8
校舎に戻ってくる頃にはもうすっかり暗くなっていた。
早退を許可してもらっていたから別に戻る必要なんてなかったのだけど、やはり管理者として開けっ放しで出ていったままにするというのはどうかと思った。
静香は主をなくした家の整理と諸手続きのため、実家へと帰って行った。
開放状態にあった図書室に戻ると、そこで岡本さんが待っていた。
真っ赤に泣き腫らした目に俺を映す。
ずっとここで、俺の帰りを待っていたのだろうか。
「静香さんには、ちゃんと会えましたか?」
「うん。君のおかげで話ができた。ありがとう。」
「よかった。」
彼女のよかったという言葉が心からのものだということはその声音でわかった。本当に人のことを大切に出来る人なんだろうと思った。
「先生、もうきっと、先生のことだからわかっているとは思うのだけど、伝えたいことがあるんです。これは私のけじめだから、聞いてくれますか?」
俺は頷くことしかできなかった。
「私、今までずっといい子でいようとしてきたんです。その方がすべてうまくいくとそう思っていたから。それはたしかにそうで、良い子でいれば誰も怒ることはなかったし、感謝されたり褒められたり、良いことばかりだった。だけど、そうやっていくうちにだんだんそれが当たり前になって、私は心からの喜びとか痛いほどの悲しみとか、そういうものを失くしていったんです。人形みたいに無機質だったんです。だけど、先生にあったあの日、それが無性に苦しくなって、私は誰かに助けてほしかった。そんなときに出会ったのが佐原先生、あなただったんです。」
本当に静香の言う通り、どうやら彼女と昔の俺はとても似ているらしい。彼女はかつての自分と全く同じ苦悩を感じているようだった。
「先生はいつだって自然体で、先生の傍にいると私とても安心できたんです。あんなに苦しかったのに、先生に会った後はいつも気が付くと心がすっかり軽くなっていた。私はそうやって何度も何度も先生に助けてもらっていたんです。」
「俺は何もしてないよ。君の話を聞いて、ただ普通に会話をしていただけだ。」
「それでも私には嬉しかったんです。私が先生のことを想うように、先生が誰かを想っているのはわかっていました。それでもずっと諦められなかった。この際だから打ち明けますが、本当は静香さんがこの街に来ていることも、佐原先生の特別な人だったってことも、全部わかっていたんです。全部わかっていて、それでも私はすぐには言えなかった。」
卑怯でしょう?と言って彼女は悲しそうに笑った。
「それでも今日、君は伝えてくれたじゃないか。あんなに必死になって、ここまで走って知らせに来てくれた。見て見ぬ振りもできたのにそれをしなかったのは、やっぱり君が卑怯なんかじゃなくて、とても優しい人だからなんだと思うよ。」
彼女は大きな瞳に涙を浮かべて俺に言った。
「先生はずるい人ですね。せっかく終わらせようと思ったのに、そんなことを言われたら気持ちがぶれてしまうでしょう?」
俺はまた何も言えなくなった。
彼女には優しさもなにもいらなくて、必要なのは誠意なのだと思った。
「先生、いろいろ言ったけど…私は…」
堪え切れずに涙を流して彼女は笑ってみせた。
「私は…先生のことが、大好きでした。本当に本当に、大好きでした!」
本当は泣いている彼女を抱きしめてあげたかった。
しかしそれが彼女を一番傷つけてしまうことも知っていた。
だから俺はただ強く、こぶしを握り締めた。
岡本さんは「それじゃ、先生。さようなら。」そう言って図書室を後にした。
遠ざかる後ろ姿を見送りながら思う。
彼女はまだ、静香のいうところの蛹の状態なのだろう。
この先沢山の人との出会いと別れを繰り返し、彼女はやがて誰よりも綺麗な蝶になる。
突き抜けるような青空のもと、この子はきっと誰よりも美しい姿で羽ばたくのだろう。
俺はその姿を見たいと思った。
そしてその日があたたかく、穏やかなものであることを、俺は切に願った。
校舎に戻ってくる頃にはもうすっかり暗くなっていた。
早退を許可してもらっていたから別に戻る必要なんてなかったのだけど、やはり管理者として開けっ放しで出ていったままにするというのはどうかと思った。
静香は主をなくした家の整理と諸手続きのため、実家へと帰って行った。
開放状態にあった図書室に戻ると、そこで岡本さんが待っていた。
真っ赤に泣き腫らした目に俺を映す。
ずっとここで、俺の帰りを待っていたのだろうか。
「静香さんには、ちゃんと会えましたか?」
「うん。君のおかげで話ができた。ありがとう。」
「よかった。」
彼女のよかったという言葉が心からのものだということはその声音でわかった。本当に人のことを大切に出来る人なんだろうと思った。
「先生、もうきっと、先生のことだからわかっているとは思うのだけど、伝えたいことがあるんです。これは私のけじめだから、聞いてくれますか?」
俺は頷くことしかできなかった。
「私、今までずっといい子でいようとしてきたんです。その方がすべてうまくいくとそう思っていたから。それはたしかにそうで、良い子でいれば誰も怒ることはなかったし、感謝されたり褒められたり、良いことばかりだった。だけど、そうやっていくうちにだんだんそれが当たり前になって、私は心からの喜びとか痛いほどの悲しみとか、そういうものを失くしていったんです。人形みたいに無機質だったんです。だけど、先生にあったあの日、それが無性に苦しくなって、私は誰かに助けてほしかった。そんなときに出会ったのが佐原先生、あなただったんです。」
本当に静香の言う通り、どうやら彼女と昔の俺はとても似ているらしい。彼女はかつての自分と全く同じ苦悩を感じているようだった。
「先生はいつだって自然体で、先生の傍にいると私とても安心できたんです。あんなに苦しかったのに、先生に会った後はいつも気が付くと心がすっかり軽くなっていた。私はそうやって何度も何度も先生に助けてもらっていたんです。」
「俺は何もしてないよ。君の話を聞いて、ただ普通に会話をしていただけだ。」
「それでも私には嬉しかったんです。私が先生のことを想うように、先生が誰かを想っているのはわかっていました。それでもずっと諦められなかった。この際だから打ち明けますが、本当は静香さんがこの街に来ていることも、佐原先生の特別な人だったってことも、全部わかっていたんです。全部わかっていて、それでも私はすぐには言えなかった。」
卑怯でしょう?と言って彼女は悲しそうに笑った。
「それでも今日、君は伝えてくれたじゃないか。あんなに必死になって、ここまで走って知らせに来てくれた。見て見ぬ振りもできたのにそれをしなかったのは、やっぱり君が卑怯なんかじゃなくて、とても優しい人だからなんだと思うよ。」
彼女は大きな瞳に涙を浮かべて俺に言った。
「先生はずるい人ですね。せっかく終わらせようと思ったのに、そんなことを言われたら気持ちがぶれてしまうでしょう?」
俺はまた何も言えなくなった。
彼女には優しさもなにもいらなくて、必要なのは誠意なのだと思った。
「先生、いろいろ言ったけど…私は…」
堪え切れずに涙を流して彼女は笑ってみせた。
「私は…先生のことが、大好きでした。本当に本当に、大好きでした!」
本当は泣いている彼女を抱きしめてあげたかった。
しかしそれが彼女を一番傷つけてしまうことも知っていた。
だから俺はただ強く、こぶしを握り締めた。
岡本さんは「それじゃ、先生。さようなら。」そう言って図書室を後にした。
遠ざかる後ろ姿を見送りながら思う。
彼女はまだ、静香のいうところの蛹の状態なのだろう。
この先沢山の人との出会いと別れを繰り返し、彼女はやがて誰よりも綺麗な蝶になる。
突き抜けるような青空のもと、この子はきっと誰よりも美しい姿で羽ばたくのだろう。
俺はその姿を見たいと思った。
そしてその日があたたかく、穏やかなものであることを、俺は切に願った。