「先ずは、これから森を抜けます。」
「森?」
「はい。今見えている森です。抜けるとは言っても、獣道を通るわけではないのでご安心を。ちゃんとした道を通ります。」
「でも、どうして森を抜けることと海を見ることに、関係があるの。」
「それは…。秘密です。」
「了解。聞かないでおくよ。」
「大丈夫です。きっと後悔はさせません。多分。後悔先に立たずともいいますし。」
「あー、うん。了解。えっと…」
「お待たせしました。天ぷらそば二つになります。」
「有難うございます。須藤さん。取り敢えずは、食べて午後のために精をつけましょう!」
「精って、ちょっと待ってよ。今、大体海に対してどのくらいなの。」
「ちょっと待ってください、今地図を見るので。そうですねぇ。あ、まだ半分も行ってません。」
「本気?」
「本気です。本気の本に本気の気で、マジです!」
「うーん。タクシーを拾うのは?」
「小道なので、厳しいかと。それに須藤さん。美食に通ずる一番のスパイスは、空腹なんですよ。」
「まぁ、そうだけど。」
「ささ、お腹もすきましたし取りあえず食べましょう。いただきます。」
「いただき、ます。」
「…。」
「どうしましたか。」
「これ、玉ねぎ?」
「そうですね。」
「まるごと?だよね?」
「丸ごとてんぷらにするというのが、ここの名物らしいですよ。」
「本気?」
「ほんきです。ほら、そこの天ぷらつゆをかけて食べるんです。」
「…。」
「どうですか?」
「…。美味しい。」
「それはよかったです。私も…。」
「どう。」
「…。美味しいです。とっても。」
×××。
「ご馳走様でした。」
「ご馳走様です。」
「有難うございました。是非、またご予約ください。」
会計を済ませてから、入った方向とは別の扉から外に出た。相変わらず雨足が収まる気配はなく、雫は、再度レインコートを着込んだ彼女と僕の持つ透明な傘に容赦なく降りかかっている。
「着替え、何着持ってきてるの。」
少し後ろの方、雨でぬれる箇所を減らすため、立ち止ってレインコートを微調整している彼女に心配の声をかける。
「あと、二着くらいですね。計算通りです。」
「それはよかった。」
またも、天を仰いで雨に打たれながら生真面目な返答をするピンク頭に、それはよかったという失笑が漏れた。彼女が元気でいられるゲージの残量は二つ。なら、今全身をびしょびしょに濡らしてもバスに乗るときに着替えたら、まだ一着余裕がある。雨に濡れることもへの河童なわけだ。身軽な彼女を見ていると、なんだかこっちまで体が軽くなってくる。だからこれから、まだ半ばにすら達していないらしい道程も何とか乗り越えられそうな、気が、して来る。
身軽さは視界の感度にも響いた。フクロウみたいにあちらこちら彼女のあたりをきょろきょろ見回すと、さっき僕たちの入ったお店の看板がでかでかと張り出されているのに目が行く。
『 〇〇屋 完全予約制 二名様から 』
…。見立て通り、此処までで少なくとも二本は上手だったらしい。そんな高嶺に組する彼女の前を歩くことははばかられたので、僕は立ち止まって雨粒を身一つではじく少女が歩きだすのを待つことにした。
「お待たせしました。さぁ、行きましょう!」
元気な声に仕草で、ぽつぽつと、雨に中てられるたびにポッポッとシャボンを吐き出し続ける燈昌さんが先行して歩き出す。僕にしかわからない永久機関を搭載した彼女は雨の日であれば、永遠に動いていられそうだ。あの山間に見える白い風車たちにも雨の日のふるまい方を是非見習ってほしい。
乾き始めた靴がまた濡れ始めた頃、打ち付けてくる雨が弱まり始める。
「雨、収まってきたね。」
雨と連動している機関を持つ彼女と、そのシャボンの発生率があからさまに衰萎しているのを、傘越しに危惧する。
てっきり、ばててきている彼女を拝めるものだと思っていた。だからここらで休憩でも提案して少し歩を止めようかと考えていたら、予想に反して彼女はばててなんかいなかった。
こちらを振り返ると太陽は、余裕の笑みを浮かべた。流石は永久機関、まだまだ疲労を知らないらしい。
そして、返答の代わりにぶかぶかのレインコートからわずかにはみ出た指で上をさした。
「あぁ、なるほど。」
矛先につられて天を見やると、彼女と出会ってから何十回目かの「成程」に出くわす。やけに暗くなった空は、雲の層が幾重にも重なったからじゃない。木々に邪魔されて、雲が見えないことを今更になって認知するのは皆がみているものより何時も僕の見ているものが後塵を拝しているからだろう。
このまま何も言われないのもしゃくなので、変に見栄を張ってみる。
その程度の矜持、気にもしないで彼女は囲まれた木々に一つ深呼吸をした。
「はぁ。マイナスイオンを感じます。」
「それって、プラセボ効果じゃないの。」
思い切り息を吸ってみても、鼻孔を突き抜けるのは雨のにおいだけ。森林の趣は、残念ながら嗅覚だけでは伝わってこない。
「夢がないですよ。もし本当じゃないにしても信じなきゃ、何も始まりません。」
これは冗談だ。もっともなことを論じているように見えて、彼女は雑言を使って遊んでいるだけ。色さえ見えれば、どうってことは無い。心理学者だろうが、ヒトラーだろうが、その仮面に隠した真意を読み解くのは難しくない。忖度に、自信がないだけで。
雨のにおいに加えて嘘の色をかぐというのは、何とも酷だ。入ったのはいいが、終わりの見えない緑に大きな息を吐く。これは、今まさに彼女のしている深呼吸とは別のものだ。
「須藤さんも、何か失ったんですか。」
「え。」
不意に彼女が口を開く。その声音は雨音の中で一際耳の中に透き通って入ってくる。だから、この疑問形は聞き取れなかったから出た言葉ではない。
「いえ、実はいつ聞こうかとずっと機会を窺っていたのです。」
「何を。」
「貴方が雨が好きな理由と、」
そして、晴れの日が嫌いな理由。
その言葉は、仮面などどこにもついていない彼女の素面でその真意が計り知れない。冗談で言っているのか、真面目に聞いているのかも分からない。僕の知らない顔。一切合切の内在する感情を、一所に表して彼女は続ける。
「ねぇ、知っていますか。」
「何を。」
「このマイナスイオンと呼ばれるものの正体です。新鮮な空気、って言ってもいいかもしれません。」
「だから、偽物じゃないの。」
とは言ったものの妖しく笑う彼女とそれを取り巻く雰囲気のシャボンに、其れだけではない気がして、取りあえず一考してみる。幸か不幸か、しとしと降る雫を有体で跳ね返す質問者は立ち止ったままなので粗略に始めたひらめき探しには段々と熱が入った。
「んと、なら実は木々の一部が微粒子になって漂っているとか。」
「違います。」
「なら、木の吐いた息、とか。」
「それは概念です。私が聞いているのは、その息の意味するものです。」
「んー。全然わからない。降参するよ。」
想像力もこれといって持たない、寧ろ人後に落ちる頭ではこれ以上は浮かばない。颯とあきらめた僕に彼女は満足げな表情を浮かべて正解を教えてくれた。
「答えは、毒です。」
「毒?」
「はい、其れも猛毒です。」
「も、猛毒って、でも僕たちが吸っても何ともないじゃないか。」
「はい。私たちにとっては、ですけど。」
「と、いうと、つまり。」
「というと、詰まるところ他の者にとっては猛毒なわけです。例えば、あそこに生えているコナラの木は、隣に生えているクヌギの木を殺そうとしています。自分が成長するために隣の木は、邪魔ですから。殺そうとして出す猛毒の空気を私たちは心地いいと、思うわけです。」
彼女の真意が読めない。ただの、豆知識の披露ではないだろう。シャボンが見えないのは、きっとこの言葉に二つより上の意味が込められているから。でも、その一つも僕には到底思いつけない。
「真意は。」
最近、随分わがままになった。今までなら、それはそれと遠く離れた他人の考えを、安易にあきらめることもできたけど今は、分かりそうで分からないまでに近づいた気持ちを、知らないと満足できない、と思うようになった。かゆいところに手が届かないのは、もどかしかった。
「真意、ですか。いえ、特にはありませんよ。でもたまに思うんです。燦燦と照り付ける心地のいい太陽の光も、誰かにとってみれば猛毒なのかもしれないって。」
かろうじて舗装された道から、少しそれたところで彼女は大木を撫でている。その表情は見えない。
それで僕だけがここにいるような気持になって何時かのトイレに映った自分を思い出した。
それは。
それは、僕だ。
この子の言葉は、紛れもなく僕のためのものだ。
朝日も夕陽も、春日も、炎陽も秋の日も冬日もみなと同じようには一度として、僕にその温かさを分けてくれたことは無かった。代わりに吐き出した猛毒で、見たくもない人間の形をした悲しい生き物たちを延々と見せつけられるだけ。生まれたときから、それにあの日からはずっとそう。気づいた時には、シャボンが辺りを漂っていて、物心着いた時には、それが僕に限ったことなんだと知った。母にも父にも、兄にも一度も言ったことはない。僕だけのために太陽から作られた、毒。
誰にも打ち明けなかったこの毒は、どこにも漏れることなく今も僕を内から食い破っている。
「それで、ほら、貴方の話に戻るわけです。もしかしたら私たちは、本当の似た者同士なのかもしれないので。」
ずっと先、拳大ほどになった彼女の声が木々をこすり合わせてここまで聞こえてくる。そうしてこすりあわされた声は歪曲したり曲解したりして僕の耳に入ってくる。
行く?何処に?彼女の近くに?どうせ、何も変わらないのに?今更もう遅いのに?いつから、自分まで彼女と同じようになれると勘違いしていた?どれだけ近づいたところで、彼女にはなれないのに。いつから夢を見ていた?体中が毒に蝕まれた僕は彼女より、こんなにも、汚いのに。
あの日僕のしたことで、今もきっとあの子は苦しんでいるのに。
僕はしばらくぶりに、夢を見た。
「須藤、さん?」
拳大から、等身大になった彼女が心配そうに手を伸ばしてくる。
その柔らかそうで、穢れのなさそうな純真で綺麗な手を、
僕は払いのけた。
ぺしっという、虚しい音はすぐに雨にムチ打たれた森のざわめきにかき消された。
「あっ、ごめ…。ん…。」
無意識だった。
のけられた手を、もう片方で抑える彼女は、え、と涙ぐんでいた。この世の、悲劇を一所に集めたような悲しい顔をして。何を盾にしても、どれだけのいいわけを並べても、もう遅い。
直ぐに踵を返すと、さっきまでの調子が嘘みたいに、とぼ、とぼと彼女は歩き出した。
どれだけ遅くても、僕がその前を歩くことは、出来なかった。自分で生み出した、最悪の結果を見るだけの覚悟が、僕にはなかった。
森は、どんどん深くなっていく。歩を進める度、空どころか道の脇まで木々が覆いつくしていく。行けども行けどもきりのないこの森は、知りつくせない世界の恐ろしさを、怖いほどに表している。
逃げたい。五感は僕がこの場から逃げるための都合のいい理由を今も、現在進行形で増やしてくれている。すでに目の前とは言えない、数歩先に位置する彼女からは悲しみだけ。傷口から漏れるようにドクドクとシャボンが流れ出ている。そして、重力に影響された泡は、そのまま地面に溜まっていく。血みたいだった。致死量の。その痛々しい傷口を作ったのは、紛れもなく僕。繊細な風船に、乱暴に針を突き立てたらどうなるかなんて、赤子でもわかる。
こんな風に軽んじて人を傷つける人間を、僕は許せないんじゃなかったのか。結局、僕も醜く汚い彼らと何も変わらない。取り繕っていても、変えられない。毒に蝕まれて僕も気づけば、人間の皮をかぶった汚らわしい何かになっていたらしい。
ずっと昔に舗装されてから人間の手を加えられていない荒れ放題の道は、彼女の副産物で一杯になっている。この一つでも、もし踏みつぶすことが出来たらどれだけ楽だろうか。でも、僕にはできない。する権利は、何を建前にしても絶対にない。だって、今踏みつぶしたら彼女は、また踵を返していつもの笑顔で僕の方に向かってくる。其れで云うんだ。何の軋轢も感じさせずに「一体どうして、こんなに離れちゃってたんでしょうね。」と。
反吐が出る。その偽物の光景に、吐き気と嫌悪が滲み出てくる。
自分で作った他人への傷を無理やりに癒着させて何もなかったことにするのは最早、人間以下だ。毒に蝕まれたとしても、どれだけ毒に近づこうとも、毒になることだけはあってはならない。
今なら分かる。
ずっとずっと昔、癒着させたあの子の毒にもきちんと薬を塗らなければいけなかったんだ。
シャボンを踏まないように、足を地面につける。後ろ見たさで振り返ると、シャボンは道を満たして僕の辿ってきた足場すらなかった。
それは彼女の、純粋な悲しみの中に一つ、また一つと僕がいたから。その泡は、彼女ほど綺麗じゃない。純潔とはとてもいえない、けれどしっかりと悲しみだけは表したシャボンが、僕の歩いた道を、濡らしている。
そうか。
その景色に、どこか遠く離れていってしまったみたいな、自分の気持ちがわかった。
そうだ。僕は。
「燈昌さん。」
こんなに小さかったら聞こえない、叫ぶ。
「燈昌さん!」
彼女が振り返った。
走る。道路をはみ出して、森を。途中で何度も枝葉がズボンを突き刺し、頬を切った。関係ない。一歩でも速く、一秒でも早く、こうすべきだった。
彼女が前に倣おうとしている。待って。本当は、ちゃんと言うべきだったんだ。すぐに、この言葉を。
「ごめん!」
文字の通り斜に構えた彼女は、その場で立ち止った。
走り切り、目の前にまで差し掛かった彼女に
「ごめん。ごめん、なさい。」
悲しいんだ。彼女を傷つけたことが、彼女に悲しい思いをさせてしまったことが。
頭を下げた。出てきた声は、寒くもないのに震えていた。
僕は、彼女に誠心誠意謝った。それが、気持ちに嘘をつかせることより、ずっとずっとマシに思えたから。しなければ一生後悔すると思ったから。
僕は、彼女に謝りたかった。後悔を、もうずっとしまい込むことはしたくなかったから。今は、そう思える。
いいですよ。とは言ってくれなかった。理想的な、僕を許すような言葉はどこにもなかった。でもかわりに、視界が重力に引き寄せられたままの僕にもわかるようにふふっ、と笑って。
「ほら、やっぱり貴方は素直で、とっても真面目な人じゃないですか。」
顔を上げると、彼女はぶかぶかのフードで顔を隠していた。振り返ると、シャボンは綺麗霧散に僕の分まで消えてまたただの荒れた道に戻った。それが、たまらなく誇らしく、悲しくなって、もうしない。したくはない。と彼女に誓った。
「結局のところ、一体全体をどうしたんですか。」
「いや、ただ君の言葉に、ちょっと昔を思い出して。」
隣で気脈の通じた心地の彼女に、申し訳なさを伝えた。正確には、隣じゃなくて彼女よりも少しだけ斜め後ろに位置しているけど、概ね隣しているのでこの言葉に違和感はない。筈。
「へぇ、考え事をしていただけで、私の手を突っぱねたと。」
「それは、ホント、ごめん。」
「冗談です。それに、言葉は言った時点で一人だけのものではないですから。もし仮に、私の言葉で貴方を傷つけてしまったなら私も謝るべきです。」
すみませんでした。
謝って、謝られるのは何とも水臭い。
水臭く感じるのは、海が近づいていることも含まれている事に気付くのはまだもう少し先だった。
「ほら、つきましたよ。」
彼女の指さす先、森を抜けたところに崖が佇んでいる。
太陽が、雲に覆われているとはいえ幾分かマシな明るさを提供してくれて、視界は少し晴れる。崖に向かってかけていく彼女に感化されて、駆け足ほどではないにしても早足になる。
「早く早く、こっちです。」
手を振る彼女に連れられて崖の先から顔を出すと、そこには。
海があった。
荘厳な、海。
いつもは命の源、生命の母とまで言われている、どこまでも広がる大らかな海。それが一転して雨の日になると、恐ろしく感じた。命の怒りや苦しみを一手に受けとめて発散してくれているような、そんな八方位のどこにも当て所のない憤怒を波の一つ一つに纏わせている。
快晴の日に感じる綺麗さは見る影もない。
でも、綺麗の一言では片づけさせないこの海のほうがずっと好きに思えた。なんだか一言で片づけられないあたりが、何か誰かに似ているから。
「悪くないでしょう。」
言葉をなくした僕に、したり顔をのぞかせる。
「わるく、ない。」
本当は、いいと、素晴らしいと言いたいところだけど、調子づく彼女をずっと見ていられるのが怖くなって言うのはやめておいた。彼女は、一体全体この景色をどう思っているんだろうか。自然の堤防に力任せでぶつかる波に、あちらこちらに立つ白波に、彼女は何を感じているんだろうか。どうせ聞いても、秘密です、の一言で済まされてしまうのだから。まぁ、いいか。
「私、さっきのバスでの須藤さんの言葉をずっと考えていました。」
「うん。」
「苦労してないと言われることが、一番の苦労だと。」
「うん。」
「私の点数を言ってもいいでしょうか。」
「どうぞ。」
「99点です。」
「高いね。」
「はい、高いです。私なりに考えると、この言葉は、とても素敵なことのように感じられますから。」
「それは、どうして。」
「苦労してないように見られること。それはきっと、とっても難しいことです。苦しいことです。だって、それは自分の経験してきた数えきれないほどの苦渋や悲哀を、自分の中になんとか押し込めて何食わぬ、幸せそうな顔をする。という事ですから。」
大綱をついた言葉は、棒立ちの的を射抜いた。
「私は、それがとても、とっても素敵なことだと思います。須藤さんの苦労は私には到底分かるものではありませんが、その苦労を顔に出さない事はとても難しくて、とても素晴らしいと思います。だって…、だって、誰も悲劇に身を包んだような人と仲良くしたいなんて思いませんから。何時もみたいに小言を並べて、国語の点数に本気でがっかりする須藤さんが、私は好きです。もしそれが偽物の貴方で、私の気付かない形作られたものだとしても、私はがっかりなんてしません。それは、紛れもなく私の、私たちのために作ってくれた、貴方ですから。」
分かったような口をきくな、なんて考えもしなかった。だって、彼女は何もわかっていない。何もわかっていないうえで、僕のことを、繕っていた僕を認めてくれている。何度目かの言葉の詰まる彼女の真っすぐに、始めて僕は
「あ、りがとう。」
ぎこちなく、感謝の気持ちを言葉にすることができた。
「いえいえ。と、こんな話をするとなんだか…、水臭くなっちゃいましたね。」
「そうだね。海も近いし。」
「今のは、0点です。水を差すようなこと言わないでください。でも、もうポエムは、貴方には必要ないかもしれません。」
「手厳しい…、ありがとう。」
ふふっと、彼女は何時もする何の苦労もなさそうな笑顔を僕に向けると、又視線を戻して海の方を見ていた。車軸を流すほどの雨空の下で傘を投げ出して、しばらくは、僕もそうしていた。
でも。
「でも、残りの一点は。」
それから、流石に太陽にも疲労はあったようで、また森を抜けてへとへとになった僕らはタクシーを拾うことにした。適当なところで僕と彼女は着替えてから、タクシーに乗った。傘を差さずに海を見ていたので、その時にべとべとになったリュックを見せつけられ、捲し立てられたのは言うまでもない。雨の浸食で一着を無駄にした事をタクシーの中で聞き、残りの一着は今着ているからレインコートをもう着られない、と怒られた。そんなびしょびしょになるレインコートの着方があるか、と異議を唱えたかったけど、今回は僕が悪いので何も言わないで置いた。
タクシーから降りると、レインコートを着用せず、なおかつ傘の持ち合わせもない彼女に僕は、しかるべき行動をとった。少し窮屈になった心と場所に、気持ちが爆発しそうになって、バスに着くまでの間はずっと頭を抑えていた。心を殺しているのに、何となく気持ちが高ぶった理由は、僕にはまだわからなかった。
「一日が終わっちゃいますね。」
「ね。」
バスに着いて、僕と彼女は今日のメインディッシュを平らげた感想をそんな言葉と少しの吐息に乗せて惜しんだ。二人とも、気持ちがいいくらいに疲れ切っていたのでそれからは特に話すこともなく、彼女に至ってはすぐに眠ってしまった。
覗き見たわけじゃない。見るともなしにそろりと、ちらっと彼女の横顔をうかがう。
好き。そんな言葉、母と父くらいしか言われたことがなくて、実感がわかない。
好きって、つまりなんだ。好意を寄せている?人間として?友達として?分からない。
今まで自分のことだけで一杯一杯だった人間に、僕なんかに答えが分かるわけはない。何度も答えが出るまでその言葉の真意をぐるぐると反芻してみても、真相に一歩も近づくことができないのは仕方のないことだった。
迷路に迷い込むと、時間はあっという間に過ぎるらしい。あ、という暇もなく彼女との時間が、過去の一つに積み込まれていくのを感じて、少し嬉しくて悲しくなるとバスは何度も見てきた景色たちのいる場所に差し掛かった。
僕は。
僕は、彼女のことをどう思っているんだろうか。
一つ目の迷路を抜け出すこともできず二つ目の迷路に迷い込む。今回ばかりは、横で眠る彼女が答えを示してくれることもなさそうだ。
答えは、出さなければいけない。ただ一つだけある決まった答えを。今までもそうしてきた。
ただ、最近になって毒を食い破る新しい毒を体に盛り込んだ僕は、その一つを出すことがなんだかすごくもったいないような気がしてきた。答えを出すことは、数多ある可能性の芽を、積んでしまうことになると。誰かが、耳打ちしてくる。
毒を食らわば皿まで。新入りが彼女の威を借って体内を蠢いているのがわかる。全く、とんでもないものを体に取り込んでしまった。
ため息混じりに元凶を見やると、陽に照らされてすやすやと虹色のシャボンを漂わせて気持ちよさそうに寝ている。
虹色?
外を覗くと、天使の梯子が雲の間から顔を出しているのが見えた。彼女の脊髄は、寝ている合間の差し込んでくる太陽にも機敏に反応するらしい。今も、不思議と憎らしく感じない太陽の前で漂うシャボンの軌道を目で追うと、その虹はふわりと周りを回ってから僕にくっついた。
彼女のことだ。僕にはわからない何処かに、チャームポイントの一つでも見つけたのかもしれない。
それを、割らないように丁寧に掌に載せる。いいんだろうか。こんな虹色を、彼女は僕に寄せてしまって。手を窓に寄せて陽にさらすと、より一層シャボンは輝きだした。
そうだ、僕は。虹に照らされて、やっと数多あるうちの一つの答えにたどり着いた。全部を全部知る必要なんてない。そう唯一つ認知した自分の気持ちをシャボンに乗せて、窓から薄明光線に向けて放った。
「お…、はようございます。」
ふわぁ、と一つ大きなあくびをして起床を伝える隣人に清々しいくらいのおはようを返す。
「あぁ、おはようございます。」
まだ寝ぼけているようで、二度目のあいさつを済ました彼女は窓辺の陽の光を目で追った。
「雨、止んだね。そのうち雲も、晴れるんじゃないかな。」
軽快な所作で、答えの一つを言葉に乗せてから彼女に向けた。彼女も、微笑んでくれるものだと思って。笑いながら、そうですねなんて。
「う、そ…。」
雲から差し込む輝かしい太陽の光に、彼女は。
彼女は光を失った。
嘘、嘘、と呪文のように唱え続け、忘れ物を探す様に頭を何度も抑えながらみるみると、顔を真っ青に染めていく彼女の豹変ぶりに言葉を失う。
「お、落ち着いて。どうしたの。」
「無い、無い、どこにも。何処にもないんです。」
「いったい、何が。僕も探すよ。」
何時も身に纏わせている彼女らしさはどこにもなく、代わりに「絶望」の二文字で彩られていく彼女を、何とか落ち着かせようとするけれど僕の言葉は、無力だった。
「あれ、あれ、あれ。何処。何処ですか。」
「お、落ち着きなって。」
そう、肩に手を置いて彼女を制止させようとすると、びくんと体を揺さぶらせた。
拒絶反応のように、身震いした彼女をこちらに向かせる。
なんの抵抗もなくすんなりと、彼女はこちらを仰いだ。
振り向いた時に彼女は、薄明光線に照らされて輝く雫を流していた。
自分で振り向かせておきながら、こちらを向かせた後のことを何も考えていなかったので、彼女の出所の分からない悲しみに口をつぐむ。
代わりに表情でどうして、と形作ると僕の手を、今度は彼女が払いのけて涙をぬぐった。
「あな、たは。」
震えた声で、陽にさらされた彼女はこれまでにないくらいの悲しみを吐き出した。
「貴方は、心を、なくしたことがありますか。」
其れだけ言って、彼女は丁度帰路に到着したバスから僕の食指が動く暇も与えずに飛び出ていった。
僕は茫然と、彼女の涙の意味が分からないままに彼女が残した虹色と、相反する真っ黒なシャボン玉をずっと眺めていることしかできなかった。
その言葉を、何とか飲み込んだ時には日が暮れて、太陽はどこにもいなかった。彼女の残した斜陽すら、見る影もなかった。
「あら、おかえり。」
「ただ、いま。」
母におあつらえ向きな返事を返すことができずに、玄関をくぐるとすぐに自室にこもった。
布団を頭からかぶって、遮断された視覚にあの時の彼女を描いた。
心を失くす。それは、僕が何千回、何万回も繰り返してきたことだ。臆病に飼いならされて思うがままにしてきた僕だけがしてきたズルだ。僕のためだけに向けられた彼女の言葉を何度も何度も頭の中でかき混ぜて、その真意を読み解こうとした。でも、分かるのは彼女が怒りすらも混ぜていない純粋な悲哀をにじませていたという事実だけで他には何一つとして分からない。
僕の判定できない何かが彼女を、見る影もないどん底にたたきつけていたとしたら。
そう感じた瞬間に、僕の中で紐づけられていた何かがプツンと完全に断ち切れた。断ち切れたのに、二つは同じ方を向いていた。彼女の悲哀に感化されてまた心の奥底が、頭が痛くなる。でも、もう僕の手が頭をかすめることは無かった。
もしも、自分に嘘をつき続けていなければ君の悲しみを分かることができたかもしれない。考えたところで後の祭りだ。けど、これから先にそうすることが少しでも君の役に立ってほしいと願ってもいいのなら。
僕は、君のように生きてもいいのだろうか。
もう分からないまま君を、傷つけたくはない。分かろうとしないまま、生きていたくはない。
だから。真っ暗な視界の中で思い描いた彼女に、そう誓った。
直ぐにメールで、親族以外に入れた初めてのアドレスに謝罪の旨を伝えた。いつもはRe;となって楽に返信をしていたので、思いのほか手間取ってしまった。加えて取り乱した原因を訪ねた。けれども、僕の望むような答えは一つも与えてはくれず彼女からは一言、ごめんなさい。とだけ送られてきた。そこには、いつも付け加えられた絵文字も彼女の甲斐性も見る光は無かった。
煮え切らない答えは、テストのように放っておいても誰かが教えてくれるわけはなく夏休みが終わるまで、ずっと喉に何かが詰まったままの心地で僕は無為に時間を過ごした。何度もメールを送ったが、彼女からの返信が送られてくることはそれきりもう、無かった。
そうして募れば募る程辛い思いを、消すこともしなかった。
それは彼女もずっと、ずっと前から変わらなかったんだと思う。
募り募った思いの丈を、何処にどうすればいいのかも分からないので気の赴くままに外に出た。この散歩に最たる意味はない、ただ部屋に籠っていると身に背負った何かが腐敗していくような気持になって思い立った時には重たいドアを開けていた。
暑い、影法師はこんなに近くにあるのに炎天下に晒されているせいでぼやけて見える。終夏のはじめとはいえまだ衰えなぞ見せないくらいに、燦燦と太陽は照り付けていた。
滲んだ汗が目に入った。あれから数日経っているというのにまるでついさっきのことのように彼女の姿が、瞼の裏に滲む。時間は相対的だ。こうして、晴れた日の中で練り歩くのももう二、三時間くらいはしているものと思ったのに時計をにらむと短針は、その半分も動いてはいない。
大きな息が、脳裏にはびこるほんの少しの鬱積を吐き出した。こんな気持ちをずっと消さないでいるのは初めてのことで、見るのも億劫な周りに漂うシャボン玉もこのまま一生消えないんじゃないかと思えてくる。不安がたまると独りでに腕が動いてくれる癖は、まだほんの少しだけ残っていてピクリと神経をくすぐっている。そんな四肢の一つを寂しく眺めていると、急に腕が暗幕に染まった。
太陽が陰ったのか、確かめようとして顔を上げると何時かの白い建物が目の前にそびえたっている。そこの自動ドアは開くと夏の日も知らない風が心地よく頬を撫で、僕の周りのシャボンをどこか遠くに飛ばしていく。歩く方角も距離も時間さえ何も決めていなかった僕のほんの少しの抵抗は、思わぬところに帰着した。
図書館に入ると、真っ先に深呼吸をする。息を吐き終えたところで瞼を下げた。晴れの日でも、雨の匂いは変わらずに図書館を漂っている。でも何時もの通り、心地いいとは思ったけれど何かが足りない気がした。雨の匂い、とはいってもいろいろあって図書館の匂いはあの教室のような匂いじゃない。もの静かで、それでいて一定な雨そのものの持っている概念を表したような匂いがする。
匂いへの言葉探しに夢中になっていると足は、知らずの内に答えを求めて二階を目指していた。二階にたどり着くと粒子はより一層濃くなる。匂いの正体は、何千何万と羅列された本だった。一つだけじゃこんな香りにはならない。募り募った幾つもの本が一所に集まって初めてこんな馨になる。もし、物語の色々が混ざり合ったものが雨になるならそれはなんて素敵な事だろうか。
なにか無い物か本棚をちらほら物色する。その何かに明確な答えなんてなくただあてもなく手さぐりに色々な本を取っては戻すを繰り返した。
この本は、読んだことがある。それでいてあの本は、読んだことは無いけれどどこかで見た気がする。その割に、内容は頭の中につらつらと入ってきて変だ。それでこの本は、主人公が猫の話。奇怪で、最後の最後まで名前の決まることなく生を終える、そんな哀しくて剽軽な猫のお話。カタルシスは感じなかった、別段悲劇でもないし。それに、最初から展開を知っていて物語を読むっていうのもどうにも酷な話で、どちらかと言えば何時かに初めて読んだ誰かの記憶が妬ましかった。
ねぇ、どこかの誰かさん。この本に素敵な感想を持った君は今、元気でやっているのだろうか。この答えは胸の内が一番心得ているけれど、こんな言葉で君の悲しみの容器に少しでも穴が開いてくれるのを願った。
そういえば、この本で思い出したことがある。あの時に芽生えた檸檬とケーキの丁度間の味がする気持ちにはまだ、名前を付けていなかった。彼女なら知っているだろうからどんな名前なのか聞いてみて、教えてもらわないと。それは何時でもいいけどせめて死ぬ前には、聞いておきたい。
それに雨が好きで晴れが嫌いな理由も、どうしてそんなに笑うのか、表情が豊かなのか、そんなに綺麗な虹色のシャボン玉を出すのかも知りたい。
気づけば周りは、彼女に感化されたシャボン玉で一杯になっている。
その僕から出た筈のシャボン玉は、僕の知らないことを教えてくれた。
僕は彼女のことをもっと知りたいと思っている。あの時君の泣いた理由も、何がそうさせているのかも、分かりたいし分かってあげたい。其れで僕が悪いのであれば、しっかりと謝りたい。
でも、その欲求は今の僕には我儘で手に余る願いなのも知っている。彼女に足るような人間にならなければ手が届かないのも心得ている。そうやって手が伸びない言い訳を探しているうちは、僕は彼女にふさわしくない。
こんな相反する感情を持ち合わせているのは初めてのことだ。自分はずっと不実で他者に何も抱かない薄情な人間だと思っていた。でも今こうして、一生続くと思っていた鬱屈とは別の憂鬱が体を支配しているのをみるとその限りではないみたいだ。それに、彼女はもう他人じゃない。
蕪雑な心境を気にもせずシャボン玉は、本棚を越えて緩やかな曲線を描いて何処かに飛んで行く。それを目で追うのはもったいない気がして、猫を本棚に戻して追いかけた。
気泡は、目的地を定めたように迷うことなく一所に向かっていく。歩いていくうちに、大悟した。それは分かる。あれは僕のシャボンなのだから。
目的地は彼女と初めて待ち合わせをして、一緒に勉強をしたあの場所。あれから、もしかしたらを考えて何度も訪れた場所でもある。僕自身嘘はつけてもシャボンにはつけないみたいであの場所を快く思っているのがバレバレだ。この時ばかりは、誰にも見えなくて本当に良かった。
シャボン玉が最後の本棚を飛び越えると、一瞬視界から消えた。早歩きをしていたので少し呼吸を整えてから歩き出すのに、都合が良くて立ち止る。やっぱり晴れの日でもこの場所は人気が少ない。辺りを見回してみても、人っ子は一人も見えなかった。
ふぅ、と息を吐き出してから歩き出す。足を運ぶのは大抵雨か曇りの日で、晴れた日にここに来るのは初めてのことになる。それにしても、晴れた日も、ここはこんなに暗いものなのか。屋上まで届きそうなくらいに縦長を集めた合わせ鏡のようなガラスは、きっとここまでなら容易に太陽光を透過できるはずなのだけれど。
立てかけていた手を本棚からどかす、さっき僕を見かねて置いて行ったはずのシャボン玉が足元で燻ぶっている。今一度確かめるために手で掬ってみると、それは余りに青々と綺麗に蛍光灯の光を反射していて、これは、僕のものではないことなどすぐに分かった。
「森?」
「はい。今見えている森です。抜けるとは言っても、獣道を通るわけではないのでご安心を。ちゃんとした道を通ります。」
「でも、どうして森を抜けることと海を見ることに、関係があるの。」
「それは…。秘密です。」
「了解。聞かないでおくよ。」
「大丈夫です。きっと後悔はさせません。多分。後悔先に立たずともいいますし。」
「あー、うん。了解。えっと…」
「お待たせしました。天ぷらそば二つになります。」
「有難うございます。須藤さん。取り敢えずは、食べて午後のために精をつけましょう!」
「精って、ちょっと待ってよ。今、大体海に対してどのくらいなの。」
「ちょっと待ってください、今地図を見るので。そうですねぇ。あ、まだ半分も行ってません。」
「本気?」
「本気です。本気の本に本気の気で、マジです!」
「うーん。タクシーを拾うのは?」
「小道なので、厳しいかと。それに須藤さん。美食に通ずる一番のスパイスは、空腹なんですよ。」
「まぁ、そうだけど。」
「ささ、お腹もすきましたし取りあえず食べましょう。いただきます。」
「いただき、ます。」
「…。」
「どうしましたか。」
「これ、玉ねぎ?」
「そうですね。」
「まるごと?だよね?」
「丸ごとてんぷらにするというのが、ここの名物らしいですよ。」
「本気?」
「ほんきです。ほら、そこの天ぷらつゆをかけて食べるんです。」
「…。」
「どうですか?」
「…。美味しい。」
「それはよかったです。私も…。」
「どう。」
「…。美味しいです。とっても。」
×××。
「ご馳走様でした。」
「ご馳走様です。」
「有難うございました。是非、またご予約ください。」
会計を済ませてから、入った方向とは別の扉から外に出た。相変わらず雨足が収まる気配はなく、雫は、再度レインコートを着込んだ彼女と僕の持つ透明な傘に容赦なく降りかかっている。
「着替え、何着持ってきてるの。」
少し後ろの方、雨でぬれる箇所を減らすため、立ち止ってレインコートを微調整している彼女に心配の声をかける。
「あと、二着くらいですね。計算通りです。」
「それはよかった。」
またも、天を仰いで雨に打たれながら生真面目な返答をするピンク頭に、それはよかったという失笑が漏れた。彼女が元気でいられるゲージの残量は二つ。なら、今全身をびしょびしょに濡らしてもバスに乗るときに着替えたら、まだ一着余裕がある。雨に濡れることもへの河童なわけだ。身軽な彼女を見ていると、なんだかこっちまで体が軽くなってくる。だからこれから、まだ半ばにすら達していないらしい道程も何とか乗り越えられそうな、気が、して来る。
身軽さは視界の感度にも響いた。フクロウみたいにあちらこちら彼女のあたりをきょろきょろ見回すと、さっき僕たちの入ったお店の看板がでかでかと張り出されているのに目が行く。
『 〇〇屋 完全予約制 二名様から 』
…。見立て通り、此処までで少なくとも二本は上手だったらしい。そんな高嶺に組する彼女の前を歩くことははばかられたので、僕は立ち止まって雨粒を身一つではじく少女が歩きだすのを待つことにした。
「お待たせしました。さぁ、行きましょう!」
元気な声に仕草で、ぽつぽつと、雨に中てられるたびにポッポッとシャボンを吐き出し続ける燈昌さんが先行して歩き出す。僕にしかわからない永久機関を搭載した彼女は雨の日であれば、永遠に動いていられそうだ。あの山間に見える白い風車たちにも雨の日のふるまい方を是非見習ってほしい。
乾き始めた靴がまた濡れ始めた頃、打ち付けてくる雨が弱まり始める。
「雨、収まってきたね。」
雨と連動している機関を持つ彼女と、そのシャボンの発生率があからさまに衰萎しているのを、傘越しに危惧する。
てっきり、ばててきている彼女を拝めるものだと思っていた。だからここらで休憩でも提案して少し歩を止めようかと考えていたら、予想に反して彼女はばててなんかいなかった。
こちらを振り返ると太陽は、余裕の笑みを浮かべた。流石は永久機関、まだまだ疲労を知らないらしい。
そして、返答の代わりにぶかぶかのレインコートからわずかにはみ出た指で上をさした。
「あぁ、なるほど。」
矛先につられて天を見やると、彼女と出会ってから何十回目かの「成程」に出くわす。やけに暗くなった空は、雲の層が幾重にも重なったからじゃない。木々に邪魔されて、雲が見えないことを今更になって認知するのは皆がみているものより何時も僕の見ているものが後塵を拝しているからだろう。
このまま何も言われないのもしゃくなので、変に見栄を張ってみる。
その程度の矜持、気にもしないで彼女は囲まれた木々に一つ深呼吸をした。
「はぁ。マイナスイオンを感じます。」
「それって、プラセボ効果じゃないの。」
思い切り息を吸ってみても、鼻孔を突き抜けるのは雨のにおいだけ。森林の趣は、残念ながら嗅覚だけでは伝わってこない。
「夢がないですよ。もし本当じゃないにしても信じなきゃ、何も始まりません。」
これは冗談だ。もっともなことを論じているように見えて、彼女は雑言を使って遊んでいるだけ。色さえ見えれば、どうってことは無い。心理学者だろうが、ヒトラーだろうが、その仮面に隠した真意を読み解くのは難しくない。忖度に、自信がないだけで。
雨のにおいに加えて嘘の色をかぐというのは、何とも酷だ。入ったのはいいが、終わりの見えない緑に大きな息を吐く。これは、今まさに彼女のしている深呼吸とは別のものだ。
「須藤さんも、何か失ったんですか。」
「え。」
不意に彼女が口を開く。その声音は雨音の中で一際耳の中に透き通って入ってくる。だから、この疑問形は聞き取れなかったから出た言葉ではない。
「いえ、実はいつ聞こうかとずっと機会を窺っていたのです。」
「何を。」
「貴方が雨が好きな理由と、」
そして、晴れの日が嫌いな理由。
その言葉は、仮面などどこにもついていない彼女の素面でその真意が計り知れない。冗談で言っているのか、真面目に聞いているのかも分からない。僕の知らない顔。一切合切の内在する感情を、一所に表して彼女は続ける。
「ねぇ、知っていますか。」
「何を。」
「このマイナスイオンと呼ばれるものの正体です。新鮮な空気、って言ってもいいかもしれません。」
「だから、偽物じゃないの。」
とは言ったものの妖しく笑う彼女とそれを取り巻く雰囲気のシャボンに、其れだけではない気がして、取りあえず一考してみる。幸か不幸か、しとしと降る雫を有体で跳ね返す質問者は立ち止ったままなので粗略に始めたひらめき探しには段々と熱が入った。
「んと、なら実は木々の一部が微粒子になって漂っているとか。」
「違います。」
「なら、木の吐いた息、とか。」
「それは概念です。私が聞いているのは、その息の意味するものです。」
「んー。全然わからない。降参するよ。」
想像力もこれといって持たない、寧ろ人後に落ちる頭ではこれ以上は浮かばない。颯とあきらめた僕に彼女は満足げな表情を浮かべて正解を教えてくれた。
「答えは、毒です。」
「毒?」
「はい、其れも猛毒です。」
「も、猛毒って、でも僕たちが吸っても何ともないじゃないか。」
「はい。私たちにとっては、ですけど。」
「と、いうと、つまり。」
「というと、詰まるところ他の者にとっては猛毒なわけです。例えば、あそこに生えているコナラの木は、隣に生えているクヌギの木を殺そうとしています。自分が成長するために隣の木は、邪魔ですから。殺そうとして出す猛毒の空気を私たちは心地いいと、思うわけです。」
彼女の真意が読めない。ただの、豆知識の披露ではないだろう。シャボンが見えないのは、きっとこの言葉に二つより上の意味が込められているから。でも、その一つも僕には到底思いつけない。
「真意は。」
最近、随分わがままになった。今までなら、それはそれと遠く離れた他人の考えを、安易にあきらめることもできたけど今は、分かりそうで分からないまでに近づいた気持ちを、知らないと満足できない、と思うようになった。かゆいところに手が届かないのは、もどかしかった。
「真意、ですか。いえ、特にはありませんよ。でもたまに思うんです。燦燦と照り付ける心地のいい太陽の光も、誰かにとってみれば猛毒なのかもしれないって。」
かろうじて舗装された道から、少しそれたところで彼女は大木を撫でている。その表情は見えない。
それで僕だけがここにいるような気持になって何時かのトイレに映った自分を思い出した。
それは。
それは、僕だ。
この子の言葉は、紛れもなく僕のためのものだ。
朝日も夕陽も、春日も、炎陽も秋の日も冬日もみなと同じようには一度として、僕にその温かさを分けてくれたことは無かった。代わりに吐き出した猛毒で、見たくもない人間の形をした悲しい生き物たちを延々と見せつけられるだけ。生まれたときから、それにあの日からはずっとそう。気づいた時には、シャボンが辺りを漂っていて、物心着いた時には、それが僕に限ったことなんだと知った。母にも父にも、兄にも一度も言ったことはない。僕だけのために太陽から作られた、毒。
誰にも打ち明けなかったこの毒は、どこにも漏れることなく今も僕を内から食い破っている。
「それで、ほら、貴方の話に戻るわけです。もしかしたら私たちは、本当の似た者同士なのかもしれないので。」
ずっと先、拳大ほどになった彼女の声が木々をこすり合わせてここまで聞こえてくる。そうしてこすりあわされた声は歪曲したり曲解したりして僕の耳に入ってくる。
行く?何処に?彼女の近くに?どうせ、何も変わらないのに?今更もう遅いのに?いつから、自分まで彼女と同じようになれると勘違いしていた?どれだけ近づいたところで、彼女にはなれないのに。いつから夢を見ていた?体中が毒に蝕まれた僕は彼女より、こんなにも、汚いのに。
あの日僕のしたことで、今もきっとあの子は苦しんでいるのに。
僕はしばらくぶりに、夢を見た。
「須藤、さん?」
拳大から、等身大になった彼女が心配そうに手を伸ばしてくる。
その柔らかそうで、穢れのなさそうな純真で綺麗な手を、
僕は払いのけた。
ぺしっという、虚しい音はすぐに雨にムチ打たれた森のざわめきにかき消された。
「あっ、ごめ…。ん…。」
無意識だった。
のけられた手を、もう片方で抑える彼女は、え、と涙ぐんでいた。この世の、悲劇を一所に集めたような悲しい顔をして。何を盾にしても、どれだけのいいわけを並べても、もう遅い。
直ぐに踵を返すと、さっきまでの調子が嘘みたいに、とぼ、とぼと彼女は歩き出した。
どれだけ遅くても、僕がその前を歩くことは、出来なかった。自分で生み出した、最悪の結果を見るだけの覚悟が、僕にはなかった。
森は、どんどん深くなっていく。歩を進める度、空どころか道の脇まで木々が覆いつくしていく。行けども行けどもきりのないこの森は、知りつくせない世界の恐ろしさを、怖いほどに表している。
逃げたい。五感は僕がこの場から逃げるための都合のいい理由を今も、現在進行形で増やしてくれている。すでに目の前とは言えない、数歩先に位置する彼女からは悲しみだけ。傷口から漏れるようにドクドクとシャボンが流れ出ている。そして、重力に影響された泡は、そのまま地面に溜まっていく。血みたいだった。致死量の。その痛々しい傷口を作ったのは、紛れもなく僕。繊細な風船に、乱暴に針を突き立てたらどうなるかなんて、赤子でもわかる。
こんな風に軽んじて人を傷つける人間を、僕は許せないんじゃなかったのか。結局、僕も醜く汚い彼らと何も変わらない。取り繕っていても、変えられない。毒に蝕まれて僕も気づけば、人間の皮をかぶった汚らわしい何かになっていたらしい。
ずっと昔に舗装されてから人間の手を加えられていない荒れ放題の道は、彼女の副産物で一杯になっている。この一つでも、もし踏みつぶすことが出来たらどれだけ楽だろうか。でも、僕にはできない。する権利は、何を建前にしても絶対にない。だって、今踏みつぶしたら彼女は、また踵を返していつもの笑顔で僕の方に向かってくる。其れで云うんだ。何の軋轢も感じさせずに「一体どうして、こんなに離れちゃってたんでしょうね。」と。
反吐が出る。その偽物の光景に、吐き気と嫌悪が滲み出てくる。
自分で作った他人への傷を無理やりに癒着させて何もなかったことにするのは最早、人間以下だ。毒に蝕まれたとしても、どれだけ毒に近づこうとも、毒になることだけはあってはならない。
今なら分かる。
ずっとずっと昔、癒着させたあの子の毒にもきちんと薬を塗らなければいけなかったんだ。
シャボンを踏まないように、足を地面につける。後ろ見たさで振り返ると、シャボンは道を満たして僕の辿ってきた足場すらなかった。
それは彼女の、純粋な悲しみの中に一つ、また一つと僕がいたから。その泡は、彼女ほど綺麗じゃない。純潔とはとてもいえない、けれどしっかりと悲しみだけは表したシャボンが、僕の歩いた道を、濡らしている。
そうか。
その景色に、どこか遠く離れていってしまったみたいな、自分の気持ちがわかった。
そうだ。僕は。
「燈昌さん。」
こんなに小さかったら聞こえない、叫ぶ。
「燈昌さん!」
彼女が振り返った。
走る。道路をはみ出して、森を。途中で何度も枝葉がズボンを突き刺し、頬を切った。関係ない。一歩でも速く、一秒でも早く、こうすべきだった。
彼女が前に倣おうとしている。待って。本当は、ちゃんと言うべきだったんだ。すぐに、この言葉を。
「ごめん!」
文字の通り斜に構えた彼女は、その場で立ち止った。
走り切り、目の前にまで差し掛かった彼女に
「ごめん。ごめん、なさい。」
悲しいんだ。彼女を傷つけたことが、彼女に悲しい思いをさせてしまったことが。
頭を下げた。出てきた声は、寒くもないのに震えていた。
僕は、彼女に誠心誠意謝った。それが、気持ちに嘘をつかせることより、ずっとずっとマシに思えたから。しなければ一生後悔すると思ったから。
僕は、彼女に謝りたかった。後悔を、もうずっとしまい込むことはしたくなかったから。今は、そう思える。
いいですよ。とは言ってくれなかった。理想的な、僕を許すような言葉はどこにもなかった。でもかわりに、視界が重力に引き寄せられたままの僕にもわかるようにふふっ、と笑って。
「ほら、やっぱり貴方は素直で、とっても真面目な人じゃないですか。」
顔を上げると、彼女はぶかぶかのフードで顔を隠していた。振り返ると、シャボンは綺麗霧散に僕の分まで消えてまたただの荒れた道に戻った。それが、たまらなく誇らしく、悲しくなって、もうしない。したくはない。と彼女に誓った。
「結局のところ、一体全体をどうしたんですか。」
「いや、ただ君の言葉に、ちょっと昔を思い出して。」
隣で気脈の通じた心地の彼女に、申し訳なさを伝えた。正確には、隣じゃなくて彼女よりも少しだけ斜め後ろに位置しているけど、概ね隣しているのでこの言葉に違和感はない。筈。
「へぇ、考え事をしていただけで、私の手を突っぱねたと。」
「それは、ホント、ごめん。」
「冗談です。それに、言葉は言った時点で一人だけのものではないですから。もし仮に、私の言葉で貴方を傷つけてしまったなら私も謝るべきです。」
すみませんでした。
謝って、謝られるのは何とも水臭い。
水臭く感じるのは、海が近づいていることも含まれている事に気付くのはまだもう少し先だった。
「ほら、つきましたよ。」
彼女の指さす先、森を抜けたところに崖が佇んでいる。
太陽が、雲に覆われているとはいえ幾分かマシな明るさを提供してくれて、視界は少し晴れる。崖に向かってかけていく彼女に感化されて、駆け足ほどではないにしても早足になる。
「早く早く、こっちです。」
手を振る彼女に連れられて崖の先から顔を出すと、そこには。
海があった。
荘厳な、海。
いつもは命の源、生命の母とまで言われている、どこまでも広がる大らかな海。それが一転して雨の日になると、恐ろしく感じた。命の怒りや苦しみを一手に受けとめて発散してくれているような、そんな八方位のどこにも当て所のない憤怒を波の一つ一つに纏わせている。
快晴の日に感じる綺麗さは見る影もない。
でも、綺麗の一言では片づけさせないこの海のほうがずっと好きに思えた。なんだか一言で片づけられないあたりが、何か誰かに似ているから。
「悪くないでしょう。」
言葉をなくした僕に、したり顔をのぞかせる。
「わるく、ない。」
本当は、いいと、素晴らしいと言いたいところだけど、調子づく彼女をずっと見ていられるのが怖くなって言うのはやめておいた。彼女は、一体全体この景色をどう思っているんだろうか。自然の堤防に力任せでぶつかる波に、あちらこちらに立つ白波に、彼女は何を感じているんだろうか。どうせ聞いても、秘密です、の一言で済まされてしまうのだから。まぁ、いいか。
「私、さっきのバスでの須藤さんの言葉をずっと考えていました。」
「うん。」
「苦労してないと言われることが、一番の苦労だと。」
「うん。」
「私の点数を言ってもいいでしょうか。」
「どうぞ。」
「99点です。」
「高いね。」
「はい、高いです。私なりに考えると、この言葉は、とても素敵なことのように感じられますから。」
「それは、どうして。」
「苦労してないように見られること。それはきっと、とっても難しいことです。苦しいことです。だって、それは自分の経験してきた数えきれないほどの苦渋や悲哀を、自分の中になんとか押し込めて何食わぬ、幸せそうな顔をする。という事ですから。」
大綱をついた言葉は、棒立ちの的を射抜いた。
「私は、それがとても、とっても素敵なことだと思います。須藤さんの苦労は私には到底分かるものではありませんが、その苦労を顔に出さない事はとても難しくて、とても素晴らしいと思います。だって…、だって、誰も悲劇に身を包んだような人と仲良くしたいなんて思いませんから。何時もみたいに小言を並べて、国語の点数に本気でがっかりする須藤さんが、私は好きです。もしそれが偽物の貴方で、私の気付かない形作られたものだとしても、私はがっかりなんてしません。それは、紛れもなく私の、私たちのために作ってくれた、貴方ですから。」
分かったような口をきくな、なんて考えもしなかった。だって、彼女は何もわかっていない。何もわかっていないうえで、僕のことを、繕っていた僕を認めてくれている。何度目かの言葉の詰まる彼女の真っすぐに、始めて僕は
「あ、りがとう。」
ぎこちなく、感謝の気持ちを言葉にすることができた。
「いえいえ。と、こんな話をするとなんだか…、水臭くなっちゃいましたね。」
「そうだね。海も近いし。」
「今のは、0点です。水を差すようなこと言わないでください。でも、もうポエムは、貴方には必要ないかもしれません。」
「手厳しい…、ありがとう。」
ふふっと、彼女は何時もする何の苦労もなさそうな笑顔を僕に向けると、又視線を戻して海の方を見ていた。車軸を流すほどの雨空の下で傘を投げ出して、しばらくは、僕もそうしていた。
でも。
「でも、残りの一点は。」
それから、流石に太陽にも疲労はあったようで、また森を抜けてへとへとになった僕らはタクシーを拾うことにした。適当なところで僕と彼女は着替えてから、タクシーに乗った。傘を差さずに海を見ていたので、その時にべとべとになったリュックを見せつけられ、捲し立てられたのは言うまでもない。雨の浸食で一着を無駄にした事をタクシーの中で聞き、残りの一着は今着ているからレインコートをもう着られない、と怒られた。そんなびしょびしょになるレインコートの着方があるか、と異議を唱えたかったけど、今回は僕が悪いので何も言わないで置いた。
タクシーから降りると、レインコートを着用せず、なおかつ傘の持ち合わせもない彼女に僕は、しかるべき行動をとった。少し窮屈になった心と場所に、気持ちが爆発しそうになって、バスに着くまでの間はずっと頭を抑えていた。心を殺しているのに、何となく気持ちが高ぶった理由は、僕にはまだわからなかった。
「一日が終わっちゃいますね。」
「ね。」
バスに着いて、僕と彼女は今日のメインディッシュを平らげた感想をそんな言葉と少しの吐息に乗せて惜しんだ。二人とも、気持ちがいいくらいに疲れ切っていたのでそれからは特に話すこともなく、彼女に至ってはすぐに眠ってしまった。
覗き見たわけじゃない。見るともなしにそろりと、ちらっと彼女の横顔をうかがう。
好き。そんな言葉、母と父くらいしか言われたことがなくて、実感がわかない。
好きって、つまりなんだ。好意を寄せている?人間として?友達として?分からない。
今まで自分のことだけで一杯一杯だった人間に、僕なんかに答えが分かるわけはない。何度も答えが出るまでその言葉の真意をぐるぐると反芻してみても、真相に一歩も近づくことができないのは仕方のないことだった。
迷路に迷い込むと、時間はあっという間に過ぎるらしい。あ、という暇もなく彼女との時間が、過去の一つに積み込まれていくのを感じて、少し嬉しくて悲しくなるとバスは何度も見てきた景色たちのいる場所に差し掛かった。
僕は。
僕は、彼女のことをどう思っているんだろうか。
一つ目の迷路を抜け出すこともできず二つ目の迷路に迷い込む。今回ばかりは、横で眠る彼女が答えを示してくれることもなさそうだ。
答えは、出さなければいけない。ただ一つだけある決まった答えを。今までもそうしてきた。
ただ、最近になって毒を食い破る新しい毒を体に盛り込んだ僕は、その一つを出すことがなんだかすごくもったいないような気がしてきた。答えを出すことは、数多ある可能性の芽を、積んでしまうことになると。誰かが、耳打ちしてくる。
毒を食らわば皿まで。新入りが彼女の威を借って体内を蠢いているのがわかる。全く、とんでもないものを体に取り込んでしまった。
ため息混じりに元凶を見やると、陽に照らされてすやすやと虹色のシャボンを漂わせて気持ちよさそうに寝ている。
虹色?
外を覗くと、天使の梯子が雲の間から顔を出しているのが見えた。彼女の脊髄は、寝ている合間の差し込んでくる太陽にも機敏に反応するらしい。今も、不思議と憎らしく感じない太陽の前で漂うシャボンの軌道を目で追うと、その虹はふわりと周りを回ってから僕にくっついた。
彼女のことだ。僕にはわからない何処かに、チャームポイントの一つでも見つけたのかもしれない。
それを、割らないように丁寧に掌に載せる。いいんだろうか。こんな虹色を、彼女は僕に寄せてしまって。手を窓に寄せて陽にさらすと、より一層シャボンは輝きだした。
そうだ、僕は。虹に照らされて、やっと数多あるうちの一つの答えにたどり着いた。全部を全部知る必要なんてない。そう唯一つ認知した自分の気持ちをシャボンに乗せて、窓から薄明光線に向けて放った。
「お…、はようございます。」
ふわぁ、と一つ大きなあくびをして起床を伝える隣人に清々しいくらいのおはようを返す。
「あぁ、おはようございます。」
まだ寝ぼけているようで、二度目のあいさつを済ました彼女は窓辺の陽の光を目で追った。
「雨、止んだね。そのうち雲も、晴れるんじゃないかな。」
軽快な所作で、答えの一つを言葉に乗せてから彼女に向けた。彼女も、微笑んでくれるものだと思って。笑いながら、そうですねなんて。
「う、そ…。」
雲から差し込む輝かしい太陽の光に、彼女は。
彼女は光を失った。
嘘、嘘、と呪文のように唱え続け、忘れ物を探す様に頭を何度も抑えながらみるみると、顔を真っ青に染めていく彼女の豹変ぶりに言葉を失う。
「お、落ち着いて。どうしたの。」
「無い、無い、どこにも。何処にもないんです。」
「いったい、何が。僕も探すよ。」
何時も身に纏わせている彼女らしさはどこにもなく、代わりに「絶望」の二文字で彩られていく彼女を、何とか落ち着かせようとするけれど僕の言葉は、無力だった。
「あれ、あれ、あれ。何処。何処ですか。」
「お、落ち着きなって。」
そう、肩に手を置いて彼女を制止させようとすると、びくんと体を揺さぶらせた。
拒絶反応のように、身震いした彼女をこちらに向かせる。
なんの抵抗もなくすんなりと、彼女はこちらを仰いだ。
振り向いた時に彼女は、薄明光線に照らされて輝く雫を流していた。
自分で振り向かせておきながら、こちらを向かせた後のことを何も考えていなかったので、彼女の出所の分からない悲しみに口をつぐむ。
代わりに表情でどうして、と形作ると僕の手を、今度は彼女が払いのけて涙をぬぐった。
「あな、たは。」
震えた声で、陽にさらされた彼女はこれまでにないくらいの悲しみを吐き出した。
「貴方は、心を、なくしたことがありますか。」
其れだけ言って、彼女は丁度帰路に到着したバスから僕の食指が動く暇も与えずに飛び出ていった。
僕は茫然と、彼女の涙の意味が分からないままに彼女が残した虹色と、相反する真っ黒なシャボン玉をずっと眺めていることしかできなかった。
その言葉を、何とか飲み込んだ時には日が暮れて、太陽はどこにもいなかった。彼女の残した斜陽すら、見る影もなかった。
「あら、おかえり。」
「ただ、いま。」
母におあつらえ向きな返事を返すことができずに、玄関をくぐるとすぐに自室にこもった。
布団を頭からかぶって、遮断された視覚にあの時の彼女を描いた。
心を失くす。それは、僕が何千回、何万回も繰り返してきたことだ。臆病に飼いならされて思うがままにしてきた僕だけがしてきたズルだ。僕のためだけに向けられた彼女の言葉を何度も何度も頭の中でかき混ぜて、その真意を読み解こうとした。でも、分かるのは彼女が怒りすらも混ぜていない純粋な悲哀をにじませていたという事実だけで他には何一つとして分からない。
僕の判定できない何かが彼女を、見る影もないどん底にたたきつけていたとしたら。
そう感じた瞬間に、僕の中で紐づけられていた何かがプツンと完全に断ち切れた。断ち切れたのに、二つは同じ方を向いていた。彼女の悲哀に感化されてまた心の奥底が、頭が痛くなる。でも、もう僕の手が頭をかすめることは無かった。
もしも、自分に嘘をつき続けていなければ君の悲しみを分かることができたかもしれない。考えたところで後の祭りだ。けど、これから先にそうすることが少しでも君の役に立ってほしいと願ってもいいのなら。
僕は、君のように生きてもいいのだろうか。
もう分からないまま君を、傷つけたくはない。分かろうとしないまま、生きていたくはない。
だから。真っ暗な視界の中で思い描いた彼女に、そう誓った。
直ぐにメールで、親族以外に入れた初めてのアドレスに謝罪の旨を伝えた。いつもはRe;となって楽に返信をしていたので、思いのほか手間取ってしまった。加えて取り乱した原因を訪ねた。けれども、僕の望むような答えは一つも与えてはくれず彼女からは一言、ごめんなさい。とだけ送られてきた。そこには、いつも付け加えられた絵文字も彼女の甲斐性も見る光は無かった。
煮え切らない答えは、テストのように放っておいても誰かが教えてくれるわけはなく夏休みが終わるまで、ずっと喉に何かが詰まったままの心地で僕は無為に時間を過ごした。何度もメールを送ったが、彼女からの返信が送られてくることはそれきりもう、無かった。
そうして募れば募る程辛い思いを、消すこともしなかった。
それは彼女もずっと、ずっと前から変わらなかったんだと思う。
募り募った思いの丈を、何処にどうすればいいのかも分からないので気の赴くままに外に出た。この散歩に最たる意味はない、ただ部屋に籠っていると身に背負った何かが腐敗していくような気持になって思い立った時には重たいドアを開けていた。
暑い、影法師はこんなに近くにあるのに炎天下に晒されているせいでぼやけて見える。終夏のはじめとはいえまだ衰えなぞ見せないくらいに、燦燦と太陽は照り付けていた。
滲んだ汗が目に入った。あれから数日経っているというのにまるでついさっきのことのように彼女の姿が、瞼の裏に滲む。時間は相対的だ。こうして、晴れた日の中で練り歩くのももう二、三時間くらいはしているものと思ったのに時計をにらむと短針は、その半分も動いてはいない。
大きな息が、脳裏にはびこるほんの少しの鬱積を吐き出した。こんな気持ちをずっと消さないでいるのは初めてのことで、見るのも億劫な周りに漂うシャボン玉もこのまま一生消えないんじゃないかと思えてくる。不安がたまると独りでに腕が動いてくれる癖は、まだほんの少しだけ残っていてピクリと神経をくすぐっている。そんな四肢の一つを寂しく眺めていると、急に腕が暗幕に染まった。
太陽が陰ったのか、確かめようとして顔を上げると何時かの白い建物が目の前にそびえたっている。そこの自動ドアは開くと夏の日も知らない風が心地よく頬を撫で、僕の周りのシャボンをどこか遠くに飛ばしていく。歩く方角も距離も時間さえ何も決めていなかった僕のほんの少しの抵抗は、思わぬところに帰着した。
図書館に入ると、真っ先に深呼吸をする。息を吐き終えたところで瞼を下げた。晴れの日でも、雨の匂いは変わらずに図書館を漂っている。でも何時もの通り、心地いいとは思ったけれど何かが足りない気がした。雨の匂い、とはいってもいろいろあって図書館の匂いはあの教室のような匂いじゃない。もの静かで、それでいて一定な雨そのものの持っている概念を表したような匂いがする。
匂いへの言葉探しに夢中になっていると足は、知らずの内に答えを求めて二階を目指していた。二階にたどり着くと粒子はより一層濃くなる。匂いの正体は、何千何万と羅列された本だった。一つだけじゃこんな香りにはならない。募り募った幾つもの本が一所に集まって初めてこんな馨になる。もし、物語の色々が混ざり合ったものが雨になるならそれはなんて素敵な事だろうか。
なにか無い物か本棚をちらほら物色する。その何かに明確な答えなんてなくただあてもなく手さぐりに色々な本を取っては戻すを繰り返した。
この本は、読んだことがある。それでいてあの本は、読んだことは無いけれどどこかで見た気がする。その割に、内容は頭の中につらつらと入ってきて変だ。それでこの本は、主人公が猫の話。奇怪で、最後の最後まで名前の決まることなく生を終える、そんな哀しくて剽軽な猫のお話。カタルシスは感じなかった、別段悲劇でもないし。それに、最初から展開を知っていて物語を読むっていうのもどうにも酷な話で、どちらかと言えば何時かに初めて読んだ誰かの記憶が妬ましかった。
ねぇ、どこかの誰かさん。この本に素敵な感想を持った君は今、元気でやっているのだろうか。この答えは胸の内が一番心得ているけれど、こんな言葉で君の悲しみの容器に少しでも穴が開いてくれるのを願った。
そういえば、この本で思い出したことがある。あの時に芽生えた檸檬とケーキの丁度間の味がする気持ちにはまだ、名前を付けていなかった。彼女なら知っているだろうからどんな名前なのか聞いてみて、教えてもらわないと。それは何時でもいいけどせめて死ぬ前には、聞いておきたい。
それに雨が好きで晴れが嫌いな理由も、どうしてそんなに笑うのか、表情が豊かなのか、そんなに綺麗な虹色のシャボン玉を出すのかも知りたい。
気づけば周りは、彼女に感化されたシャボン玉で一杯になっている。
その僕から出た筈のシャボン玉は、僕の知らないことを教えてくれた。
僕は彼女のことをもっと知りたいと思っている。あの時君の泣いた理由も、何がそうさせているのかも、分かりたいし分かってあげたい。其れで僕が悪いのであれば、しっかりと謝りたい。
でも、その欲求は今の僕には我儘で手に余る願いなのも知っている。彼女に足るような人間にならなければ手が届かないのも心得ている。そうやって手が伸びない言い訳を探しているうちは、僕は彼女にふさわしくない。
こんな相反する感情を持ち合わせているのは初めてのことだ。自分はずっと不実で他者に何も抱かない薄情な人間だと思っていた。でも今こうして、一生続くと思っていた鬱屈とは別の憂鬱が体を支配しているのをみるとその限りではないみたいだ。それに、彼女はもう他人じゃない。
蕪雑な心境を気にもせずシャボン玉は、本棚を越えて緩やかな曲線を描いて何処かに飛んで行く。それを目で追うのはもったいない気がして、猫を本棚に戻して追いかけた。
気泡は、目的地を定めたように迷うことなく一所に向かっていく。歩いていくうちに、大悟した。それは分かる。あれは僕のシャボンなのだから。
目的地は彼女と初めて待ち合わせをして、一緒に勉強をしたあの場所。あれから、もしかしたらを考えて何度も訪れた場所でもある。僕自身嘘はつけてもシャボンにはつけないみたいであの場所を快く思っているのがバレバレだ。この時ばかりは、誰にも見えなくて本当に良かった。
シャボン玉が最後の本棚を飛び越えると、一瞬視界から消えた。早歩きをしていたので少し呼吸を整えてから歩き出すのに、都合が良くて立ち止る。やっぱり晴れの日でもこの場所は人気が少ない。辺りを見回してみても、人っ子は一人も見えなかった。
ふぅ、と息を吐き出してから歩き出す。足を運ぶのは大抵雨か曇りの日で、晴れた日にここに来るのは初めてのことになる。それにしても、晴れた日も、ここはこんなに暗いものなのか。屋上まで届きそうなくらいに縦長を集めた合わせ鏡のようなガラスは、きっとここまでなら容易に太陽光を透過できるはずなのだけれど。
立てかけていた手を本棚からどかす、さっき僕を見かねて置いて行ったはずのシャボン玉が足元で燻ぶっている。今一度確かめるために手で掬ってみると、それは余りに青々と綺麗に蛍光灯の光を反射していて、これは、僕のものではないことなどすぐに分かった。