8
教室では、あの旧校舎での出来事が嘘だったみたいに、昨日までと何も変わらない時間が流れていた。クラスメイトと朝の挨拶を交わして、休みに時間には適当な談笑をする。加瀬くんも今までと変わらない落ち着いた声で友達と話をして、休み時間には凛とした表情で次の授業の教科書を眺めている。
授業の時間、先生が加瀬くんを当てて問題を出した。僕は答えが分からなくて、当てられたのが自分じゃなくてよかったとほっとした。加瀬くんは席と立つと、その質問に悩む様子もなくはきはきとした声で答えている。その姿に、クラスの女子が熱い視線を送っているのが分かった。
なんだか、本当に嘘みたいだ。
昨日の夜の旧校舎で目にした加瀬くんは、その姿も、言動も、身にまとう雰囲気も何もかもが、こうして教室で目にする彼と違っていた。
昨日の旧校舎での出来事も、そこで目にした加瀬くんたちの変貌した姿も、全てが夢だったと言われた方が逆に納得できてしまう。それくらいに、昨日の出来事はありえないことだった。
だけど昼休みの時間、それが夢や冗談じゃなかったことを、僕は改めて突きつけられた。
お昼を食べ終わって、クラスメイトとの会話もほどほどに次の授業の準備をしていた時、加瀬くんが席に近づくと、「今少しいいか?」と声をかけられた。こんな風に声をかけられるのは、昨日に続いて二回目だ。まだ加瀬くんに話しかけられることに慣れないまま、追いかけるように廊下へ出た。
「企画、何をやるかはもう決めたか?」
加瀬くんのその声は、いつもの教室と同じ落ち着きのある大人びたものだった。
休み時間の終わりが近いからか廊下に人は少なかったけど、周りに聞こえないように抑えた声だった。それに合わせて僕も声を潜めて答える。
「……まだ。青葉からもいろいろ聞いたけど、やっぱりまだイメージがつかめなくて」
「確かに、活動が漠然とし過ぎているからな。ただ、本当に何でもありなんだ」
「なんでもいいって言われると、逆に悩みすぎちゃうんだよね」と、僕は苦笑しつつ「でも、いろいろと調べながら考えてみるつもりだよ」
「活動日まで多少の時間はあるから、それまでじっくり考えればいい。もし当日までに事前の準備が必要になりそうなら声をかけてくれ」
「事前の準備?」
「ああ。大掛かりな企画をする予定の時は、放課後の時間にこっそりと準備を進めてもいいルールになっているんだ」
「大掛かりな企画って……」
「まあ、今回は活動日まで一週間もないし難しいだろうから、出来る範囲でいい。ただ、晃嗣は性格的に本気で来ると思うがな」
「う、うん」
あまりにも大げさな言いぶりに思わずたじろいだ。ただのおふざけ対決にしては、あまりにも仰々しい。
自分が何をするのか、まったくイメージもできていなかったけど、事前準備なんてたいそうなことが必要になるとは思えなかった。
「あと、伝え忘れてたけど、企画には少しだけルールがあるんだ」
「ルール?」
「そう大したものじゃない。ルールというより注意事項のようなものだな。まず一つ目だが――」
加瀬くんが語ったのは、三つのルールだった。それを聞き終わると同時に、昼休みの終わりの五分前を告げる予鈴が鳴った。
加瀬くんは、「そろそろ戻るか」と、廊下の壁にもたれていた身体を起こして、教室に向かって歩き出す。なんとなく一緒に教室に入っていくのがはばかられて、トイレに寄ってから戻ることを伝えた。
学校が終わって家に帰った後は、少しだけ身体を休めてから机と向かい合うのが日課だった。いつものように向かい合ったその机の上に、いつもの参考書は置かれていない。
「バカで面白い企画、か……」
参考書の代わりに開いたのは、スマホの動画サイトのアプリだ。普段それを開くことは滅多にないけど、いろいろな面白い企画の動画があるということは知っていたし、何か参考になるものがあるはずだと思った。
とはいえ、そもそもなんて検索かければいいんだろう。
トップページを開いたまま、次にするべきことが分からずに固まってしまう。今までこの動画サイトを使ったのは何か目的があった時だけで、興味のある歌手を調べたくらいだ。
「企画、企画……」
つぶやきながら、昼休みの時間に加瀬くんから告げられたルールを思い返す。それは、三つの制約事項だった。
一つ、校舎に傷はつけないこと。
一つ、近隣に気づかれないよう騒音は最小限に止めること。
一つ、みんなが楽しくなれるものであること――
最後の一つを頭に思い浮かべた瞬間、スマホを手からこぼしてうなだれた。
そんなの、思いつくわけないって!
三つめのルールが、唯一最大の問題だった。みんなが楽しくなれる面白いことなんて、この僕がどれだけ頭を抱えたところで見つかるわけがない。なのに、回答をギブアップしたところで、その問題に対する回答集はどこにもない。
うなだれたままいるのもバカらしくなって、椅子から立ち上がり、ふと窓から外を覗いてみた。
窓の外は家の前の通りで、その向こうには高層マンションがそびえている。青葉は、そこの上階の一室に住んでいた。
形式だけのお向さん。対向車とようやくすれ違えるくらいの小さな道路を挟んでいるだけのはずなのに。この距離感は、僕と青葉の関係そのものみたいだ。
机の上に投げ出したままのスマホに目を向ける。自動的に消えたのか、画面はもう真っ暗だ。
投げ出してしまうにはまだ早い。
もう少しちゃんと考えてみよう、と再び机と向かい合ってスマホの画面を開く。何を調べればいいのかは相変わらず分からないけど、人気のランキングを上から漁っていれば、何か手がかりくらいは掴めるはずだと思った。
教室では、あの旧校舎での出来事が嘘だったみたいに、昨日までと何も変わらない時間が流れていた。クラスメイトと朝の挨拶を交わして、休みに時間には適当な談笑をする。加瀬くんも今までと変わらない落ち着いた声で友達と話をして、休み時間には凛とした表情で次の授業の教科書を眺めている。
授業の時間、先生が加瀬くんを当てて問題を出した。僕は答えが分からなくて、当てられたのが自分じゃなくてよかったとほっとした。加瀬くんは席と立つと、その質問に悩む様子もなくはきはきとした声で答えている。その姿に、クラスの女子が熱い視線を送っているのが分かった。
なんだか、本当に嘘みたいだ。
昨日の夜の旧校舎で目にした加瀬くんは、その姿も、言動も、身にまとう雰囲気も何もかもが、こうして教室で目にする彼と違っていた。
昨日の旧校舎での出来事も、そこで目にした加瀬くんたちの変貌した姿も、全てが夢だったと言われた方が逆に納得できてしまう。それくらいに、昨日の出来事はありえないことだった。
だけど昼休みの時間、それが夢や冗談じゃなかったことを、僕は改めて突きつけられた。
お昼を食べ終わって、クラスメイトとの会話もほどほどに次の授業の準備をしていた時、加瀬くんが席に近づくと、「今少しいいか?」と声をかけられた。こんな風に声をかけられるのは、昨日に続いて二回目だ。まだ加瀬くんに話しかけられることに慣れないまま、追いかけるように廊下へ出た。
「企画、何をやるかはもう決めたか?」
加瀬くんのその声は、いつもの教室と同じ落ち着きのある大人びたものだった。
休み時間の終わりが近いからか廊下に人は少なかったけど、周りに聞こえないように抑えた声だった。それに合わせて僕も声を潜めて答える。
「……まだ。青葉からもいろいろ聞いたけど、やっぱりまだイメージがつかめなくて」
「確かに、活動が漠然とし過ぎているからな。ただ、本当に何でもありなんだ」
「なんでもいいって言われると、逆に悩みすぎちゃうんだよね」と、僕は苦笑しつつ「でも、いろいろと調べながら考えてみるつもりだよ」
「活動日まで多少の時間はあるから、それまでじっくり考えればいい。もし当日までに事前の準備が必要になりそうなら声をかけてくれ」
「事前の準備?」
「ああ。大掛かりな企画をする予定の時は、放課後の時間にこっそりと準備を進めてもいいルールになっているんだ」
「大掛かりな企画って……」
「まあ、今回は活動日まで一週間もないし難しいだろうから、出来る範囲でいい。ただ、晃嗣は性格的に本気で来ると思うがな」
「う、うん」
あまりにも大げさな言いぶりに思わずたじろいだ。ただのおふざけ対決にしては、あまりにも仰々しい。
自分が何をするのか、まったくイメージもできていなかったけど、事前準備なんてたいそうなことが必要になるとは思えなかった。
「あと、伝え忘れてたけど、企画には少しだけルールがあるんだ」
「ルール?」
「そう大したものじゃない。ルールというより注意事項のようなものだな。まず一つ目だが――」
加瀬くんが語ったのは、三つのルールだった。それを聞き終わると同時に、昼休みの終わりの五分前を告げる予鈴が鳴った。
加瀬くんは、「そろそろ戻るか」と、廊下の壁にもたれていた身体を起こして、教室に向かって歩き出す。なんとなく一緒に教室に入っていくのがはばかられて、トイレに寄ってから戻ることを伝えた。
学校が終わって家に帰った後は、少しだけ身体を休めてから机と向かい合うのが日課だった。いつものように向かい合ったその机の上に、いつもの参考書は置かれていない。
「バカで面白い企画、か……」
参考書の代わりに開いたのは、スマホの動画サイトのアプリだ。普段それを開くことは滅多にないけど、いろいろな面白い企画の動画があるということは知っていたし、何か参考になるものがあるはずだと思った。
とはいえ、そもそもなんて検索かければいいんだろう。
トップページを開いたまま、次にするべきことが分からずに固まってしまう。今までこの動画サイトを使ったのは何か目的があった時だけで、興味のある歌手を調べたくらいだ。
「企画、企画……」
つぶやきながら、昼休みの時間に加瀬くんから告げられたルールを思い返す。それは、三つの制約事項だった。
一つ、校舎に傷はつけないこと。
一つ、近隣に気づかれないよう騒音は最小限に止めること。
一つ、みんなが楽しくなれるものであること――
最後の一つを頭に思い浮かべた瞬間、スマホを手からこぼしてうなだれた。
そんなの、思いつくわけないって!
三つめのルールが、唯一最大の問題だった。みんなが楽しくなれる面白いことなんて、この僕がどれだけ頭を抱えたところで見つかるわけがない。なのに、回答をギブアップしたところで、その問題に対する回答集はどこにもない。
うなだれたままいるのもバカらしくなって、椅子から立ち上がり、ふと窓から外を覗いてみた。
窓の外は家の前の通りで、その向こうには高層マンションがそびえている。青葉は、そこの上階の一室に住んでいた。
形式だけのお向さん。対向車とようやくすれ違えるくらいの小さな道路を挟んでいるだけのはずなのに。この距離感は、僕と青葉の関係そのものみたいだ。
机の上に投げ出したままのスマホに目を向ける。自動的に消えたのか、画面はもう真っ暗だ。
投げ出してしまうにはまだ早い。
もう少しちゃんと考えてみよう、と再び机と向かい合ってスマホの画面を開く。何を調べればいいのかは相変わらず分からないけど、人気のランキングを上から漁っていれば、何か手がかりくらいは掴めるはずだと思った。