7.1
静香さんから電話をもらったのは放課後、優香と帰ろうと校門を出て少ししたくらいのことだった。突然ポケットの中で携帯が私を呼んだ。
画面を見ると蝶野静香の文字が表示されていた。彼女がいきなり電話をかけてくるのは珍しい。
「もしもし?」
『もしもし、急にごめん。今、大丈夫かい?』
「はい、どうしたんですか?」
電話の向こうの彼女は何か覚悟を決めたような声をしていた。
『もう少しこっちにいる予定だと伝えていたのだけど、今日ここを発つことにした。だから君にはちゃんと伝えておこうと思って。』
「そんな…そんなのいきなり過ぎますよ。」
『気が変わったんだ。もう行かないといけない気がしてね。』
彼女の言葉に私の頭は真っ白になっていた。
それでも考えるよりも先に言葉が飛び出していた。
「静香さん、何時くらいに出ないといけないとか決まってますか?最後にちゃんと話がしたいんです。」
彼女は少し悩みながらも私の申し出を受けてくれた。
『日が暮れる前にはこの街を出る。せっかくそう言ってくれるなら、あの桜並木のところで待っているよ。』
じゃあまたあとでといって電話は切れた。
私は通話の終わりと共にくるりと踵を返し、また校舎の方に向き直った。
「どうしたの?結衣子。」
「ごめん優香、急用ができたの。私、学校に戻らなきゃ。」
「ちょっと結衣子!」
優香に背を向け、私は一目散に学校へと走った。
「佐原先生!」
図書室の扉をあけるとカウンターの前に何故か佐原先生は立っていた。
先生は驚いた様子でこちらを見ていた。
それはそうだろう。こんなに走ったのはいつ以来かわからないが、心臓がばくばくとうるさくて、汗が滝のように流れてくる。
「どうしたの、そんなに慌てて。」
先生は何事かという顔をしていた。
「それどころじゃないの。お願い。早く行ってあげて!」
あまりにも走ることに必死だったから言葉がうまく浮かばなかった。
これじゃ先生だって何がなんだかわからないだろう。
「ちょっと待って、落ち着いて。一体どこに行けっていうの。何があるの。」
「静香さんが先生のこと待ってるの。早くしないと間に合わなくなっちゃう。」
「今…なんて?」
佐原先生は明らかに動揺した顔をしていた。私と彼女は接点がないはずだったから先生からしてみれば驚くのも当然だった。
「説明している時間もないんです。早くしないと静香さん遠くに行っちゃうから。早く。私は一緒に行けないから、先生が行って。桜並木で待ってるって、静香さんそう言ってた。」
先生はすぐにハッとして
「駅前の、桜並木か。」
そういうと一目散に駆けだしていった。
図書室に一人残った私はなんだかたまらない気持ちになって、先生がいつも煙草を吸っていたあの場所に向かった。
扉をあけるとまだかすかにいつもの煙草の匂いが残っていた。
おそらくついさっきまで、彼はここにいたのだろう。
その残り香を感じた瞬間、佐原先生と過ごしたここ数日間の出来事が頭をよぎった。
初めて会った時の困ったような笑顔や、肩にそっとかけてくれたカーディガンのぬくもり。何かを思い物憂げにしている横顔、煙草の白い煙と、低くてあたたかい声。
不器用で、一途で、まっすぐな、どこか子供のような大人の男性。
「佐原先生」
声に出してみたら色んな感情があふれ出てきて、私はその場にうずくまり、声を殺して泣いた。
私は先生と出会ってはじめて本当に人を好きになるという気持ちを知った。
笑った顔も、何気ない仕草も、彼女のことを想うその横顔でさえも、すべてが愛おしく、大好きだった。
だけどもう、それも過去にしなければならない。
「大好きだ」ではなく「大好きだった」に私は変えなければならない。
ここまで来たのはそのための選択に他ならないと私は自分でもわかっていた。
ただ、世の中にこれほどまでに苦しい感情があることを私は知らなかった。
「ああ、これが失恋か…。」
やはり佐原先生は先生なのだ。
本当の恋の始まりと終わりを、彼は身をもって教えてくれたのだから。
静香さんから電話をもらったのは放課後、優香と帰ろうと校門を出て少ししたくらいのことだった。突然ポケットの中で携帯が私を呼んだ。
画面を見ると蝶野静香の文字が表示されていた。彼女がいきなり電話をかけてくるのは珍しい。
「もしもし?」
『もしもし、急にごめん。今、大丈夫かい?』
「はい、どうしたんですか?」
電話の向こうの彼女は何か覚悟を決めたような声をしていた。
『もう少しこっちにいる予定だと伝えていたのだけど、今日ここを発つことにした。だから君にはちゃんと伝えておこうと思って。』
「そんな…そんなのいきなり過ぎますよ。」
『気が変わったんだ。もう行かないといけない気がしてね。』
彼女の言葉に私の頭は真っ白になっていた。
それでも考えるよりも先に言葉が飛び出していた。
「静香さん、何時くらいに出ないといけないとか決まってますか?最後にちゃんと話がしたいんです。」
彼女は少し悩みながらも私の申し出を受けてくれた。
『日が暮れる前にはこの街を出る。せっかくそう言ってくれるなら、あの桜並木のところで待っているよ。』
じゃあまたあとでといって電話は切れた。
私は通話の終わりと共にくるりと踵を返し、また校舎の方に向き直った。
「どうしたの?結衣子。」
「ごめん優香、急用ができたの。私、学校に戻らなきゃ。」
「ちょっと結衣子!」
優香に背を向け、私は一目散に学校へと走った。
「佐原先生!」
図書室の扉をあけるとカウンターの前に何故か佐原先生は立っていた。
先生は驚いた様子でこちらを見ていた。
それはそうだろう。こんなに走ったのはいつ以来かわからないが、心臓がばくばくとうるさくて、汗が滝のように流れてくる。
「どうしたの、そんなに慌てて。」
先生は何事かという顔をしていた。
「それどころじゃないの。お願い。早く行ってあげて!」
あまりにも走ることに必死だったから言葉がうまく浮かばなかった。
これじゃ先生だって何がなんだかわからないだろう。
「ちょっと待って、落ち着いて。一体どこに行けっていうの。何があるの。」
「静香さんが先生のこと待ってるの。早くしないと間に合わなくなっちゃう。」
「今…なんて?」
佐原先生は明らかに動揺した顔をしていた。私と彼女は接点がないはずだったから先生からしてみれば驚くのも当然だった。
「説明している時間もないんです。早くしないと静香さん遠くに行っちゃうから。早く。私は一緒に行けないから、先生が行って。桜並木で待ってるって、静香さんそう言ってた。」
先生はすぐにハッとして
「駅前の、桜並木か。」
そういうと一目散に駆けだしていった。
図書室に一人残った私はなんだかたまらない気持ちになって、先生がいつも煙草を吸っていたあの場所に向かった。
扉をあけるとまだかすかにいつもの煙草の匂いが残っていた。
おそらくついさっきまで、彼はここにいたのだろう。
その残り香を感じた瞬間、佐原先生と過ごしたここ数日間の出来事が頭をよぎった。
初めて会った時の困ったような笑顔や、肩にそっとかけてくれたカーディガンのぬくもり。何かを思い物憂げにしている横顔、煙草の白い煙と、低くてあたたかい声。
不器用で、一途で、まっすぐな、どこか子供のような大人の男性。
「佐原先生」
声に出してみたら色んな感情があふれ出てきて、私はその場にうずくまり、声を殺して泣いた。
私は先生と出会ってはじめて本当に人を好きになるという気持ちを知った。
笑った顔も、何気ない仕草も、彼女のことを想うその横顔でさえも、すべてが愛おしく、大好きだった。
だけどもう、それも過去にしなければならない。
「大好きだ」ではなく「大好きだった」に私は変えなければならない。
ここまで来たのはそのための選択に他ならないと私は自分でもわかっていた。
ただ、世の中にこれほどまでに苦しい感情があることを私は知らなかった。
「ああ、これが失恋か…。」
やはり佐原先生は先生なのだ。
本当の恋の始まりと終わりを、彼は身をもって教えてくれたのだから。