伊都たちが病院にやって来る少し前、舞子は、病院に入ってすぐの待合室にいた。唯斗を見舞いに行った久美子を、携帯を見ながら待っていたのだ。
本当は帰ろうとしていたのだが、ここで帰ったら久美子はどこに帰るというのか。そう思うと、帰る気にはなれなかった。
その時、病院のドアが開いたかと思うと、ものすごい勢いで階段を駆け上がっていく親子ふたりがいた。
よく見ると、霧野伊都とその母である。何をそんなに急いでいるのだろうか。なにか忘れ物でもしたのか。ぼんやりとそんなことを考えながら、また携帯に視線を戻す。
「舞子さん……!?」
久美子の声がした。携帯の画面から目を離し、顔を上げると、目の前に久美子がいた。
「どうして? 帰ったんじゃ……」
「あなたを置いて帰れるわけないでしょ。さあ、帰るわよ」
「え、あ……」
舞子はソファから立ち上がると、久美子の手を引いて、病院から出た。
「乗って。とりあえず、私の家まで送るわ」ら車の前で鍵を開けながら、舞子は言った。久美子は戸惑っていたが、助手席に乗った。
舞子は車を発進させる。
「それで、唯斗の具合はどうだった?」
「あ、えっと……無事に意識が戻りました」
久美子はさらりと言った。
「え!? そ、そうなの?」
あまりに驚いた舞子は、声が裏返った。ついでに目の前の信号が赤に変り、あわててブレーキを踏む。
「はい」
「これはまた急な……。まあでも良かったわ」
舞子は、ほっとため息をつく。だが、久美子は浮かない顔をしていた。
「どうしたの? あんまり嬉しそうじゃないけど」
「あ、いや……。ユイトは、本当は生きていたくなかったみたいだから……」
「え? どういうことよ」
「夢の中で、ユイトと話したんです。そしたら、もう生きることを諦めてて……。でも、私はユイトに生きて欲しかったから、説得したんです。だから、無理矢理現実に連れてきちゃったなって……」
「あなた……すご過ぎない?」
「え?」
久美子はキョトンとしていた。いかに自分がすごいことをしたのか分かっていない様子だ。
「まあ、気にしなくていいんじゃない? 夢の中がどうであれ、本人が生きようと思わなければ意識は戻らない。だから、結局は唯斗の意思なのよ」
「そっか……。そうですね」
久美子は安堵の表情を見せた。信号が青に変わり、車を走らせる。
「そういえば、霧野くんには会った?」
「え? イトは……会ってないですけど」
「そうなの? あなたが来る少し前、霧野親子が階段駆け上がっていったから、てっきり会ったのかと思ってたわ」
「そうだったんですね。危なかった」
「何がよ」
「実は、イトたちに会わないように早く帰ってきたんです。実際は、そんなに差はなかったみたいだけど……」
「なんで? 会いたかったんじゃなかったの?」
「……イトは、多分私とは顔を合わせたくないと思います。家族をあんな風にした人なんかに、会いたくなんか……」
久美子は伏し目がちに話す。本当に、彼女は自分のせいにするのが好きだ。
「ま、でも目覚めたんだし、関係ないんじゃない? しかもあなたのおかげで」
「そんなこと……」
「きっと、会いたいって思ってるわよ、霧野くん。命懸けであなたのこと助けに来たのよ。会いたくないわけないでしょう」
「でも、私、さっき逃げちゃったし……」
「何よ。結局あなた自身が会いたくないんじゃない」
舞子はため息をつく。
「何だか気まずくて……」
「気まずい?」
「自分で家を出たから……顔を合わせづらくて……」
「それは仕方の無いことでしょ。そんなこと気にしないで、会いに行けばいいのに」
「でも、イトは私のことなんか……」
「……あなたと霧野くん、そんな程度でヒビが入るような関係じゃないって、私は思うけど?」
「………」
久美子は黙り込んでしまった。まあ、きっと放っておいても直に会いに行くのだろう。舞子はそう思うことにした。
「……舞子さんは、どうしてユイトのお見舞いに来なかったんですか」
「今日行ったわよ」
「え、いつですか?」
「あなたの後に来たの。そしたらあなたが病室から出てきて、あわてて追いかけたのよ」
「あっ……だから止めに来てくれて……」
「そうよ」
「じゃあ、あの……私のせいで……」
また始まった。舞子は面倒くさそうにぼやく。
「あー、違うわよ。もともと一人でお見舞に行くつもりだったから、あなたがどうであれ、出来なかったわ」
「え……?」
「あの時、病室には霧野親子がいたんでしょ? だから、どっちみち無理だった」
「なんで、一人で……」
「当たり前でしょう。唯斗との関係、お母さんにどう説明しろって言うのよ」
話したところで、理解してもらうには時間がかかるだろう。そもそも、生徒の親に自分が研究者だと言ったら、学校になんと言われるかわからない。
「じゃあ、なんでさっきは帰っちゃったんですか?」
「……出かける予定があったの」
「でも、私、病院に十分くらいしかいなかったんですよ? その間に、どこか行かれる場所なんて……」
確かに、久美子の言う通りである。十分では、行って帰って来られるような場所は、ない。
久美子は分かっているようだ。本当は、どこにも行かず、ずっと待合室で待っていたことを。
「あー、もう。止めたのよ、行くの。でも、今更病室に戻るのもなんか邪魔するみたいで嫌だったから、待ってたのよ」
「……そうですか」
久美子は腑に落ちない様子だった。
本当は、予定などなかった。それでも帰ろうとしたのには、理由があった。
唯斗は、きっと久美子に来て欲しかったはずだ。舞子ではない。そう思ったのだ。
久美子を救うと決めて、唯斗に協力して行く中で、薄々気がついていた。
唯斗は、きっと……。だから、あの場に相応しかったのは、久美子だ。
唯斗との縁はもう切れるだろう。無事に久美子は救い出せた。彼とはもう協力関係でもなんでもない。
「ねぇ、久美子」
暗い気持ちを切り替えるように、明るい声で舞子は言った。
「もし良かったら、しばらくの間、家に住まない?」
「えっ……?」
「住むところ、ないでしょう? だから」
「いや、でも……マンガ喫茶とか、そういう所あるので……。今までもそうしてきたし」
「駄目よ。二十歳とはいえ、見た目は子どもなんだから、怪しまれるでしょ?」
「う……でも、悪いです」
「いいのよ。どうせ私、一人暮らしだし、部屋もまあまああるわ」
「……本当に、いいんですか?」
「ええ、もちろん」
唯斗が回復するまでの間だ。それまでは、彼女を守る。私情を持ち込んでいる場合ではない。強く、生きなければ。
舞子は、ハンドルをぐっと握りしめた。