2.1
 昨日はなかなか眠りに付けず、今朝は思わず寝坊してしまった。
「ここの寝癖がどうしても取れないの。」
「ああ、この後ろのところ?」
「そう、そこ。」
昨日は家に帰ってからもずっと先生の横顔が頭から離れないでいた。
少し伸びた髪も、煙草の煙も、低い声も、その全部が自分の中に深く刻み込まれてしまったかのように、風呂に入ろうが布団に包まろうが、何度も何度もフラッシュバックしてしまうのだ。
そのたびにどうしようもなく胸が苦しくなって、私はギュッと自身の体を抱えるように縮こまった。
かつて初恋と呼べるであろうものは経験したけれど、昨日の私が抱いた感情はそんなものとは比べ物にならないほどの激しさを帯びていた。それは今も変わらないわけだけれど、まあそんな事情も相まって、昨日はうっかり髪を乾かすことを少しおろそかにしてしまった。それがいけなかった。
なんとか遅刻は免れたものの、どうあがいても直らなかったその寝癖が私は気になってしょうがなかった。こんな時に万が一にも佐原先生に会ってしまったら、もう立ち直れない。
そんな不安から救ってくれたのは隣の席の飯田さんだった。
彼女は色素の薄い栗色の髪を長く伸ばしていて、ふわふわと波打つその様は昔本で見た神話の女神さまを彷彿とさせた。他の女子はよくメイクを施していたが、彼女はそういった類のものは一切せず、元来長いまつ毛や血色のいい唇といった天然物の美を惜しげもなく放出していた。彼女はわりと目立っていたのだが、いわゆるスクールカーストの上位というような派手な人達とは距離を置いているように見えた。
最初の頃、一度彼女はクラスのリーダーのような女子から放課後一緒に遊ばないかと誘われたことがあった。
しかしその時も彼女はきっぱりと断っていた。クラスの女王的存在だったその女子は、今まで自身の誘いを断られたことがなかったのだろう。少し表情を引きつらせながらも彼女に断った理由を聞いた。
「あなたといても楽しくなさそうだもの。」
彼女は真顔でそう一蹴し、そのまま何事もなかったかのようにさっさと帰ってしまった。
そんな逸話を平気で残していく彼女だったから、男子生徒からは好奇の目にさらされ、女子生徒からは遠巻きにされることが多く、誰か特定の友人と親しく話をしている姿など想像もつかなかった。
しかし本人はそんなことまったく意に介していないかのように毎日を平然と過ごしている。
私にはそれがとても眩しく見えて、憧れていた。
だから隣の席になれた時はすごく嬉しくて、日々話題を探ろうとしたのだけれど、それもなかなかうまくはいかず、今なぜこうして彼女と会話ができているのか、話をしている自分自身ですら不思議でならなかった。
話しかけてきたのは飯田さんの方だったからだ。
「あの、岡本さん、どうかしたの?」
「え?」
ふわふわと波打つ髪が揺れるたび、ふわりと花のような香りがして、私は思わず見惚れてしまう。
「岡本さん?」
「あ、ごめん、なに?」
「いや、岡本さんがなんだか今朝は、様子が違って見えたから。どうしたんだろうって。」
彼女は適切な言葉を探るようにしながらそう言った。
私は初めてのちゃんとした会話がこんな内容なのかと少々がっかりしながらも、どうあがいても直らなかったあの憎き寝癖の話をした。
飯田さんは何も言わずに私の髪に優しく触れた。ぴょこんと跳ねた髪も、彼女が触れると少しだけ煩わしさが消えるような気がした。彼女は時計を見つめてから視線を私の方へと戻す。
「鞄にヘアアイロンが入っているの。一限目の授業が終わったら、直してあげようか、その寝癖。」
「いいの?」
「うん。」
飯田さんがなぜ急に私に興味を示してくれたのかはわからないが、彼女の申し出は私にとって非常にありがたいものだった。
「ありがとう。飯田さん。」
私が御礼を言うと飯田さんは少し嬉しそうに表情を緩めた。
もとより綺麗な人だけど、笑うと花が咲いたようにかわいい。
女の私が見てもそう思うのだから、そりゃ男子が見たら余計に可愛いと思うのだろう。
一限目の最中はずっともやもやとした気持ちを抱えていた私だったが、ちらりと隣を見た時に飯田さんと目が合うと、彼女はふっと笑みを浮かべてくれて、そんなささいなことですら、私にはとても嬉しかった。
一限目をなんとか乗り切ると、飯田さんは鞄からやや大きめのポーチを取り出し、私に「来て」とだけ言って席を立った。私と飯田さんなんて今までなんの関わりもなかったから無理もないのだが、周囲が何事かと騒ぐので、私は少し恥ずかしかった。しかし、それすらもとても些細なことに感じられるほど、きっとその時の私は浮足立っていた。
「岡本さんの髪は黒くてまっすぐで、綺麗ね。」
女子トイレのコンセントでアイロンを温めながら彼女はそんなことを言った。
なんの変哲もない私の容姿についてほめてくれたのは、彼女くらいのものだろう。
「飯田さんは全部が可愛いし、綺麗じゃない。羨ましいなってずっと思っていたの。」
彼女はさも意外そうな顔をして私のことを見た。
「羨ましい?まさか。そんなことないわ。私は、この癖毛が嫌いだし、羨ましいって思っていたのは私の方なのよ?」
「飯田さんが、私を?」
彼女は恥ずかしそうにコクリと首を縦に振る。
それはとても意外な告白だった。
「岡本さんはいつもみんなに優しくて、たくさんの人に好かれていて、頼られたりもしていて。私にはできないことを沢山できる人だから、すごく、羨ましかった。私も、仲良くなりたいって、思っていた。」
温まったアイロンの熱を確かめ、彼女は私の髪をじんわり温めていく。熱が浸透するのがわかった。
「熱くない?」
ためらいがちな彼女の声に「大丈夫」と返す。
「でもなぜ、今日は話しかけてくれたの?」
私はされるがままの状態でアイロンを器用に扱う彼女に尋ねた。
「なぜだろう、自分でもわからない。でも、様子が変だなって思っていつもみたいに笑えていないあなたを見たら、声をかけずにはいられなかったの。」
彼女のいうところの『私の周りにいる沢山の友人達』は、誰一人として、私のそんな変化には気が付かなかったというのに。
それに気付いてくれたのは彼女たった一人だけだった。
「あの、飯田さん。」
「なあに?」
「もしいやだったら、断ってくれてもいいんだけど、その、これから名前で呼んでもいい?」
飯田さんの手が一瞬ピクリと止まったのがわかった。
本当に一瞬のことだったから、もしかしたら勘違いだったのではないかと疑ってしまう程度のものだ。
しかし、たしかにその瞬間、彼女の手は止まり、彼女の心は大きく動いたようだった。
「あの、やっぱり急に馴れ馴れしかった…?」
「ううん、そんなことない。もちろんうれしいよ。結衣子。」
彼女が名字だけでなく、下の名前もしっかりと把握してくれていたことが私には何よりも嬉しかった。
「なんだか改まると照れちゃうね。優香。」
彼女の名前は飯田優香。優しい香りとはなんとも彼女らしい名前だと思った。
「なんだか友達って感じがして嬉しい。…ちゃんと友達だよね?」
優香は戸惑いながらもそんなことを聞いてきた。
きっと彼女の場合、イメージが勝手に独り歩きをはじめてしまい、誰も本当の彼女の声に耳を傾けようとしてこなかったのだろう。
だからそんな当たり前のことですら自信なさげに相手に確認しないと気が済まないのだ。
「当たり前じゃない。」
「私には、わからないの。それが当たり前なのかどうか。でもそうね、これはきっと当たり前なのね。嬉しいな。ありがとう。結衣子。」
それからしばらく優香は幸せをかみしめるように「結衣子」「結衣子」と私の名前を何度も呼んでいた。
自分の名前をこんなにも幸せそうに呼んでくれたのは、やはり彼女が初めてだろう。
私はそんな事実が嬉しくてならなかった。

「佐原先生!」
放課後のことだ。
私はその喜びを他の誰でもないこの人に伝えたいと思った。
本当は親から頼まれごとをされていてすぐに帰らなければならなかったのだけど、今はそれどころではない。
この感情は抑えきれるものではなかった。
「どうしたの、そんなに慌てて。」
「先生に話したいことがあるの。だから来ちゃった。」
興奮気味の私に先生は優しく笑うと、昨日と同じように口元に指をあてがった。
「わかったよ。ただね、ここがどこなのか、ちゃんと理解している?」
抑えた声で私にそう言うと、先生は座っていた椅子から腰を上げた。
「ちょうど一服しにいこうと思っていたんだ。そのついででよかったら聞いてあげよう。」
「なんだか上からじゃありませんか?その言い方。」
「まあ、大人ですからね。嫌ならいいけど。」
ニヤリと笑うその横顔にどきりとしてしまう自分がなんだかとても悔しかった。
「先生の意地悪。」
「なに、今気が付いたの?」
さっさと歩き出すその背中を私は慌てて追いかけた。
華奢に見えるがやはり近くで見るとちゃんと男の人という感じがする。
この背はあたたかいのだろうか、それともシャツのせいでひんやりと冷たいのだろうか。きっとこの背にもたれ掛かったら彼の煙草の匂いがするに違いない。目の前で揺れる白いシャツがそんな妄想染みた発想を抱かせ、私は無性にその背中に触れたい衝動に駆られた。
ドキドキと大きくなっていく鼓動の音が彼にばれてしまいやしないかと、冷たい汗がつうと背中を伝う。
それでも私は堪え切れずに、彼の背中に手を伸ばしていた。
触れるか触れないかというちょうどその時、不意に先生が振り返った。
「そういえばさ、ん?なに?」
中途半端に手を伸ばしている状態の私は、そう、まさにあれだ。「だるまさんが転んだ」で見つかってしまった子供のような気持ちだった。
「えっと、シャツに何か付いていたから取ろうと思って。」
私は視線を逸らし、とっさに嘘をつく。
先生はそんな私の嘘を本気で信じているようだった。
「あ、本当?とってくれる?」
私はとってあげるフリをしてその背中に触れようとした。
しかし触れようと指を伸ばし、あともう少しで触れてしまうというその寸前、私はすっと先生から離れた。
なぜなのかはわからないけれど、触れてはいけない気がした。
ズルをしているような、そんな心持ちがしたのだ。
「ごめんなさい、見間違いだったみたい。」
「そう?まあいいや。ありがとう。」
先生は何事もなかったかのようにまた歩きはじめる。
「ねえ、先生。」
「なに?」
「さっき、私に何か言おうとしなかった?」
「ああ。そうそう、名前だよ名前。」
「名前?」
先生がその言葉を口にしても、すぐにはなんのことかわからなかった。
しかし間もなくして、私は自分がまだ名乗っていなかったことに、本当に今更気が付いた。
「ああ、わたしの?」
「それ以外になにがあるの。」
呆れたように先生が笑い、私達はあの日と同じ、あの非常口のある扉へと到着する。
扉を開くとギイと軋む音がして、あたたかな春のぬくもりがふわりと私の髪を撫でた。
「あ、ちゃんと扉閉めてね。これ以上誰かに知られたら今度こそ俺怒られちゃうから。」
困らせてしまいたくて、ほんの少し開けておいてしまおうかとも思った。
しかし私は言われた通りに扉を閉めた。
従順だからなどではない。この秘密を他の誰かに知られてしまうのはもったいないと思ったからだ。
この秘密の場所も、先生との時間も、全部私と先生だけの秘密にしておきたかった。
「私はもういいんですか?」
「君はもう共犯者だから。」
「え?」
「前回は事故だった。でも今回は自分の意志でついてきた。ならばもう共犯だよ。」
先生は早速胸ポケットにしまったくしゃくしゃの煙草の箱を取り出すと、そこから器用に一本取り出し火をつけた。ゆっくりと吸い込み、細く長く、白い煙を吐き出す。
「それで?話したいことがあるんじゃなかったの?」
「そう、そうなんです。私新しく友達が出来たんです。」
私のその報告に、先生は不思議そうに首をひねった。
「君は別に友達がいないタイプではないだろうに。なにがそんなに嬉しかったの?」
「ずっと前から憧れていた子なんです。すごく綺麗な子で、だけど他の女の子みたいに特定のグループに属しているってわけでもなくて。なんていうか、自分をしっかり持ってるっていうか。そういう女の子なんですよ。今度先生にも紹介しますけど、その子と今日友達になれて、私もう嬉しくて。」
そう言うと先生は目を細めて穏やかに笑った。
それは子供にはできない大人の笑い方だと思った。
「なんだか意外だな。君はあまりそういう風に感情的に話す人ではないと勝手に思っていた。」
私は先生にそう言われるまで自分がいつもよりも大分饒舌であったことに気が付かなかった。
「あれ、本当だ。なんでだろう。」
なんでだろう、だなんてわざとらしいことを言ったが、理由なんてもうわかりきっていた。
「佐原先生の前だと、なんだか素直に自分の考えとか気持ちを話せるみたいです。」
本音をあえて先生にぶつけてみる。しかし、彼は動揺する素振りなど微塵も見せることはなく、代わりに余裕の笑みでもって「そりゃあ光栄だ」と言い、また新たな煙草に火をつけ始めた。
明らかに子供相手の対応をされている。そんな風に感じてしまうこういう時、年齢という壁がどれだけ頑強かつ越えられないものなのかということを私は嫌という程思い知らされる。
どれだけ努力したところで越えられやしない年齢という壁。
彼の青春時代には当然自分は居られないのに、彼が今、私の青春と呼ばれる時代にこうして生きているということ。
そのすべてが愛おしいと同時に、ひどくもどかしくもあった。
先生は私がそんなことを考えているだなんて知ったら、一体どう思うのだろうか。
私が先生の愛する煙草の味を知らないように、先生もまた、私が今噛みしめている恋の甘苦さなんて知る由もないのだ。
「ねえ先生、煙草っておいしいの?」
ずっと前から聞いてみたかったことを私はようやく口にした。
「未成年には早い。」
「別に吸いたいなんて言ってないですよ。ただ知りたかっただけです。」
先生はうーんと悩んだ。
「別に、おいしくはないよ。」
「じゃあ、なんで先生は煙草を吸うんです?」
先生はそこでふと手を止めた。
「忘れないためかな。」
「忘れないため?」
先端が灰になってボロリと崩れる。
先生は目を閉じて過去の記憶でも反芻するかのように、もういちど深く煙草の煙を吸い込み、そして吐き出した。
「そう、いろいろとね。」
「色々って?」
先生は遠くの桜の木を眺めながら「秘密」と言った。
それはどうやら『大人』の事情であり、忘れたくない『個人の記憶』でもあるようだった。
「それよりも、結局のところ俺はどこの誰と話をしているのか、まだ教えてはもらえないの?」
話のそらし方が上手いのはやっぱり大人だからなのだろうか。
私がこれ以上深く追求できないように、この人は今、先手を打ったのだ。
まったくずるい人である。
「岡本結衣子です。二年C組です。」
「ああ、コバセンのクラスか。」
「先生、なんでうちの担任の先生のあだ名知っているの?」
「俺もここの卒業生だから。」
「え、そうなんですか?」
道理で赴任して間もないというのにこの学校のことをあれこれよく知っているはずである。
「先生にも学生の頃があったんですね。」
「そりゃあるさ。なんだと思っているの。」
頭ではわかっていても、現実に想像することは案外難しかったりするのだ。
「先生の学生時代ってどんな感じだったんですか?」
先生は私の問いかけに苦々しい顔をした。
「ええ、それを聞きますか。まあ少なくとも君みたいな真面目な生徒では、なかったね。」
歯切れの悪さを見るとそれはどうやら本心からの言葉らしい。
私はますます彼の過去の姿を知りたくなった。
「卒業アルバムとかないんですか?写真とか。」
「あっても見せないよ。先生の威厳にかけて。」
「そもそも威厳なんてないから大丈夫です。」
「それはいくらなんでもひどいだろう。」
言葉ではそう言っているがその顔はくしゃりと笑顔を浮かべていた。
その表情が眩しくて、私は少しだけ目を細めた。
「さて、そろそろ戻るかな。」
「ええ、もう?」
「これ以上さぼっていたらさすがに怒られるから。」
先生は肩をすくめるや否や、「ほら、行くよ」といってさっさと扉を開けた。
名残惜しさを感じているのは私だけなのかと思うと、またほんの少し、胸が痛んだ。