景に僕は、また何もできずにいる。誓ったはずなのにしまいには、本棚の裏に隠れる始末だ。本当は、直ぐに飛び出してしまいたい。でも、足は床と同化してしまって動こうとはしてくれない。
 嘘だ。本当は、恐ろしい。彼女の今まで見たことのないその悲しみの表情が、理解らなかったらどうしようかと考えると怖くて一歩を踏み出せない。そんなもの後からついてくるものだ、なんて僕には思えない。負け犬根性は、まだ治らないままで無能の烙印を押された楔は足についたまま。もしこんな意気地なしを消せたなら、でも初めて立てた綺麗な約束がそれを邪魔する。これじゃあ、何のために取り付けたのかも分からない。でも、取り繕った偽物で彼女を慰めることは、もっとしたく無い。倒錯した気持ちに彼女への善意まで錯綜して、僕はここにいることしかできない。傷つくのが怖いから、結局僕はエゴで身を包んだ生き物だった。
 もう一度彼女を見る。
 すると僕のシャボン玉は、泣いている彼女の周りを妖精みたいにずっと漂っている。このときほど、僕の気持ちが誰かに見えて欲しかったことは無かった。その気泡は僕に見えるだけでも、十分絶大なものだ。それは紛れもない僕のものだから。
 何度も同じ過ちを繰り返していたのは大変不肖らしくはあるが、目の前で僕が言っているのだ。ここで出端をくじいているのも僕だけれど、あそこにいるのも隠しようのない僕だ。騙すことはしたくない。点数なんていらないし、満点もいらない。ただ彼女に泣いてほしくない旨を伝えようと、そう思った。
「燈昌さん。」
 ひねり出した言葉と同じように足は軽く、ぬかるみのようなドロドロも脚にはつかない。
 けれどたどり着いた先にはもう、彼女はいなくなっていて代わりに泡沫に彼女の姿をした泡が四散して辺りを舞っている。そして、僕のシャボンだけが机の上に張り付いていた。
 彼女を描いていたのか、真偽はもう泡になってしまった。
 辛酸をなめる、というのはこんな時に云うんだろう。彼女にもらった附子が、行き場を失って熱を冷まそうと体中をうごめいている。二度目の過ちは、結局過ちのまま終わって彼女の涙を止めることもたまった留飲を呑むことも出来はしなかった。
 不快感が喉を鳴らす。
 このことは、すべてが悲しいと思っていた。彼女に色々を教えてもらった僕も、いつか来るかもしれない不幸せを願っている僕も、不思議と同じ気持ちを抱いている。
 不思議でもなかった。後者は何時かの誰かの涙から出来たものだから、もう同じ思いは二度とはごめんなんだろう。次こそは間違えない、とあの時に彼女を投影させているのがよくわかる。それは、僕もおんなじだ。この辛くて苦しくて消せない悲しみがあれば、僕はきっと彼女のために正しい選択が出来る。
 あの時とは違う。悲観的になって、この世界を嘆くような格好の悪い真似はしない。もう手遅れだと、見て見ぬ振りもしない。
 今一度誓った。彼女のために、彼女が頼ってくれるように、もう彼女への気持ちに嘘をつくようなことはしない。気持ちを殺すようなこともしない。この鬱積を何時か彼女へと晴らすために、僕は自分に正直に生きたい。そうすれば僕がそうしてもらっているように、彼女にも同じものを上げることが出来るだろうから。
 その決意は、邪魔されることも疎外されることもなかった。強固な殻はきっともうとっくのうちに剥がれ落ちて僕の中で混ざり合っていて、でもそれでも飽和して残っている部分が違和を唱えることもない。
 彼女へ踏み出したこの一歩は、紛れもなく彼女のためで僕のためのものだ。しばらく辺りを歩いてみても彼女の影は無かった。『...僕は、人が嫌いだ。鳥がさえずるように、雲から零れ落ちた涙が余すことなく地に降りしきるように、草花が咲き乱れやがて散るらんと言うように僕は、狂おしいほどに人が嫌いだ。それは、どうしてか。どうしてかってそれは、僕や、誰かがどれだけ頑張っていようが、お構いなしに人はその努力や、悪行、人柄を一言で済まそうとするから。一瞬吐いた悪態が、ほかの人には僕を悪人として表すための言葉になって、気まぐれにした善行が僕を誇る理由にするからだ。その癖、自分の行動の一つ一つにそこまで意味を感じて動くほど人は用意周到じゃない。いつか傷つけた誰かのことなんて覚えちゃいない。
 動作の一つ一つに気を使っているのが僕だけだと気づいたときに人間は、どれだけ醜いのだろう、と空虚になった。人は、一言では済ますことなぞできない生き物のはずで、僕のことは僕すら知らない。なのに、一言で分かった気になって済ませようとするのはなんと烏滸がましいことか。それで、自分の期待通りに動かないのなら落胆するのだから、もう呆れることすらできない。人は、醜い。』

「え、これでおしまいですか。」
「みたいだね。」
 ページをめくっても、これに続く文章はどこにもない。そのことが意味するのは、この物語の終わり。なんとも後味の悪い食感が、舌先でまだくすぶっているのがわかる。
「ポエムって、もしかしたら僕たちが思っているよりずっと恐ろしいのかもしれない。」
「です、ね…。」
 蝉の喚声も恋しくなってきた秋空の下、図書館で適当に時間を潰している中で彼女の手に取った詩人たちのポエムは読み進めれば進めるほど、引き返したくなる恐ろしさがあった。
「この方は、少しばかり考え方が後ろ向きすぎやしませんか。」
「うーん。そうかもしれない。」
「その飲み込み切れていない言葉。含みがありますね。」
「まぁ、ね。」
 彼女の言葉に二つ返事が出来なかったのは、何となくこの、筆者の言いたいことがわかってしまったから。神経質に生きてきたからこそわかる、人は僕ほど毎日の中であれこれ考えてはいないということ。知らず知らずのうちに誰かを傷つけている、という事。きっとみんな、言われてみればあぁ確かにそうだ、と納得できるんだ。でも、それを胸の内に潜ませて生きているのは極々少数で、この言葉の真意はきっと読解力の塊である彼女にもわからない。期待して、期待して裏切られて、辛酸をなめないと、なめ続けないと分からないんだ。
 これは、もしかしたら僕なのかもしれない。取り付く島も見つけられずただ一人で生きていこうとした孤独な一人なのかも知れない。
 でも。今は違う。
「でも、まだ死にたくはないよ。」
 不安と、疑念と好奇心を肌にまとわりつかせてくる彼女に本当のことを言った。
「かっこいいじゃないですか。」
「そりゃどーも。」
 からかってくる彼女を、適当にあしらう。
 夏も終わりに差し掛かり、芸術が顔を出し始めた頃になってくると学校が始まり、夏休みが終わった。いつもは憂鬱にしか感じられない晩夏が、今年は待ち遠しくて仕方がなかった。
 なぜならそれは。
 始業式の日になると、隣に座る彼女へ真っ先に謝った。メールで散々繰り返すよりも、言葉で伝えた方がよっぽど伝わると思ったのは言うまでもなかったから。
 結果は、成功でも失敗でもない。彼女にはそのことを何も気にしていない様子で、仕方のないことですから、と適当にあしらわれた。あれから、約一か月ほど考え込んでひねり出したその謝罪が彼女に刺さることなく行き所を失うのを見て、本気でへこんだけれど本当に何も後ろめたさを感じていない彼女のシャボンに、本来の目的が達成されたことに気づいた。気持ちと結果は、別々に存在しているのでやっぱり納得できなかった僕の気持ちと、少しの違和は何とか押し込めて飲み込んだ。
 こうして彼女の仮面を外すことも出来ず、僕らの夏は蝉の体の中みたいに空っぽに終わった。

 そして、秋が始まった。
 初週のテスト期間に、彼女に又国語を教えてくれないかと頼んだ。理由なんてどうでもよくて本当は、ただ一緒に勉強したかっただけで、彼女を確かめたかっただけで、でも、予定があるらしく、彼女には断られてしまった。
 そんなこんなで、国語の点数は散々で、二度目の何とか及第点といったところだった。
 彼女の数学の点数も散々で、少しからかったら、晴れのせいです、と軽くいなされてしまった。
 
 そして、現在に至る。
「おーい、頭痛君に燈昌さーん。衣装できたよー。」
 暫く、甘ったるいミルクチョコを口いっぱいに頬張った時の気持ちの悪さを目の前の本で共有していると、図書館には元気のいい声が響き渡った。
 声の主を見やると、案の定怒られている。当たり前だ。いくら人の少ない放課後とは言っても、こんなに大きな声を出せば怒られるに決まっている。
「安達さん。図書館では、お静かに、ですよ。」
「ごめんごめん。」
 そう言いながらまた元気に平謝りしている彼はワクワクを隠しきれていなかった。
「それより早く早く。衣装班、会心の出来だってさ。相当頑張ってたよ。」
「おぉ、それは着るのがとっても楽しみです!さ、行きますよ須藤さん!!」
 行きますよと言っているのに、その声はもう図書室からだいぶ離れたところから聞こえてきた。呆れながら彼女ほどではないけれど僕も、早足を決め込む。
「ベジタリアン君。」
 早足を決め込んだのには、もう一つ理由があった。視界にいる安達こと、A君から早く離れるためだ。残念ながらその急ぎ足が報われることは無いが。
「夏休みになんかあった?」
「いや、なにも。」
 ははーん。と、勘繰り半分ニヤケが半分の彼は含みを持って笑うと、僕を制止して続けた。
「ホントに変わったよな、須藤。なんか、一皮むけたっていうか。」
 言い得て妙で、変に勘がいい。だから、彼のことは苦手だ。別人みたいだ、とかそんな言葉ではなく一皮むけた、というのは的を得すぎていて怖いとすら思うほどに。
「ほら、こっちの方が皆しゃべりやすいかなって。」
 半分嘘を混じらせてぼやくと、彼はうんうん、と頷いた。
「俺もこっちの方が好きだ。なんか、前の頭痛君は無理してる感じがしたし。」
 平然と言ってのける彼に、ドキリとした。そっちの趣味がなくて本当に良かった。と、胸をなでおろしていると肩をポンっと叩かれる。
「俺は、応援してるよ。頭痛君のこと。頭痛君が何時肉食になるか、ホントに楽しみだ。」
 余計なお世話だ。
 頭を抑える事をすっかり忘れた僕は、最近小学生のように思ったことが脊髄から言葉に変えられて口から出てくる。最近の悩みが今まさに発揮されたので、またやってしまったと口をつぐんで後悔した。
目の前の彼は一瞬驚いた顔をしていたけれどそれが面白みに変換され直ぐに笑って、やっぱり面白いな、と頬にしわを刻んだ。ペースを握られたままでは、虫が悪いので僕も特権を使わせてもらうことにする。
「僕のことより、君の心配をしたら。部活のない文化祭の期間が、一番の頑張り時じゃないの。」
 Bちゃんのこと。
 云ってすぐに、彼から余裕が消えた。
「それ、誰にも言ってないよな。」
「勿論。」
 いう人もいないし。
 ただ、シャボンを見ているだけで手に取るように分かる彼の情報は、言ってあげないとかわいそうだから言ってあげた。シャボンが見えなければうまいことやっていた彼にはそんな皮肉を、垂れてあげた。
「ま、お互い頑張ろうぜ。」
「あー、ん。そうだね。」
 すぐに、開き直って突き出してくる彼の拳を適当にいなすと、やっと彼女を追いかける。彼に答えを言うこともできたけど、それはきっと双方にとっても詰まらないから内緒にしておいて、図書館を後にした。思いのほか、彼との会談はいつもより疲れた。

 文化祭が近づいてくると、クラスだけじゃなく学校全体が浮足立っているのを肌で感じる。今こうして走っている渡り廊下にも誰のとも分からないシャボンが、ちらほらと漂って邪魔をして来る。壊さないように、慎重に、それでいて走らないといけないというのはなんという諷刺だろうか。一つ一つ潰して回るのもいいけれど、それは野暮だ。だから、シャボン玉を避けて通った。
 今の僕は、間抜けそのものだろう。はたから見れば、あふれる感情をダンスで表現しているような誰よりも浮足立った人間の印象を与えていると思うと恥ずかしくなる。
 実際には、遍く誰のとも分からないシャボンが、たまらなく怖くて避けていることは僕しか知らない。そもそも、きっと世界でただ一人シャボンを見えるのが僕だけなのでそのこと自体があまりにも剽軽で痛々しい話だけれど。
 軽快にステップを刻む。あまりの足の軽さにこれは自分ではない別人じゃないかと錯覚した。もしもこれが僕なら、このイベントをみんなと同じように心待ちにしているのかもしれない。芽生えた自分のものとは思えないシャボンに否定の意を示す。それでも昨年からは想像つかないこの状況に、頭を抱えることはなかった。
 渡り廊下を終えて、教室に隣する廊下に差し掛かる。あちらこちらにそれぞれのクラスで使う資材や、完成したなにやらが廊下中を埋め尽くし、進みづらい。
 なんとか避けながら歩いて、教室に着いた。
「もう、遅いです。」
「ごめん、いそいだんだけど歩きづらくってさ。」
「歩いてるじゃないですか!」
「あ…。」
「あ、じゃないです!」
 入った途端に浴びせられる叱咤に、少しの申し訳なさを示していると横やりが入る。
「痴話喧嘩はそのくらいにして、ほいこれ。」
 両手には、不気味な黒装束と仮面、それから黒い布が伺える。そして、それぞれをそれぞれの胸に押し付けた。
「痴話げんかって…。」
「ん、何か言った無口君。」
「いや。なんでも。」
 そ、と言って女の子は興味を失くした。
「いやー、頑張ったよ。採寸合わせてから今の今まで皆血眼で作ったからね。相当の自信作に仕上がってると思うよ。」
 な?、と女の子が後ろを振り返ると、衣装班の皆が口々に苦労を地面に吐いた。
「ホントに、有難うございます。私の頼みを聞いてくださって。」
「いいよいいよ。メインの方はもう終わってるし、入り口になにもないんじゃ物足りんかったしな。またなんかあったら何でも言ってくれ。あやめちゃんの悩みなら何でもこなしてあげるよ。」
「リーダー、そりゃ辛いよ。」
「はいはい、お疲れお疲れ。まだ終わったわけじゃないんやから気ィ抜くなよ。」
 ぶーぶー、と皆が決められた愚痴を垂れてそれをまたリーダーことEちゃんが一喝する。そんな一連の流れを、見ていてヒヤヒヤと嫌な気がしないのは、皆楽しそうだからだ。最近特に、そんな乳繰り合いへの微笑ましさを顕著に感じるのは、僕の視野が広がったからだろうか。あれだけ醜く、人間ではない何かだと思っていた皆は実際視野の狭い僕が、彼らをそんな風に色眼鏡で見ていたかっただけなことに気付いた。実際には、人はもっと複雑でもっと奥深い。愛情の中には不安があって、嘲笑の中には親和があって、怒号の中には優しさがある。広がった視界が実は世界は、そんな繁雑で彩られていることを教えてくれた。
 悪い所だけを見ようとしていれば、人は簡単に悪人に見えてしまう。嫌いになった人は、少しの仕草でもう、ダメになる。そんな人間らしさを誰よりも抱えた僕を、自力で歩むには数世紀はかかる速度で少しだけ変えてくれた彼女を見やる。
 申し訳ないと有難うとが入り混じった僕の顔を見て、彼女は笑った。
「それじゃ、着替えに行きましょうか。」
「そうだね。」

 勿論、同じ場所で着替えるはずもなくそれぞれ文化祭用に立てつけられた更衣室で着替えを行った。着た後の微調整がしやすいようにと、それぞれ何人かEちゃんの子分を携えて。
「でもさー、ホント雰囲気変わったよな。頭痛君。だって、全然頭抑えないんだもん。」
「確かに。なんか違和感感じすぎて俺の方が頭痛くなっちゃうよ。」
 視線は、彼らより少し下、浮かぶシャボン玉が見えないように切る。
「恋ってぇのは、素晴らしいねぇ。」
「ホントホント。」
「いや、別に、そんなのじゃないよ。」
 しどろもどろになる僕を見て、二人はまた笑う。
「おぉ、戸惑ってんねぇ。珍しい。」
「ホントホント、須藤がキョドってるのなんて全然想像つかなかったのになぁ。」
「なんか、人間っぽくなったな。」
「僕はもともと人間だから。」
 そんな風に幾分か人間らしくなった僕を横目に、二人は顔を見合わせて高らかに笑った。シャボンは見ていないから、どんな気持ちだったかは分からない。それでも、嫌な感じがしないのはつまり、そういうことだろう。
 けれど、彼女のようにまだ彼らを信じ切るのは怖い。
「ほら、これ。」
 ハロウィーンの仮装大会に出席するのかというくらいに黒みがかったホラーテイストの衣装を渡される。文句を垂れてもしようがないので、何も言わずに受け取った。
「ホントはあれ着るの、少なくとも須藤ではないかなって思ってたよ。」
「でも、あんなもん見せられちゃ敵わないだろ。心理学にめちゃくちゃ強いなんて、誰も勝てねえよ。」
「だな。」
 全部聞こえてるよ。少し離れたところで着替えながら、仕様もない悪態をつく。
 今着ている衣装は、僕等のクラスの出し物である、お化け屋敷に関連したものだ。最初は何をするか、煮詰まっていたけど声の大きいAくんやら、B君やらのごり押しであっという間に決まった。
 でも、僕がこの衣装を着てすることは客を脅かすことじゃない。どちらかというと前座、皆が驚かす前に雰囲気を出す役に立候補した。注意要項、ルール説明、その他もろもろを椅子に座って入り口で行う仕事だ。これはこれで面倒くさいことこの上ないが、大きな声で人を驚かせるのや、慣れていない裁縫に専心するよりはこっちの方が楽だと思ったから願い出た。皆は、同じ役に立候補していた彼女の後追いで僕がこの役になったと思っているが、それは違う。断じて違う。
 でも、何人か出た僕と同じ考えをしていた候補たちから競り上がるのに、シャボンを使ってまでズルをさせてもらった必死さが、何処から出てきたのかは僕でさえも知らないが。
「終わったよ。」
 鏡を一通り見終わってから、二人に声をかけた。
「おー、似合ってるな。」
「似合ってるも何も、素体さえあれば皆合うと思うけど。」
「そんなこと言うなって。小柄な須藤に合わせて作ったんだからサイズは須藤だけにフィットする特別性だぜ。」
 昔、何かのゲームで見たことがある。確か名前は、ペストマスク、って言ったような気がする。そのカラスみたいな仮面に加えて、全身黒ずくめの衣装。誰が見ても、中世の死神を想起させるこの不気味な格好からは、衣装班のただならぬ本気を感じる。
「それで、あの時みたいに考えてること当てられちゃったら、俺なら背筋が凍り付いちゃうよ。」
「間違いないな。」
 気密性、服のサイズ感、その他もろもろを確認し終えた二人はそんな小言を言ってからかってくる。よろしいならば、と立候補の時と同じように彼らのいつか見たシャボンを口に出させてもらうことにした。
「Eちゃんのこと。」
 彼らの心臓が、一瞬止まったのを感じる。しょうがない。君たちが望んだことだから。
「頑張ってね。」
 文化祭が近づいてきただけで全くどこもかしこも、ピンク色で息が詰まって困る。
 其れだけ言って立ち去ると、もう着替え終わったであろう彼女のいる教室に向かった。後ろの方から聞こえてくる、お前もか!とかいう仲睦まじい二つの声は聞かなかったことにした。
 シャボンを見れば、誰が誰を思っているかなんて手に取るようにわかる。それを悪用するつもりはないが、広がった世界は少しだけ彼らの反応を心待ちにしていた。これもひとえに、彼らに興味を持ったからだった。取るに足らない、悲しい生き物だと思っていた彼らは実は、僕の持っていない魅力をそれぞれ持っている。僕が今まで、彼らをしっかり見ないようにしていたのはこんな魅力を秘めていることが怖かった所からきたのかも知れない。
 だけども、分からない。それを教えてくれた彼女だけは、僕に対して何を考えているのかは分からなかった。楽しいの中に、悲しいがある。嬉しいの中に、悲しいがある。そして、好きの中には相反して僕を突き放したい思いがある。見識を広げてくれたその日から、見えるようになったいつも彼女に付きまとっている後者の感情は僕にとっての彼女を、より複雑にして、より分からなくさせた。単純だと思ってみていた彼女の後ろには、犇めく影が一つ、二つ。そしてその陰ばんだ悲哀は、日に日に嵩を増していっているように感じる。
 目の前で今も、ほら。
「燈昌さん。」
 呼ぶと、少しびっくりしたみたいで肩をビクっと震わせた。
「わっ、須藤さん、ですか。びっくりしました。どうして、私だと分かったんですか。」
「どうしてってそりゃ。」
 目の前で、怪訝なシャボンを浮かべる燈昌さんに答えを言おうとして、口をつぐむ。
 そんなのシャボンを見れば、一瞬でわかる。なんて、言えるわけがないことに今更になって感づいた。
 それで違う理由を探そうと躍起になってから、またハッとする。目の前の彼女は、体を包帯でぐるぐる巻きにしていて、その顔は見る影もないくらいに血だらけになっている。ミイラか何かをモチーフにしているのだろうか。いくら顔見知りでも、これが一目で彼女だと認識するのは至難の業だろう。加えて、周りには同じようにミイラやムンクみたいな顔をしたスクリーム、それにあれは人間の皮をはぎ取ったレザーフェイスだろうか。
 仮想大会の会場の中から彼女を見つけるのは、もう不可能に近い。
 その中で言い逃れするのも、至難の業だ。
「それは、何となく、そんな気がして。」
「はぁ、何となく、ですか。」
「うん。何となく。多分、燈昌さんがマスク越しでもこの声が僕のだと分かるのと同じような感じだと思う。」
 今までなら、もっとうまくやれた。頭を抑えて自分を隠して、平然と嘘を言ってのけて切り抜けることが。
 でも今の僕にはそんな小さな嘘も、少し先の未来を真っ暗にする青田買いをしているような気分になってとてもつけなかった。
 ジリリと、彼女が訝し気に僕の言葉を、目利きしている。
「何となく、嘘をつかれているような気分です。」
「そ、んなことないよ。」
 何度もぱちりと瞬きを繰り返す。幸せなことに、顔はマスクでおおわれていて彼女からは見えない。それにマスクをしている僕からも、身を覆う彼女は分からない。
 ふーん、と僕の衣装と、マスクを一瞥した後で、まぁ、いいです。と懐疑的なシャボン玉を弾けさせた。興味はもう、別のことに向いたみたいだった。
「それより、その衣装。お医者さんみたいでかっこいいです。」
「初見でこれが医者だと思うのは、君くらいだと思うけど。」
 情状酌量の余地をいただけたようで、余裕の生まれてきたレンズ越しの視界で彼女の衣装を改めて瞥見する。
 包帯の下には黒の布切れを忍ばせてあって、上半身の露出は少なく所々には血糊がついている。下半身に目を向けると、黒のタイツが覗かせている。所々、張り割かれたみたいに破けていて各箇所にはお情け程度に血がまぶされている。
 …、不埒だ。こんなもの彼女には、似合わない。
 目のやりどころに困っていると、左目だけ包帯から出すことを許されたマスクをかぶった彼女は、その慧眼をこちらに向けた。
「でも、その恰好なら頭痛も自分で治せちゃいそうですね。」
「まぁ、そうかも。」
 うっ、と心が痛い所をつかれてうめき声をあげた。他の誰につかれても痛くもかゆくもないそこは、彼女にだけは小突かれたくなかった。原因に触れられると、こそばゆいんだ。
「ほら、最近頭痛もなさそうですし。その服のおかげじゃないですか。」
「それは、夏が終わったからじゃないかな。」
「へぇ、秋は台風が来て低気圧になりがちなのに、可笑しいですね。」
「それは、気分の問題だよ。ほら、僕も君も雨が好きだし、雨が降ると逆に、ね。」
 そう言って外を指さすと、雲一つにすら邪魔されていない太陽が同意してくれている。その斜陽がやけに心地よくて一瞬目を瞑った。パッと目を開けるとまだ照り付けてくる太陽に、今度は苛立ちを感じて、どうもご親切に有難う。願わくはあれは癖だと彼女が思い出してくれますように、そんな皮肉を込める。
 続いて、彼女も太陽に目を向けた。それから、心底真面目な顔つきになって
「明日も明後日も、雨が降ればいいのに。」
 儚げに太陽を見つめると風邪を引いた日の体の中みたいに、体の外にあるいいシャボンと悪いシャボンの比率が取って代った。急に、喚声の中で二人だけ隔絶されたような気分になる。天気予報を見てみても、悉く今日からずっと晴れの日マークで埋め尽くされていた。
「どうして、」
「はい。」
「どうして、君は雨の日が好きなの。晴れの日が、嫌いなの。」
「それは、」
「それは、秘密です。貴方と同じで。」
 ダメで元々、教えてくれればうれしいくらいに思っていたので特に驚くこともない。もう一押しをして、無理に聞かなくても何時か聞けるだろう。
 何時かの晦まされた答えが不意に脳裏をよぎった。
「ねぇ、どうし、」
「お、やっぱり雰囲気出てていいねぇ。おばけやしきはこうでなくっちゃあ。」
 静寂を踏み散らして、Eちゃんが詰め寄ってくる。
「凄いです!あんなに少ない予算で、こんな衣装を作れるなんて。衣装造りが好きなことは知っていましたが、それを差しひいても素晴らしい出来です!江崎さんは天才です。」
「仕事冥利に尽きること言ってくれるじゃないか。んー、そうだね。テーマは『最愛の人を生き返らせるために禁忌に手を染める医師。』なんて、どうよ。」
 ニヤリ、と誰もかれもに再三向けられた笑顔と同じものを、Eちゃんまでもが僕に向けてくる。それでんん?なんて言われたら、もう駄目だった。
 身に余るその表情を誰もかれもが僕に浮かべることに、辛抱堪らなかった。
「ホントに、趣味が悪いね。彼女の服装も、そのテーマも、もっとうまいやりようがあったんじゃないの。」
 目の前の唖然とするEちゃんこと江崎さんが何を考えているかは、手に取るようにわかっていた。あるのは少しだけ屈折した深切と良心だけでそこに純粋な悪意なんて、これっぽっちもないことも知っている。でも、それでももう何回目かの彼女らのおせっかいと、中断させられた会話に腹が立ってしまった。
 ズキリ。言の刃を突き立てると、瞬間彼女と同じくらいに胸をえぐられた気持ちになる。
 こんな衣装を着ていれば、刃はさぞかし鋭利だろう。
 気さくに謝罪してくる、いつもは勝気な少女が作り笑いが凄く下手なことを知った。
「ごめんごめん。実はあやめちゃんの下のズボンはあたしの衣装だよ。ちょっとからかってみただけ。」
「ええ、こんなに素敵なのに。」
「だろ。でも文化祭は、露出の多い服装には厳しいからそのままじゃ難しいんだ。」
「ろ…しゅつ…。」
 思い出したように下半をまじまじと見つめる彼女に、何か言ってあげる元気もない。
「とにかく八色、悪かったよ。ごめんな。」
「いや、僕の方も、ごめん。ホントに。」
 ズキリ。僕のせいで出来た彼女の傷をせめて少しでも早く治るようにと向けた言葉は、送り出すと何故か僕にもできた傷に塩を塗られたような心地にさせた。
 それに、言ったところで彼女のその傷がきれいさっぱりなくなったわけでもなかった。
 僕は、知っている。人の傷は、簡単には癒えないことを。今までごまんと見てきた。それに対する解決策がないことも。
 僕は、他の人間と何ら変わらない、傲慢で醜い生き物だ。だから、今まで自分を隠してきたんだろう、と誰かが言った。
 キョロキョロと、Eちゃんと僕とを反復している燈昌さんを置いて、Eちゃんは逃げるようにその場を離れた。自分は絶対にするまいと思っていた行為にいざ触れてみると、どうしようもなく無力になって泣きそうになる。彼女を傷つけた刃は両刃仕込みだという事を、身をもって知った僕に彼女は、私、もしかして今恥ずかしいですか?と訪ねてきた。其の無垢に晒されると、やっぱり僕は君にはなれない。というのを改めて認識して、又深く顔を落とした。
 彼女はその仕草にまた別の解釈をしたようで、酷く慌てだしていた。
「皆、ちょっと聞いて。」
 離れてから少しした後。
 適当な座席に駆け上がり、Eちゃんは周りに促した。
「いよいよ明日は文化祭だ、各々今日までよく頑張ってくれた。」
 おー、いいぞ、と歓声が漏れる。
「苦労もあった。衝突もした。でもそれは、よりよいものを作るためのものだ。」
「これから二日、本番は驚かして驚かしまくって、最高の文化祭にしよう!」
「「「おー!!」」」
 Eちゃんの拳に合わせて、皆それぞれの拳を掲げる。特に、衣装班に至っては雄たけびを上げている。
 成程。今こうしてEちゃんに憧憬の目を送っているさっきの二人を見て、何となくわかった気がする。
 ズキリ。
 彼女も、隣でうおーと可愛らしい声で腕を掲げた。それで、何か言いたげな表情でん?と隣の僕に同意を促してくる。その理由も、分からなければどうということは無いが察しの冴えわたっている今、意味ありげな行動をされてしまったらうまくいなせるわけもなく、根負けして僕も小さな声で、ぉーと拳を掲げた。腕は思うようには上がらず、関節が何個もついているようなぎこちなさがあった。それを見て、満足げにクスッと笑って
「明日は頑張りましょうか。」
 と、僕らの抱負を掲げた。ニコッと笑ったその刹那で、虹色と一緒に彼女から飽和した哀情を僕は、僕は一つも潰す勇気などなかった。

 制服に戻って帰りの支度を終え、隣でいつものノートにメモを取っている彼女に提案する。
 幸いEちゃんの声明の後は別館の現地解散だったので、いつもの教室は人気が少ない。
 誘うには、いい塩梅だ。
「今日、一緒に帰らない。」
 言って、早々に後悔した。脈絡もへったくれもあったもんじゃない。もっとうまい口上の一つでもあったろうに、こんな文句じゃ犬も食わない。
「いや、違くて。ちょっと図書館にでも寄ろうかなって。ほら、燈昌さんの家の方向と一緒だからさ。」
 一言目で、気持ちの整理をまだつけていない彼女のいつ出るか分からないシャボンが、急に怖くなって言い訳をいくつも並べた。並べる度にどんどん苦しくなってくるのは多分、真理だ。
「ごめんなさい。私も図書館に行く予定があるんですけど、用事を済ませた後なんです。なので、帰りたいのは山々なんですが…。」
 申し訳なさげにしているのを見た感じ、嘘ではなさそうだ。
「そっか。」
 予想以上にがっかりしていた声が自分から漏れたことに驚きを感じながら、カバンを背負う。
「今回は、気が合ったという事で許していただけませんか。」
「それも、そうだね。また明日。」
「はい。明日は、頑張りましょう!」
「うん。頑張ろう。」
 そう言って僕は、彼女より先に学校を後にした。横目で見たとき、彼女があのミイラみたいな衣装をノートに事細かに描いているのに勘づいた。その不気味さと、お世辞にもうまいとは言えない塩梅がやけにツボにはまって、失笑した。