5.2
 向こうに見覚えのある女生徒の姿を発見し、煙草を吸おうかといつもの場所に向かう途中の足を俺は思わず止めてしまった。それはまぎれもなく岡本さんであり、彼女は鞄を持って一人帰宅するようだった。時間としては終礼直後といったところだろうか。何か急いでいる風だった。向こうはまだこちらには気付いていないようだ。別になにもやましいことなどしていないし、隠れる必要は皆無であるが、それでもなんとなく気まずいような気がして、俺はとっさに近くの空き教室に身を潜めた。ちょうど彼女がその教室の前を通り過ぎようというところで、彼女は誰かに声をかけられた。
「ねえ結衣子。待って。」
聞き覚えのない声だった。下の名前で呼んでいるということは彼女の友人なのだろう。
「結衣子ごめん、今日掃除代わってくれないかな?外せない用事があるんだ。」
いつもなら「うん、いいよ」と二つ返事で承諾してしまうと聞いていた。
本当にそうなら一度ちゃんと話をした方がいいとも考えていた。
しかし、その日は違っていた。
「あの、ごめん。今日は私もどうしてもすぐ帰らないといけなくて、代わってあげられないの。」
「ええ、どうしてもだめ?」
一度彼女が断っているのに、相手はどうにも引こうとしない。
それでも彼女の意志は固かった。
「本当にごめんなさい。今日だけはだめなの。」
「そっかー。わかった。引き留めてごめんね。」
「ううん。私こそ、代わってあげられなくてごめん。」
彼女が謝ることなど何一つないのに、彼女は申し訳なさそうにそう言うと急いで昇降口へと向かった。
人がいなくなったので折を見て空き教室から外に出た。
なんだ、彼女もちゃんと断ることが出来るんじゃないか。優香や瀬尾が気にしすぎていただけなのかもしれない。そう少しばかり安心した矢先のことだ。先ほどの女子生徒が誰かと話す声が聞こえた。
「最悪。断られたんだけど。」
「え、うそ。あの人断ることとかあるの?」
「ね、こんなの初めてだよ。いつもへらへらしながらいいよっていうのにさ、使えない。」
「絶対大丈夫だと思って約束しちゃったんだけど。どうしよう。」
「空気読めよって感じだよね。」
甲高い笑い声が頭に響くようで、どうしようもなく腹が立った。
当事者同士の話で俺が手出しをすべきではないことはよくわかっていたが、それでも彼女のあの日の泣き出しそうな表情を思ったら胸が痛んだ。
一言言ってやろうと彼女たちに近付こうとしたが、俺は先手を打たれてしまった。
「空気読めないのはどっちだよ。」
それは優香の声だった。普段教室ではあまりしゃべらないようだったから、その女子グループは皆ぎょっとした顔で優香を見た。
「え、飯田さん、なに?突然。」
「空気読めないのはどっちだって言ってんの。」
どうやら優香もさきほどの一連の流れを目撃してしまったらしい。
これはまずい。非常にまずい。
あいつは日頃から感情的ではあるものの、そこまで怒りの感情を見せない。
しかし、その反動なのか一度怒るともう手に負えないのだ。
「飯田さん…」
俺がひっそりと声をかけようとすると、そのクラスメイトと思われる女子生徒は火に油を注ぐような発言をした。
「なんで飯田さんにそんなこと言われなきゃいけないの?関係ないじゃん。」
「関係あるに決まってんでしょ!結衣子は私の友達なんだから!」
あまりの優香の剣幕にその女子グループは気圧されていた。
「一度言おうと思ってたの。いい機会だわ。もうこれ以上あの子を利用するようなことしないで。」
さきほど岡本さんに頼みごとをしようとしていた女子生徒がそれを聞いて不満そうな声をあげた。
「そんなこと最初からしてないし。無理に押し付けたりしてないもん。あの子が勝手に引き受けてるだけじゃない。それを私達が悪いみたいに言うのはひどいんじゃない?それとも何、あの子がそう飯田さんに相談でもしているの?だとしたら、迷惑だわ。」
顔を見合わせて「ねえ?」と笑う彼女たちに、優香はとうとう我慢の限界に達したらしい。
バチンという盛大な音があたりに響き渡り、周りが一瞬静寂に包まれた。
その女子生徒は何が起きたのかわからないといった顔で赤くなった頬を押えていた。
「そうやって勝手にあんたらがあれこれ結衣子に押し付けるから、あの子は感情を押し殺してまで、引き受けるようになっちゃうんでしょ。」
優香に引っぱたかれた相手はまだ呆然としたままで立ち尽くしていた。
「ちょっと、叩くことないじゃない。」
集団の中の一人が喚く。それに対し、優香はキッと睨みつけた。
「あんたは今ちょっと痛いだけかもしれないけど、結衣子はその何倍も痛い思いをずっとしてきたんだから。私の友達を傷つけるような奴は誰であっても許さない。」
仁王立ちの状態で立ちはだかる優香を前に、「もういいよ、行こう」と女子グループはきまり悪そうにその場から立ち去っていった。
俺はそろりと優香に近付き声をかける。
「お前、すごいな。」
「うわ、見てたのハルくん。」
振り返った優香はじとりと俺の方を見た。
「もう、見てたならなんで手助けしてくれなかったのよ。」
「いや、俺が何かする前に優香が事態を収束させちゃったから。俺の出る幕はないなあと思って。」
「あのねえ、たとえハルくんでも先生が介入したとなればもう少し丸く収まったかもしれないのにさ。本当こういう時頼りにならないんだからハルくんは。」
むくれる優香にごめんごめんと平謝りし、俺は少し話題の転換を図った。
「で、その岡本さんとは今日は話せたの?」
優香は先ほどまでの威勢が嘘のようにしゅんとしてしまった。
どうやら今日もうまくいかなかったらしい。
「なんか今日もすぐ帰っちゃったの。一緒に帰ろうって勇気出して誘ってみたんだけど、困った顔をしていて。今日は用事があるからダメなんだって。やっぱり避けられちゃってるのかな私。」
心配そうな顔の彼女に俺はなんとか元気を出してもらおうと思った。
「さっきもあの子たちに対して今日は急いで帰らないといけない用事があるからごめんって謝っていたし、優香を避けるための口実とかではないと思うよ。」
「それ本当?」
「うん、本当。明日聞いてみたらいいよ。」
「…そうだね、そうしよう。あーあ、本当に失敗した。連絡先ちゃんと聞いておくんだった。そしたらすぐにでも電話して聞けたのに。」
「まだ聞いていなかったの?もう最初に交換しているものだと思っていたけど。」
「なんだか結衣子はそばにいると安心しちゃって。いつも、ついうっかり聞くのを忘れちゃうの。多分近すぎるから、一緒にいるのが当たり前になって忘れてしまうのね。だって一緒にいるのに帰ったあとのことなんて考えたくないじゃない。」
優香の言い分もなんとなくわかるような気がした。
かつての俺も、静香に対してはそんな感じだった。
優香と岡本さんは俺の時とは違うけど、しかし根本の感情の本質みたいなものは同じなんだろうと思う。
「でも本当に、どうしちゃったんだろう結衣子。昨日今日なんかは特に、ずっとなんだか心ここにあらずというか、そわそわしてたんだよね。」
「彼氏でもできたんじゃないの?」
「ちょっとハルくんそれ本気で言ってる?」
優香からじとりと視線が送られ、思わず身震いする。
「いや、冗談です。」
「結衣子、大丈夫かな。なにか変なことに巻き込まれてるとかじゃなければいいんだけど。」
「まあそのあたりも含めてさ、やっぱり明日話をしてみたらいいよ。」
「なんかハルくんすごく他人事みたいじゃない?冷たいなあ。」
「そんなことはないさ。でも彼女と優香の問題は特に俺が口を挟むようなものじゃないだろう?」
「そうだけど、そういうことじゃないのよ。」
もういいやと言って優香はどこかに歩いていってしまった。
彼女たちの心模様はあまりにも複雑で、年頃の女の子の扱いはやはり難しいと
感じずにはいられなかった。
「ああもう、すっかりおっさんだな。」
俺は自分自身に呆れたように自嘲した。