6.2
 ちょうど一時間目の授業が始まるかという時間だった。図書室の鍵を開け、今日の業務予定を頭の中で組み立てていると、突然入り口の扉が開いた。この時間に誰かが来るというのは珍しいことだった。
誰だろうかと入り口を見ると、そこにいたのは岡本さんだった。
「え、どうしたの。今授業中なんじゃ。」
「優香が、今生徒指導室に呼び出されていて。でもクラスのみんなも詳しい話はわからないって言ってなにも教えてくれないの。先生は優香から何か聞いていませんか?」
俺は彼女に優香との仲を話したことはなかったはずだが、なぜほかでもない俺のところに彼女は来たのだろう。職員側ではあるから何かを知っていると思ったのか、はたまた知らない間に優香が彼女に何か話していたのか、実際のところはわからないが、まあどうでもいいか、そんなこと。そんな風に思った。
俺は昨日見たままを彼女に話すことにした。
「多分昨日の話だと思う。あいつ、クラスメイトのこと叩いたんだ。偶然俺も近くでその現場見てしまったんだけど、昨日の帰りに岡本さん、クラスの子に何か声かけられてたでしょ。あのあとだよ。優香、その子のことを叩いたんだ。」
「どうして優香がそんなこと…。」
「それは…知りたい?君はきっと傷つくと思うけど。」
念のため確認してみたのだけれど、予想していたよりも強い意志を持った目で彼女は俺に教えてほしいと言った。なんだ、こんな目もできるんじゃないかと少し驚く。
「先生、知っていること、なんでもいいんです。教えてください。優香は、私の大切な友達なんです。」
「昨日、クラスの子が君に頼み事か何かをしただろう?」
「ああ、掃除の当番を代わってほしいって。でも昨日は用事があったから断ってしまいました。いつも何もなければ代わってあげていたから悪いことをしたなと思ってはいたのですが。」
「そのあとのことだよ。君が帰ったあと、彼女、急に仲間の前で態度を変えてね、まあ変えたというより素に戻したのだろうけど。君のことを悪く言い始めた。いつもはへらへらしながら言うこと聞くのに使えない、みたいなそんな話。」
こういう話、一番気にする子だと思ったのだけれど、彼女は案外平気そうな顔をしていた。
だから俺はそのまま話を続けることにした。
「そんな話の一部始終を、あいつはたまたま近くで聞いていた。俺が止めればよかったんだけど、それにも間に合わなかった。相手は三人くらいの女子生徒のグループで、あいつはそこに近付いて、君に悪態をついた生徒に半ば喧嘩を売りに行った。」
「喧嘩?」
「うん。あいつが普段教室でどんなキャラで過ごしているのかはわからないけど、少なくとも俺が知っているあいつは感情的で正義感が強くて、大事な奴のためになら他人に対しても怒るような、そんな奴だよ。まあ、それでだ。あいつは彼女たちと言い争いになって、叩いちまったってわけ。結衣子のことをこれ以上利用するような真似するな。私の大事な友達を傷つけるような奴は誰であっても許さないって。」
さっきまで平気そうな顔をしていたのに、優香の言葉を伝えた途端、今度は泣きそうな顔になった。
「優香…。」
彼女が親友の名前を呼ぶと同時に、校内放送の音声が彼女を呼んだ。
『二年C組の岡本さん、岡本結衣子さん、至急職員室まできてください。』
行かないとと今にも駆けだしそうな彼女に、俺はどうしても伝えたいことがあった。
「岡本さん、あいつが特定の誰かに対してこんなに執着するなんて、俺が知る中でも初めてのことなんだ。君はあいつにとって何よりも特別な存在なんだと思う。だから、俺からも頼む。あいつを助けてやってほしい。君にしかそれは出来ないんだ。」
「勿論です」という彼女の姿は初めて会った時よりも随分と逞しくなったように思えた。
この年齢の子の成長というのは本当に著しいものだと思う。
「ありがとう。あいつが君を選んだ理由、今ならすごくよくわかる。気を付けていっておいで。彼女のこと、頼んだよ。」
俺が背中を軽く押してあげると彼女はその勢いで歩き出した。
「はい。」
そう言って遠ざかる彼女の背中を俺は黙って見守るしかできなかった。

その後は一日、あの二人はどうなったのだろうと気が気じゃなかった。
「ああ、だめだ。気になる。」
放課後、俺はすっと立ちあがると煙草とスマートフォンを持って例の場所へ向かった。職員室に乗り込むほどのことにはしたくなかったので、煙草に火をつけながら画面に文章を打ち込む。
『おつかれ。今朝の優香と岡本さんのこと、なにか知っていたら教えてほしい。暇なときに連絡くれ。』
送信先に瀬尾のアカウントを選択し、送信する。
ほどなくしてメッセンジャーのアプリが送信完了を告げた。
今まで他人にそこまで興味を示さなかったのは自分も同じだった。
かつての少年は、今こうしてまったくの他人のことでこんなにもヤキモキしている。これは俺がきちんと大人になったという証拠なのだろうか。ここに赴任した際の校長の言葉が頭をよぎる。
「人なんて、そう簡単に変われやしませんよ。」
たしかにそうだけれど、俺は確かにあの頃と比べたら変わったと思う。
優香も岡本さんも、瀬尾も、静香も、みんな変わっていないようで少しずつ変わっている。
俺が高校生だった頃、あの校庭の隅の桜はただ咲いている花でしかなかった。
ただそこにあるだけの木としてしか価値のないもので、当時何故静香があんなにもあの桜の木に執着していたのか俺には理解できなかった。
俺は煙草の火を消して、そっと桜の木に近付く。
何処からともなく視線を感じて振り返ると、そこには岡本さんの姿があった。
昇降口のところで誰かを待っているようで、しばし様子を見ていると、後ろから笑顔の優香の姿が見えた。
「なんだ、もう仲直りしてんじゃん。」
大人が手出しをしなくても、彼女たちももう立派な大人なのだ。
子供だと思っているのは周りの大人たちだけで、当人からしてみれば真実は違っている。
俺だって、彼女たちくらいの時には自分はもう大人なんだと思っていた。
もしかしたら、年齢として大人と言われる自分達よりも、彼女たちの方が余程大人なのかもしれなかった。
岡本さんは優香と顔を見合わせて楽しそうに校門の方へ足を踏み出したが、去り際にもう一度、こちらに振り返った。
「ありがとう」
距離もあるため何を言ったのかは正直定かではない。しかし彼女はその時、確かにそう言ったように見えた。
その笑顔があまりにも晴れやかで、俺は彼女を美しいと思った。
「まったく、かなわないな。」
やれやれといった気持ちでほんの少し、笑ってみせた。

さて、戻ろうかと思ったところでスマートフォンが振動した。
瀬尾からの返事だった。
『万事解決。伝えるようなことは特にないけど、久しぶりに飲みにでも行かないか?』
瀬尾からの誘いに俺はすぐに賛同した。
「おつかれ。」
学校近くの安居酒屋で俺と瀬尾は生ビールを注文した。
瀬尾とこうしてゆっくり酒を交えて話すのはいつぶりになるだろう。
「なんかいろいろあったみたいだけど、二人とも解決したみたいだな。俺も詳しくは事情知らないけどさ、帰りがけに二人が一緒に帰ってるところ見たよ。若いっていいな、喧嘩してもすぐに仲直りだ。」
「瀬尾も俺もまだそんなこと言うほど歳とってないだろう。」
「あの子らに比べれば随分歳をとったよ。だって俺が高校生の時、新任の先生なんて大人に見えてたし、お前とこうして酒飲んでるところなんて想像もつかなかった。」
そこでちょうど店員が冷えた生ビールをふたつ運んできた。
俺達は何の意味もなく乾杯をして、到着したばかりのアルコールを喉の奥へと流しこんだ。
「俺前から聞きたかったんだけどさ、佐原。」
「なんだよ。」
「お前、高校入ってからちょっと変わったじゃん。ずっと真面目な奴だったのに急に授業ふけったり、髪染めたり、俺らとも遊ばなくなったしさ。」
「うん。」
あの頃俺は少しばかり自分を見失っていた。何があるわけでもないのに何かに追われているように不安になって、みんなと同じでいなきゃいけないことに疑問を抱くようになった。
「俺結構焦ったんだぜ?お前が俺の知ってる佐原春人じゃなくなっちまうような気がして。でも二年になったぐらいのときにさ、お前また急に戻ったじゃん。何事もなかったみたいに。ずっと不思議だったんだよ。あれは、やっぱ彼女の力なわけ?」
「ああ、そういえばあの頃の話ってあんまりしてなかったっけ。」
「そうだよ。なんかあまりにも急に変わったもんだから俺もそのことについて触れていいのかわからなかったんだ。だけどもう俺らもこうして大人になったんだし、もう時効でしょ。無礼講ってことでさ、聞いてもいいかなって思ったわけ。」
「そんなに気にしなくてよかったのに。」
俺が笑うと瀬尾はビールを一気に飲み干して、店員を呼んだ。
「すいません、もう一杯。」
ジョッキを掲げるとそれを見た店員は注文を把握し厨房へと引き上げて行った。
「まあ、夜は始まったばかりだし、気長にいこうぜ。」
「そのわりに飲むペース早くない?」
「佐原が遅いんだよ。」
少し赤らんだ顔をして瀬尾は楽しそうにそう言った。
新しいビールが来たところで、仕切り直す。
「それじゃ、今夜は昔話でもしようか。今思えば思春期特有の気持ちの揺れ動きみたいなもんだったんだろうけどさ。瀬尾は考えたことなかった?自分はこの先どうなっていくんだろうとか、何になりたいんだろうとか、そういうこと。」
「ああ、なくはなかったけど、なるようになるかって思ってた。」
「はは、お前らしいな。」
俺はジョッキについた水滴を眺めた。
グラスを伝う水滴を指でなぞる。
「俺はお前が言う通り、変なところで真面目だったから、多分他の奴らよりもそういうことをずっと考えてた。そうしたら、真っ暗な暗闇のなかにずぶずぶ足をからめとられていくみたいに身動きが取れなくなるような気持ちがしてきて、誰かと話していても、それは本心なのかとか、そんなことばかり考えるようになっていった。問題も何もおこさない真面目ないい子が学校っていう社会では評価されるけど、世の中はむしろ個性が個性がって声を大にして言うだろう?でも実際大人たちを見てもやっぱり学校のそれと変わらないんだ。だから俺はもうわからなくなった。何が正しいのか、自分は何がしたいのか。だから馬鹿みたいに今までの自分と真逆のことをしてみようと思った。それで自分自身や周りがどうなるのかを知りたかった。まあ、結局なにしてんだって怒られるだけで特になにも変わりやしなかったんだけど。」
瀬尾は黙って俺の話を聞いていた。
酒のせいか、今日はやけに饒舌だなと自分自身に笑ってしまった。
「そんなときに出会ったのが静香、蝶野先生だった。」
彼女は初めて会った時から他の先生達とまとっている空気が違った。
なにが違うんだろうと当時はずっと不思議に思っていた。
「あの人は、生徒とか子供とか、そういう言葉は口にするけど、他の大人と違ってちゃんと個としての俺を見てくれた。はじめて会った時から、いなくなるその日までずっと。
教師のくせに生徒の前でも平気で煙草を吸うし、今だったらPTAに即刻訴えられそうなものだけど。俺と出会ってからすぐの頃、俺の髪を見て君には似合わんなとあっさり言ってのけたんだ。本当になんの遠慮もなく。でも当時の俺にはかえってそれがとても心地よかった。こんな大人もいるんだなって思った。そんな人だったから俺も居心地がよくなって、静香に頻繁に会いに行くようになった。彼女と会って話をするときだけ、息苦しさも不安も消えた。俺は多分以前の俺に戻ったわけではなくて、静香に会って変わったんだ。ただ変わった先が以前の俺に近いものだったから、瀬尾からしたら以前の俺に戻ったように見えただけ。瀬尾の言う以前の俺に戻ったっていうその頃には、俺は俺で良かったんだって、そんな結論が出ていたから。もう髪色変えたりだとか、問題行為だとか、そんなことをする必要性がなくなったってわけ。」
瀬尾は店内に灯る提灯の灯りを何とはなしに眺めていた。
「俺はお前のことをすごく知ってるつもりでいた。それは逆もしかりで、俺のことを一番知っているのはお前なんだと思っていた。でも、そうじゃなかったのかも。俺、お前がそんなこと考えていたなんて今初めて知ったんだ。」
「初めて他人に話したからな。今の話、親にも静香にもしたことないんだ。初めて今、瀬尾に話した。だって恥ずかしいだろう。そんな思春期の悩みを打ち明けるだなんて。でも瀬尾になら話してもいいかなと思った。なんか今日、優香達を見ていたらそんな気持ちになったんだ。」
「じゃあこうして今話が聞けているのは彼女たちのおかげってわけだ。」
「まあ、そういうことになるな。」
ありがたいねえと瀬尾が笑う。
俺はちょうどいい機会だと思い、今度は瀬尾に聞きたかったことをぶつけることにした。
「なあ、瀬尾。今度は俺から聞きたいことがある。」
「優香ちゃんのことだろ?お前過保護だから。」
質問する前にすっかり見透かされていたようだ。
「あいつ、本気だぞ。お前のこと。」
「そんなの知ってる。あの子を見てれば嫌というほど伝わるよ。」
「お前はどうなの。あいつのこと。」
瀬尾は困ったように笑った。
「本音を言えば、好きだよ。さすがに先生が生徒に手を出すわけにはいかないから今は何も知らないふりをしているけど。もしも彼女が卒業する頃になってもまだ俺を見ていてくれたなら、俺はその時彼女を受け入れるつもり。」
「それまでにあいつが心変わりをしたら?」
彼女がどれだけ長い間この男を見てきたのか、俺は近くで見てきたからよく知っている。そんな未来はまずありえないのだけど、それでもその答えを無性に聞いてみたくなった。
「その時は今度は俺が待つかな。そんでまた俺を好きにさせる。」
それは少し意外な答えだった。
「瀬尾先生はモテるから随分と余裕の答えを出しますね。」
俺が茶化してみせると瀬尾は頬杖をついた。
「そう見えるならお前の目は節穴だな。」
「なんだよ急に。変な事聞いたから怒ったのか?」
瀬尾は視線だけこちらに向けた。
「余裕なんてねえよ、彼女可愛いし。さっきはああ言ったけど、あれも八割方ただの強がりだ。心変わりなんてされた日にゃショックで立ち直れない。でも、誰と一緒にいるかを決めるのは彼女だから。」
瀬尾は急に真面目な顔をして俺にもう一度、同じ言葉を言った。
「佐原、誰と一緒にいるかを決めるのは、自分自身なんだ。」
急にどうしたのだろうかと不思議に思ったが、瀬尾は残っていたビールを飲みほして空のジョッキを机の上に置いた。
「佐原はこの先、誰とともにありたい?誰の手をとり、誰の笑顔を見たいと思う?」
俺の頭に浮かぶのはたった一人の女性しかいなかった。
瀬尾は言いにくいことを言うために、先程から酒を飲んでいたのかもしれない。
「どこにいるのかは俺も知らないんだ。だけど先月あたりかな、学校に電話がかかってきた。それを取ったのは俺だった。」
なんの話だろうと思った。
「校長につないでほしいという電話だった。名前を聞いたらその人は蝶野と名乗った。」
俺は思わず大声を上げていた。
「静香だったのか?用件は?なんて言ってた?」
「落ち着け佐原。」
そこで店内の視線が自分達に集中していることに気付き、俺は「悪い」といって座りなおした。店内は何事もなかったかのようにまた雑多な空気に戻った。
「近いうちにこの辺りに行こうと思うから挨拶に伺いたいと言っていた。日にちが決まったらまた連絡するから校長にその旨を伝えてほしいとそう言っていた。」
「静香が、この街に?」
最後に会った日の彼女の顔が思い浮かぶ。
「佐原君」と呼ぶ声が聞こえた気がした。
「彼女がいつ来るのかはわからない。だけど、もし会えたなら佐原」
瀬尾はいつになく真剣な目をしていた。
「今度は絶対に、その手を離すな。」
俺はざわつく心を静めながら、しっかりと頷いた。