でも待つことに、意味はあるのだろうか。雨の日の僕はいつもよりも強気だ。そうやってまた、彼女の背にあやかって、手を差し伸べられるのを待つことを僕は許せるのだろうか。君は、僕を待っていたわけじゃない。最初に僕を見つけてくれたのは君で、理由が何であろうと僕は君の頼り切りな行動に助けられて、じゃあ僕は今、何を待っているんだ。
 その選択は、僕が好きで選んだものではない。
 許せない。もし僕の出したこの答えが、間違いじゃないなら手遅れになるその前に、君に会わなければいけない。僕が、己で行動しなければいけない。
 決心して何時もは見ないふりをしていた受付の、脇の階段を駆け上がる。ホントはもっと早くにこうすべきだったんだ。
 今日は、雨が降っている。本来なら絶対にありえないけど、でも、僕の今まで見てきた君ならもしかしたらそこにいる気がして。根拠はない、でも何処からともなく湧いてくる確信が、原動力に変わっていく。
 階段をあっという間に上り終えると、真っ白の大きな扉が立ちはだかっていた。
 固唾をのんでから、両手で戸を開ける。
 扉を開けて、まず目に飛び込んできたのは、恵みの雨とゴロゴロと喉をうならせる雲、それから、タイル全体を洗濯したんじゃないかというくらいの藍色の泡に、最後に目に映ったのは奥の奥の方で手すりに、いままさに手をかける白衣の少女だった。
「待って!」
 その行為に、しきりに鳴り響く危険信号がまず腕を伸ばす。でも、彼女に詰め寄るより前に泡がかったタイルのせいで勢いよくこけてしまった。
「初めて会った時。」
 口の中は、鉄の味がして、それでも切った唇を指で拭き、立ち上がる。思いのほか、打ち所の悪かった足が震えている。それでも、一歩、また一歩と着実に彼女に近づく。
「初めて会った時、貴方がこんなに感情を表に出せるなんて思いませんでした。」
 雨雲を見上げ、こちらを見向きもせず、ずぶ濡れの彼女は淡々と続ける。
「安心してください。死にはしません。ただ、どれだけ私がこの景色を見て、死にたいと思ったのか。数えているだけです。」 
 その言葉が何を示唆しているのかは、いずれ分かる。
「盲腸の手術、いつ終わるの。」
「ははっ、ホントは気づいているんでしょう。そんな軽度な病気で、三週間もお暇はいただけないって。」
「…。初めて、君と図書館に来た時、可笑しいなと思った。まだこっちに来て間もない君が、こんなにも図書館に詳しいわけがないって。」
「流石ですね。なら、もう全部お見通しですか?」
「いや、まだ確信には至ってないんだ。だから、今日は君と答え合わせをしに来た。」
「そんなものに、私が付き合うとでも?訣別の言葉は、もう送ったはずですが。」
「お願い。これで、最後でいいから。もし違ったら、僕はもう金輪際君とは喋らないよ。」
「そこまでいうなら、最後にお付き合いします。」
 一瞬、彼女の仮面が崩れる。
「その前に、昔話をさせて。初めて会った時のこと、覚えてるかな。ほら、君が僕に笑いかけてくれたのに、僕は笑いもせずに君をねめつけてさ。」
「あぁ、ありましたね。そんなこと、あの時の貴方といったら、目だけで誰でも殺せそうでした。」
「それなのに、君は僕なんかを気にかけてくれて授業中適当な話をしたり一緒に勉強したり、其れに旅行まで。君と見た、薄明光線に晒された曇り空の海は、とっても綺麗だった。」
「ええ、確かに見ました。あの光景は、きっとずっと忘れないでしょう。」
「それに、文化祭。昼休みに、こそっとぬけだして君と食べたお好み焼きは美味しかった。大変だったけれど、いい思い出だよ。」
「そう、ですね。」
 だからさ。
「だから、そんな順風満帆な僕らの関係を急に君が壊したのがどうしてか。僕にはわからなかった。」
「なら、もう、」
「でも、今、やっと分かったよ。あやめさん。」
「君は。」
「君は、健忘なんだろう。何時かの記憶がなくなってしまう。心を亡くすって、つまりそういうことなんだろ。」
 彼女の吐く虹色のシャボン玉が何を意味するのか。怒り、悲しみ、喜び、憎しみ、不安、恐怖、親しみ、其れだけじゃない。もっともっとが、その一つに詰まっている意味をずっと考えていた。それだけの感情が一つに集約されていたらそれはもう、気持ちじゃない。僕の知っている人は、一つでいられるほど謙虚じゃないけど全部を持っていられるほど、繊細で傲慢でもない。
 だから、きっと。
 それは、記憶だ。楽しいだとか、悲しいだとか、苦しいだとか、そんな全部をひっくるめて一つに押し込めてやっとこさ形の出来たシャボン玉は、虹色になる。僕が美しいと思っていたあれもこれも、全ては彼女の雁字搦めの苦しみから生まれた。
 少し、考えれば分かる。今何種類ものシャボン玉を出している皆を思えば、彼女のシャボンの色は些か少なすぎた。それは、彼女の感受性が豊かなのは言うまでもないが、其れにしたって少なすぎるのだ。まるで、洗脳のように楽しい時は楽しいままに嬉しい時は嬉しいままにそれを恒常的にできる人間はきっと自然には生まれない。
 それに、僕の頭を抑える癖。
 彼女ならきっと誰よりも、こんな些細な事にも気を使ってくれるだろう。それにきっと、忘れてくれるはずもない。だからずっと不思議だった。
 あの時初めて言ってくれたあの言葉は、嘘ではない筈なのに、と。
 分かりえたはずなのに、自然と僕はその答えを考えないようにしていた。
「やっぱり。鎌をかけていたんですね。」
 彼女は、悟られないよう必死で口をつぐむけれど、もう触れられそうな距離にいる僕には息が漏れているのが伝わってくる。まだ、彼女はこちらを向かない。
「ねぇ、もう覚えてないかもしれないけど、何時か君は言ってたんだ。ホントに辛くなった時は、吐き出してもいいって。残りの一点は、そのことだって。でも、その言葉にあやかって僕だけ君を頼ってたんじゃ、バツが悪いじゃないか。だからさ、一度だけでもいい。全部じゃなくてもいい。僕に、吐き出してよ。君の、恨みつらみを僕に話してほしい。君の役にたちたいんだ。」
 彼女の、肩に手をかける。いつも笑って、苦労なんて何もなさそうで、快活な筈の少女の肩はやけに軽い。そして、振り返った時の、その顔は今まで隠してきた苦悶や哀切、悲哀、その全てが溢れ出て決壊した表情だった。こんな彼女は、見たことがない。僕は、こうなるまで、ずっと彼女をほったらかしにしていたんだ。その仮面は無遠慮に、僕が壊した。
「吐き出しだっで、むだなんでず。だっで、だって私はそのうちすべてを忘れてしまう。貴方との大切な思い出も、深く深く掘り下げるその度に、ああ何時か忘れてしまうと、亡くなってしまうのが恐ろしくて。でも、貴方といる時間は、私にとって一番で、でも、それじゃいつの日か貴方まで悲しむことになって。」
「…。」
「正解です、八色さん。私、太陽のことが心底嫌いです。でも同じ様に太陽にも嫌われているんです。一日の内に一度でも太陽が顔を出すともうダメで、その日一日の記憶は、一度寝ると、起きたらもう全部亡くなってしまう。馬鹿な話でしょう。私も、初めて亡くなった時、夢の中のようで笑っちゃいました。他人事なら私だって笑っちゃいます。だから、晴れの日になるといつもメモを取っているのは、そういうわけです。貴方の横で笑っていた私は、半分以上が偽物の記憶で出来ていたわけです。もしかしたら、前世はイカロスぐらいに愚かな人間だったのかもしれないですね。」
 人の悩みを聞く。
 初めてのことに、何が正解なのかは分からなくなっていく。だから、思ったありのままを伝えようと思う。
「…。でも、さ。そんな、偽物の君があっても、僕は好きだ。これも君の言葉で多分覚えてないと思うけど、僕がまだ、僕らしくはいれなかったころに、でも其れも貴方だって、言ってくれた。些細なことかもしれないけど凄く、すごく嬉しかった。そうやって、偽物の僕を否定しないでいてくれたのは。だから、だから君さえよければ僕は!」
 彼女が、彼女らしくあろうとする限り、僕はそんな女の子を否定したくはない。どれだけ嘘にまみれようと、本当の彼女が少しでもあるなら僕は、そんな彼女も認めたい。好きでいたい。
「聞きたくっない、です…。」
 それ以上、僕の言葉が 世界に出てくることは無かった。
「知ってます。誰が一番、近くで貴方を見ていたと思っているんですか。だから、貴方がそういうだろうって事も知っていて、だから私は、だから、わだしは、貴方を遠ざけたんです。」
 また、彼女の真っ白な頬を赤く染める涙が伝う。
 雨に降られていても、分かる。だって彼女の涙はもう本来シャボンが持つべき色を持ち始めて、流れ落ちた涙が、タイルに泡を作り出していく。
「ど…う、し、て…。」
「私は、もう死にます。」
「え…。」
 声帯に蓋がかかる。
「私…。わたし、もうすぐ全部忘れちゃうんです。いつか、言いませんでしたっけ。前いた学校のことを聞かれたときに、もう覚えていないって。あれは、嘘じゃありません。本当です。太陽の一番、世に照り付ける時間の少ない日になると、今までの、私は、みんな死にます。」
 うそ…だ。
「貴方の好きだった私も、私の好きだった貴方も、私の中から全部消えちゃうんです。だから、だから、言いたくなかったのに、だから、遠ざけたのに、でも、でも、それでも向かってくるそんなどうしようもない貴方も、どうしようもないくらいに好きで、もう、もう、わだじは、わたしは、どうしたら、いいのかもわかりません。」
 やっと見えた本当の彼女に、あれだけ望んでいた光景に、ザーザーと打ち付けられるもう一人も、どうすればいいのか分からなかった。
 雨は、ザーザーと降り続けている。時間は、止まってなどいないことを教えてくれている。屋上は雨音に耳を澄ませるくらい、静かだった。
 おもむろに、白衣から、いつも彼女の持っている鍵付きのノートを取り出した。
「わたし、には、もう、ひつよう、ないものなので、こののーとはさしあげます。」
 悩みを聞いていたのは僕の方で、でもそんな自覚はあっても何もできずただ立ち尽くす僕を、彼女は突き放すように言った。
 ボロボロの視界で、彼女を見る。
 彼女の黒すぎる嘘かも知れないと、虚しい希望を掲げたりもしたが、彼女の今流している藍色の涙も、哀愁漂うシャボン玉も、無慈悲にその発言が明朗であることを説明している。 
 嘘じゃ、ない。
 あぁ、なるほど、とどこかで変に納得してしまう。希望が一筋でもあるのなら、彼女はきっとその希望を掴もうと努力するだろう。でも、そんな一欠けらもなくなったなら彼女は、君ならどうするのか。僕を突き放すだろう、誰よりも優しい彼女のことだ。自分だけ悪者になって、僕の前から居なくなろうとする。
 ああ、そうだ、説明がつく。
 張り詰めた比べようもない苦労の中で、それでも笑い続ける彼女が笑えなくなったのは、時折見せた悲しそうな笑顔は、全てはこの結末があったからだ。
 納得してしまった理性の中、認めたくない僕が、まだ抵抗を続けている。でもルサンチマンはどうせ消える。
 前を向き続けた少女が突然僕を突き放したのも、仲を深める度に、僕の声を聴くたびに、背を這う不幸が膨らんでいったのも。
 全ての解が一つにつながっていく中で、僕はまだあらがっていた。
 だって、そんなの認めてしまったら、呑み込んでしまったら、余りにも悲しすぎる。
 二人の思い出は、其のうち気づかないうちに一人だけのものになっていて、あのこともこのことも、今日の日でさえも彼女の中には何も残らないだなんて、考えたくはない。
 彼女が、僕の知っている彼女ではなくなって、彼女の中の僕が彼女の知っている僕ではなくなるなんて、認めたくなどない。何処に君がいるのか、分からなくなる。
 嗚咽が漏れる。
 けれど、その嗚咽がそれ以上言葉になることなど、無かった。
 そんな僕を、彼女は見かねて、手に持ったノートで胸のあたりを小突いた。音も雨にかき消されたまま、ノートはタイルに落ちる。そして、ポケットから取り出した鍵も、無理やり地面に投げ捨てた。
 お互い、全力疾走した後をずっと味わっているような、落ち着かない呼吸。しかし、彼女だけがその中の吐息を無理やり飲み込むと、息を止めて何時ものように畏まった。
 そして、笑った。
「もう、会うことも、思い出すこともないでしょう。」
 シャボン玉は、もう彼女をとらえきれないくらいに彼女の周りに広がっていく。そうして、彼女の涙が、僕の肌を撫ぜた。
「さ、よ、うな、ら。」
 誰が見ても、分かるくらいの作り笑い。痙攣する頬を無理やりはにかませて、あふれる涙に瞼で蓋をして作った笑顔。
 これで、二度目だ。彼女に、無理をさせるのは。
 直ぐに崩れるだろう其の笑顔を隠すために、直ぐに彼女は背を向けた。
 笑うなよ。そんなに悲しい顔で、別れを告げないでくれよ。もう一度振り返って、屈託のない笑顔で嘘でした、なんて種明かししてくれ。彼女の涙に感化されて、あふれる情動が頭を爆発させそうになる。熱はない筈なのに、あの時よりも体は熱を帯びている。
 咄嗟に頭を抑えたくなるけど、頭を抑えるために腕が動くことは無い。これも、彼女がくれた、僕の癖だ。だから、
いやだ。
 口にできた言葉は、子供が駄々をこねるようにか細い、小さな小さな言葉だった。
 嫌だ、いやだよ。
 いや、だ。
 びしょ濡れの遠のいていく背中にかけられる言葉は、彼女への労いでもいたわりでも、ただ僕の、我儘な言葉。彼女は一瞬立ち止ってから、足を速めた。当たり前だった。
 こんなときになって彼女に、何も言えなくなってしまう僕という生き物は、本当に醜くて汚らわしい。だって、彼女のその言葉を聞く前、自分に嘘をつかない潔白の僕は無敵だと思っていた。彼女のどんな悩みでも、寄り添ってあげる事が出来ると、本気でそう思っていた。
 でも、ふたを開ければ僕はただの等身大の張りぼてで、彼女の欲しい言葉の一つを言うための嘘すらつけないでいる。嘘を重ねたとしても、汚い自分に戻ったとしても僕は彼女に、おあつらえ向きの言葉を無感情に、大丈夫だ、の一言でも言えた方がましだったと本気でそう思った。
 彼女にまとわりつくシャボン玉は、彼女の背が見えなくなるのに伴って消えて、最後には藍色のシャボン玉だけが、僕の目の前に残って雨粒を吸い続けている。
 其の無垢な色が、今は憎らしい。
 彼女の今まで失った記憶のせいで、より一層純度を増していた、純粋になっていたシャボン玉の色を綺麗だと無垢に思っていた僕が恨めしい。
 たかだか人の感情が、理解できるだけで僕は彼女を分かった気になっていたけれど、本当の彼女のことは、何にも分かっていなかった。彼女の背に這う苦しみさえも、見誤って、相談してくれなんて、頼ってくれなんて、それでいざ頼られて何もできなくなるなんて、僕は彼女のことを、何もわかってあげられなかった。
 目の前のびしょびしょになっていく鍵付きのノートに、虹色のシャボン玉が吸着した。
 雨の日なのに。もう、彼女の記憶は失われている、ということだろうか。
 どうして、彼女のシャボン玉は、沢山あって、綺麗なのか。ずっと持ち続けていた一つの疑問は、今日、至極単純な答えをもって見事に解決した。
 でも、代わりに明らかになったたった一つの事実に、僕は今立ち上がれないでいる。
 知らないほうが、幸せだったんだ。僕も彼女も。
 今更嘆いても、もう何も変わらない。
 もう、いいんじゃないか。今は、彼女の毒すらも洗い流されてしまったみたいだった。
 頭を抑えた。こんな悲しい事実を消し去るために。それは、紛れもなく僕のため。彼女のためじゃない。
 雫が、頬を濡らす。時間は、進んでいく。
 雨だというのに、とめどなく溢れ出てくるシャボン玉を、潰して、潰して潰した。
 どれだけ潰したところで両手は、収まることなく震えていた。けれど、かまわず潰し続けた。
 本当は、とっくに気づいていた。此の呪いが、人の気持なんかに比べればどれだけ弱弱しいか。文化祭の時に会った女の子の言葉が脳裏をよぎる。
 ああぁ、そうだ。自分は自分に嘘をつくことなんて出来ない。ついたとしても、それはついた気になっているだけで、どこかで何かが膨らんでいく。それが、何となくわかっていたから、彼女との何気ない仕草や会話に僕は嘘をつくのをやめたんだ。
 僕が、可哀そうだから。
 それに、爆発寸前の物に蓋をしたところで、防げる訳など無い事も識っている。
 だから、これは罰だ。
 彼女と出会うまで、ずっと嘘をつき続けてきた自分への遅すぎるくらいの報いが今になって襲い掛かってくる。
 感情が、爆発した。
 この報いを報いと感じられる僕は、まだいくらか幸せなのかもしれない。
 彼女の呪いに寄り添ってあげられなかった罪、自分自身に虚言を吐き続けてきた罪、そして今まさに縋りつこうとしている罪、そして今どうしたらいいのか、何が正解なのか分からなくなった哀しみが合わせて雲を作り、頭を抑えたままの僕に、加えて土砂降りの雨を浴びせた。
 抗う事なんて、出来なかった。雲から作られた無限の水分は、僕をずっと哀哭の渦に閉じ込めるには十分すぎるほどだった。
  
 
「ただ、いま。」
 服が、何時もの何倍も重くなって、足も重くなって、もう、何をどうしたらいいのかわからなくって、取りあえず家に帰ろうと、おもった。
「おかえりって、アンタどうしたのそれ!」
 母さんの言葉のそれが、どれかもわからなくなって、返事は何も出来なかった。
「取りあえず、お風呂入ってきなさい。」
 流されて、そのまま衣服を脱いで、湯船につかった。浴槽のお湯は、暖かいのかも冷たいのかもわからなかった。何か考えないといけないかなと、頭を回しても、どこかでつっかえたみたいで、同じ場所をぐるぐるぐるぐると回っていた。 
 悲しいのかも、辛いのかも、分からなくなって、時折笑ってみたりした。都合のいいことに、涙をどれだけ流しても、湯船に頭をうずめれば全部なかったことになる。だから、何度も何度も何度も何度も、頭を水中に引っ込んだ。ブクブクブクブク。口は閉じているのに、泡が水面に上がっていく音が聞こえる。頭は、ぱっかり開いてしまったままみたいだ。
 このまま死んだら、彼女の気持ちが少しは分かるのかな、なんて考えてもみたけど、やめておいた。
 着替えていると、母さんが入ってきて、泣くのは悪い事じゃないからね、なんて言われてそんなたったの一言に目の前が青色になって、もうしばらくずっと泣いていた。
 落ち着くと、机の上に彼女のノートが乗っていた。
 その表紙には可愛らしい字で、彼女の本名が書かれていて、雨のせいで少し印字がぼやけてしまっている。
 出来れば、百年後、死ぬ直前ぐらいにこのノートを開きたかった。気持ちも色あせて、彼女が分からなくなったころくらいに読む方がフェアなんじゃないかと。でも、気づけば紛れもない僕の腕が、そのノートにカギを差し込んでいた。本音と建前が、彼女への気持ちが、僕がぐちゃぐちゃになったまま、ノートの一ページ目を開くと、そこからは時が止まったみたいになった。

1ページ目 (ほかのページと比べて、色あせている。)

 おはようございます!私。
 昨日は、晴れでしたか、雨でしたか?
 雨だったなら、ラッキーですね!一年の約三分の一の幸運を手に入れたわけです。
 このノートを見る必要はありません。
 必要がないだけなので、見ても問題はないです。忘れていない思い出や、忘れてしまった思い出。見返したくなったらいつでも、ご覧ください。

 晴れの日だったとしても問題はありません。このノートを見た後には、きちんともう一方の方のノートを見るのも忘れないでください。
 今日も一日頑張りましょう。

 そして、もしも、もしも何も覚えていないのであればここから後ろのページは破いて捨ててしまってください。理由は、言わなくても分かりますね。大丈夫です、これが初めてのことではありませんから。

以下、2ページ以降

6月14日 今日は、高校生活二年目の一日目でした。どうでしょう初日、私にしてはよく頑張った方なんじゃないかと思います。詳しくは、もう片方のノートを見ていただければ幸いです。驚かないでくださいね。
この一年も、どうせ忘れてしまうとそう悲観せずに行きたいですね。ほら、父さまの話ではこの地域の病院のお医者様たちは凄い技術をお持ちのようですし、もしかしたらってこともあるかもしれませんし。
 それはそうと、隣の席の須藤とおっしゃる方は、趣味も好きなものもなく、しいて言うなら、雨が好きだと言っていました。私と同じです。変わっていますよね!好きなものもさることながら、なかなか変わった気質の方らしく、なんだか生きづらそうな感じがします。笑い方も言葉も、変な感じがします。怖いです。(同族嫌悪ですかね…。)
 まぁ、でも、折角お隣になったことですし仲良くできればうれしいです。

6月15日 彼のこと、全然つかめません。クールな感じの方なのかなと思いきや、自信マンマンにとってもくだらない冗談を突然おっしゃるのです。私、笑いをこらえるのに必死でした。
 それに、学校を案内してくださる約束もすっかり忘れていて、ちょっと抜けた所もある方なのかもしれません。雨の日だったので書く必要はないのですが、余りに面白いことだったので、ついつい書いてしまいました。

6月16日 彼は、どうやら晴れの日が嫌いなようです。ここまで好きなものと嫌いなものが酷似していると、彼にも何かあるのではないかと思えてきます。私と同じではないにしても、私と似た何かがあるのかもしれません。

7月1日 テスト範囲が配られました。初めてのテストなので少し緊張します。本当は今日から勉強したい気持ちは山々なのですが、こればっかりは仕方ありませんね。今日、須藤さんがとても難しい顔をしていました。一体彼は、幾つ顔があるんでしょうか。

7月4日 やっと、やっと雨が降ってくれました。勉強できます!勉強の日まで、天気に左右されるというのは野暮ったいですね。そういえば、今日二つほど勇気を出してみました。一つ目は全く理解できない数学の問題を須藤さんに聞いてみました。すると物凄くわかりやすくて、思わず興奮してしまいました。褒め倒したら彼は照れて、とってもぎこちない顔をしていました。それに、そんな顔を見ていたらなんだか彼のことをもっと知りたくなってしまって、一緒に勉強しませんか、なんて言ってしまいました。きっとただの、何でもないことだと思います。
 これが二つ目です。
 正直、okをいただけるとは思っていなかったのでとても、とっても嬉しかったです。彼は、押しに弱いところがあるのかもしれません。ともかく約束の日、忘れないように!

7月6日 やっぱり、須藤さんは教え方がとってもうまくてテスト範囲の問題が全部、すっと頭の中に入っていきました。凄いです。
 彼は、先生のおっしゃる通りお世辞にも余り国語が得意ではないらしいです。それでも、頑張って食いついてくるのを見て、可愛らしくってつい、少しだけからかってしまいました。その言葉で、火がついたのかは分かりませんがそれから急に問題を解けるようになってきて、それでついつい勝負をすることになりました。
 楽しみです。

7月12日 やりました!数学で、こんなに高い点数を取れるなんて、思ってもみませんでした。須藤さんは、まぁ、及第点って感じでした。さて、罰ゲームは何にしましょうか。どうせなら、もっと彼のことを知れるものがいいですね。悩みどころです。

7月29日 福引で、一等が当たりました!淡路島へのペアチケットです。ずっとずっと昔に行ったっきりで、もうあまり覚えていませんがとにかく嬉しいです。
 当様と母様に行ってもらおうかとも思いましたが、生憎仕事で忙しいらしいので却下です。となると、残った一枚の使い道ですが…。
 須藤さん、そういえばしっかり私の罰ゲーム、続けているでしょうか。心配です。
 ダメもとで誘ってみましょうか。

 二つ返事ではありませんが、okをいただきました。二つの意味で楽しみです。

なんだか私、彼のことばかりノートに書いている気がします。恥ずかしい…。

8月14日 明日は、生憎?の雨です。とっても楽しみです! しっかり身支度を整えなければ。

8月15日 なにも、なんにも、おもいだせません。初めてではありませんが、とっても辛くて苦しいです。バスの中の彼の満足げな顔の少しでも分けてくれたなら、私は幸せなのに。どうして、どうして、私だけ、こんなに辛い思いをしなければいけないのですか。
どうして、私だけこんなに太陽に嫌われているのでしょうか。

8月17日 悪いことは、続くものだとはよく言ったものですね。お医者様に云われました。私の病気はとても複雑なものらしく、一度記憶がすべてなくなった後の状態も見なければ、手術を決行するのは難しいそうです。
 だから、まぁ、そうですね。今年の記憶はどうにもならないわけです。
 ほんとうは、書きたくなかったんですが、きちんと向き合わなければいけないことですので。

こんな顔、誰にも見られなくてよかったです。でも、私があの席にいたのは、もしかしたら誰かに見てもらいたかったのかもしれません。

9月1日 須藤さんに、謝られました。悪いのは私なのに…。それに、なんだか彼はもう頭が痛くなさそうでした。今は彼の変化を、素直に喜べないです。

9月7日 今度は彼の方から、勉強しないかと誘われました。天気予報を見ると、ずっと晴れでした。ぼろを出してしまいそうなので、適当に断りました。その選択をしなければいけないのが、たまらなく辛いです。

10月14日 文化祭が近づいているそうです。私たちのクラスが行うのはお化け屋敷。江崎さんや、○○さん、その他ちらほらとホラーが好きな方が多いので、凄い出来になるんじゃないかとワクワクしています。裁縫は苦手ですし、人を驚かすのも出来そうにないので私は番台さんをすることになりました。そうしたら、須藤さんも立候補して、更には先生の考えていることも的中させて。よっぽど、番台さんをやりたかったんでしょうか、それとも。
 彼が日々、虹みたいに一人で十人十色を演じて、感情が豊かになっていっているのは、言うまでもないことですが、夏が明けてからそれをより顕著に感じます。しらない彼をたくさん知れるのは、とっても嬉しいことなのですが、同時にとっても辛い。元気な私でいるのも、同じくらいに。
 冬至は、刻一刻と迫っています。もう、余り彼のことを書かないようにします。

10月27日 お化け屋敷、凄い出来です!特に衣装なんかはもう、素晴らしくって更に私のものまで江崎さんがこさえてくれました。詳しい特徴は、又、ノートに。
 本当に、明日から楽しみです。楽しみな気持ちを、忘れないように。

10月28日 あまりノートには書かないようにしようと、そう思っていたのですが、今日のことは彼なしには語れないので。
 今日、彼に告白されました。君といる時間が楽しい、と、舞い上がるような気持でした。そして、又何度目かのかっこつけを挟んでから、私が手を引いた時に、もう一人で歩けるとも、彼は言いました。実践していましたし。そこには、今までの少し抜けていた彼はいなくなって、自分の思っていることを表に出す、本当に彼らしくなったなと、嬉しい思いでいっぱいになりました。あんなに頼りなかった彼の背中は、酷く大きく見えていました。頼りなくても、…。
 でも、彼が素敵になればなるほどどうしても彼の隣にいるのがつらくなります。別れを考えてしまうのが、私の中から彼がいなくなってしまうのが、本当に、怖くなって。
 それに、彼の目。私は、こんなにもたくさんの嘘でまみれた人間で、綺麗なことなんて一つもないのに、まるで私が立派な人間かのように見られるのです。もしかしたら、私の中にもういない私なら、この答えを知っているんでしょうか。彼に敬われるようなことをしたのでしょうか。分かりません、なにも、分からない。

10月29日 私はもう、あの学校には行きません。
 今日、彼を突き放してきました。酷くて思ってもいない、心無い言葉で。
 私は、私は最低な人間なんだと思います。でも、それでいい。
 彼の前で、尊敬される自分を演じることもないし、常に前を向いていよう、と強がることもしなくていい。これから無くす記憶達に悲しむことも、ない。もっと早く、こうするべきだったなのかもしれません。そう思う時点で、もう遅いですね。
 心残りは沢山ありますが、時間が解決してくれるでしょう。ただ、一つ。何時かの私が残した言葉で彼が感づかないかどうかが、不安でたまりません。
 願わくは、私を悪者のままにしてほしい。


 は、ははは。笑った。笑えば、此処に書いてある何時もの彼女とおそろいだと思って。
 嘘だ。
 涙を流すだけじゃ、物足りなくなって、おあつらえ向きの言葉も思いつかなくなって、ただ口を開いたら、この音が出ただけ。笑顔の裏も、気負わせていたことも、全部分かったうえで、その事実が少し、口から漏れただけ。でも、おかしい。それでも、段々とそして全然満足できなくなっていく。口元を抑える。枯れたと思っていた喉も、涙も、まだまだ底は見えなかった。
 最後のページをめくると、四つ折りになったルーズリーフが一枚、ふわりと机の上に着地した。それは彼女からの手紙だった。

  須藤さんへ。
 手紙を誰かに書く。というのは、初めてのことで、これでいいのかどうかわかりませんが、頑張って書こうと思います。
 お元気ですか。私は、多分元気です。貴方がこの手紙を拝見される頃、私はもう転校してしまっているのかな、という感じです。ずっとずっと、遠くに行ってしまいましたが、貴方の顔を時たま思い浮かべながら、何とかやれています。
 もう、昔のことのように感じますが貴方との日々は、本当に楽しかった。
 初めは、変な人だなと思っていました。生きるのが辛そうで、何かずっと納得できないような何かを胸の内にしまい込んでいるような、気難しい人だな、と。
 でも、面白いことに貴方を知れば知る程、変な人だな、と思いました。
 日を重ねるごとに殻が一枚一枚剥がれて、色々な貴方が顔を出して、どんどん本当のあなたが出てくるような。(どれも、貴方なのですが。)
 だから、ついついどの貴方がどんな反応をするんだろうって、ちょっかいをかけてみたり、らしくもないことを言ってみたり、強がってみたり、でもこれも、貴方からしてみれば全部私ですね。 
 兎にも角にも、貴方は自分に厳しい人なんだな、とおもいます。常に正しくあろうとしていて、誰にでも誇れるよう、たくましく生きようとしている。それが、私には眩しくて堪らなかったり。貴方は、私のおかげだと言うのかもしれませんが、紛れもなく、それは貴方が元々持っていたものだと思います。でも、疲れたらたまには息抜きしてみてもいいかもしれません。その生き方は、少し大変ですから。これは、私の妄想ですが、最初の頃は間違えるのが怖くて一歩を踏み出せなかったのかな、なんて勘ぐってみたり。
 だから、本当はもっともっとあなたと一緒にいて、出来ればずっとずっとあなたを見ていたかったのですが、親の転勤というのは、どうしようもありませんね。とっても、とっても、残念です。
 でも、当たり前のことなんですが人というのは生きている限り、死ぬことはありません。なので、何時かもう私との記憶なんてなくなってしまった頃にふと、あぁあんなこともあったな、なんて思い出してくれたらいいな、なんて思ったり。
 
 お別れの時に云った言葉は全て、嘘です。引っ越さなければいけないことを聞かされて、イライラしていたんです。心無い言葉で、傷つけてしまい申し訳ありませんでした。
 私との思い出は、どうか頭の隅の隅の方に、忘れてしまったって構いませんよ。
 さようなら、貴方が健やかであることを祈っています。

                            燈昌 あやめ 


ああ。気持ちは言葉にできなくなって叫んだ。
最後の最後まで、彼女は僕に気を遣うつもりだったんだ。それで、僕を傷つけないように事実を隠して。ノートを力強く握りしめる。全く、君はどうして、どうして…。
 とめどない鬱屈は小さな文房具に収まりきるはずはなくノートがめくり上がってするりと、ノートの中身は机の上に落ちた。手元にはカバーだけが残った。そして、一枚のルーズリーフが中身とカバーの間から重力に逆らうことなくすっと抜けた。
 裏向けになっていて、何が書いてあるか分からない。
 傷つけないように、そろりと、その紙をめくる。
 そこには、文字が書いてあった。
 度重なる文字の羅列の上に、たった一言、マジックで大きく上書きされて。
       
                私を忘れないで。

 そこには、本当の彼女がいた。
 木漏れ日にあやかることのない腐葉土みたいに、下の下の方、掘り起こしても分かるかどうかのところに、彼女は自分を隠していた。
 ずるい、ずるいよ。ほんとうに…。
 自分は、全部忘れてしまう癖に。それでも、僕に覚えていてくれなんて。そんな生き殺し、僕と彼女とを清算しても、まだ僕の方にお釣りがくる。
 僕の前では、何時も頼れる人で、いつも前を向いていて、信念があって、的確な助言をくれて、からかわれて、そのどれが彼女かはわからないけれど、これだけは、この彼女の切れ端だけは絶対に本物だ。
 涙は最後の一滴を机に落とすと、とうとう枯れた。独りよがりの鬱屈も、言い訳探しもやめた。
 やっぱり…。やっぱり、僕は君には敵わない。
 ノートを拾い上げて、元の形に戻す。そこには、ちゃんと嘘つきも泣き虫も織り交ぜて。
 こうまでされないと何もできない僕は、まだまだ修行が足りないと思う。
 でも、一つだけ分かった。
 きっと何かを為すのに、たいそれた理由なんていらない。彼女が救ってくれたからとか、助けたいからとか、そんな大義名分なんて余計だ。だから、僕が綺麗だろうが穢かろうが、前向きだろうが後ろ向きだろうが、それに過去も未来も、関係ない。

             僕は彼女のそばにいたい。

 やっと、ぼくの気持ちが一言にできた時、シャボン玉の一つが頬をかすめた。その淡い球体を見たときに、あれだけ嫌っていたこの呪縛が、初めて祝福のようなものに見えた。まるで、彼女のノートに差し込むたった一つの鍵みたいに、唯一僕と彼女を繋いでくれる、かけがいのないものに。