体温計に目を移してから、大きなため息をついた。
「今日は、休みなさい。」
母の言葉を聞いた途端、浮かんだ文句の一つや二つがこの世に生まれることは無く、ただまんじりとした。
おそよう。
時刻は12時過ぎ、平日の惰眠を物語るには丁度いい頃合いでアラームも、鶏でさえも、この時間には存在しない。
お腹すいたな。
頭と体がまだ重い中、そんな一時的欲求に駆り立てられてトタッ、そしてトタッと一段一段階段を下る。音の出処以外無音の家には今、多分僕しかいない。この広い家に、僕一人きり。なんだか世界には、もうだれ一人存在していないんじゃないかと怖くなってくる。ずっとずっと、幼いころ見たアニメの、ポケットから何でも出せるロボットの道具にたしかそんなのがあったっけ。落ちはよく思い出せないけど。そんなこんなで今この時間が、余りにも空虚すぎるのに嫌気をさしてドンドン体から昔の記憶がのさばっては世界を彩り始める。
僕だけの世界。何処かの誰かさんのおかげでこんな暇をいただけるのはもう、半年ぶりくらいだろうか。こうやって昔々が僕の中から出てきて、今の僕を見に来るのは。元気でやっているか、あの時感じたものは今はどう感じるか。それに、生まれた悲しみは、変わらず背に携えているか。
気づけば過去たちは規格外の等身大になって僕を見下ろしている。
そんな飾らない存在感の質問に、何時もこう答えていた。
変わらないよ。
変わることもないし、変える気もない。だから僕は前には進めないし後ろに下がることもない。背負った悲しみも、苦しみも、何一つ褪せることなく生きていく。だから、安心してと周りを満たす過去にそう言い聞かせていた。それらの言葉に耳も貸さず、自分の中で終わらせていた。きちんと目を合わせれば、またあの時の苦しみがそのままで襲ってくるんじゃないかと過去の自分に目を向けるのが怖かった。結局、逸らさないように目を逸らすことで記憶たちは色褪せなかっただけだった。答えも分からないまま挑むことが怖くて、遠巻きに見て忘れないようにしていただけ。
何かないかな、と冷蔵庫を開ける。
流石に何も起きないだろうと瞬きをすると、そこにあったはずの冷蔵庫はどこにもなくなって、気づけばシャボン玉を口に含んだあの日から変わらなかった半年ぶりの僕が、目の前にいた。
あんなに遠くにあったのに、今は眼前に迫る昔々に息が詰まる。
色白で、簡素な顔立ちをしているその少年とは、きちんと目が合った。
彼は僕に手を伸ばしてくる。取って食われるんじゃないかと目を瞑った。
予想外にもその手は胸に触れる。俗説によると人間で一番精がつく部位は心臓らしいので、なんだか僕らしいなと思った。
だけど、予想に反してちょっぴり温かいその指先に瞼は自然と開いた。
やっと見てくれた。体中傷だらけで、でも何時かの僕よりもうれしそうに笑う君に、やっと僕が見つけられた気がした。こんな風に笑えるんだと、可笑しくなってつられて笑った。
小さいころにシャボン玉を口に含んだ幼子、成長するにつれて何でもないような自分の負っていない傷に苦悶を浮かべる少年、それに今まで瞳がないと思っていた女の子。僕は様々に姿を変えて最後は、また笑顔の僕に戻った。最後の女の子は、もう、少しだけ夢で見る何時もの女の子ではなくなっていた。
笑顔が脳裏に焼き付いた途端に、心音を重ねた目の前の君はどこかに行ってしまった。
もしかして、どこかにいないかと胸を見ると服越しに幾つもの閉じかけの傷がちらほらと浮かんでいる。それは、なんだか何にも代えがたい勲章みたいに見えた。
多分、もう一生消えない傷たちがやけに誇らしく見えたのは、まだ人間を初めて間もないからかもしれない。
「ほら、もう行きますよ。」
そんな傷ものともせず今度は、目の前に彼女が立っている。良かった。今回、心の声は洩れてはいないらしくこんな恥ずかしい言葉、聞かれてしまったらどうしようという心配は杞憂に終わった。飾ることをすっかり忘れた僕に、如何したんですか、というのも含めてその声やしぐさは、どうしようもなくいたいけな少年を醒ますのには十分で、あの時も、今も、此処ではないどこかに向かおうだとか、そんな気にさせてくる。
「大丈夫、もうひとりで行けるよ。」
胸の傷は、膨らんでも、化膿してもいなかった。
ハッと目が覚める。瞼をぬぐうと右頬からは一滴の雫。それと、ガンガンと鳴り響く頭の悲鳴と、それからなかなか動いてくれない腕と足。それで、慌てて胸を撫でてみても、きれいさっぱり傷は一つもなかった。
何とか立ち上がってカーテンを開けば、昨日見たのと同じ夕日が雲を橙色に染め上げている。どうやら、今の今まで御大層に寝てたらしい。もう夢の一端も思い出せなくなっていく中で、でもすっと体の中に落ち込んだ何かは心地がよかった。体はいつもより軽くて、重たい。
スーハーと、深呼吸する。肺がいつもより熱くて思うように空気を取り込む事が出来ない。
怠い。
カーテンを閉じて、もう一度ベッドに入る。正当な理由をもって学校を休める、というのはなかなかあるものではないので今のうちに堪能しておこう。
そういえば、クラスの皆は今頃何をしているだろう。昨日のこの時間は、お化け屋敷をたたんでいて、でも今日で終わりだから、そのことも含めると今頃解散ぐらいだろうか。僕がいなくても、みんなうまくやれているだろうか。そんな烏滸がましい考えに自分のことで一杯一杯だったくせに僕も偉くなったものだなとほくそ笑んだ。ま、昨日あれだけ働いたんだし、今日くらい休んでもちゃんと清算されるだろう。その結果が今日だと言われても、文句は無いが。
きっと皆、上手くやれただろう。Eちゃんにあの後見せてもらったお化け屋敷の内部は、人っ子一人縮み上がらせるのには充分だったし、作ったお化けの衣装たちは、映画なんかで見るモノよりも云十倍も怖かったし。彼女はスプラッターが大好きだと言っていたから鬼に金棒だ。
チクリ。
燈昌さんは、彼女は大丈夫だろうか。僕が休んでも、ちゃんとやれているだろうか。
元気すぎて時たま周りの見えなくなるあの女の子は、視界に入っていないと不安になる。その癖、時たま世界のすべてを嘗め尽くした後で手に入った言葉の一つ一つを月並みに僕に向けてくるのだから何が何でどうなのか、余計不安になってくる。
昨日くらいの、前がギリギリ見えるくらいの衣装が彼女にはお似合いだ。それなら、僕も隣を堂々と歩けるというものだ。
前者の心配は、きっと杞憂だ。だってまだこっちに来て一年もたっていないのにあのド田舎高校二年目の僕よりも、彼女はクラスに馴染めている。言い訳をさせてもらうと、僕も一年目みたいなものだから、比べる対象が些か不憫だけれど。
それを踏まえても、一日目でクラス全員の趣味とかを聞き出してしまう子だ。僕の心配が、付け入る暇はない。
後者の心配は、本音を言えば今日聞きたかった。彼女の、急に見せるその世界が何なのか。人一倍背に負ったその悲しみの正体は、いったい何なのか。それに、どうして雨が好きなのか。
僕は、無傷で綺麗さっぱりで生まれたときみたいにはなれなかったけれど、それでも前を向く事が出来るようになった今なら、彼女もきっと聞いたら話してくれるだろう。それに教えてくれるまで折れてやるつもりもない。だから、今日、聞きたかったんだけれど、まぁ、いいか。また明日にでも聞こう。これだけ待ってくれたんだ。きっとあと少しくらいかかっても気にしないでくれるだろう。
目を瞑る。すると、仄暗いカーテンの隙間から出る光も完全に亡くなって真っ暗になる。心地いい。目を閉じるのが、怖くないっていうのはこんなに胸がすっとするものなのか。
でも、それも一瞬のことで、匂いや音、ベッドや衣服に触れている感覚、視覚以外のすべてが邪魔ものが消えた途端に今度は我が物顔で真っ暗のキャンバスに色を描きたがる。そんな五感を束ねるのは、紛れもなく人間なわけだから、その生き物がわがままなのも仕方ない。
ピンポーン。
家のチャイムが鳴った。頭の下の方、360°の視界を手に入れた僕の後頭部に色を付ける。どうせ宅配便か何かだろう。居留守を使おうと目を瞑ったままにしていると、もう母は帰ってきていたらしく、はーい、とドアを開ける音がした。
その音の後に聞こえてきたのは、自転車のカラカラ回る音と何やら母の騒がしい声、それから階段をスタスタと上がる音。来客は、もういなくなったらしくドアはガチャンと閉じた。母さんは、もっとどしんどしんと駆け上がってくるので、母さんではない。と思う。
兄はしばらく帰ってこないし父はまだ、仕事だろう。じゃあ一体全体今、音を殺して懇切丁寧に階段を上がってくるこの足音は一体誰のものだろう。
コンコンの後にキューと、ドアが開いた。オデコに貼ってあった冷えピタは温くなっていて、大方それを気づかれないように代えに来てくれた母だろうと起き上がると、予想を遥かに上ぶれした目の前の光景に飛び上がった。
「お見舞いに来ました。熱が、あるそうですが大丈夫ですか。」
開いた口もふさがらなかったし、手に取った冷えピタはずり落ちて服に引っ付くしで大変だった。それを見て、お元気そうで何よりですと笑う少女に、いったい誰のせいでこうなってるんだよと言いたくなったけど、熱が上がりそうなのでやめておいた。母も母で、どうして断りの言葉もなく彼女を通したんだろう。何をどう文句をいっても、目の前にその子がいるという事実は変わらない。
其のうち、もう何を考えるのもおっくうになって、どうにでもなれと思った。頬っぺたの紅葉は熱のせいだと言った。
「…それで、何とか二日目を乗り切る事が出来ました。」
「そう。」
感じたのは、安堵とそれから背をスルリと這うくらいの小さな落胆だった。どちらの気持ちも、皆僕がいなくてもうまくやれたところから来るものだ。胸が一息つくのを感じながら、ピリリと背中が痛いのを堪える。
「大丈夫です。皆さん須藤さんがお休みされたことをとても残念がっていましたよ。」
「いや、何が大丈夫なの。」
風邪をひくと、ポーカーフェイスのぽの字も機能してはくれないらしく残念がった気持ちも、其のあと嬉しくて頬が緩んだのも全部彼女に見られていて、バツが悪くなる。昨日みたいにマスクの一つでもあればどれだけ良かっただろう、と渇きをあめいたがあんな物騒なものを家に置いておくのも無粋なので素直に諦めることにした。
ムフフとニヤケては安心してください、とまで言ってのける彼女に、そりゃどうもとせめてもの抵抗に皮肉を込めると、ホントに貴方は素直ですね、とあしらわれてしまった。その一言まで誉め言葉のように感じてしまって、体が自然と明後日の方向に向いた。
こんな犬も味覚がマヒしてしまいそうなくらい甘ったるい会話で、僕から目を逸らさない彼女に、一体どっちが素直だ、なんて言いたくなる。
犬というとさしずめ今は、彼女に仕える忠犬みたいだ。他愛のない一言一言に、何時もより敏感になっていしまっている。これは、熱が全然冷めてくれないことが原因だと気づいて、そうしたら目の前にいる彼女が不思議で仕方なくなってほっぺたをつねる。
「夢じゃないですよ。全く、今日の貴方はどうしてこんなに面白いんでしょう。」
「いや、夢だと思いたくもなるでしょ。如何してここにいるのか、よく分からないし。いや、見舞ってくれるのは、うれしいんだけどさ。」
後から、余力が残っていれば母に問い詰めることを決心して、取りあえず今は腹を決めることにした。
「それは…。えと、もう少しだけ、お話ししましょう。」
「…。分かったよ。」
したのは、何時もの他愛のない話で特に謂えば今日の皆のことだった。AちゃんとBちゃんが空いた時間にデートしていたこととか、僕の衣装を身繕った二人が屋上で肩を並べてたそがれていたこととか、Eちゃんとスプラッターの話をしたとかそんな具合。
「それで、彼女どうせ付き合うなら、自分のことなんの躊躇いもなく引き裂いてくるような屈強な殿方がいいって云うんですよ!」
「それは、最高に、狂ってるね。」
「そうですよね!私なら絶対に嫌です。でも、それが彼女の魅力の一端なのかな、とも思います。」
「違いない。彼女はぶっ飛んでるから。絶対に嫌ってことは、つまりもっと、月並みなのが、いいって、こと?」
熱を帯びていても分かる。やってしまった。言いながら、昨日の恥ずかしい記憶がフラッシュバックして、言葉が後ろの方に行くたびに詰まっていくのを感じる。大方家にある鏡に映っているのは、熱によって顔を赤くしている僕だろう。
世界には、まるで僕と彼女だけ。カーテンを開ければすぐに目に入る有象無象の影も下で夜ご飯を作っている母の鼻歌も、聞こえては来ない。
そんな二人だけの世界に耐えかねて静寂に乗じたおびただしい熱は、瞳から彼女に伝播していく。
「そ、うですね。そのほうが、私は。」
ムードもへったくれもない。それに、いつもより甚だしい体温で頭がおかしくなりそうだ。いうべきか、否か。虹色のシャボンを出しながら、つらつらと恐らく今日の出来事を鍵付きのノートにぶきっちょにメモしている彼女を一瞥して、決心する。
「あのね、とうしょうさん、じつは…。」
「実は、私が来たのはそのことなんです。」
成程、初めての経験に空気が重くなるのを感じる。あてずっぽうで云った想いの返事を聞くっていうのは、こんなにも肺が詰まって苦しいものなのだろうか。
「あの時、貴方が言ってくれた言葉。私、とても嬉しかったです。」
「う、ん。」
頬を伝う汗は、きっと熱に浮かされたからで緊張しているわけじゃない。
なら、部屋のリモコンの温度を下げてみても尚滲み出る汗は一体何なんだろう。
パタン、と音を立ててノートを閉じた彼女に自然と目が行く。瞳は蠱惑的な淀みを作り、何時もの明るさはその奥に忍んでいく。惹かれているのは言うまでもない。
「貴方は言いました。もう一人で歩けると。」
「うん。」
それは、君にもらったものだ。無意識に君の言葉に倣って、君に見せても恥ずかしくない人になろうと思って、でもそれを言葉にするのは凄く野暮ったく感じて、言えない。
「だから昨日、私はとても嬉しかった。」
「うん。」
胸が爆発しそうになる。もしかすると、彼女の返事を聞く前にこの胸の内は四散してしまうかもしれない。
「貴方から、やっと離れられるって。」
「え。」
あぁ、なんだ。此の重苦しい空気の正体がやっとわかった気がする。これは、僕の甘ったるい空気に勝るくらい、彼女の作り出したシャボン玉が重圧を産んでいるからだ。なんだ、ああそういうことか。
考えないようにしていた真黒な方が、にじり寄ってくる。
正直泣きそうで、今は顔も見られたくない。
「初めて会った時のこと、覚えていますか。」
「う…、ん。」
「私は、貴方を初めて見たとき生きるのが凄く辛そうだな、なんて思いました。余りにも不器用で、このままじゃ自分に殺されて死んでしまうんじゃないかと。これでも人を見る目はある方なので、貴方が普通ではないことは案外簡単に見つける事が出来ました。」
「…。」
「それで、ただ何となく近づいたんです。この人の見る景色は、どんなだろうって。私にとってどう見えるのか、なんて。雨が好き、というのも気になりました。晴れが嫌い、というのも。一体どこからそうなったんだろうって。でも、近くで見れば見るほど不器用な誰かは私の想像とはかけ離れて行って、それがどこまで続くのか知りたくなって、手を差し伸ばした時にはもう貴方はダイヤモンドみたいに輝き始めていました。」
「…。」
「今度は、私が辛かった。自分と同じだと思っていた人が、何処までも真っすぐ、純粋になっていくのを近くで見ないといけなくて、太陽まで輝かしそうに見つめて。それに、言うんです。君の方が真っすぐだろって、人の気も知らないで!!」
「…。」
彼女は…。彼女は、あふれだす憎悪を瞼に滲ませて、泣いていた。
「貴方が昨日私に言ってくれた言葉。とても、とても嬉しかった。だって、やっと、貴方は私が必要じゃなくなる。せっかくここまで面倒を見てあげたんだから、私からお別れを言うのはバツが悪いでしょう。だから、貴方からそう言ってくれたことが、私は嬉しかった。どうせ、貴方が抱くこの気持ちも、何時かは忘れてしまうんですから。私のことも綺麗さっぱり忘れてください。私も、私もそのうち、貴方のことなんて忘れてしまいますから。」
目じりに溜まった雫を、無茶苦茶に拭き取ってから前に直る。暗がりからでも、真っ白な頬が血色に染まっているのが分かった。
「さようなら、独りで歩ける八色さん。今までありがとうございました。」
言い終えるとノートをカバンに仕舞って、彼女はドアに向かった。
「待ってよ。」
僕はまだ、その答えを聞いていない。もう告白だとか、彼女の僕に抱く気持ちとかはどうでもよくなって、今は彼女のことしか知りたくなくなった。
待たない、と物語っている背中に続ける。
「心をなくす、ってどういう事。」
ドアノブに手をかけた彼女は、グルんと振り返った。
「どうして、それを、貴方が知っているんですか。」
二人で共有した記憶の筈なのに、まるで僕だけが知っているみたいに彼女はそう言った。まるで、それが知られたくない秘密みたいに。
「どうしてって、夏休みの時、一緒に旅行したじゃないか。」
必死の返答も虚しく、あああの時ですか、と合点のいった彼女に軽く足蹴にされてしまう。
「それで、答えは解りましたか。私が教えることは、まずないでしょうけど。」
僕は、まだその答えが何なのかわかっていない。でも、自分なりに出した答えは持ち合わせている。
「それは、それは、分からない。でも、心を失くすって、自分に嘘をつくことなんじゃないかって思って、あの時謂われてから僕は、自分に嘘をつくのは止めたんだ。別に、君のためじゃない。でも君に誇れるようにって、頑張ったんだよ。」
振り返った彼女は微笑んでいて、何時もの彼女に戻っていた。そうして一度目を閉じて、又笑って言った。
「残念です。」
無味無臭の笑顔に、完全に打ち砕かれて数多の言葉たちは死んでしまった。彼女のことを分かりかけていたなんて思っていたのは全部僕の妄想だったらしい。だから、ドアを開けるときに隠していた彼女の藍色のシャボン玉が溢れて部屋中に舞ったのをただ見ているだけだったのも仕方ないことのように思う。それに、最後までその答えも、美麗な虹色のシャボン玉が本当はなんなのかも分からずじまいのまま、彼女は別れを告げた。
こんなに悲しい別れを、僕は今まで見たことがない。
だって昨日まで、悲しそうにはしていたけどでも楽しそうな方が勝っていて、僕の一喜一憂につられて二喜二憂して、だからただこうして見ていたのは、僕の心を整理するためじゃなくて、彼女の溢れ出る悲しみに、僕を見れば見るほど募る彼女の苦しみの本当の意味を、探していたからで。だって、そうだろう。こんな別れはあまりにも辛すぎるんだよ。僕も彼女も。
彼女さえよければ、僕もこの苦しみを何とか飲み込んで、やっていこうと思える。前に進める。でも、違うんだ。突き放せば放すほど、悲しみをより一層濃くしたのは君の方で、一瞬僕から溢れるシャボン玉に、自身で悲しみを募らせたけれど、よくよく見ればその大半は本来あってはいけないはずの、君のシャボン玉だった。
まるで、僕を前に進めるために後ろ向きになったみたいな。
僕が嫌なら、嫌いなら、どうしてそんなに苦しそうなシャボン玉を僕に見せるんだ。何故その完璧な笑顔の裏にある、不完全な溜飲を飲み込めないでいるんだ。
嘘だらけの彼女は、そのままドアノブをこじ開け、勢いよく出ていった。待ってと踏み出した一歩に、全身が限界を訴える。彼女のための多少の無理は、完全に裏目になってしまった。
これが夢ならどれだけいいだろう、そんなことを願って、ぼやける視界と機能停止寸前を訴える肉体に、従うほかなかった。
数多の種の熱にうなされたまま、それから僕は何日も寝込んだ。寝込んだ先に見たのは、彼女の言葉の羅列、そして笑顔に隠した本当の表情、それに依然として変わらない想い。そんな何処へも向かいようのない誰かの罪悪感が胸を締め付け、やがてそれは彼女の形になった。要領を得ない悪寒で、やっと彼女を掴みかける事が出来るなんて、僕はまだまだ月並みに言うような、純粋ではないらしい。
「心をなくすって、なんなんだ…。」
こんな汚らしい気持ちで、彼女と初めて分かり合えた気がした僕は、いないはずの彼女に問いかける。
「君は、どうして、七色なんだ。」
その二つの答えはきっと、彼女を彼女たらしめるもので彼女の自己を気持ちを、定めるもの。知りたい。僕のせいで、彼女が苦しんでいるというのなら余計に知らなければならない。
あの言葉と彼女が幻ならどれだけいいかと願ったが、残念ながら母の口から彼女のことが引き合いに出たので、悪夢というわけでもなさそうで、きっと、これは二人にとって悪夢のような白昼夢だった。
三日ぶりに学校に来てみると、学校の雰囲気はこう、ガラッと変わっていた。
まるで、文化祭がまだ続いているかのような、教室を占拠するシャボン玉の多さ。それに比べて、些か諸上がりにかける皆は何時もの日常の中で、駄弁り侍りをしている。それは、本来相容れない相克の景色を、目の前に映し出している。
成程。
その理由はきっとあまりに単純で、僕がまた変わってしまったからだろう。皆から濁流のように溢れ出るシャボン玉のせいで、誰かの僕を見る目、呟く言葉、労い、称賛、視線、その全てがもう、何が何だか分からない。一人からは、ひぃふぅみぃよぉ、もう何種類かも分からないシャボン玉が絶えず流れ出て、どれが誰に対するものなのか、何に対するものなのかなど、最早何も見えなかった。皆が皆、彼女とおなじくらい、シャボン玉を漂わせていた。
でも、それが嫌だとは思わなかった。確かに、景色はだいぶやかましいけどそれでもこれは、僕がもうみんなのことが分からなくなったという事で、誰が何を考えているのか分からないその未知の世界が皆と「おそろい」だという事に、不思議と胸が高鳴った。今まで優位にいたというのに、やっと肩を並べられたことに胸が鳴った。
教室に入って、机にカバンを乗っけると何やら違和感を感じる。確か、此処は僕の席の筈なんだけど。
「おー、頭痛君、久しぶり。大丈夫だった?」
背後から肩を軽く叩かれる。A君だ。彼が少し背の低い僕に目を向けるその意味が、心配か、それとも滑稽にみているのか、冗談なのか、何にも分からない。其のうち答えのない答え探しをしている心地になって、まぁね、なんて〇点満点の答えが出てしまった。
「そりゃ、良かった。そういや、席替えがあったんだ。須藤の席はあそこ。隣の人は、まぁ、一言くらいはなんか言ってあげた方がいいかも。」
「あぁ、うん。ありがとう。」
違和感の原因は、その机に誰かの教科書類が詰まっているのが原因だったらしい。礼を言って、A君の指さす机に向かった。
「来たな、馬鹿真面目。」
前の席に比べると酷く後ろの方、そのうちの一つの机にカバンを置いた途端、隣からそんな苦言が漏れ出る。あぁ、これは見なくても分かる。確実に隣の彼女は、怒っている。それに、目を向けたところで怒気一色になっている彼女の周りも乗じてくらくらしてくる。このシャボン玉も、まだすこしだけ役には立つらしい。
「あー、うん。ごめん。二日目休んじゃって、、」
Eちゃんは、僕の謝罪を飲み込むくらいの覇気で、肩をポンポンと叩いた。正確には、ポンポンじゃなくてドンドンっていう音が出るくらいに痛かった。
「ごめんじゃねえだろぉ、おおおおお。」
歯止めの効かないと思っていた彼女は、でも僕の肩を叩くたびにシャボン玉を弾けさせ、そのうち怒気が引っ込むとともにその手が止まった。
「皆、心配してたんだぞ。それに、お前が体調不良になったら私の所為になるんだから、体調管理くらい、しっかりしろよ。」
「いや、ほんとに、ごめん。出る言葉もないです。」
三日もたてば、もう彼女の顔を見てもチクリとも胸は痛まなかった。
「いやー、ホントに大変だったんだぞ。二日目、あやめちゃんが一人で接客してたんだからな。ちゃんと、謝っておけよ。」
ズキリ、ではなく今度は今すぐ飲み込んでしまいたいような靄が喉に突っかかる。そう。彼女は、何処にいるんだろうか。違和感の原因は、彼女を見つけられない事にもあったのは、明々白々だった。
「ま、しばらくは無理だけどな。其のうちちゃんと謝れよ。メールなりなんでもいいけどさ。」
そう言って、携帯を振っているEちゃんに尋ねる。
「そういえば、燈昌さんは?」
ぷはっと、何処から出てきたのか分からない笑いが僕にかけられる。
「まだ、苗字呼びなのかよ。初ねぇ。」
そこで僕はまたムッとして、口ずさんでしまう。
「流石は、文化祭で二人も侍らせた人なだけはあるね。一丁前だ。」
「なっ。」
言うなりすぐに口をつぐむ。なんだって、いつも僕はこんなに過ちを繰り返すんだろう。
「ごめん。」
何よりも、まずはしっかり謝る。何か誠意を見せることが大事だというのは、あの日から復習済みだった。
「ぷっ、あははははは!」
でも残念ながらこれもまた、Eちゃんの何度目かのツボにはまってしまったらしく笑い飛ばされてしまった。一体この子は、どこに何個ツボを持っているんだろうか。
「あのなぁ、前も言ったろ馬鹿真面目。こういうときはな、笑えばいいんだよ笑えば。前とおんなじでそんなに、気に詰めること無いんだよ。」
ほら、笑ってみろ。と言われてあどけない微笑みを作っていると急に真面目な顔になって、彼女は前に倣った。もしかして、笑い方がぎこちないのが腹に据えかねたんだろうか。もう怒気も消えて、皆とおんなじになった彼女は、何を考えているのかなんて分からない。
「まぁ、でも。あんな些細な事にも、気を遣うってのは凄いことだと思うよ。心を読めるっていうのも、案外難しいのかもな。」
う、ん。褒められているんだろうか。何にするにももっと顔に出してくれないと、分かるものでも予想すらつかなくなってしまう。戸惑いは、そのうち伝わってほしくない彼女にも伝播して、又笑われてしまった。
「気、遣いすぎて死ぬなよ。」
その死には、単に一つ以外のいろんな意味も込められている気がして、戸惑いが嘘のように頷くことだけはすんなりとできた。
「んで、あやめちゃんの話だったか。あの子、今入院してるよ。」
「にゅう、い、ん?」
焦る僕を制止するように、彼女が言った。
「おいおい、大丈夫だって。なんか盲腸、だっけかの手術らしいから、長くても三週間で帰ってこれるらしいから。まぁ、三週間もあればテストも終わって、冬休みになっちまうけど。」
この学校は、冬休みが恐ろしく長い。原因は校舎がおんぼろだから。校舎の老朽化の改修工事と、日本海に近い山岳地帯特有の降り積もる雪の多さ。その二つが絡まって、もう秋の終わりには学校出入り禁止令が発令されて部活すらも此処では出来なくなる。
安堵を語る彼女の口上に乗せられて、一度は浮いた腰を下げるが、さらにもう一度、腰が浮きそうな想いになる。
つまるところ、下手をすればもう今年中には彼女には会えない。それが何を意味するのかは、あまり想像を膨らませたくはない。
息の詰まりそうな想いに、何十回目のを催しそうになると、Eちゃんがまた気持ちのいい笑顔で制止した。
「普通に、あそこの図書館の横にある無駄にでかい病院にいるらしいから、お見舞いにでも行って来いよ。前皆で行った時は、丁度席外してたらしくって、会えなかったけどさ。」
「うん、そうだね。ありがとう。」
「おうよ。」
何度目かのお礼に乗じて僕は今日の放課後、見舞いに行くことにした。やけに胸をつんざくような六感と、溜飲にはそれで手を打ってもらうことにして。
辺りを見渡す。こんな快晴で、なおかつ教室中を埋め尽くすクラス全体の、勝るとも劣らないシャボン玉に、どうしても彼女の面影を探してしまう。だって、紛れもなくこの景色も、見えるようになった皆のシャボン玉も、全てはその何処かのお人よしのおかげで、忘れるなんてそんなこと、無理に決まっていた。
「忘れろなんて、僕には無理だよ。」
彼女の心無い言葉を思い出し、呟く。
「ん、なんか言ったか。」
いや、なんでもないよ。と、適当に誤魔化す。ん、と返される。誰もかれもの気持ちに見当がつかないのにはもうかなり慣れて、そんな、適応の速さももともと持ち合わせていなかったものだと思ったら、また僕の表情は陰った。
「八色、お前そんなに愛想笑い下手糞だったっけ。」
「へ。」
「いや、今までまともに話してこなかったからあんまし知らないけど、なかなかぶきっちょだったぞ。今のは。」
「ホント?」
「おう。まぁ、そっちの方が分かりやすくていいと思う。それに、大丈夫だって。お前があやめちゃんのこと好きなの、みんな知ってるから。」
それは、一体全体どういう意味を持っているのだろう。直喩的に気持ちが見えない今、言葉から真意を探らないといけないんだけれど、残念ながらその本来の意図は一つに絞ることは出来ない。わざわざ恥をかいてまで聞き直して、忸怩たる思いをするのは得策ではないので不本意ながら自分の中から一つ、都合のいい答えを勝手に選ばせてもらうことにした。
そうして、又笑ったEちゃんの笑顔は、見当はつかなくても多分本当の表情のように思う。
どうして人は、嬉しい時に楽しい時に、其れに悲しい時にも笑うんだろう。よく笑う彼女と周りの人を自然と照らし合わせて、そんな下らない妄想が脳裏をよぎる。
「あの、此処に入院している燈昌という方にお見舞いに来たんですが。」
「はい、お調べいたします。お名前をお伺いしてもいいでしょうか。」
「須藤です。」
「少々お待ちください。」
病院独特の消毒薬のにおいに、全面に広がる無味の壁。図書館から、渡り廊下一つで隔たれただけの病棟の待合室に腰掛ける。これだけ近くにあっても、図書館とは全くの別世界に勝手に背筋が伸びる。きっと、どちらか一方しか知らない人にとって異質な互いの世界は驚くべきことなんじゃないか。これだけ近くにいても。
「お待たせいたしました。申し訳ありません。今日はお会いになる事が出来ないそうなので、また後日お伺いください。」
「そう、ですか。有難うございます。」
あんまり期待はしていなかったけど、それでも期待外れの返答にうなだれる。助長するものはもう誰もいないはずなのに自然と腕が頭に引っ付きそうになっている。それを、慣れた手つきで引きはがすと渡り廊下に向かった。
彼女がいないことに対する不安は、もはや可愛らしく思えるくらいの頻度で体から這い出てくる。別に、後退したわけでも依存しているわけでもない。ただ、何時もいるはずの、今までいたはずの存在にいろんな僕が、ただ純粋に寂しく思っているんだろう。
図書館について、いつもの席に腰掛けるとノートを開いた。
やっぱりここは落ち着く。
図書館にいても、棚が並ぶ他の席とは少し離れたこの場所は隔絶されたような空気が立ち込める。遮光性のカーテンを開けると、黄昏時に差し込んでくる夕陽すらも、自己主張の少ない飾らぬ存在感を醸し出している。
でも、こんな広い室内で特等席を見つけられるのは、昔に図書館をぐるりと見て回った僕くらいなものでこの円形の机に今、他の人はいない。
一つ昔の季節を思い出す。丁度一緒に勉学に励んだ時にこの席にしようといったのは僕ではなかった。彼女は、この秘密の場所を、きっと僕と出会う前から、初めから知っていた。
「今日、皆で勉強しない。」
お、いいね、とA君の誘いに皆口々に乗っかり、前の方では人だかりが出来上がっていた。
一年の内に、雨は大体120回ほど降るらしい。つまり今日は、その1/3の日の1/120に当たる日というわけだ。
「おーい須藤、須藤も一緒にどう?」
流石はA君で、多聞に漏れることなく僕も彼にお誘いいただいた。賛同したクラスメイトもいいね、とかやろうよ、とかそんな優しい言葉をかけてくれる。それが、この上なく嬉しくて僕は本当に恵まれていると感じる。
最早彼女と、何ら変わらない風体で喋る彼らに身を委ねられたらどれだけ幸せだろうか。でも、今はやめておこう。
「ありがとう。でも、どうしても外せない他事があるからさ。また絶対、一緒に勉強しよう。」
「そっかぁ。」
残念そうにしているのも、演技なのかどうか。でも一方的に決めつけることはもうしない。これが本当であっても嘘であっても、僕にはわからないから。でも本当だったらいいな、なんて思ってしまうのはもう彼らのことが好きになって居たからだ。
でも、思ってしまう。此処に、雨の日も所かまわずシャボン玉を漂わせる彼女がいたら、どれだけ嬉しいか。七色のシャボン玉を出す彼女がいたら、どれだけ楽しいか、と。
「またやろうな。」
そう言って背を見送ってくれる皆に手のひらで返すと、絶対だぞ、なんて言われてしまう。
うん、絶対。そう返せることに目を見張るような成長を感じながら、教室を後にした。
彼らの好意も、何気ないからかいも、会話も、僕一人ならこうは感じられなかっただろう。
それこそ最後に読んだ猫の話みたいに、人間の行為の一つ一つに疑問を持ち共感もできることなく不思議な生き物だな、と俯瞰してみることしかできなかっただろう。
少なくとも、こうはならなかった。
「待った、須藤。」
下駄箱につくと、誰かに背中を叩かれた。
「どしたの、安達くん。」
意図が本当に読めなかったので、純粋な疑問をぶつけると彼はもじもじとしだした。
「いや、あの、多分さ、お前の用事ってあやめちゃんのことだろ。」
「そ、うだけどどうして。」
「いやー、とうとう須藤もベジタリアンを卒業したのかーってさ。茶化しに来たんだよ。」
「うん。」
その肯定は、責めているわけでも敵意でもなくてただ純粋にAくんが言おうとしている続きを促すものだ。なんだ、案外気持ちが読めなくたって、生きて行けるもんだ。
「だから、まぁ、その、なんだ。えーとさ、うん。」
「頑張れよ。」
そんな風に肩をポンポンと叩かれると、人間は痛くもないのに涙腺が刺激されるもので、顔を背けてありがとうと言った。それに、脇を撫でられてもいないのに全身が痒くなって、こそばゆいよ、なんて小言も吐いた。
「俺は、一足先に楽しんでるからな。」
心は分からなくなったけど、それでも僕を分かろうとしてくれているそのキザなセリフに背中を押されたまま、虹を見るために今日も病院に向かった。
「申し訳ありません。今日も、お会いすることは出来ないそうです。」
「そうですか。」
もう十何度目かになる応答に、十何度目かの落胆を感じるけれど、その落ちぶれた己にも面会謝絶もなれたもので、何時もの渡り廊下に向かった。雨の日になると、皆のシャボン玉は何処にも見えなくなってより一層、あってほしいものがないことの、当たり前のものがないことの寂寥の感に襲われる。あんなに鬱陶しかったのに。嫌いだったはずの晴れの日の方が、君の面影を探しやすくて雨の日はどうも駄目だ。
認めてしまう。
君がいないと、寂しい。認めれば、楽になるものだと思っていたのに余計に辛くなってついつい湿気で少しだけ艶がかった廊下の脇道にも、君を探してしまう。
情けない。此の体たらくで君といざすれ違った時に、僕は笑っていられる自信がない。振り返ってさっきまで腰かけていた、受付の椅子に目を向ける。
僕はもう、長いこと君を待っている。